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野中広務が日本政治をダメにした―怨念の平成政治史(ジャパン・ハンドラーズと合理的選択 Japanhandlers and Their Rational Choice)
http://blog.livedoor.jp/bilderberg54/archives/24714330.html
今、ポスト冷戦期の日本政治史についてまとめている。
ポスト冷戦の日本政治の始まりは宮沢喜一内閣の不信任決議があった1993年。その年に、『日本改造計画』を出したのが小沢一郎・元自民党幹事長であった。ここから全てが始まり、今年がちょうど20年目だ。そして去年の衆院選挙でその立役者が大きく敗れた。今年の夏の参議院選挙でも全く敗北するというわけではないが、大きくは勝てないだろう。小沢一郎を軸に動いた日本政治はちょうど20年で終わりを告げる。それは同時に「ポスト冷戦」という時代の終わりと、新しい東アジアにおける冷戦構造というものが準備されているということでもある。
小沢一郎という人は、政策重視と言われる。彼の目標は政権交代可能な二大政党制であると同時に、国民の代表者である政治家が国会によって議決をして法律案を通して、国家の行く末を決めるということでもある。
自 民党政権というのは社会党との談合政権だから安定した。これが「55年体制」である。小沢はポスト冷戦の旗手としてアメリカの知日派からも当時は期待され た。小沢の日本改造計画の英語版の序文にジェイ・ロックフェラーが文章を寄せていることがその現れであり、小沢はトム・フォーリー駐日大使らのような「菊 クラブ」との関係を作っていた。それがおそらく「ジョン万次郎の会」である。
ところが、自民党経世会・竹下派の面々はそれが面白く無 い。93年8月に発足した細川政権を何としても潰したい。連立政権内の小沢一郎(当時はタカ派)と武村正義(リベラル)の対立があったことに目をつけた自 民党経世会の野中広務は自民党の派閥の領袖である亀井静香や森喜朗とともに細川・小沢政権潰しに乗り出した。その結果として佐川急便からの資金疑惑という ものがメディアを騒がせることになる。
野中広務が小沢を憎んでいるのは、小沢の政策云々という事もあるだろうが、それよりは小沢が師匠 である竹下派の金丸信を裏切ったからであることは、野中の『私は闘う』(文春文庫)を読んでいれば容易にわかる。そもそも佐川急便というものが政局で登場 したのは、金丸信を葬り去った東京佐川急便事件(92年)である。金丸に対する5億円の闇献金疑惑である。この疑惑の際に、小沢は金丸を裏切ったと野中は 判断した。だから細川政権を潰すことになったのも細川に対する佐川マネーなのである。これは金丸の盟友である野中の意趣返しである。
野中はその後も小沢一郎との政界抗争を仕掛けていく。野中は小沢と組むことも考えていた社会党右派に対して、社会党左派の村山富市を総理大臣候補に起用することで、社会党の分裂を防ぎ、自社さ政権を作る。一方、後に自民党幹事長となる古賀誠と自民党を離島して小沢新進党に流れていった元自民党議員を取り戻す 「釣り堀」経営を行った。
98年に実現する公明党の連立政権のために、小沢の自由党(新進党時代は公明党を吸収していた)とまず連立を 組み、それを『座布団』にして公明党と連立を組み、自由党は要らなくなったので捨てるという芸当に出た。そのために自由党の小沢を騙して、「政策協定を実 現する」と持ちかけたり、マスコミには「悪魔(=小沢)にひれ伏してまでも」と発言した。
その間、野中は橋本龍太郎の政治改革を徹底批判する。それは後に清和会の小泉が郵政改革を目指したのと同じ理由で経世会の資金源を潰そうという思惑を橋龍改革の先に見たからだった。
その一方で野中は公明党との連立を実現させ、小渕政権ではガイドライン法案、通信傍受法と、かつて野中が批判した小沢のタカ派とも負けずとも劣らない法案を通過させる。
小泉政権時代になって野中広務は反米を気取るが、そもそも普天間移設案を辺野古でまとめたのは当時の野中の責任も大きい。民主党政権時代も野中は沖縄の軍 用地主のために、反小沢の前原誠司(同じ京都選出)を使って辺野古移設を働きかけた。北朝鮮に親しいところも含めて、野中の利権は前原が引き継いだのだろ う。小沢は県外移設・国外移設の鳩山政権の重鎮だった。(参考:http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry- 472.html)
野中、前原の反小沢の流れに仙谷由人までつながっていったわけだ。
さて、野中広務は経世会の最後 の大物だったが、小泉政権の前に勃発した森政権への不信任を目論む、加藤の乱を古賀誠とともに鎮圧した。加藤紘一と山崎拓のグループを森内閣不信任で賛成 させると、野中の宿敵である小沢にとっての勝利になるからだ。橋龍に続いて、ここでまた加藤紘一が潰された。将来の総理候補を小沢憎しという経世会のお家 騒動で潰してしまったことになる。
そこで最後にYKKの中で生き残っていた小泉純一郎が三回目の総裁選挑戦で勝利し、総理大臣になり、 経世会の基盤であった全国の特定郵便局長ネットワークを潰しにかかる。ここで清和会と経世会の戦争が郵政政局や竹中路線への是非として始まったわけだが、 野中は自ら小泉総理大臣を生み出したようなところもある。自業自得だが、そのせいで日本全体がアメリカの構造改革路線に載せられてしまったのだから、野中 の罪は大きい。
その後程なくして野中は政界引退するが、民主党政権になっても、反小沢の野中の復讐劇は止むところがない。同郷の前原誠 司を応援した野中だが、この他に新進党時代に小沢との確執が生まれた熊谷弘・元通産大臣をうまく取り込んで利用する。熊谷は新進党に参加するが、羽田内閣 がわずか2か月で退陣して以来、小沢との間に微妙な距離が生じ、そこに目をつけた自民党の野中広務の意向を受け、反小沢の急先鋒となったと言われる。保守 新党というパッとしない政党をたちあげたはいいが、保守系無所属の城内実に敗れる。
そして、熊谷弘は、静岡を地盤にした政治家だが、こ の静岡を地盤にした細野豪志(京都育ち)もまた、野中に魅入られた政治家である。一方、熊谷は野田佳彦の師匠として大樹総研というシンクタンクを中心にす る人脈を作り上げる。熊谷は大樹の顧問だったことがある。野田佳彦は小沢のとばっちりを食って野中に潰された細川護煕を師と仰ぐ。この細川が小沢と野田首 相の会見を取り持つ。細川は一時は小沢に民主党代表を期待したとも言われたことがあるが、これはポーズであり、本当は小沢には恨み骨髄だろう。
細野豪志・元環境大臣と野中広務の関係が露呈したのは東日本大震災の瓦礫を広域処理する運動を行った際に、この二人が京都駅で反原発派の罵声を浴びた事件の時だ。細野はがれきの件で「野中広務先生も駆け付けてくださいました」とHPで堂々報告していたという。
細野豪志は尖閣漁船事件のあと、仙谷由人と近い中国フィクサー篠原令を連れて訪中したこともあった。野中・仙谷はともに小沢を憎んでいる。
このように、日本の政界が「近代化」に向かおうとする時、つねに現れてきたのが野中広務の小沢一郎に対する怨念だった。野中の怨念は清和会すらも壊した。
怨念の政治で日本の政界は細川退陣以来、先に進めないのである。そうこうしている間に「ポスト55年体制」が終わり、米中ヤラセ冷戦シフトにふさわしい新しい「保守合同」が自民党や維新の会の周りから見え隠れする。参院選をへた政界再編で、リベラル勢力は全勢力の4分の1にまでうち減らされるだろう。
野中が悪魔にひれ伏した瞬間のエピソードがある。小沢は「個人的なことがいろいろあったが」とする野中の言葉に対して「そんなことよりも政策だ!」と間髪入れず答えたと野中自身がNHK番組で回想している。
政策重視の設計主義的政治制度改革主義者と怨念の政治家。この歯車の合わなさが日本の政治にとっての不幸だった。それがこの20年間だった。
参考文献:『永田町 権力の攻防』(NHK出版)
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