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逮捕直後の写真。今は髪は短く、ひげも剃り、黒いスーツ姿で出廷している
【オウム裁判】19年の歳月を経て
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140125-00031946/
2014年1月25日 8時25分 江川 紹子 | ジャーナリスト
オウム真理教元信者、平田信被告の裁判が、東京地裁(斉藤啓昭裁判長)で始まった。
教団への強制捜査が始まり、彼が逃走を始めてからまもなく19年。この歳月は彼の風貌も大きく変えた。髪も眉もひたすら濃い手配写真のイメージとは違い、短く刈り込まれた髪には白いものが混じり、眉も前より細い。
起訴されているのは、仮谷さん拉致事件(逮捕監禁罪)と、宗教学者の島田裕巳さんが以前住んでいたマンションに爆弾を仕掛けた事件、それに東京・青山の教団施設に火炎瓶を投げ込んだ自作自演事件の3件。後の2件は、仮谷さん事件で警察が動き出したため、捜査を攪乱するために引き起こしたものだ。それでも(当然のことながら)強制捜査が近づいているということで、教団は地下鉄サリン事件を引き起こす。平田被告も、一時は地下鉄サリン事件の運転役の候補者として名前が挙がっていたこともあり、検察側は仮谷さん事件以降、平田被告は教団の非合法活動に携わるようになった、と位置づけている。
一方の弁護側は、仮谷さん事件に関わったことは認めつつ、事前に仮谷さん拉致の計画を知らされていなかった、と主張。平田被告は、家族に反対されて監禁されている信者を助けに行くのだと思っていたなどとして、幇助犯にとどまるとしている。また、爆弾事件については無罪を主張し、火炎瓶事件については犯行を認めた。彼が関わった非合法活動は、きわめて限定的で、役割も見張りのように補助的なものにとどまった、と見ている。
この裁判は、3事件についての平田被告の関与の有無、責任の程度などを見極めるのが目的だ。ただ、それだけでは終わらせたくない、とも思う。事件から19年も経過し、オウム事件についてよく知らない世代が、すでに大学生や社会人となり、こうしたカルトに誘われやすい年頃になっている。その影響もあるのだろうか、このところ、アレフと名称を変えたオウムに入信する人たちが増えている、という。裁判を通じて明らかになる、オウムが引き起こしたこと、オウムをはじめとするカルトの問題点などを、報道機関はできるだけ詳細に報じ、事件の教訓を広く(特に若い世代に)伝えてほしい。
■裁判の危惧と期待
ちょっと心配なのは、これが裁判員裁判ということだ。裁判員裁判では、検察・弁護側双方とも刑事裁判の素人である裁判員にわかりやすく説明をするので、傍聴人にもわかりやすい。その一方で、裁判員の負担を減らすために審理の時間をできるだけ短縮しようとし、検察・弁護側双方に効率的な立証が求められる。公判スケジュールは事前にがちがちに決められ、審理はそれに拘束される。裁判長は時計を気にし、予定していた尋問事項から話が広がりかけると、「手短に」などと口を挟む。
ただ、オウム事件では、教団内で同時並行的にいろいろな動きがあり、特に仮谷さん事件以降は、強制捜査を回避しようと、教団はバタバタと様々な行為に及んでいる。また、武装化についても、いかにもバカバカしい失敗が山ほどある。非常識が平気でまかり通る組織でもあった。公訴事実とは直接結びつかない、それどころかくだらない与太話と思えるような事例をも丁寧に見ていかないと、オウム犯罪の実態はわかりにくい。19年も経った今では、若い裁判員には当時の空気感は知らないはず。そんな中、効率重視で公訴事実だけに注目すると、木を見て森を見ない状況に陥りかねない、と危惧する。
それでも、事件に関わった信者たちが、19年の歳月を経て、自分たちのやってきたことをどう振り返るのか、当時の自分をどう語るのかは、非常に興味深い。逮捕され、裁判や刑罰を受けたことで、彼らはどう変わったのか、変わらなかったのか。この問題について、司法や矯正などのシステムが機能したのかしなかったのかを含めて、社会の仕組みそのものが裁判によって裁かれるような気もする。
■1000万円の逃走資金
その期待を高めたのが、元信者のトップバッターとして証言台に立った、A子さんだ。オウムに関わる前、彼女は看護師で、中川智正死刑囚の恋人だった。「出家」すると言ってきかない中川について、彼女もオウムの中に飛び込んだ。教団の医療施設で働いたほか、「秘密のワーク」と称する仕事もさせられた。その一つは、信者には秘密とされていた教祖の愛人たちの子供の世話であり、もう一つはサリンの製造だった。
強制捜査が始まって、彼女は逮捕され、サリン製造の殺人予備罪で1年6月の実刑判決を受けた。証言によれば、彼女は脱会し、知人のサポートもあって、あるところで正規の従業員として働いている、という。
検察官の尋問に答え、A子さんは、
1)1995年3月初旬の夕方、富士宮市にあった教団施設第1サティアン3階の窓から外を見ていたら、敷地内の大きな焼却炉に車を横付けし、中川と平田が長い時間をかけてゴミを燃やしていた。自分も別の焼却炉で、教祖の愛人の子供のおむつを燃やししたが、その時にも2人の姿を確認した。あたりは暗かったが、焼却炉の扉を開けた時の火で、顔ははっきり見えた
2)同年4月上旬に、平田がを訪ねてきて、「しばらく逃げないといけないのでお金をもらいにきた」と言ってきた。自分は第1サティアンにいて、教団の金庫番のI子に取り次いだ。「先にお金を持たずに逃げた信者と合流するなら1000万円、そうでないなら500万円、平田に選ばせるように」とI子から指示された通りに伝えると、平田は「なるべく合流します」と1000万円を受け取った
と証言した。
証言は、19年経った今も、具体的だった。
■当時の心境は……
一方、弁護側はサリン製造などの違法な仕事をする際の、A子さんの心境を尋ねた。A子さんは、「サリン」と明確に言われていたわけではないが、様々な状況から、自分が関わっているのがサリン製造であることは知っていた。
―そういう仕事をする時、どのように心の中で折り合いをつけるのか。
「その時は、これが自分に与えられている仕事で、それさえすればよい、と。後のことは、自分のもってない計り知れない能力や知恵を持っている人(=教祖)が考えることだ、と」
―サリン製造に負い目を感じていたか
「当時は、そういう気持ちをもっておらず、とにかくそれをすればいいとしか考えていなかった」
A子さんも、「秘密のワーク」に就いて、すぐにそんな状態になったわけではない。様々な戒律があり、表では人々の救済を説きながら、教祖は愛人を囲い、社会と摩擦を起こし、非合法活動までしている教団。その現実を見るにつけ、葛藤が生じ、苦しんだようだ。
「自分自身が葛藤状態にいるからつらい。(教団がやっていることは)常識で考えたら迷惑だろうと葛藤していた。でも、周囲を見渡すとつらいという人がいない。みな、平然としている。なんでだろう…と思った。それで、葛藤するのは自分の修行が至らないためかと思ったら、葛藤が消えて楽になった。これでいこうと思ってしまった」
教団の中では、山のてっぺんから遠くが見通せるように、教祖は最終解脱した高い境地から、すべてを見通したうえで判断をしている、と言われていた。下々の信者たちが、教祖の「深いお考え」が理解できないのは、自分の経験や知識、社会の常識や慣習、さらには法律など世俗的な事柄に拘束されているためだとされた。疑問を感じたり悩むのは、教祖の対する信仰心や修行が足りないため。何も考えず、ひたすら教祖を帰依することが、葛藤を乗り越えるのがよいことと教えられた。
A子さんもまた、葛藤を覚えるのは自分が至らないせいだと思うことで、あれこれ考えるのをやめ、教団生活に順応していった。
さらに教団は、通常の方法では救えない人を救済するためとして、殺人を含む暴力的な手法も肯定する「ヴァジラヤーナ」と称する教義で、非合法活動を正当化していた。A子さんも「これならサリンを作っているのも説明がつくんだな」と思い、深くは考えなかった。
■生活を取り戻すことで、さらに罪を実感する
そんな当時の自分を、彼女はこう振り返った。
「教団にいた時は、とにかく自分が責任を持つ、という意識が欠如していて、それを放棄していた。自分が迷いながら判断して行動していたなら、その結果は自分で責任がとれる。あの頃は、責任はどっかでとってくれるもの、自分は指示されたことだけやっていればいい、という感じだった。その結果、自分で負いきれない結果が生じてしまった。あらゆることを自分で判断して、その結果うまくいかない面も自分で引き受けていくことが大事だと思った」
A子さんは、平田被告への助言を求められ、こう述べた。
「これから、裁判の結果、命じられた刑をつとめなければいけない。それは当然の務めだと思います。でも、それだけだと、つぐないをした気持ちになれないんじゃないでしょうか。
私も、教団では指示されたことに従って、すべて受け身でした。(刑務所での)懲役も、ただ指示に従う日々でした。その後(刑期を終えてから)、自分自身で葛藤しながら決断して、その結果を引き受けながら日々を過ごすことになりました。そうやって人生を生きてみると、自分の命があり、人とのつながりがあり、生活とか、大事なものができあがってくる。自分にとって大切なものは、ほかの人にとっても大切なもの。その大切なものを、私たちは損なってしまった……。
このことは、刑を務めていた時より、今の方が実感として感じています。死をもって償わなければいけない人たちもいるけれど、もう一度命をもらった者としては、その重みを感じて、精一杯のことをすることが償いと思う。平田さんにも、どこかで誰かに貢献するような生き方をしてもらいたいと思います」
オウムの一番本質的な問題を、彼女は自分の言葉で語った。
受けるべき刑罰を受け終えた後も、A子さんはオウムの問題を見つめ、当時の自分について考えて続けてきたことが伝わってきた。そんな彼女を、入信前から彼女を知っていた知人が支えた。知人は、彼女が教団に入るのを引き留められなかったことを悔い、自分を責めていた、という。A子さんの誠実な性格に加え、戻る場所と、受け入れる人がいたからこそ、今の彼女がいるのだろう。
「出家」した時に22歳だったA子さんは、今、47歳。彼女のこれからの人生が、穏やかなものであるようにと祈らずにはいられない。
■検察官の好オウンゴール
ところで、弁護側尋問の後、若い検察官がA子さんにこんな補足の質問をした。
「教団内では、指示をされたことは、その意味を理解して行動していましたね」
実際には、オウムでは、(違法な行為は特に)何のための作業かを説明しないまま、部下に仕事をさせることがよくあった。ただ、平田被告が仮谷さん拉致の指示を理解したうえで犯行に関わったとしている検察側としては、この点は触れずに通りたいところのはず。案の定、A子さんはこう答えた。
「訳が分からないままやることもありました。私が体験した場面では、突然中川さんから呼び出されて『点滴をしてくれ』と言われたり、(理由も言わずに)『変装して住民票をとってきてくれ』と指示されたこともありました」
検察側としては、弁護側に材料を提供することになり、軽く墓穴を掘った格好。検察官は、過去に作成された山のような調書類を読み込んで、準備をしていたはずだ。その中には、A子さんが言うような事例がほとんど出てこなかったのだろう。
私の想像だが、当時の取り調べ検事たちは、裁判での有罪立証を考え、被疑者である信者たちが、指示の目的や意図をしっかり理解し、そのうえで違法な行為をした、という調書ばかりを量産したのではないか。少なくとも起訴した事件では、違法な行為と分かったうえで関わったという調書になっているはずだし、それ以外の事柄についても、訳が分からないまま加担させられた行為についての供述が、わざわざ調書に盛り込まれることは、あまりなかっただろう。
そういえば、かつての裁判で、警察段階では供述通りの調書を作成してくれたのに、検察では一定の筋書きの中に供述を押し込められ、訂正もしてくれなかったと不満を述べている被告人もいた。ひたすら公判での有罪立証のための調書作りをしてきた先輩検事たちの捜査が、事件当時を知らない若い検事のちょっとしたオウンゴールを招いたような気がする。
ただ、それは検察にとってはミスかもしれないが、オウムの実態を明らかにする、という立場からはよい質問だった。今後も、疑問に感じたことはどんどん質問して、当時の教団の状況が少しでも裁判員に伝わるように努めてほしいと思う。
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