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2013年01月20日(日) 長谷川 幸洋
長谷川幸洋著 『政府はこうして国民を騙す』
〜情報操作は日常的に行われている〜
1月18日(金)発売の最新刊より一部抜粋
「オフレコ」や「リーク」を自分たちの「相場観」を広めるためのツールとして使いこなす官僚たち。そんな役所側の思惑を知らず、オフレコ取材を日常的に繰り返し、リーク情報をありがたがって、事実を歪める記者たち---。
「かつて自分は財務省の忠実な下僕=ポチだった」と告白する筆者だからこそ見破ることができ、そして書くことができる、驚くべき「霞が関とメディアの本当の関係」。これを知れば、新聞の読み方、ニュースの見方が劇的に変わる!
「オフレコ破り」をめぐる経産省広報室長との白熱のバトル、「失言」で更迭された大臣への直撃取材で分かった閣僚交代の本当の理由、不勉強なメディアが易々と官僚に騙されるプロセスなどなど、新聞・テレビでは報じられることのない舞台裏が赤裸々に明かされる。
いまやツイッターのフォロワー数3万8000人を誇り、連載がサイトにアップされると、瞬く間にリツイートが拡散される「カリスマ新聞記者」が放つ政府&メディア解剖の切れ味は他の追随を許さない。政府の狙いを見抜き、ニュースを正しく知って確かな判断をするために、今こそ読むべき一冊。
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第1章 情報操作は日常的に行われている
この章は主にメディアのオフレコと検察の暴走問題を取り上げる。
オフレコというのは「オフ・ザ・レコード」の略で、字義通りなら「記録に残さない」という趣旨だ。では「絶対にメモをとってはならない」のかというと、そうでもない。普通、メディアの世界でオフレコといえば「メモはとっても構わないが、報じない」というところに力点を置いている。つまり「ここだけの話で、あなただけに教えてやるけど書いちゃだめだよ」という趣旨だ。
新聞記者は普通、地方支局のサツ回りからスタートする。刑事さんを取材すると「これはまだ書いちゃダメ」という話はいくらでもある。新聞に捜査の進展具合など内幕を書かれると、警察が内偵捜査していた犯人が証拠隠滅を図ったり、逃亡してしまう心配があるからだ。約束を破って書くと、事件がつぶれてしまう恐れがあるだけでなく、情報源である刑事との関係も壊れてしまう。つまり以後、警察を取材できなくなる。
逆に、約束を守っていれば刑事に信頼され、やがて大きな特ダネをつかんで「敏腕記者」と呼ばれるようになるかもしれない。そんな経験を駆け出し時代から積み重ねてくる記者は、だから自然と情報源に「書いちゃダメ」と言われると、基本的には書かない姿勢が染み付いている。
こういう事情はメディアで働く記者なら常識だが、一般にはなじみがないだろう。オフレコ問題には、まず記者の側にそういう背景がある。そこが出発点だ。
オフレコのルール
霞が関や永田町の取材となると、少し事情が変わってくる。
官僚が「これはオフレコで」といった場合のルールはどうかというと、必ずしも明確になっていない。まったく書いてはいけない「完全オフレコ(完オフ)」の場合もあれば、情報源を明かさなければ書いてもいい、あるいは記者が自分の文章で書く解説記事の中であれば、情報として扱ってもいい、などいろいろなケースがある。
記者と情報源が1対1のサシの場合もあれば、記者が複数で情報源は1人という場合もある。記者が複数だと情報源との取り決めが完全に守られるかどうか、という問題が起きる。さらに「扱いをどうするか」のルールも事前に明確になっていない、という問題もある。
この章で紹介する@「資源エネルギー庁長官が『オフレコ』で漏らした本音」というコラムは、経済産業省・資源エネルギー庁長官が論説委員懇談会で話したオフレコ発言を報じたケースだ。
このコラムは大きな反響を呼んだ。コラムを公開すると経産省の広報室長が私の上司に抗議し、私が勤める東京新聞の経産省記者クラブ詰記者を経産事務次官など幹部との懇談会から締め出した。私は経産省とのやりとりを含めて事態の展開を同時進行で計5回にわたって書き続けた。
いまだから正直に書くが、私はもともと経産省・資源エネ庁が私に抗議してくるとは予想していなかった。記者と役人を合わせて30人前後も出席していた懇談会での発言が報じられたところで、それは半ば公然の席での発言だ。一方的に「これはオフレコで」なんて言ってみたところで、だれかがどこかで漏らすに決まっている。そんな発言が報じられたところで、初めから「予想の範囲内」と考えているに違いないとみていた。官僚はもともと「自分は匿名で情報を広める」のを狙っているからだ。
ところが予想に反して、広報室長は目くじら立てて「制裁」に出てきた。こうなると私としては、ますます書かずにはいられない。こんな面白いケースはめったにないからだ。なぜ、広報室長は怒ったか。それは私のオフレコ破りもさることながら、実は先のコラムの後段部分に理由があるとにらんでいる。そこで、私はこう書いた。
〈 もしも、官僚が目の前にいた論説委員たちを騙すために、こういうトンデモ論を吐いたのだとしたら、それは「論説委員たちが馬鹿にされた」という話である 〉
〈 そうではなく、もしも本当に心の底から屁理屈が正しい理屈だと思っていたのだとしたら、それは官僚の基本的能力や発想、心構えが文字通り、とんでもなく劣化したという話である 〉
なんの話かと言えば、東京電力の処理だ。官僚たちは「東電をつぶすと賠償ができなくなる」という理屈を立てて「だから東電はつぶせない」と言っていた。こんな馬鹿な話はない。なんのために特別立法するのかといえば、被災者への十分な賠償と国民負担を最小化するのが目的の一つである。この点は別のコラム(第2章I「経産省幹部が封印した幻の『東京電力解体案』」)でも指摘した。
つまり、私は官僚の政策企画能力に疑問符を付けた。それがプライド高い経産省を刺激したのである。だが、第2章でも指摘したとおり、いまや東電が賠償や除染、廃炉をすべて自力で賄うシナリオは、まったくの夢物語である。最終的に東電はいったんつぶす以外にない。東電存続の鍵を握っている原子力損害賠償支援機構法は、そもそも成立後にすぐ見直す方針だったである。
東電処理をめぐる政策の本質的な部分で根本的な疑問を投げかけていたからこそ、広報室長は全面対決を選んだ。私はそう考えている。このケースを単なる記者と官僚のオフレコ問題に矮小化してしまうと、問題の本質を見誤る。その政策は間違いだとずばり指摘したので、放置できなかったのだ。
「報道操作」のツールになっている
それを指摘したうえで、オフレコ話に戻ろう。
オフレコは情報源と記者が同意して初めて成立するのが原則とはいえ、実際には官僚や政治家が「これはオフレコで」といえばそれまでで、記者が同意しようがしまいが書けない話になっている。
なぜかと言えば、複数の記者がいる席で相手が「オフレコ」と言ったのに破ってしまうと、その記者は仲間から村八分に遭うからだ。「オレたちはみんな守っているのに、お前だけ書くとは何事だ」という話である。そうなると、後で自分だけ懇談から仲間外れにされるなど報復される。これは談合の世界とまったく同じだ。
政治取材では、記者同士がむしろ積極的に談合して政治家の話はオフレコだろうがオンレコだろうが、後でみんなで内容を確認して(「メモ合わせ」という)上司や同僚に報告するのが常態化している。オフレコは記者が抜け駆けを許さないシステムになっているのだ。
言うまでもなく、記者が取材するのは読者に伝えるためだ。
そんな記者本来の立場で考えれば、記者がオフレコを許容できるのは、基本的に書いてしまうと情報源に危害が及ぶとか、失職するといった場合に限られてくる。いまは書けなくても将来、事情が変われば書けるから、当面は書かずに取材だけにとどめる場合もあるだろう。
官僚や政治家の側は、記者とはまったく違う思惑に基づいてオフレコを多用している。それは先に書いたように、だれが喋ったか正体を世間に明かさずに、一定の相場観や評価をメディアに報じさせたい、という狙いである。
一言で言えば、官僚は「報道操作」のツールとしてオフレコを使っているのだ。それが本質である。記者の側はそれを見極めたうえで、書くに値するか避けるべきか、自分が判断しなければならない。
書くかどうかを決めるのは、あくまで記者の側でなくてはならない。ここは根本だ。そういう判断力を含めて記者の力量である。そんなトータルとしての力が衰えていることがメディアとジャーナリズムの大きな問題なのだ。
根本的な問題はメディア側の意識だ
私が資源エネ庁長官懇談のオフレコ破りをした結果、なにが起きたか。経産省からはその後、私に論説委員懇談会のお呼びはかかってこない。それで困ったことになったか。なにも困らない。なぜなら、私が聞きたいような話は、そもそも論説懇ではほとんど出てこないからだ。論説懇も記者クラブも役所の政策宣伝のためにある。
政策自体は役所のホームページを見れば、予算案や法律案の段階から出ている。私が知りたいのは政策の背景であり、真の狙いだ。それには自分で考え、本当に信頼できる官僚、専門家や政治家などと意見交換してみるに限る。論説懇や記者クラブのブリーフィングにいくら出席しても背景や内幕を聞いて書かない限り、時間の無駄である。
オフレコの真の問題は役所や政治家の側にあるというより、むしろメディアの側にある。なぜメディアはオフレコの乱用を許すのか。それはメディア自身が論説懇や記者クラブに安住して、現場の記者たちに抜け駆けを許さない仕組みを求めているからだ。読者や視聴者はメディアが激しい特ダネ競争でしのぎを削っていると思うだろう。実は違う。記者クラブのメディアは競争を嫌っている。
たしかに一方では特ダネを求めてはいるが、他方でよその新聞と同じ記事が載っていれば安心する。よその新聞が書いているのに、自分の新聞が書いていない事態だけは絶対に避けたい。これが日本の新聞である。だから取材現場では談合が常態化している。結果として同じような記事が蔓延している。
こういう事態を改めなければならない。官僚のポチになるようなオフレコは拒否する。それが第一歩である。
小沢報道でメディアが犯した罪
もう一つのテーマは検察の暴走だ。
民主党の代表を務め、2012年12月の総選挙にあたり「日本未来の党」誕生の立役者となった小沢一郎をめぐる一連の事件は、日本の政治に大きな影響を与えた。小沢は事件を抱えて政党代表を辞任せざるをえなくなり、後には離党と新党結成に追い込まれた。
だが、事件の本質はそんな永田町の政変にとどまらない。いまだに当事者たちは気づいていないかもしれないが、新聞やテレビなどメディアにこそ大きなダメージを与え、深刻な反省を迫っている。
2009年の西松建設事件は、途中から旗色が悪くなった検察の訴因変更によって陸山会事件に変わり、検察審査会が小沢を強制起訴した後になって、検察官が検審に提出した捜査報告書が完全なでっち上げだったことが暴露された。それもインターネットへの文書流出という衝撃的な経路によって。おそらくは内部告発だったのだろう。小沢事件が「検察の暴走事件」に姿を変えたのである。
小沢一郎の犯罪とされたものは一審無罪となっただけでなく、攻守が完全に入れ替わって、検事の犯罪疑惑が濃厚になった。にもかかわらず、だれ一人として罪に問われないまま、闇に葬り去られようとしている。
小沢については強制捜査権をもつ検察が徹底的に調べたが、結局、自分では起訴できなかった。ところが舞台が検察審査会に移ったら、そこにデタラメの捜査報告書を提出し、検察審査会の議論を誘導して強引に起訴に持ち込んだ。検察が事件を理解する重要な決め手になる文書をでっち上げて罪に問う。相手は本来なら内閣総理大臣になっていたかもしれない政治家である。民主主義国家にとって、これほど恐ろしい話はない。
メディアにとって深刻なのは当初、検察情報に依拠した形で小沢の疑惑を「これでもか」と大報道で追及しながら、検察の暴走が暴露されると、こちらは通りいっぺんに批判しただけで事実上、真相をうやむやのまま放置してしまった点である。これでは「権力の監視役」を標榜するメディアが責任を果たしたとは、とうてい言えない。メディアの自殺行為と批判されてもやむをえないと思う。
経済記者だった私は財務省や日銀の言うがままになっている記者たちを「ポチ」と呼んで批判してきた。同じ体質は、検察をカバーしている事件記者たちにも染み付いている。取材源である検察の情報を垂れ流すばかりで、一歩離れて検察は何をやっているのか、と批判的に観察、評価する姿勢にまったく欠けているのだ。
国民は検察の不正を見抜いている
検察官によるデタラメ報告書事件について、小川敏夫前法相へのインタビューを思い立ったのは、小川が「指揮権発動を考えた」と退任会見であきらかにしていたからだ。指揮権発動とは、ただごとではない。一般的には、1954年の造船疑獄での指揮権発動が「政治家による検察捜査への介入」と理解され、あってはならない事態として批判的に記憶されている。私もかつて、そう思っていた。
だが、弁護士で大学教授の郷原信郎が監修した『政治とカネと検察捜査〜「小沢秘書逮捕」は何を物語るか/「コーポレートコンプライアンス」季刊第18号』(講談社、2009年)という本の書評を引き受けた際に、収められた論文から、造船疑獄の指揮権発動は捜査に行き詰まった特捜部を救うために政治家が利用された面がある、と知った。それもあって、小川の話を聞いてみたいと思った。
小川が考えた指揮権発動は造船疑獄とは、まったく事情が違う。小川は率直に話してくれた。小川がメディアのインタビューに応じたのは、私の知る限り「日刊ゲンダイ」に続く第2弾だったが、読者の反響は予想以上に大きかった。
小川は自分が発動しようとした指揮権の具体的な中身を私のインタビューでは語らなかった。だが、後に郷原との対談本『検察崩壊〜失われた正義』(毎日新聞社、2012年)の中で「国民が納得するだけの十分な捜査を指示する。大臣が納得するまで、人事上の処分を了承しない」という内容だったことをあきらかにしている。
小川は同書で「もう今後五〇年は、検察は信頼回復できないと思います」と語っている。では、どうするか。私の提言は原発事故と同じく、国会が特別の調査委員会をつくって国政調査権を武器に徹底的に真相解明することだ。詳しくはH「『捜査報告書問題』のデタラメ処分にみる法務・検察の深い闇」をお読みいただきたい。
検察の暴走は結局、法務省による甘い人事上の処分で幕引きになる。だが、法務・検察が「これで一件落着」と思っていても終わらないだろう。国民はしっかり本質を見抜いている。国民の抗議行動とデモが続く原発問題と同じである。
『政府はこうして国民を騙す』著者:長谷川幸洋
(講談社刊) 20〜31ページより抜粋
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34612
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