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2013年02月19日 世相を斬る あいば達也
小沢一郎という政治家をひと言で表現するには、どのような言葉が最も適切か長いこと考えていた。マスメディアが創り出した「剛腕、壊し屋、選挙の小沢」等々だが、よくもこれ程小沢一郎に似合わない言葉が小沢一郎のキャッチフレーズに使われたものだと感心する。これも一種の反小沢プロパガンダ報道のマスメディア姿勢を表している。戦略家だと云う評もあるが、これも的外れな指摘だ。筆者が考えに考えた結果生まれた言葉は“鬱陶しい”である。 *なんだと!小沢一郎が“うっとうしい”とは何事ぞ!と怒る狂う人々も居るだろうが、筆者の観察の結果は小沢一郎は“鬱陶しい男”なのである。多くの人は、この言葉をネガティブに受けとめるだろうが、その存在自体が鬱陶しいと云う事は、安直に生きようとする人間にとっては“鬱陶しい”わけで、必ずしもネガティブなものではない。“鬱陶しい”と同義な言葉には、息苦しい、ウザイ、煙たい、うるさい、疎ましい、目ざわり、辛気臭い、陰鬱などがあるが、問題は“鬱陶しい”存在が、誰にとって“鬱陶しい”のかが非常に重要な問題である。
世間一般の話となれば、正論を金科玉条のように語る人間を疎ましく思う事はしばしばだ。あまりにも論理にこだわり、情実に疎い人間はつきあい難い奴と遠ざけられ、仲間外れになることが多い。世間一般の話なら、筆者も「まぁそこまで筋を通さなくてもイイじゃないか」と言ってしまいそうだが、こと政治理念とか政治信条、政治目的と云う次元になれば、情実よりも論理性、合理性の方が大切だと思わざるを得ない。それでは、小沢一郎が生きてきた政治の世界では、如何にも議員連中が崇高な理念を持って議員活動を行っているのかと云うと、現実は天と地ほどに異なると云う事実を踏まえなければならない。
「ここは何とか眼を瞑って貰えないだろうか」等という経緯は政治や政党の世界では大いにあることである。おそらく、その時小沢一郎は、その情緒的懇願にNOを突きつける機会が多かったのだろうと推察する。武士の情けが通用しない、魚心あれば水心のない奴という、謂わば懇願が通じなかった逆恨みなが生じる機会が多かったのだろうと思われる。マスメディアの記者連中に対しても同様の対応をしたわけだから、好かれる筈はない。読売の橋本とか云うバカが「怖いのではなく、嫌いなだけだ」と嘯いたが、アノ返事が反小沢の政治家全員に言えるのだと思われる。
政治に関してマスメディアは政権をどこが握ろうが、当面痛くも痒くもないので“怖くはない”と云うのも本心だろうが、“嫌いなだけだ”と云う方がもっと本心なのだろう(笑)。なぜ嫌いなのかと聞けば良かったが、おそらく顔を立てることを知らないとか、コミュニケーションの取り方を知らないとか答えるのだろう。おそらく、記者に対しても、政治家同士でも、小沢は同じような接し方を心がけているのだろう。しかし、日々の判断を情実含みで生きている人間にとって、小沢一郎の政治家として論理的に生きると云う信条は、時に窮屈であり、個人的生活でも顔を出し、時には腹立たしさを生む原因になっているのだろう。小沢と雖も人間である、使い分けで苦渋を舐める事もあるだろう。
最近、幾つかの週刊誌へのインタビューへの答えや、テレビ東京の田勢とのインタビューでも浮かび上がってくる事だが、小沢一郎の政治目的は「議会制民主主義」を日本に成立させることに収斂する事が出来るだろう。つまり、その目的の為なら、誰に何と言われても、誰かを結果的に傷つける惧れがあっても、当初の目的の為に政治家として全力を尽くすとことを意味する。「議会制民主主義」の実現の為なら、何度党を壊そうが、何度作ろうが、目的に向かうものであれば善なのである。「議会制民主主義」実現に貢献する政治行動であれば、配下の政治家に辛い思いをさせるのも厭わないと云う非情さも兼ね備えている。
ゆえに、既存の権益の枠組みで政治を考えている連中(政治屋)にしてみると、つき合っていると泥を被らされる危険性のある政治家に思えてくるのだろう。小沢とつき合うのは犠牲的精神も求められるので、権力指向のある政治屋は去って行かざるを得ないのである。なぜ、小沢が関与する政党に女性が多い理由も、この辺にあるのかもしれない。政治的理念よりも、権力欲が勝るのは男に多いわけで、かなりの範囲で納得がいく。小池百合子等と云う女は権力欲の塊りだったので、いち早く逃げたのだろう(笑)。
二大政党であれ、三大政党であれ、小沢の政治目的は日本と云う国家が自立した国家として民主主義の世界で独り立ちすることである。その為にはみせかけではない、真の民主主義国家(議会制民主主義が実現した国家)でなければならず、その為には国民も、そしてその代議員である議員も自立してなければいけないと云うのが小沢の政治哲学なのだ。つまり、小沢自身は、未だ日本は民主主義国家として未成熟だと言っている。そういう原点に立つ小沢の政治行動なのだから、政治における枠組み作りが常に念頭にあり、政策論に関しては是々非々で構わないと云う心情はあるのだろう。彼が政策に強く興味を示さないのは、その辺の問題なのだ。
たしかに、政治的枠組みの構築と、時と所により変化を求められる政策では、重要さで見れば枠組み作りが優位にあり、政策論や政党論は、意見の違いであり、おそらくパイは同じなのだから大同小異と考えているのかもしれない。政策論の多くは、鶏が先か卵が先かの議論であり、政党は議会制民主主義確立のツールに過ぎない。政党の存在も、小沢の自立した真の民主主義国家創造に比べれば屁のようなものなのだろう。筆者も、そういう小沢一郎だから、未だに支持しているわけだが、現在の日本人に、このような小沢一郎と云うスケールの違う政治家の存在意義は伝わるのだろうか、正直相当に不安である。
言葉の端端から、今夏の参議院選が本チャンだと云う印象は持たなかった。三年半後の衆参W選挙が日本の議会制民主主義にとっての正念場だと云う言質を与えていたが、その通りだろう。現状の野党の状況では、もう一度痛い目に遭ってからではないと、目が醒めない程度に読んでいるのだろう。しかし、政治家としては、今度の参議院選での野党共闘を呼び掛けるのは当然の振舞いである。まぁ先の衆議院選の結果に、多少は目覚めた有権者も居るだろうから、前回の選挙のように、投票総数では負けていたのに、相手がもっと負けたので勝ってしまったわけだから、自民党の大勝が連続するとは思えない。その辺は、流石に自民党の面々は判っているだけに、実は大勝利の政権党である割には、ことの運びが慎重なのだ。ただし、野党の顔を被った維新の会だけは伸ばすわけにはいかない。自民党以上の右翼政党である。それこそ、日本の民主主義の仮装が強化される。この辺を有権者が理解するか、マスメディアの誘導が勝つか、興味津津である。
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