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2013年2月14日 神州の泉
一時、小泉政権の功罪は何かと言われたが、この設問は「誰にとっての功罪か」という部分が大事である。日本には利害の相反する2つの立場がある。一つは一般の国民層であり、もう一つは米官業トライアングルに与する層である。ざっくり言うなら、小泉構造改革は米官業トライアングルにとって“功”であり、国民に対しては“罪”であった。
小泉・竹中構造改革とは、素人があれこれ知った風に言うことはできないが、大きく言えば供給サイドの経済で、企業の生産性を向上させ、企業と投資家に厚くテコ入れして経済を活性化するという考えである。供給は自ら需要を創造するという、前近代的な思い込み(セイの法則)を前提とする。競争原理を導入するために民営化や規制緩和が進められる。エコノミストの金子勝氏によれば、小泉竹中構造改革の柱は、金融の自由化と労働の流動化だという。
労働の流動化は小泉政権を特徴づける大きな“罪過”の一つある。派遣労働の範囲拡大などを通じて、日本の雇用形態を激変させた結果、非正規雇用の大幅な拡大と、ワーキングプアと呼ばれる貧困層の登場と格差の拡大が起きた。「独りファシズム」さんも触れていたが、神州の泉も、この労働形態の激変の結果、事実上、日本という国家は崩壊したと言えるかもしれない。なぜなら、非正規雇用の凄まじい拡大は、搾取される奴隷階層を造りだし固定化し始める方向へ進んでいるからだ。
明日をも知れぬ不安定雇用は、結婚することも、家庭を持つことも、子供を育てる可能性さえも放棄せざるを得なくなる。憲法第25条はすでに無効化して久しい。ワーキングプアーや無職者たちの実態は、文化的で健康な生活とははるかに隔たっていて、肉体と精神をすり減らし、生存意欲を保持するための最低限度の契機さえ持ち得ない状況に置かれている。これは事実上の国家崩壊である。小泉・竹中構造改革は日本をディストピアに変えたのである。
金子氏は、「日本の金融機関は、土地バブルの破裂によって巨額の不良債権を抱えたままだったが、小泉政権の時になっても、その抜本的な解消というには程遠い状態だった。そこへアメリカの要求に応じて国際会計基準が導入され、金融機関は自己資本比率を維持する責任を負わされたために、貸し出しの圧縮へと動かざるを得ず、それが企業に対する貸し渋りをもたらし、日本経済を長期的な低迷に陥れた」と言っている。
銀行の資産を安く見積もって不良債権と認定し、銀行に不良債権処理を命じて、それに従わなければその銀行は国有化という脅しつきで強行された。その結果、貸付を行っている企業から強行に取立てをせざるを得なくなり、中小零細企業を中心に多くの会社が倒産し、無念の自殺者を多く出した。小泉・竹中構造改革は殺人の属性を持っていたと言える。この構造改革の指針となったものが、例の「年次改革要望書」だった。
小泉竹中構造改革とは、アメリカの金融資本が日本収奪を容易にするために地ならしをした政権だったことになる。植草一秀氏は、小泉・竹中構造改革路線を糾弾し続けて謀略の罠に嵌められた。小沢-鳩山ラインは、年次改革要望書を廃棄した結果、猛烈な圧力を受け、民主党内の売国奴たちの謀反によって崩壊した。圧倒的に日本収奪を戦略化したプロジェクトが進行しているが、それに異を唱える有識者は必ず毒牙に掛けられ、それに協力した有識者は甘い汁を吸うことになる。それが定式化して久しいが、このベクトル(趨勢)は覚醒した国民が変えて行く必要がある。
小泉純一郎氏の“政治言語感覚”をいくつか上げてみる。
○「この程度の約束を守らないことは大したことではない」2003年1月23日の通常国会冒頭の予算論戦で小泉純一郎首相が言い放った言葉である。「国債発行額を三十兆円以内に抑える」などの首相の言明が守られたのか、という追及に答えた居直り発言。イラクにボランティアで行っていた日本人が誘拐されたとき、小泉氏は自己責任原則をかざして、彼らを冷たくあしらった。自己責任原則の大王が国債発行額を30兆円以内に抑えるとの約束をいとも簡単に破り、翌年は34兆円、その後2年は続けて35兆円台だった。2005年には31兆円。年間5兆円もはみ出した。この公言破りを「大したことはない」と言ってのけた。
○「大量破壊兵器が見つからないといって、大量破壊兵器が無いと断定できるか」この理屈が成り立てば、誰でも悪人にできる。「君の部屋でマリファナが見つからないと言って、それが無いと断定できるか?」である。
○「何処が非戦闘地域か私に聴かれても分るわけが無いでしょう」世界で真っ先に米国のイラク参戦に賛成した一国の宰相がいう言葉ではない。というか、政治家としてこういう発言は無責任の極み。ご法度。
○「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」島倉千代子の唄を引用しているが、2004年の6月2日の衆院決算行政監視委員会において、民主党の岡田代表(当時)によって、「1969年の衆院選で落選後、勤務実態がないにもかかわらず、幽霊社員として厚生年金に不正加入していたこと」について追及されたときの小泉首相の答弁。年金の問題を歌謡曲の次元に落としているが、この時点で言葉から政治性が抜け落ちている。
一国の宰相が、その場ごまかしのはぐらかしのために、軽薄な言葉を濫用したことは、国会言論を軽視し、事実上の政治空白を招いたが、その罪は重い。なぜなら、政治は“言葉”だからだ。
安倍政権は、この小泉政権が生んだ申し子である。彼は第一次安倍内閣でも、今次内閣でも、小泉・竹中構造改革からの脱却を宣言していない。それどころか、維新の会の後見人だった竹中平蔵氏を政府中枢に招聘(しょうへい)している。そして、小泉官邸を陰で牛耳り、マスコミ対策などをやっていた飯島勲氏が内閣参与になっている。マスコミ対策と言えば聞こえはいいが、アメリカの要望で進めていた構造改革を潤滑に進める役だったから、実質上は占領軍の宣撫工作と同じことをやっていたと言える。もう少し言えば、裏で政敵排除をしていた人物だったということになる。その意味では恐ろしい人物なのである。
安倍総理大臣を生み出したのは小泉政権だが、昨年の不正選挙の疑いが濃厚な選挙を通過して誕生した総理大臣でもある。安倍総理は小泉政権の新自由主義から脱却する政策を敢行するつもりなら、きちんとその旨を宣言する必要がある。それをしなければ、小泉政権と不公正な選挙を母体として生まれた、いかがわしい政権と思われても仕方がない。アベノミクスに過大な期待を寄せる論調が目立つが、国民の方を向いていると言うのであれば、明確に小泉政権との差異を自らの口で公言する必要がある。
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