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「「悪意」の源流 小保方博士と理研の迷宮(上)」
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「スター誕生の裏側 小保方博士と理研の迷宮(中)」
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統治なき肥大化 小保方博士と理研の迷宮(下) [日経新聞]
2014/5/14 7:00
4月下旬、理化学研究所から取材を辞退するというメールが届いた。来年4月に特定国立研究開発法人に指定される予定だったが、STAP細胞論文問題の混乱によって今国会での法案提出が危ぶまれていた。そこで、新法人のメリットを担当者に聞きたいと依頼していたのだ。
理研は拒否する理由をこう切り出した。
「(新法人は)理研が自ら手を挙げてなるものではなく国から選ばれるものである」
■理研とは何か
そこで、質問のテーマを「独立行政法人としての10年の総括」に変え、理事長の野依良治に依頼した。だが、広報担当者はメールで、「スケジュールが詰まっている」として、野依のメッセージを添付してきた。
「光栄です。またの機会によろしくおねがいします」
STAP細胞論文を巡る騒動が続き、理研と小保方晴子側が何度となく会見を開く中、組織のトップが1カ月以上、その席に現れていない。
組織の行く末を左右する重大な局面で、理研がどこに向かおうとしているのか。研究拠点分散や任期制も、取材依頼の質問項目に入れたが、回答は得られなかった。
「理研とは何か」。この根源的な問題を巡って、理研は迷走を続けてきた歴史がある。
■マンガで組織を語る
四半世紀近く前、理事会は意見が対立していた。
1993年、国内外の有識者を招いて運営と研究の評価を受ける「理研アドバイザリー・カウンシル」を設置している。その説明資料を作ろうとした時のこと。理事たちは、組織のミッションや役員の責任などが存在しないことに気づく。そこで、文書を作ろうとすると、理事長の小田稔が強く反対した。
「文字として表現できないところに理研の良さがある」
そう言って、「小田マンガ」と呼ばれる、組織をアメーバ状に描いた絵をもとに、口頭で解説すると主張した。
結果、簡略化した英語版だけ作成して終わった。日本語で書こうとすると、組織や意思決定が複雑で、しかも具体的な表現にした瞬間に意見が対立したという。
その複雑な組織は、さらに膨張する。2000年をまたぐ3年間に、生命科学だけで6つの研究センターを作ってしまった。組織内をまとめあげる統治(ガバナンス)が効かず、その隙を突かれた形で、国や行政の思惑に翻弄された結果だった。
それから10年を超える時が流れ、研究分野の重複解消に乗り出している。
昨年4月、第3期中期計画が始まるタイミングで、研究センターを再編。その結果、埼玉県和光市の本所(本社)にある基幹研究所と横浜市にある植物科学研究センターの重複する研究室が統合され、「環境資源科学研究センター」になるなど、8の統合・再編が実施された。
「その瞬間、イス取りゲームが始まった」(理研チームリーダー)
センター長など主要ポストを争う。それでも、組織が一体として機能すればいいが、再編されたはずの研究室が、そのまま各地に分かれて残ってしまっている。「テレビ会議が多くなった。でも、近くにいるわけではないから、研究上の連携はとりにくい」(同リーダー)
■人も組織も「任期制」
思い切って組織にメスを入れられない1つの理由に、統治しにくい研究現場の実情もある。
研究員の9割近くが任期制で採用されているが、実は組織にも「期限」がある。すべての研究センターには、事業終了の期日が決められている。また、独立行政法人として、5年ごとに中期計画を見直す。
「自分は5年で辞めるし、研究センターも期限が来る。さらに中期計画で再編される可能性もある。毎年のようにクビになるかもしれない節目がやってくる。それで帰属意識なんて持ちようがないでしょう」
チームリーダーは、自分の部下たちに「機会があれば、転職するように」と勧めている。タイミングを逃すと、研究職として転職が可能な35歳の壁を越えてしまう。
組織をまとめるどころか、常に「期限」に追われ、強い遠心力が働いている。その亀裂にはまって、STAP細胞論文は生まれてしまう。
■3人で見切り発車
小保方は理研に入った当初、若山照彦研究所に所属していた。そして、若山の指導の下で2年かけて、STAP論文を作成するはずだった。だが、最終段階が近づいた時、若山が山梨大学教授に転出することが決まる。急きょ、後任として、発生・再生科学総合研究センターの副センター長、笹井芳樹が指名される。そして、提出までの2カ月、小保方を指導することになる。
笹井は会見で、論理構成を作り上げるために、文章を大きく手直しをしたと話している。だが、2年前に英ネイチャー誌に提出して、却下された論文を読んでいなかったという。
「若山先生が引っ越しで忙しくて、引き継ぎができなかった」(笹井)。そして、ノートなど実験の元データをほとんど確認することなく、共同執筆者として名を連ねることになる。
「今回の事件は、小保方、笹井、若山の3人が、全員、少しずつ当事者意識が欠けていた。だから、みんなで見切り発車をしてしまったのではないか」(理研元研究者)
■「理解なき優遇」が科学をゆがめる
理研が落ちた罠を、半世紀前に見抜いていた賢人がいた。
朝永振一郎。京都帝国大学理学部を卒業後、1931年に理研の研究員になっている。そして65年、ノーベル物理学賞を受賞する。その年の講演会で、こう警鐘を鳴らしていた。
「研究をして新しい技術が出てくると、非常にお金がもうかる、だから大いに科学を奨励しなくちゃいけない、そういう見方が出てきたわけです。ほんとうに科学の価値のおきどころを理解しての上の優遇でありませんと、科学自体、歪んだ形になってしまう。その優遇にむくいる科学者の行動もまた正しくない方向に向っていくおそれがあるのです」
科学技術に、性急な経済効果を求める国や社会の姿勢を批判する一方で、科学者にも反省を促している。
「科学者というのは何を考えているのかさっぱりわからないというふうにおっしゃるのも、無理ないことだと思うのです。少なくとも専門以外の人と話をする能力、そういうものをもたなくてはならない」(『科学者の自由な楽園』から抜粋)
そして、違う分野の専門家や、社会との対話が重要な時代に入ってきたと説いた。
それは、朝永が在籍した、戦前の理研をほうふつさせる。
■組織で研究する意味を問い直す
1917年に財団法人として設立された理研には、戦前、日本人初のノーベル賞を受賞する湯川秀樹や、ビタミンの発見で知られる鈴木梅太郎など一流の研究者が名を連ねていた。寺田寅彦は随筆家、俳人としても高名で、夏目漱石が最も信頼を置いた友人といわれる。昼間はカフェに入り浸り、夕方から研究所に来て、「金平糖の角の研究」などあらゆるテーマで独自の研究成果をあげ、文学史にもその名を刻んだ。
戦前、理研は産業化にも成功し、ピーク時には63社に上る企業グループを形成している。研究と実業を成功に導いたのは、東京帝国大学工学部出身の3代目所長、大河内正敏だった。
「組織で研究をすることの意味を熟知していた」
『大河内正敏──科学・技術に生涯をかけた男』の著者、専修大学教授の斎藤憲は、そう大河内評を語る。
21年、経営難に陥っていた理研の理事長に就任すると、翌年に大改革を断行する。対立を深めていた物理部と化学部を解体して、主任研究員制度を導入。14の主任研究員が研究室を持ち、所長の直下に同列に並べられた。敵対していた両部の部長も、一主任研究員となった。
そして「学術の研究と実際とを結合させる」とうたい、自ら率先して実業界などと広く交流を深め、理研のベクトルを定めていった。
「大河内は、一見、自由に研究をやらせているようで、実は巧みに研究を成功へと導いていた」(斎藤)。休日に研究者が集まって研究の状況や成果を、大河内も交えて話し合う。他の専門家や社会との接点を増やしていくことで、新しいヒントが生まれ、自然と組織全体の進むべき方向性が見えてくる。
組織として研究所が存在する意義は、相互作用に他ならない。規模が大きいほど、その知が織りなす「総力」を高める仕組みが求められる。
だが、理研はバブル崩壊後、資金量を膨張させながらも、人材と組織は分散と短期化を繰り返してきた。小保方とSTAP論文問題は、組織の片隅で起きた特異な事件ではない。理研とその先に広がる日本の科学技術研究の世界は、大転換を迫られている。
=敬称略
(編集委員 金田信一郎)
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO71119810T10C14A5000000/?dg=1
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