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2013年02月06日 世相を斬る あいば達也
今夜は、ここ1か月で起きている我々を取巻く出来事を思い起こしながら、色んなことをボンヤリと考えてみようと思う。勿論、ボンヤリなのだから、特定の何かを指し示そうと云う意図はない。思い出される、多くのものが一本の糸で結びついているものでもない。超漠然とした物思いであり、思考でも検証でもないことを、まずは断っておく。最後に行き着いた文章を見出しにしただけだ。
イジメや体罰の問題が世論を二分、三分しているようだ。筆者は特に、そのどちらでもない。つまり、単なるイジメ体罰と云う社会問題に無関心なのである。イジメや体罰が起きる社会現象と、その社会が持つ病巣は同一性を有しているので、批判する側も、批判される側にも、多くの問題点が存在するのだろう。実は、筆者はこのような問題に限らず、現代人に共通して存在する社会や他者、時にはバイ菌やウィルスとの関係における「免疫力低下」があるのかな、と思っている。勿論、科学的根拠などはない。
人間の免疫力低下は歴史的には“命の大切さ”とか“健康志向”と云うような先進国文化の中で、時代と共に共存してきたのだろう。我が国では、主に西洋文化からの影響が強い“健康で文化的生活”を戦後目指してきたわけだ。その結果と云うわけではないが、ウォシュレット等と云う便器まで開発してしまった。西洋医学の薬にしても、自然に於いては命が尽きるような病気でも完治乃至は症状を改善させるものが主流である。最終的には語弊もあるが、日本の国民はすべからく中国の皇帝のように不老長寿を望む傾向が強くなっているようだ。
延命治療に関し、麻生財務相が「チューブの人間」と発言し顰蹙をかったのだが、彼の発言の顰蹙は、医療費や福祉予算をコントロールする立場での発言なのが問題なわけで、一人の人間としての死生観と云う次元であれば、或る程度に容認できる部分もある。兎角マスメディアと云うもの、“死生観”には酷く臆病で、ことの本質を見失う議論に陥ることが多々である。書店の新書などの棚を眺めていると、テレビや新聞の論調に関わらず、死生観に関する多くの書籍が並べられている。人間の“死”と云うものが、どこかネガティブな響きがあるので、広告収入で禄をはむマスメディアには不都合な話題なのかもしれない。
しかし、テレビや新聞を眺める限り、結構“死”をテーマとした商品やサービス関連の広告も目につく。生保損保から墓地墓石葬儀など生命に関わる広告は多いのだから、死生観などをテーマとする話題が記事や番組が多くても、特に問題だとは思わないが、真正面から死生観を問うようなものは少ない。延命治療の是非は別にして、最近、桜宮高校の体罰による生徒の自殺以来、この手の社会問題が世間を賑わせている。ここ数日は、柔道女子日本代表監督のパワハラ問題で右往左往したのだが、実は彼女らの訴えた主張はもっと別な所に存在した事実が明らかになった。
この問題で、吉村担当理事も辞任、まだまだ先の問題が残されているようだ。日本柔道界全体の問題にまで発展する気配さえ感じる。しかし、この問題で右翼思想の下村文部科学相が「日本のスポーツ史上最大の危機」と言い、暴力の根絶を呼び掛ける異例のメッセージを発表したのには違和感を憶える。橋下大阪市長の桜宮高の体罰対処のエスカレート振りと合わせて、何やら奇妙な流れだ。アルジェリア人質事件でも安倍晋三は「人命尊重を第一に」とアルジェリア政府に素早く要請している。なんだか、右翼思想の持ち主たちが、向きになって暴力や人命尊重に神経質な言動を繰り広げている。
多少の偏見があるとしても、ナショナリズムと国家権力による暴力はセットのようなもので、右翼思想やナショナリズムには暴力がつきまとう。そのナショナリスト達が、こぞって暴力的行為を指弾する姿は、相当に変である。ナショナリズムの行き先の一つに“戦争”と云うものがある。戦争と云うものの多くは、自国の兵隊たちの命を掛けて、他国の兵隊や国民を殺戮する事である。この最終的ナショナリストの決定的行為が戦争、殺し合いであるのなら、この手の暴力程度で、自己顕示を含め大声でメッセージを披露することこそが不自然なのである。
筆者のような斜に構える者からみると、そのような行為は、偽善であり、擬態なのではないか、と思うわけである。つまり、暴力を容認する精神性を持つが故に、その精神性を覆い隠す為に、声高に世間に意見を披歴する自己防衛本能が働いているように思えて仕方がない。おそらく、政治の世界と云うものは、欺瞞性が生き延びる処世術の一つなのだろうと思う。ただ、この欺瞞性と云う点では、経済界の人間も、官界、学界、報道機関に於いても似たような部分を持ち合わせているようだ。最終的には、庶民と云う、なにやら弱者のニオイのする我々にも、現代人としての欺瞞がはびこっているのだろう。たしかに、嫌な渡世である。明日のメシの心配はあるにしても、浮世と呼ばれ、浮名を流していられた時代の方が生きている実感はあったのかもしれない。
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