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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34705
世界で一番民主的だといわれたヴァイマル体制はナチスを生み出したように、われわれの社会は橋下徹と日本維新の会を生み出してしまった。密告や独裁を肯定し、日本の歴史と伝統に総攻撃を仕掛けてきた橋下徹の本質を探る。
ファミコン世代が国を滅ぼす
政治とは立ち位置を決めることであり、判断をすることであり、態度を示すことです。
有権者の御用聞きになることではありません。
ましてや塾で教わるようなものではない。
松下政経塾と維新政治塾では、ベルリッツとNOVAくらい違うのかもしれませんが、これ以上素人を国政に送り込むと国が滅びます。
共同通信社の世論調査(二〇一二年六月)によると、大阪維新の会の国政進出に五割以上が期待を表明したらしい。要するに、民主党政権という災禍を経ても、日本人は反省しなかった。
鳩山由紀夫的な破壊主義と設計主義。
菅直人的な文化と歴史に対する無知。
小沢一郎的な陰謀論と「もっと勉強しろ」みたいなB層向けの恫喝ショー。
こうした民主党的腐敗の行き着いた先が、「一からリセットして日本を作り直す」といったファミコン世代の橋下徹だと思います。
橋下は文明社会の敵です。
その根底には国家解体のイデオロギーがあります。
労組と対決姿勢を示したり、保守層向けのリップサービスを怠らないので勘違いされていますが、橋下の本質はアナーキストであり、メンタリティーとしては古いタイプの左翼です。
以下、橋下信者でも理解できるように簡単に説明したいと思います。
二〇一〇年一月、公明党の年賀会で橋下は「大阪府と大阪市を壊す必要がある」「大阪の形を一回全部解体して、あるべき大阪をつくりあげる」とぶちあげました。
二〇一一年六月には「大阪都構想」を実現させるためには独裁が必要であり、「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」「権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる」と唱えます。
これは典型的な左翼の発想です。
徴兵制度の復活や核武装論を熱弁した後で「あれはテレビ番組で世間ウケを狙っただけ」と嘯(うそぶ)き、愛国者のふりをしながら「お国のためになんてケツの穴が痒くなる」と述べ、政治とは「自分の権力欲、名誉欲を達成する手段」であるとタレント時代に語ってきた橋下を、「保守」を名乗る人々が持ち上げるという間抜けな構図は、わが国の知的退廃が生み出したものです。
「教育に民意を反映させる」
「市職員は民意に従って動いてもらう」
橋下は二言目には「民意」を持ち出し反対意見を退けます。
これは、ロベスピエールやヒトラーが使ったロジックとまったく同じものです。
後ほど詳しく述べますが、ルソーの一般意志(公的な人民の意志の総体)を政治の世界に持ち込んだ革命勢力は、人民の名の下に権力を一元化することで、国家を「一回全部解体して」「新しい権力機構」をつくろうとしました。
そこでは必然的に独裁体制(立法者の支配)がとられる。
ナチスの法理論を支えたカール・シュミット(一八八八~一九八五年)が、一般意志に基づき、独裁と民主主義を同時に肯定したのはそのためです。
橋下徹というデマゴーグ
橋下はなぜ短期間に勢力を拡大したのか?
私は「無構造性」にあると考えています。
方向性を明確にしないところ、明らかに実現不可能な政策を打ち出すところ、批判されても喚(わめ)いたり恫喝したりしてごまかすところ、矛盾する意見を同時に唱えるところに橋下の強みはある。
すでに述べたように橋下はアナーキストなので、イデオロギーは飾りにすぎません。
「橋下の国家主義的な側面と自由主義的な側面が一致しない」という批判もありますが、これはそうした事情によるものです。
自分の子供を知事室でサッカー選手に会わせたことを「公私混同」と批判されると、「僕の子供は一般家庭とは違う制限を受けている。個人ではなく、政治家のファミリーとして見てほしい」と述べ、その一方で、父親が暴力団員だったことや従兄弟が殺人犯であることを報じられると、「僕には子供がいる(だから配慮しろ)」と正反対の主張をする。
自分に批判的な大阪市職員に対しては、「負けたときは一族郎党どうなるか。われわれが勝ったときには覚悟しとけよ」と発言しています。
「公私混同」というより支離滅裂です。
言っていることが論理的でないので、なかなか論理では批判できない。
アレントは、全体主義の特徴を「無構造性」であると喝破しました。
全体主義は、巷で誤解されているように一枚岩のイデオロギーによるものではありません。非現実的なプロパガンダにより社会不安を煽り、その中で既成の権力を解体していく大衆運動としてあらわれます。
そういう意味で、橋下は天性のデマゴーグです。
テレビ的な反射神経に優れ、B層の感情を動かす手法をよく知っている。お調子者で個別の政策には疎(うと)いので、革命勢力にとっては一番利用しやすいタイプです。
「バカ新潮」「バカ文春」「バカ学者」「オナニー新聞」「クソ教育委員会」「経済界なんてクソの役にも立たない」「鳥取県議なんて六人でいい」「浜と言う紫頭おばはん」……。
こうした幼児レベルの物言いには、知性のかけらも感じられませんが、その底の浅さはB層の「連想の質」を計算した上で演出されています。
マッカーシズムとベトナム戦争を痛烈に批判したウォルター・リップマン(一八八九~一九七四年)は、ジャーナリズム論の古典『世論』で次のように述べます(以下、リップマンの引用は同書)。
公共の事柄に対する意見は社会の正常な成員によるものだけではないし、また選挙、宣伝、支持者集団のためには数が力となるものであるから、注意力の質はなおさらに低下する。
したがって、幅広い大衆への訴えは、精神的には子どもで、野蛮な人たち、生活が順調でなく困窮している人たち、生命力の使い尽くされた人たち、引きこもっているばかりの人たち、論争中の問題に含まれている要素を一つも経験のなかにとり込んだことのない人たちの間を経めぐる。
橋下および大阪維新の会をめぐる言説は、B層、不注意な人、未熟な人の間で拡大再生産されています。そしてリップマンが見抜いたとおり、そこで発生した誤解は、「偏見とこじつけ」により取り返しのつかないものになっていく。彼らの訴えは「それによってひき起こされる連想の質を計算に入れており、広くどこにもあるような感受性の持ち主に向けられている」からです。
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今回の適菜氏の記事はこれまでの中でもなかなか迫力がある。
今こそ智の頂点たる哲学者がこの下らない流れを止める為、戦わなければならないのだろう。これは文明と野蛮の戦いである。
だがAKBの少女が男と寝たぐらいの記事で沸騰する頭が空っぽな哀れな
B層連中を育ててしまった責任は誰に帰するのか?野蛮人は野蛮人を教育はできないのである。文明人たる知識層の我々にこそ大いに問題がある。
だから私の歯軋りは、ここ数十年止まらないのである。
微力ながら、私なりに警告はしたのである。
こうなってしまっては落とし所は野蛮人にもあるであろう純粋理性たる
道義道徳(美徳)に訴えかけるしかないのではなかろうか?
もはや彼らはバルバロイであり論理、理屈は通じない。
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