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2013年1月24日 れんだいこのブログ
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生活党への期待と意義考その1、小沢どんの政治履歴その1、自民党時代考(れんだいこのブログ)
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生活党への期待と意義考その3、小沢政治の転回考(れんだいこのブログ)
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以上、生活党出航に当ってのれんだいこ激励を送らせていただいたが、最後にかく期待の大きい生活党の足らざるものに注文をつけておく。先の2012総選挙に於いて未来の党に大同団結したのは良い。なぜなら弱い方こそ小異を捨て大義に拠るのが勝利の方程式であるから。結果は惨敗となった。数々の選挙不正が確認でき、ムサシマシーンにより開票操作された可能性があるので勝負判定は未決着である。しかしながらムサシマシーンを導入させ続けていることも含めて教訓化せねばならぬ。あれこれ挙げればキリがないので生活党単体としての努力でできそうなことを指摘しておく。
その第一は党名である。現在の生活党なる党名はこれで良い。問題は、未来の党なる党名が提起された場合、それは政治用語ではないとして退けるべきではなかったか。「鉛筆もったら未来の党」なる標語もオカシイ。未来にしても鉛筆にしても、それは他党にも当てはまることであり、結局、党としては何も主張していないことになる。嘉田滋賀県知事の頭脳のイカガワシイところである。しかし、この問題は済んだこと故もう良い。
その第二は政策である。脱原発は現下の状況下では絶対的に正しい。卒原発は脱原発を薄める響きがあるがまま良い。問題は、国政選挙で原発政策一本槍で臨むべきだろうかという問いにある。あれこれ併記せよと云っているのではない。真意は、原発問題があろうとも最優先は国民を食わす為の経済政策の提起提言を第一にせねばならないのではないのかと糺すことにある。国民を食わす為の経済政策に景気対策、雇用政策、財政問題が絡んでくることになる。いずれにせよ経済問題から入らねば政治ではない。経済問題を第一に取り上げない公約は言葉のアクセサリーにされてしまう。これを肝に銘じてもらいたいと思う。
今どきで云えば、経済政策から始め次に原発であり軍事防衛であり教育であり地方自治であり規制緩和であり云々と続けるべきであろう。これに照らす時、先の総選挙での卒原発一本槍は拙劣だったと云うことになる。如何なる時も常に経済問題、国民に飯を食わせる処方箋から入れ、これが云いたい。この点、その政策の適否は別としても自民党が一番原則的であるように思われる。
その第三は政党の在り方である。政党はまず第一に国民に飯を食わす為の政治能力、施策を講ぜねばならない。次にその都度の時代の課題に対処せねばならない。野党の立場からできることは限られていようが党が掲げる政策の実現を目指して働かなければならない。当然、与党になれば直接的に対処せねばならない。野党は批判だけで足りるとする万年野党暮らしの処世法に馴染んではいけない。常に政権党の如くに責任政治の観点から立ち居振る舞いすべきではなかろうか。それは何も政府与党の政策に迎合することを意味しない。認めても良い法案もあろうし、徹底的に争う法案もあろうし、審議拒否すべきものもあろう。あるいは次善の改良提案すべきこともあろう。かく態度を構えるべきではなかろうか。
その第四は公正選挙の訴求である。これまでは考えられなかった事象であるが2012衆院選では選挙不正疑惑が持ち上がっている。未来の党は直接の被害者であるにも拘わらず、これを問題にしていない。しかしそれは潔い態度だろうか。れんだいこは、オカシイと思った選挙区の検票が為されるべきであると考える。その為にどういう要件が必要となるのかを議論し検票し易い制度を求めるべきだろう。不正選挙疑惑は議会制民主主義の根幹が問われている訳であり、これに背を向けるなどあって良い訳がなかろう。政党の有権者責任を考えれば有権者への謝辞は儀礼であり、有権者が選挙を疑惑しているのなら不正の究明にこそ当るべきだろう。疑惑選挙区の検票をすれば白黒判定がつくのであるから、これに向かわねばなるまい。
凡そ以上を肝に命ずれば追い風が吹く。その追い風は議員貴族を増やすことに利用するものではない。政治家たる者は畳の上での往生を願わぬ、命を歴史に差し出す者であらねばならない。但し滅びの美学に酔ってもイケナイ。目指すべきは政権であり与党政治であり、政治的発言の政策的物質化である。今日の政治家の言は明日の施策にならねばならない。そういう意味で、政治家たる者の発言責任は重く、精神において常に懐に辞表を、切腹を覚悟して事に処せねばならない。これにつき民主党三代政権が共通して見せたマルチ舌はお話しにならない。民主党にはこの毒が今も回っており政治医学的に見て解毒できない。そういう意味で民主党は終わっている。追って社会党の二の舞になろう。
思うに、政治音痴は人として発育不全である。現代は、この発育不全が政策的に助長されている。詩人、芸人故に政治には関心がないと嘯く文化人がいるがふてぶてしいと云うべきである。あらゆるものが政治に関係している。政治に関心を持たないのは持たなくされているのであり去勢されている故のものである。この辺りのことを述べ始めるとキリがないので割愛するが、意図的故意にして用意周到に敷かれている精神及び頭脳のスポイル化に抗する知性こそ本物のインテリ性であると考えている。そういう構図下での彼我との力関係の上での丁々発止のやり取りこそ政治の醍醐味ではなかろうか。国民の政治音痴は政治家の政治白痴化を助長させる。そういう意味で、結果的に時の政治の質と国民の能力は釣り合いが取れていると見なすべきだろう。
れんだいこは若かりし頃、時代が下る毎に何がしか改良が生まれ、世の中が次第に良くなると思っていた。これを仮に命名すれば進化史観と云うことができる。しかしそれはウソであり間違いであると見なすようになった。それが証拠に、戦後新日本は1970年代より退歩することはあっても少しも前進していない。よしんば科学技術は進歩し続けているにしても、それを活かす知恵が明らかに後退している。現代は、科学技術の進歩を活かす知恵が滅法逼塞しているのではなかろうか。
その証拠の一つとしてテレビ番組の例を挙げておく。昔の番組の方が見て為になるものが多かった。ニュースキャスターにも個性派がままいた。今はさっぱりダメだろう。れんだいこは、2012衆院選で朝のニュース番組が各社揃って選挙情報をまともに取り上げなかったのを見て、それ以来テレビを見るのが馬鹿らしくなった。それまでも見ない方だったのだが朝のニュース番組は見ていた。今はそれさえ見なくなった。今見るのはスポーツ観戦ぐらいのものである。たまりかねてスカパーなるものに加入し朝も晩も囲碁将棋チャンネルばかり見ている。連れ合いは時代劇と事件物を気に入っているようだ。文明の利器のテレビがこんなに拙くしか使われず、視聴するに値する番組がなくなるなんて時代が予想できただろうか。
著作権の過剰権利化による情報閉塞然りである。社会が賢くなっているとは到底思われない。その他その他の理由により退化史観なるものが存在することを実感している。嘆かわしいことではなかろうか。生活党に対するお願いは、我々の脳のしわと深みが増すように世の中をリードしてくれることである。この方向に舵を切れば我々はいつでも支持する。逆方向に向かうのであれば用はない。生活党は我々の期待を担ってくれると信じている。
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