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【第50回】 2016年10月28日 池上正樹 [ジャーナリスト],加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]
大川小学校、ついに判決で明らかになった「法的責任」
判決後の会見では、これまであまり取材に応じなかった遺族も壇上に(2016年10月 26日、仙台市内)
5年7ヵ月の闘いがついに決着
遺族の思いは報われたか?
東日本大震災で、学校管理下の児童74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の23人の児童の遺族19家族が、市と県を相手に総額23億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が10月26日に行われ、仙台地裁(高宮健二裁判長)は、学校側の過失を一部認め、14億2600万円あまりの損害賠償を命じた。
この判決は、学校管理下における惨事としては我が国では例を見ない犠牲者を出した大川小を巡り、東日本大震災における施設管理下での津波被災事故の裁判というだけでなく、学校に預けられた子どもたちの命を教員がどう守るのかという学校防災の基本を問う判断が示されるという点で、教育現場に与える影響は大きいと注目が集まっていた。
遺族は裁判で、児童が津波の犠牲になったのは、学校が事前の安全対策を怠った上、大津波警報発表下でも、徒歩1分でたどり着く裏山があるにもかかわらず、児童を校庭に長時間待機させ、速やかに安全な高台に避難しなかったためだと訴えてきた。また、事故後に救命要請を行わなかった学校や、説明を尽くそうとしてこなかった市教委の対応のあり方についても、問題があったとしていた。
「先生方、学校関係者、石巻市、宮城県は、判決を受け、学校は安全だと先生方みなさんが考えていくこと」と話す紫桃隆洋さん(左)(2016年10月 26日、仙台市内)
一方、市と県は、教職員が学校までの津波襲来を予見することは不可能だったと主張。その理由として、地域には過去津波に襲われた記録がなかったことや、当時の津波浸水予測図では「大川小までは到達しないものと予測されていた」ことを挙げている。地震発生直後には、教職員が様々な形で情報収集を行い、想定通りに避難行動したために、情報収集義務違反や結果回避義務違反はなかったとしていた。
つまり、市と県は「津波が学校まで到達することを事前に予見できなかった」と反論してきたものの、遺族側は「万一、津波が来たときの子どもたちへの危害発生を予見すべき義務を怠ったのは学校側の落ち度」だと主張。「津波の予見性」とは何かという中身を巡って、真っ向から対立していた。
判決で高宮裁判長は、「市の広報車が高台への避難を呼びかけていることや、ラジオで津波予想を聞いた段階では、教員らは津波が学校に襲来することを予見し、認識した」と認定。その上で、「津波を回避できる可能性が高い裏山ではなく、避難場所としては不適当というべき(川沿いの)交差点付近に向かって移動しようとした(生存教諭を除く)教員らには、児童らの死亡回避義務違反の過失がある」と指摘した。
一方で、事前に危機管理マニュアルで避難場所や方法、手順を明記しなかったなどの安全対策を怠ったこと、当時不在だった校長や生存教諭らが被災後、救命救助活動を行わなかったこと、市教委や学校の事後対応に関しての注意義務違反は認めなかった。
地裁が、学校に子どもの命を守る法的責任があると確認したことは、学校防災全般にとって大きな意味がある。また、大川小の現場で、津波が迫ることを知りながら、教諭らが児童を適切に避難させていなかった点が判決で認められたことも、遺族にとって非常に意味が大きい。
判決後も燻る遺族たちの不満
「なぜ死ななくてはならなかったのか?」
当時 5年生だった次女を亡くした紫桃さよみさんは、「事後対応に対して何一つ責任はなかったという判決は、私は100%不満です」と話した(2016年10月 26日、仙台市内)
26日の判決は、原告の一部勝訴だった。しかし、判決後に開かれた原告団の会見では、勝訴したとは思えないような重い空気が漂っていた。
「なぜ死ななくてはならなかったのか、裁判では明らかになっていない」「事後対応についての判決は、何1つ納得していません」
原告の遺族側から、不満が次々に噴出したのだ。
今回の訴訟は、「津波の予見性」以外にも、事前の対策に不備があった点や石巻市の事後対応の適正性も争われたことが大きな特徴だ。
当時の校長が初めて被災校舎に来たのが震災から6日も経ってからだったことや、市教委が震災直後の聴き取りメモを廃棄し、津波が来る前に「山へ逃げよう」と訴えた子どもの証言がなかったことにされたことなど、遺族たちの受けた震災後の不誠実な事後対応による精神的苦痛についても、遺族の強い意向により加味されたのだ。
少しだけ、大川小の遺族が提訴に至るまでの経緯を振り返りたい。
「あの日」の津波被災事故からほどなくして、学校や市からの説明ではあまりにも不十分だとして、捜索活動を終えた遺族たちのなかから、真相を究明するためのグループが自然とでき上がっていった。
遺族は、説明会や話し合いを求め市教委にかけ合った。市教委は、真相究明に向けた協働歩調を取ろうとはしなかった。初めての説明会の場では、市教委は、遺族が当時の現場の状況を唯一知る生存教諭に質問することを許さず、2回目の説明会でも、時間が来たからと、一方的に席を立ち説明を切り上げた。さらに、生存児童らに聞き取りを行った調査のメモを、担当指導主事が廃棄していたことも発覚。このメモ廃棄を、遺族は隠蔽行為だと受け取った。
2012年8月になって、当時の平野博文・文部科学大臣が大川小を訪れた。大臣が遺族の訴えに耳を傾けたことをきっかけに、翌 2013年の2月、第三者の防災の専門家らでつくる検証委員会が設置された。すでに発災から2年が経とうとしていた。
学校、行政、検証委の誰も
きちんと答えようとしなかった
当時6年生の三男を亡くした佐藤和隆さんは、「(地震が起きた後の)3時ぐらいから『ここにいたら死ぬ』と言っていたという息子のことが今でも忘れられない。どんだけ怖かったか」と涙ぐんだ(2016年10月 26日、仙台市内)
ところが、その検証委では、事務局と委員の選定や検証方法、委員の言動などの問題が次々に噴出。結局、約5700万円もの高額な費用をかけた「権威」の検証では、新たな事実は明らかにできなかった。真相究明に期待を寄せ、積極的に傍聴に足を運んでいた遺族のなかには、「ここで心が折れた」という人もいる。
「あのとき、大川小で何が起きたのか?」「学校の子どもたちの命を教員はどう守るのか?」といった遺族の問いに、学校や行政関係者、検証委の誰もきちんと答えようとしてこなかった、一連のプロセスの積み重ねが、訴訟の引き金になった。
「最も安全なはずの学校管理下で、なぜ死ななければならなかったのか。どんな状況で、なぜ死にいたったのか。なぜ大川小だけなのか。その真実の解明のため、被災から3年後、提訴に踏み切ったんです」
会見で、当時小学6年生の大輔君を犠牲にした原告団長の今野浩行さんは、そんな経緯を交えながら、感想を語った。
しかし判決では、学校で教職員が、大津波警報のような子どもたちの命への危険を予見したとき、回避行動や回避対策をとるべきではないのか、という学校管理下での明確な基準を示すことはできなかった。
「学校は津波を予見して子どもたちの命を守らなければいけないと、学校側の責任を認めたことについては、一定の評価をしたい。しかし、そんな当たり前のことが司法の場で確認されただけに過ぎない。道義的責任ではなく、やっと法的責任が認められたものの、被災から5年7ヵ月もかかったのは残念。裁判の結果が我々の目的ではない。真実を解明するための1つの手段にしか過ぎない。知りたかった真実は裁判では知ることができなかった。裁判が終了してから、本当の検証作業になると覚悟している」(今野原告団長)
被告の石巻市と宮城県は、判決文を分析しながら、控訴するかどうかを検討しているという。
「歴史を刻み 未来をひらく判決」
残された課題の重さと新たな闘い
勝訴の一報を伝える横断幕は遺族 3人が自ら掲げた。「歴史を刻む」「未来をひらく」は、大川小の校歌の一節(2016年10月 26日、仙台地裁)
今後、仮に被告が控訴した場合、原告側も「当時の校長や生存教諭が責任から除外されたこと」や「遺族への事後対応に関する責任」などを含め、付帯控訴する可能性もある。
「勝訴は勝訴。だけども、中身を知れば知るほど、なぜ勝ったのかわからない。事前の防災対策をいい加減にしていてもいいんだ、津波がすぐそこに来るまで何もせずにいていいんだ、資料も廃棄していいんだという判決。みんな納得していない」
当初からいち早く真相究明に取り組んできた遺族の紫桃隆洋さんは、そう振り返った。
その言葉に、「あの日」から続いた5年7ヵ月の闘いが報われたと思うのと同時に、今後の学校防災に広く役立つわかりやすい判決を勝ち取れなかったという悔しさもにじむ。
「歴史を刻み 未来をひらく判決」
勝訴判決を受けて掲げた横断幕には、大川小学校の校歌の一節を借りた言葉があった。子どもたちの命が、いつか起きる災害で、未来の子どもたちの命を救う枠組みにつながる判決になってほしいと、原告団が期待を込めたものだ。
今回、現場にいた教師の責任を認める形で判決は出されたが、遺族が期待した学校の防災体制のあり方、事故後の対応のあり方についての判断は、原告の期待に対して大きな課題が残ったと言える。
(取材・文・撮影/池上正樹、加藤順子)
*『大津波の惨事「大川小学校」〜揺らぐ“真実”〜』連載バックナンバーはこちら
http://diamond.jp/category/s-okawasyo
http://diamond.jp/articles/-/105944
大津波の惨事「大川小学校」〜揺らぐ“真実”〜
【第9回】 2012年9月5日 加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]
唯一生存した男性教諭の報告に大きな矛盾!?
大津波後の大川小生存者を見た夫妻の証言
東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。震災から1年5ヵ月が経過したが、なぜこれほどの児童・教職員が犠牲にならなければならなかったのか、今もまだ真実は明らかになっていない。大津波が襲った当日、大川小の生存者の様子を目撃したという夫妻がいる。夫妻はあの日、どんな事実を見ていたのか。
裏山からみた大川小。入釜谷の国道に出る林道につながる。(2012年2月14日、石巻市釜谷)Photo by Yoriko Kato
東日本大震災の津波被害で、児童と教職員の計84人が、死亡・行方不明となった現場、石巻市立大川小学校の被災校舎付近はいま、多くの人がひっきりなしに訪れる観光スポットとなっている。
献花台で手を合わせ、痛々しい姿になった校舎を半周してから、学校の裏山を見上げ、口々につぶやく。
「こんな近くに山があるのに、なぜ」「この角度はちょっと……」「ここから登れたんじゃないの?」
災害や事故の被災現場をめぐる追悼の旅を、ブラックツーリズムというそうだ。大川小には、そのようなツアーバスやレンタカー、他県ナンバーの車が、次々と来ては去っていく。
多くの人がため息と共に見上げるこの山の根をまわったところに、小さな工場がある。津波被災当時、周辺の集落の人々が避難していたところだ。
私たちは、この工場の経営者が、大川小の生存者の当日の様子を知っていると聞いて、話を聞きに行った。
A教諭の証言は実は別人の証言?
夫妻が見た真実と報告書の間にある矛盾
「A先生の報告書は、最初から全部嘘なんです。だいたい9割方は嘘だから。なんで嘘ついたんだかは、わかんないですけども」
私たちが訪れた目的を説明すると、工場の社長は、市教委が作成した生存教諭の聞き取り書について、いきなり、そう切り出した。
報告書とは、市教委の加藤茂美指導主事(当時)が、震災から2週間後の3月25日に、被災当時と直後の様子を、教職員で唯一生存したA教諭から聞き取り、翌4月に入ってからまとめたものだ。柏葉照幸前校長に連れられて、A教諭が市教委まで証言に訪れた時の様子は、前々回、加藤氏が私たちに語った話のなかで、紹介した。
社長夫妻の話によると、この報告のなかには、いくつも矛盾点があり、A教諭とは別人の証言のように読めるという。
私たちは、市教委を通じて再三A教諭への取材の問い合わせをしているが、「主治医からの許可が出ない」「自分たちも直接話ができない」(指導主事)と説明されている状況だ。
まずは以下に、市教委が作成した聞き取りの報告書のなかから、「被災時、避難誘導に当たった教諭Aの聞き取り調査の概要」の一部を紹介する。
☆
(三角地点へ移動)
校地を出て、釜谷交流会館前の山沿いの小道(交流会館駐車場付近)を通っていたとき、津波が来た。A教諭は最後尾におり、「山だ。」と叫んで、山に登ることを指示した。A教諭も山に登るが倒れた木に挟まれて動けなくなった。その後、動けるようになり、近くにいた3年児童Bを連れて、さらに上に登った。
(山へ避難後)
A教諭と3年児童は、倒れた木の間に落ち葉やススキを敷き、雪をしのごうとした。津波の音が近づいてきたので、さらに上に登ることにした。松くい虫防除用のビニルシートをはがしてくるまった。児童の体の冷えがひどかったので、山を越えて雄勝側に行けば、車道に出て助かるかもしれないと考え移動した。周辺を照らしていた車のライトが見え、近くの車の中で過ごした。
☆
震災当日は車の中で過ごしたはずが…
実際は社長宅に宿泊していた
大川小で唯一生存した教諭と助かった子どものひとりが、工場のシャッターの前で、周辺の地区から逃げてきた人たちとともに立っていた。(2012年8月11日、石巻市)Photo by Yoriko Kato
社長夫妻によると、あの日、大津波警報が出てから、雄勝峠を越えてきた車や、大川小などのある北上川方面から逃げてきた人たちで、工場の前の国道は混雑していた。
津波は、目の前の国道まで上がってきて、人々は工場で立ち往生していた。あっという間に、目の前の集落の大半が水に沈んでしまったが、工場の敷地は、かろうじて浸水を免れた。社長夫妻は、事務所や自宅を、避難所として開放した。屋内は、100人ほどの人で、すき間がないくらいにいっぱいになった。
大川小のある釜谷地区からも、山を越えて来た人たちがいた。その中に、大川小で唯一生存したA教諭と、助かった3年生の男子児童Bくんもいた。
学校からつながる国道が冠水し、瓦礫が散乱していた点を考えると、どうやら学校の裏山からつながる林道を歩いてきて、工場のそばに出たらしかった。学校裏から山道を歩けば、国道までは30分くらいでたどりつく。
最初に2人と会ったのは、社長夫人のほうで、工場の入り口付近に立っていたたくさんの人の中にいたという。
「時間は、私も全然覚えていないんですけど、ただ、空が明るいうちに来ましたよ。最初に会ったとき、(A教諭は)『ひとりしか助けられなかった』と言っていたね。最初の言葉はそうだった」
そして、A教諭は、「この子は、大川小学校何年なんとか」とあいさつをしたという。そのときは、“大川小”まではわかったが、それ以上を確かめる状況ではなかったため、その男性が、大川小の教諭であったことを夫人が把握したのは、震災からひと月ほど経って、人づてに聞いてからだった。
「じゃあ、子どもを自宅の方に寝かせた方がいいんじゃないですか、って言って、自宅の方に行って、子どもさんはすぐ、上着と、あとズボンも脱いだのね」(社長夫人)
A教諭と3年男子児童の2人は、そのまま社長宅の和室に泊まった。
このA教諭と子どもは、少なくとも、明るいうちに工場の敷地へたどり着き、そのまま自宅に泊まったということは、夜になって車に泊まったとする報告書とは明らかに違う点だ。
市教委は、昨年11月にこの社長へ聞き取りをした後、震災から1年以上経った今年の3月18日の説明会で、
「A先生が教育委員会に報告に来た時に、本当に精神的に錯乱状態でして、私ともう一人で対応していたんですけども泣きながらずっとお話ししていたもんですから、聞き間違えたんだと思います」(当時の加藤茂美指導主事)
といって、間違いを認めた。さらに、同30日付けの県の県教育委員会への報告書によって、社長宅への宿泊の事実だけは訂正している。
「なんぼ錯乱状態でも、民家さ泊まったかどうか、なんも覚えてねぇなんてさ、ははは……笑ってしまうよ、本当にね」(社長)
A教諭は本当に津波をかぶったのか
夫人が見たのはきれいなままの背広だった
社長の自宅には、他にも避難してきた人がたくさんいた。服が濡れている人はみな、畳に上がる前に、社長宅にあった衣類を借りて着替えていた。
「A先生は、何も濡れていないから和室にそのまま通した。Bくんの靴は、濡れていたね。靴下を脱がせて、そのまま履いているわけにはいかないということで履き替えさせた。濡れた場所はわからないですよ。おそらく歩いてくるのに、この辺も全部泥だらけだったから。Bくんは、濡れて汚かったね」(社長)
A教諭が、津波をかぶって濡れていたかどうかも、証言が違っているところだ。
A教諭は、これまでに一度だけ、保護者向けの説明会で直接証言をしている。震災からひと月後のそのときに、津波襲来後の様子を振り返って話をしたなかには、以下のようなくだりがある。
☆
「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきて、私は右側の腕のところと左の肩のところにちょうど杉の木が倒れて、はさまる形になりました。その瞬間に波をかぶって、もうダメだと思ったんですが、波が来たせいかちょっと体が、木が軽くなって、そのときに斜面の上を見たら数メートル先のところに3年生の男の子が『助けて』と助けを求めて叫んでいました。私は、眼鏡がなくなって靴もなくなっていたので、とにかく『上に行け、行け』、絶対にこの子を助けなきゃいけないと思って、とにかく『死んだ気で上に行け』と叫びながら、その子を押し上げるようにして、斜面の上に必死で登って行きました」
☆
証言の一部分だけだが、津波が地域を襲った瞬間、自分自身も逃げながら、目の前の子どもを助けようと必死だった様子が伝わってくる内容だ。
しかし、社長夫人は、波をかぶったはずのA教諭の背広の様子をはっきりと覚えているという。
「4本格子のチェックの茶っこいようなグレーな感じの、はっきりしたような色でなくて。先生らしい、くたびれた上下だった。濡れてなくてきれいだったね。めがねは掛けていなかった。私、こうやってしゃべれるくらいに、覚えているもん」
その夜、A教諭は、ストーブのところであぐらをかいてすわり、一晩中、ほとんどしゃべらなかった。取り乱しているようにも見えなかった。
本当は山から惨事の一部始終を見ていた?
A教諭の反応から考える報告書の不審点
社長は、さらに、証言の信憑性を疑う点があると続けた。
A教諭は、説明会で、校庭での様子をこう証言している。
☆
「子どもたちは、その時に校庭の真ん中に座って、もう人員の点呼は全部終わっていました。中にはパニックになって吐いているお子さん、それから泣き続けているお子さんがいて、先生たちは、その子たちをなんとか落ち着かせようとしていました。雪が降ってきて、中には裸足で逃げた子もいたので、すごく寒がっていましたので、特に1年生、2年生の教室からジャンバー、それから上靴を取りに行ってはかせたりしました」
☆
「雪降ったというんだけど、ここは、雪、降っていないんです。降ったのは夜なんで。A先生は、雪降ったかどうかはわかってるんでないか。だから、A先生が『雪が』と書くのは考えられない。たぶん誰かが書いたんだね、どう考えても。早い頃に降ったのは石巻方面だから」
工場がある場所は、学校から数百メートル離れていて、山の裏側にあたるが、被災時の空模様については、私たちが聞いた範囲でも、証言が分かれている。
津波をかぶりながらも山によじ登って生存した当時5年の児童による、「うっすらと積もっていた」(児童父親談)という証言がある一方で、すぐそばで同じく山によじのぼってかろうじて助かった地元住民は、「車を降りて逃げたときは降っていなかったなぁ。人を助けたときにはけっこう降ってたよ」と言っている。
被災から一夜が明けてから、社長たちは、大川小学校のすぐ側にある、三角地帯と呼ばれる国道と県道の交差点まで行った。うずたかく積もった瓦礫に、名札を付けた女の子がひっかかって、亡くなっているのが見えた。
惨状を確かめて戻ってきた社長が、たまたまそこに出てきたA教諭に「女の子が引っかかってた。瓦礫さ何人か引っかかってた」と言った。しかしA教諭は何も言わなかった。
さらに、社長夫人が、「○○ちゃんという子がランドセル背負って亡くなっていたみたいですよ」というと、「ああ、その子ども、お母さんが迎えに来た子だね」と静かに答えたという。ショックを受けているかどうかは、わからなかった。
社長は、子どもといた男性が大川小の教諭だったと知った今、A教諭の当時の反応からこう推測する。
「ふつうは、子どもたちを助けてくださいとか言うと思うんだけどな。たぶん山から全部見ていて、助かってねぇと、知っていたんでねぇか」
再び、聞き取り報告書から一部を紹介する。
☆
(翌朝)
山から下りてきた5年男子2名と大人2名、1年女子1名とその祖父と合流した。5年男子は津波に巻き込まれたが、大人に助けられ、夜はたき火をして過ごしたとのことだった。
そこから、入釜谷交流会館(※)に移動した。そこには15名程度の子ども(幼児も含む)が避難していた。A教諭は腕を脱臼しており、けがをした児童2名とともに、ボートと救急車で日赤に搬送された。その後、桃生小にバスで移動した。(後略)
※正しくは、入釜谷生活センター
☆
子どもが亡くなっていたと聞いても、A教諭は学校のある釜谷の方に行かずに、林道を登っていった。社長夫人も途中までついていった。
「A先生がね、“ほー”とか“あー”とか、(山に向かって)かけ声しているの。なんでかな? と思った。すると、姿は見えねぇんだけど、“ほー”とか“おー”とか返ってきた。子どもが死んでたよ、って言ったのに、今考えると、なぜこっち(林道)に登っていったのかなと思う」
ともかく、かけ声のやりとりの後、ひと晩山の中で過ごした2人の生存児童が、地域の人たちと一緒に、林道を下りてきた。傷だらけだった彼らは、そこで手当をしてもらった。
そのうちに、社長宅に避難していた人たちは、近くの入釜谷生活センターという公共施設へ移動することになり、工場にあったマイクロバスで、ピストン輸送されることになった。
「うちには、足腰立たないおじいさんが泊まっていたんで、A先生が車までおじいさんをおんぶしてきたんですね。おれがおんぶすると言ったら、大丈夫、大丈夫って。だからまあ、先生はケガしてねえんでねえか。まあ、本人がしてたといえばしてるんだろうけれども、脱臼している人がおじいさんをこうやって抱えてこれねぇよ」(社長)
「おじいさんをおぶったとき、靴は、かかとをつぶしていたからね。ちゃんと両方靴はいていたし。その時、片方脱げた。それは覚えてる」(社長夫人)
証言によるリスクを負ってでも
真実を伝えなければならない
大川小のある釜谷地区の山に登ったり、津波に打ち上げられた人たちが、歩いて降りた林道。(2012年8月11日、石巻市入釜谷)
Photo by Yoriko Kato
工場の社長夫妻が見た、大川小のA教諭や子どもたちの様子は、そこまでだ。子どもたちの家族は、後日工場を訪れてお礼を言っていったが、A教諭は、それ以来一度も訪れていないという。
「私なんかが本当のこと知りたいと思うのはさ、地震が起きて、津波後の、学校からここまでの間ですよね。うちさ来たのは、あんまり大事なことじゃないんだけど、嘘ついて、報告に出てるから。でもなんぼ考えたって、最初の報告書は、だって丸きり嘘なんだもの。誰が書いたのかって追及したらいいと思う」
そして、このままでは、今後も市教委によって、
「嘘の(報告書の)まま、子どもたちは避難していたのに流されたと、言われる可能性がある」(社長)
と危機感を募らせる。そのためにも、保護者と市教委が話し合って、これまでほとんど説明に出てこないA教諭から、改めて聞き取りをする必要性を強調した。
「A先生が来ないと、話にもなんねもんね。市教委が事実を隠した隠さないってことばかりを話していて、だれがこの報告書のストーリーを書いたんだか、知りたいね。A先生が書いたとはとっても思えねぇね」
社長夫妻は、被災当時から、避難してきたたくさんの人を夢中で世話して、人によっては数ヵ月に長引いた避難生活を助けた。その中で見聞きしたことを話すことは、地域の中で暮らす以上、さざ波を立てるような行為だ。
「これで、1年以上経って、なんなんですかね。この辺のお母さんたちは、しゃべるなっていうけど、私は負けないから。だって私ら本当のこと言うほかないんだもんね」
夫人はそうつぶやいた。
(加藤順子)
大川小学校関係者や地域の方、一般の皆さまからのお話をお聞きしたいと思っています。情報をお持ちの方は、下記までお寄せください。
teamikegami@gmail.com(送信の際は「@」を半角の「@」に変換してお送りください)
http://diamond.jp/articles/-/24268
- 大川小津波訴訟 石巻市議会が控訴承認の議案を可決(どうせ高裁は権力に屈する?!) 戦争とはこういう物 2016/10/30 21:46:49
(4)
- 宮城知事「教員を一方的に断罪」 大川小訴訟判決を批判(県議会は開かず知事独断で) 戦争とはこういう物 2016/11/01 11:58:09
(3)
- <大川小訴訟>予見不可能 宮城県も控訴へ(認めれば賠償続発?!) 戦争とはこういう物 2016/11/01 12:05:34
(2)
- <大川小訴訟>宮城知事 教員断罪納得できぬ(救えた命、は撤回する?) 戦争とはこういう物 2016/11/01 12:14:46
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- 政治板リンク:<大川小訴訟>専決で控訴 県議会異論相次ぐ(政治問題化?) 戦争とはこういう物 2016/11/03 19:48:19
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- <大川小訴訟>予見不可能 宮城県も控訴へ(認めれば賠償続発?!) 戦争とはこういう物 2016/11/01 12:05:34
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- 宮城知事「教員を一方的に断罪」 大川小訴訟判決を批判(県議会は開かず知事独断で) 戦争とはこういう物 2016/11/01 11:58:09
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