52. 2013年1月26日 11:25:37
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「現実離れした低俗な反米親中論を言う小沢一郎」の支持者が目を背ける中国の実態に迫る。内モンゴル自治政府が解消され、中華人民共和国の自治区になった南モンゴルは、実質的には中国の植民地として、容赦のない弾圧と虐殺を加えられていった。 その中でも一番有名なのは、1966年に始まった文化大革命の時の「内モンゴル人民革命党をえぐり出して粛清する事件」だった。 中国とソ連との対立が激化する中、ソ連の影響力が南モンゴルに及ぶのを恐れた中国共産党は、内モンゴル自治政府の消滅とともに解散したはずの内モンゴル人民革命党が地下に潜り、モンゴルを統一させようとソ連と通じているなどとでっち上げ、次々とモンゴル人に「民族分裂主義」といったレッテルを貼り、激しい弾圧を加えた。 これによって全ての知識人が一掃されたとも言われている。 実際にどれぐらいのモンゴル人たちが被害を与えられたかについて、第14回司馬遼太郎賞を授与された楊海英著『墓標なき草原』(岩波新書)には、次のように記録されている。 <ここに一つ、隠され続けている人道に対する犯罪がある。1960年代の中国文化大革命中に行われたモンゴル人大量虐殺事件である。当時の内モンゴル自治区の全人口は1300万人で、そのうち、モンゴル族の人口は、150万人弱だった。操作された、控えめな中国政府の公式見解によると、およそ34万6000人が「反党犯国集団」か「民族分裂主義政党」の「内モンゴル人民革命党員」と見なされ、そのうち2万7900人が殺害された。拷問にかけられて身体的な障害が残った者が12万人に達するとされている。ほかに5万人や10万人が殺害されたとの説がある。たとえ中国政府を善意的に信じるとしても、平均してほとんどすべてのモンゴル人の世帯から少なくとも1人が逮捕されていたことになる。連座制をとる中国にあって、家族全員が虐殺運動に巻き込まれた。まさに全モンゴル民族にもたらされた災難で、ジェノサイドだった。大量虐殺をおこなったのは中国政府と中国の全人口の94パーセントを占める漢族の人たちである。彼らは、モンゴル人たちが過去に民族の自決を目指して戦った歴史を罪だとして、虐殺を働いたのである> その著者である静岡大学の楊海英教授の最近のサンプル調査の見解は、50万人が逮捕され、10万人の死者が出たとしている。 現地調査を実施したアメリカの人類学者ウィリアム・ジャンコヴィク氏の手に入れた情報でも、やはり10万人が殺害されている。 その当時、モンゴル人を逮捕して「内モンゴル人民革命党員」であることを認めさせようと、苛烈な拷問が行われている。 行われた残虐行為は恐るべきもので、女性を吊し上げたり、舌に針を通したり、火の上を素足で踊らされたり、強姦したり、陰部を串刺しにしたり、ペンチで歯を抜いたり・・・・・。拷問の方法は170種類に上ったとも言われている。また1人の人間に行使した拷問の種類は47種類に上ったとの記録がある(アルタンデレヘイ 2008)。 1891年には、内モンゴル自治区南東部で、入植してきた中国人たちが反乱を起こし、45日間に15万人のモンゴル人を殺したという記録もある。その当時のスローガンは、「モンゴル人を殺して、その土地を奪おう」だった。 そして、文化大革命の時、シリンゴル盟に駐屯する人民解放軍の趙徳栄司令官は1968年5月、政府の会議で次のように発言した。 「内モンゴル解放軍部隊にいるモンゴル人兵士たちの中に悪い奴が多い。政府機関にもろくな奴は1人もいない。文化大革命を利用して、モンゴル人たちをしっかりとやっつけよう。モンゴル人と言えばいい奴は1人もいないのだ。モンゴル人たちを100%内モンゴル人民革命党員として粛清しても間違いではない。奴らが死んでもびっくりすることは何もない。たいしたことでなはい。モンゴル人たちが1人ずつ死んでいけば、我々は大変助かる」 それに応じて、スニト右旗のプトゥムジ公社に進駐していた劉という中国人の小隊長は次のように言っている。 「モンゴル人たちが全員死んでも問題はない。我が国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう」(アルタンデレヘイ 1999) そう言いながらモンゴル人たちを逮捕したり、拷問したり、殺したりしていたのだ。 辛亥革命当時の中国人も、文化大革命当時の中国人も、そして今現在の中国人も、本当に何も変わってないのだ。ただ大量の人口の力によって、かつては何千年間も超えることのできなかった万里の長城を超えて、南モンゴルを侵略してはいるが、中国人自身の心の闇だけは、いつまで経っても克服できずにいるのである。 文化大革命が終わった後の1980年代での「改革開放」政策も、90年代から始まった「西部大開発」も、あるいは、「科学的発展観」や「和楷社会」の政策理念にしても、それがいかに南モンゴル人の生活に、相変わらず残酷な影響を及ぼしているのかは、現実を見れば分かる。 中国人の大量入植、人口侵略によって、モンゴル人は自治区内でも少数派となってしまった。100年前には、モンゴル人も中国人もともに70万人が住んでいるとされていたが、内モンゴル自治区の成立(1947年)以来、中国人の移住が急速に進み、今や全人口2400万人のうち、モンゴル人はわずか2割になってしまったわけだ。モンゴル人の文化は破壊される一方で、漢民族への同化も進んでいる。 中国政府は、砂漠化の原因はモンゴル人の遊牧のためだとするが、遊牧は昔から行われてきたものであり、実際には中国人が大量に入り込み、乱開発を始めてからのものである。 天然資源の略奪的な乱開発によっても、環境は一層破壊されている。 内モンゴル自治区は、「中国のエネルギー基地」と喧伝され、自治区政府は、域内に数百もの炭鉱を開発するためのキャンペーンを展開してきた。 2010年には、内モンゴル自治区は「年間石炭産出量が単独で7億トンを超えた最初の行政区となった」と報じられている。こうした炭鉱開発ラッシュに対応してウジムチン右旗の地方政府などは、国営、民間の石炭会社を中国全土から誘致し炭鉱開発を推し進めてきたのだが、その結果、草原の破壊が急速に進んだ。 モンゴル人の生活は草原と切り離すことはできない。モンゴル草原を吹き渡る風や流れる河、それに草一本や砂一粒までもが遊牧民であるモンゴル人の宝なのだ。草原は祖先から受け継いだモンゴル人の生存基盤になっているのである。だから草原を次世代に継承させる責務があるのだが、一度破壊された草原は、二度と回復できない。 中国は農耕、資源採掘、工業化などで自らがモンゴル人の住む草原を破壊しながら、最近では南モンゴルに対する「遊牧禁止」や「生態移民」という名の政策を強化している。 「生態移民」とは生態環境破壊の深刻な地域や自然環境の劣悪な地域の住民を他の地域へ移住させるという名目で行われているが、これにより2000年以降、16万人ものモンゴル人が、草原で続けていた伝統的遊牧生活を奪われ、漢民族が密集する都市部に移動させられた。 そして石油、天然ガス、石炭、レアアースなどの資源開発による利益は中国人が独占している。もちろん環境破壊も改善されないばかりか、さらに悪化する一方だ。 このようにして南モンゴル人は、自分たちの故郷から強制的に追放され、伝統経済から隔離され、モンゴル文化も奪われるなどで、ますます民族浄化の憂き目に遭っているのだ。 2011年5月10日、内モンゴル自治区シリンゴル盟の西ウジムチン旗で、遊牧民のメルゲン氏が中国人の開発業者が運転するトラックに轢き殺された。 そしてこれをきっかけに、同自治区内では30年ぶりに大規模な抗議運動が起こった。 その背景には、炭鉱開発を強引に進める中国人の横暴がある。西ウジムチン旗では、開発業者の石炭運搬トラックが牧草地を無秩序に駆け回り、何頭もの家畜を殺し、すでに衰弱している牧草地をさらに荒らした。住民たちは、政府に何度も抗議していたが、事態は改善されることなく放置されてきた。 そこでメルゲン氏らは2011年4月16日から、牧場へのトラックの進入を防ごうとした。そこへ石炭運搬用トラックがメルゲン氏をはね、145mも引きずって殺したのだ。 この事件については日本のメディアも報道したが、テレビ東京は「炭鉱開発に反対していた遊牧民の事故死」と報じた。しかし実際には「事故」ではなく、意図的な「虐殺」だったのである。 犯人の運転手は、「トラックにはしっかりと保険を掛けてある。臭いモンゴル遊牧民の命など、4万元にもならない」と言い放っていた。 そこで2011年5月23日、西ウジムチン旗の遊牧民は抗議運動に立ちあがったのだ。翌24日にはシリンゴル草原の学生2000人が集まり、シリンホト(シリンゴル盟の政府所在地)で中国共産党政府に対する抗議のデモ行進を行い、草原の保護や遊牧民の人権尊重を要求した。 26日からは自治区各地でも抗議活動が行われた。そして29日にはさらに、大規模なデモ行進が、ジリム盟(現在の通遼市)で行われる予定だった。そこは草原を守るために中国軍閥政府と戦ったモンゴル人の英雄ガーダ・ミーリンの故郷である。また、5月30日には自治区の首都であるフフホト市でもデモが行われる予定だった。 しかしこれらはいずれも、人民解放軍により弾圧され、解散させられた。 こうした反政府運動の高まりを警戒した中国政府は、その一方で巧みな懐柔策も取り、メルゲン氏殺害の犯人に肩代わりして、遺族に賠償金56万元を手渡し、55uのマンションを提供した。 しかし民族の尊厳と草原を守りたいモンゴル人は、政府の強引な開発政策が改められない限り、不満は収まらない。実際に6月25日には、バイリン左旗で鉛鉱山の開発が牧草地の環境を破壊しているとして、鉱山付近で抗議活動が行われた。 モンゴル語学校廃止・合併などによっても、モンゴル人の人権、文化は消滅の危機に瀕している。 南モンゴルでは小学校から大学まで、モンゴル語での教育を受けることはできる。しかし現在、自治区政府は、南モンゴル社会から完全にモンゴル語を締め出す政策をとっているため、そのような教育を受けても、まず仕事がない。 会社内ではモンゴル語は使われず、中国語しか通用しない。このように卒業後に働き口がないため、モンゴル語で学ぶ人はいなくなるわけだ。 さらに、内モンゴル自治区政府は、モンゴル語学校廃校や合併を進めている。 例えば、シリンゴル盟の東ウジムチン旗に16の小学校があったが、政府はそれらを合併して2校にした。2校しかなければ、遠方の子供たちは親元を離れて寮に入らざるを得ない。モンゴルでは小学校1年生は8歳だが、その年齢から子供たちは、モンゴル人の家庭教育から隔離され、中国共産党政府の政策どおりにコントロールされた学校教育だけを受けることになる。 家庭教育というのは、人生においては重要なもので、文化の継承もそこで行われる。そこでそれを遮断してしまおうという政策なのだ。 中国政府はこうして、形式的にはモンゴル語での教育の自由を与えながら、実質的には、中国語での教育しか選択できないような政策を、何重にも取っているのである。 モンゴル人は教育を受ければ受けるほど、モンゴル民族独自の文化が失われ、頭は洗脳され、漢族との同化が進むということなのだ。 実に巧妙かつ残酷な民族浄化政策ということができる。 中国共産党政府は60年以上に及ぶ南モンゴル支配において民族平等を唱えてきたが、実はその民族平等を破壊しているのが中国共産党に他ならない。 モンゴル人と中国人との民族間の対立を煽り、激化させ、そしてその上で調整者として乗り出し、それによって自分たちの確固たる支配体制を維持しようとしているのだ。 中国は欧米や日本の人々が考える国家とは異質のものだ。ただの一部の利権集団が13億人と960万㎢を乗っ取っているだけである。 中華民国にしても中華人民共和国にしても、もともとはそんなに大きな国ではなかった。周辺の満州、モンゴル、ウイグル、チベットの国々を侵略し、植民地支配を行い、伝統的領土の3倍にも版図を広げるに至ったのだ。 要するに中国とは侵略帝国なのだ。中華思想と侵略主義の塊と言ってよく、世界の普遍的価値である人権、自由を踏み躙りながら存続している国なのである。 南モンゴルだけではなく、満州、チベット、東トルキスタンなどの異民族地域で弾圧、迫害を続けてきた。日本人はそうした膨張的な政策を直視しないと、やがて日本にも同様の危機を招くことになるだろう。 事実、尖閣諸島に対する干渉も、そうした膨張、侵略政策の一環に過ぎないのだ。そのことは我々南モンゴル人にはすぐ分かる。 日本政府が経済面で中国と友好関係を必要としているのはよく理解できる。しかし一国の政府として考えなければいけないのは、人権問題や安全保障問題は経済的利益以上に重要であるということなのだ。 現在の強盛な中国を生み出したのが、日本を含めた先進諸国である。自分の国益だけを考え、弱小国や民族の運命を無視したままだと、やがてあの国の膨張政策の矛先は自分に向けられることとなるだろう。 真の民主主義とは何だろう。正義、道義なくして民主主義など成り立たないはずだ。自分の家族だけが幸せであればよい、隣の家で殺人事件が起こっても見て見ぬ振りをするのは真の民主主義ではないと思う。 現在の日本は、世界に対して経済的に大変素晴らしい貢献をしているのは誰もが認めるところだ。これからは民主主義の最も基本的、根本的な自由、人権の面においても、世界に貢献していただきたい。
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