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欧米で導入され、組織的犯罪に関して証言を得るために重要な機能を果たしていると言われる「証人保護プログラム」を題材にした映画が上演されていると知り、久しぶりに映画館に足を運んだ。
タイトルは「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」http://fire-with-fire.com/
火災現場で、消火・救助活動に大活躍する若い消防士Aが、偶然立ち寄った街角の小さなグローサリー・ショップで、店主親子が、店の立退きを要求していた男達に、銃で惨殺されるのを目の当たりにする。唯一の目撃者となったAも殺されそうになるが、命からがら逃げ延び、警察官、検察官から、犯人が、過去にも同様の凶悪犯罪を繰り返しながらも、重要証人やその家族を殺害することで処罰を免れている、最も凶悪な犯罪集団のボスであることを知らされた上で、法廷で目撃証言を行うことを求められる。幼い頃に両親と死別し、家族のいないAは、証言をすることを決意する。Aは、「証人保護プログラム」によって、名前を変え、戸籍、住民登録などもすべて抹消され、幽霊のような存在になって、もともとの住居地から遠く離れた都市に移り住んで、警察の保護下に置かれる。しかし、犯罪組織の側は、警察内部者を賄賂で籠絡するなどしてAの個人情報を突き止め、Aの所在だけではなく、そこで知り合った女性警察官との関係まで突き止め、二人を殺そうとする。そして、組織のボスである犯人が直接、Aの携帯に電話し、「証言したら、将来、結婚して子供を作っても、目の前でその子供を殺してやる」と脅す。Aは、自らその犯人を殺すこと決意し、犯罪組織に立ち向かっていく…。
刑事裁判の在り方、とりわけ、供述調書の位置づけに関して、深く考えさせられる映画だった。組織を背景にした犯罪の証人が、「幽霊」のような存在になって、身を隠さなければならず、家族や親友まで危険にさらされる。アメリカ、イギリスなどでは、そういう事態が現実に発生するからこそ「証人保護プログラム」が導入されている。
これまで、日本では、このような事態があまり起きることがなく、「証人保護プログラム」が制度化されなかったのはなぜか。その大きな要因は、日本の刑事裁判が、基本的に「調書裁判」だったことだ。供述調書による立証が基本的に否定され、法廷証言による立証に頼らざるを得ないアメリカ等の国では、その証人を威迫し、場合によっては抹殺して証言をできないようにしてしまえば、どのような犯罪を行っても、処罰を免れることができる。犯罪組織の力が強大であればあるほど、証人は危険にさらされることになる。その証人を守るための徹底した「証人保護プログラム」が必要となるのは、ある意味では必然だ。供述調書が刑事事件の立証の重要な手段として位置付けられてきた日本では、このようなことはあまり起きなかった。
映画の中に、犯人が、身柄も拘束されず、ウイスキーを飲みながら証人出廷を予定している目撃者に電話で脅しをかけるシーンがある。日本では、このようなことは考えられない。目撃者が警察、検察に対して供述し、法廷で証言することを約束している場合、犯人は、その供述調書に基づいて逮捕され、起訴後も、「罪証隠滅の恐れがある」という理由があるので、保釈は認められない。そして、日本の場合は、証人が、公判廷の犯人の前で供述を翻した場合でも、検察官の取り調べで作成した供述調書の内容が、「特に信用できる情況で行われた」と裁判所が認めれば、刑訴法321条1項2号の書面として調書が証拠として採用され、有罪認定を行うことが可能であるし、仮に、供述者が殺害された場合には、「供述者の死亡で公判供述が不能」ということで、供述調書を同条項3号書面として証拠とすることもできる。日本でも、広域暴力団等の反社会的組織の間で、拳銃等による抗争事件が発生することはあるが、暴力団犯罪でも、証人を威迫したり、殺害したりする事例は、決して多くない。それは、証人を抹殺したり、威迫しても、供述調書による立証という手段が可能である以上、罪を免れることができないからだ。捜査機関や検察官が、犯人と証人の間に、「供述調書」という手段によって強力に介入することが可能となる、日本の刑事裁判における「調書中心主義」は、少なくとも、凶悪な組織的犯罪の抑止という面では、効果的なものだったと言えよう。
一方で、「調書中心主義」による刑事裁判が、供述調書をとることの自己目的化、意に反する供述の強要などの不当な取調べ、供述の捏造などによる冤罪の危険を孕んでいることも否定できない。大阪地検特捜部の郵便不正事件、東京地検特捜部の陸山会事件をめぐる不祥事等は、まさに「調書中心主義」の問題点が露呈したものだ。こうした取調べや供述調書の作成をめぐる問題の発生を受けて、冤罪防止のための刑事司法の抜本改革に関して、「調書中心主義」を「法廷証言中心主義」に変えていくべきとの声や、取調べの全面可視化を求める声が高まっている。
そこで、しばしば持ち出されるのが『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ』という刑事裁判における格言である。確かに、理念としてはその通りであり、密室での取調べで作成される供述調書によって無辜が罰せられたり、不当な身柄拘束を受ける事例が多発している以上、それを根本的に見直そうという動きが出てくるのは当然だ。しかし、一方で、法廷証言中心主義がもたらす現実の世界は、映画で描かれているように、証人ばかりでなく家族や親友までが危険にさらされ、証人は「証人保護プログラム」によって「幽霊」のように身を潜めざるを得なくなり、凶悪犯罪組織が野放しになってしまう危険があることも否定できない。「調書中心主義」そのものを否定することが、日本社会にとって正しい選択であると言えるのか、躊躇を覚えざるを得ない。
この「証人保護プログラム」の必要性の問題は、取調べの全面可視化に関する議論にも密接に関連する。英米などでは、捜査機関が、弁護人の立ち会いなく、密室で、被疑者を取り調べること自体が認められていない。取調べはすべて録音・録画によって可視化され、その内容は、法廷での証言と同様に扱われ、検察官、弁護人、双方から証拠として使うことができる。日本で、検察などで既に実施されている取調べの可視化は、録音・録画は、調書の読み聞かせをしている場面など取調べの一部に限定するもので、弁護人の立ち会いも認められない。基本的に、調書中心の立証を維持し、それを補完するものとして、取調べの録音・録画を活用しようというものだ。これに関して、日弁連などからは、録音・録画の範囲を「一部」ではなく、「全過程」とするべきとの意見が出されている。確かに、現在、検察が導入している取調べの可視化は、都合の良いところだけを録音・録画して、都合よく有罪立証に使おうというもので、密室での不当な取調べによって供述者の意に反する供述調書が作成されることによる冤罪を防止のために効果的なものとは言えない。取調べを全面的に可視化し、録音・録画するというのは、冤罪防止という面では最も徹底したやり方ともいえる。
しかし、取調べが全面可視化され、その録音・録画が裁判の証拠として使われることになると、アメリカ、イギリスの刑事裁判のように、供述調書による立証は基本的に否定されることになる。その方法を、あらゆる刑事事件について導入するとすれば、凶悪な組織犯罪に対しては、映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」のような「証人保護プログラム」の導入も必要になる。現在日本で導入されている取調べの可視化では、録音・録画した記録媒体は、それ自体が犯罪事実を証明するための証拠としても使われている。しかし、日本の制度を手本に刑事訴訟制度を作っている隣国韓国では、録音・録画は、取調べが適切に行われ、供述者の供述が正しく調書に記載されたことを示す証拠とされるが、直接、犯罪事実の証拠とされるのではない。
大阪地検不祥事からの信頼回復のために設置された「検察の在り方検討会議」でも、検察の取調べの可視化の在り方が中心的議題となったが、そこで、私は、取調べの「全過程」を記録化するが、「直接証拠化」せず、検証の際の材料とすること、すなわち、取調べの記録は、弁護側から取調べの状況に関して問題が指摘された際に、実際の取調べの状況を確認するためだけに用いることを提案した。しかし、会議では、「直接証拠化」の是非はほとんど争点とはならなかった。取調べに関して問題となったのは、供述調書が、検察官のストーリーの押し付け、威迫、利益誘導等の不当な取調べによって作成されたことであり、まず必要なことは、そのような不当な取調べが行われないようにすることだ。最大の問題は、不当な取調べが行われても、捜査機関側が否定すると、その事実を公判で立証することが困難だったことである。そのような不当な取調べを防止するためには、取調べの全過程を録音し、供述調書の信用性に関して取調べ状況が公判で問題とされた時に、録音記録で確認できるようにしておくことが有効だ(陸山会事件の虚偽捜査報告書作成問題において、隠し録音をしていたことで取調べの問題が判明したことからも、録音だけでも十分に有効なことは明らかだ。)。この方法であれば、「供述調書による立証」を基本的に維持しつつ、不当な取調べを抑止することが可能だ。録音・録画を直接証拠として使わなければ、「証人保護プログラム」が必要となる事態も避けられる。
刑事裁判における立証が、供述調書中心に行われてきたことと、検察が日本の刑事司法の中核として「正義」を独占してきたこととは不可分一体の関係にある。刑事事件の真相は、公判廷ではなく、検察官の取調室で解明され、その解明された真実が供述調書化され、判決で調書どおりの事実認定が行われるというのが、日本の刑事司法の枠組みであった。それが、「供述調書至上主義」の特捜検察の独善、暴走を招き、大阪地検の郵便不正事件の不祥事では「ストーリー捜査」による冤罪、陸山会事件では、虚偽の捜査報告書で検察審査会を欺くという重大な問題が明らかになった。しかし、一方で、このような検察中心の旧来の刑事司法の枠組みの下で、公判証言に頼ることなく検察官調書によって犯罪の立証が可能だったことから、凶悪な組織犯罪で証人が危険にさらされることも防止できた。それが、日本社会の安全に貢献してきたことも確かである。
このように検察官が刑事司法の正義を独占し、供述調書中心の立証が可能であったのは、取調べを行い供述調書を作成する検察官に対する、高度の信頼があったからである。取調べに関する問題が多発し、検察に対する信頼が根底から失われていることが、刑事裁判における供述調書の活用を否定する方向の議論の背景になっていることは否定できない。度重なる不祥事によって信頼を失墜し、特に、拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)でも詳述した陸山会事件をめぐる不祥事への対応で、当時の法務大臣をして「検察は今後50年信頼を回復できない」と言わしめるほどの大失態を犯してしまった検察には、もはや、刑事司法の中核機関として「調書中心主義」を支える資格も能力もない、とされるのも無理からぬところである。
しかし、少なくとも、凶悪な組織犯罪に対しては、従来のような、検察を中核とする「供述調書中心主義」で対抗していくことが極めて有効な手段であることは間違いない。日本の社会を、「証人保護プログラム」が必要とされる世界にしてしまわないために、「供述調書による立証」という日本の刑事裁判の伝統的手法を維持することの意義は大きい。そのために不可欠なのが、検察に対する社会の信頼が確保されることである。これまで、凶悪組織犯罪とは基本的に無縁であった特捜部が「検察の正義」の象徴のように位置づけられ、その威信や看板を維持することを目的とした捜査によって様々な不祥事を起し、検察全体の信頼の崩壊につながってしまったことは、日本社会にとって、誠に残念なことだと言えよう。検察の信頼を回復するためには、信頼崩壊の最大の原因となった特捜部の不当捜査の実態、とりわけ、「陸山会事件捜査の暴走」と「検審騙しの策略」の内実を自ら検証し、そのような事態を招いた検察組織自体に関する問題(拙著「検察の正義」ちくま新書、「検察が危ない」ベスト新書等を参照)を明らかにすることだ。
日本の社会を、映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」の世界にしないよう、凶悪組織犯罪に対峙できる刑事司法を維持するために、「供述調書による立証」は極めて重要な手段だ。そのためには、検察が「供述調書」の適正さ、公正さを担保できる信頼できる組織であること、そのために組織の在り方を抜本改革することが不可欠だ。
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