09. 2014年4月22日 21:05:17
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小保方晴子のメディア性を分析する〜メディアは小保方氏をどう扱っているかやたらと注目される小保方氏 小保方晴子という存在はメディアにとってはきわめて関心の高い存在らしい。そしてBLOGOS上でも多くのブロガーが今回の論文問題について、というか小保方氏にまつわる出来事について記事を載せている。で、面白いのは、小保方氏がメディア上に実際に登場したのはトータルで三時間程度しかないということだ。つまりSTAP細胞についての記者会見+謝罪記者会見(しかも、そのほとんどはこの一部しか見ていない。たとえば後者の場合、全部見るためにはニコ動をチェックしなければならなかったからだ)。にもかかわらず、とにかく延々と氏のことについて様々な話題が振りまかれる。 で、笹井氏の登場で、そろそろこの話も落ち着きを見せようとしている。そこで、今回は小保方氏のメディア性について、言い換えればメディアはどういった小保方像を描いたかについて、メディア論的に整理して考えてみたい。小保方氏を巡るメディア、そしてブログの議論は、基本的に本人が実際にどうであったかを横に置きつつ、ひたすらその思惑=メディア性で展開されている。どうも、彼女はそういった意味では人々のイマジネーションをかき立てる限りなく魅力的な存在らしい。 小保方氏のメディア的三分類 小保方氏はメディア的には三つの側面から語られる。わかりやすいように、それぞれネーミングを施してみよう。 1.小保方博士:STAP細胞を作成する方法を世界で初めて示した人物(研究者ベース)
2.小保方研究員:論文のたしなみのない不用意な研究員(研究者ベース) 3.オボちゃん:割烹着を着て研究するムーミン好きのリケジョ(人格ベース) で、メディアでの扱われ方、そして記者会見での記者の質問はこの三つがゴッチャになっている。ちなみに、この中で現在、証拠的に見て明らかなのは2だ。本人も謝罪しているわけなので。1と3については状況証拠というか、はっきり言って憶測の域を出ていない。
もっぱらオボちゃんを語り続けた週刊誌とバラエティ たとえば「文春」や「新潮」などの雑誌での扱いは3を重視、つまり「不思議ちゃん」「虚言癖」「乱倫な女」といったうわさを立ち位置に「だからのし上がることが出来た」的な文脈へ移行し、「だから2の手続きはイイカゲン」、「だから研究はウソ=1である」というふうに話は展開していく。つまり3→2→1といった流れ。ちなみにこれはバラエティでの西川史子やテリー伊藤の論調も同じだ。ちなみに論文不正問題が出てくる前は、3での基本的なイメージはポジティブに「リケジョ」「庶民は」だった(この時は1から2を飛ばして3へという展開だった。ちなみにこれも研究からすればどうでもいいことなのだけれど) 報道は2=小保方研究員は×、ゆえに1=スタッフ細胞の作成はウソという展開 さすがにこういった「カストリ雑誌」(古い!)「芸能誌」「東スポ」的な扱いは報道番組であまり話されていなかったが、小保方氏に対し批判的なコメンテーターの論調も結局は同じ流れだった。異なっているのは3がなく2→1という展開。つまり「手続きが雑と言うことは、研究はウソ」という論調で、その状況証拠として研究ノートが二冊であるとか、200回以上成功しているなんてのはあり得ないといった項目が挙げられていた。ちなみに、こういう指摘をすべくコメントさせられていた科学者のみなさんが、きわめて非科学的に2→1図式で話をしていたのが、あるいはそういう風にメディア的に演出されてしまっていたのは、科学者としては自己矛盾していて「なんだかなぁ〜」ではあった。 三つの小保方がゴチャゴチャに展開された記者会見 そして、この文脈が混在して行われていたのが謝罪会見だった。この記者会見の小保方氏側の目的は謝罪会見だから2に対するものであるはずなのだが、ここではその多くが3を前提としつつ3および2についての質問が展開されたのだ(その最たるものは「笹井氏との愛人関係にあった」的な質問だった)。ちなみに1についての質問は、まあ場違いと言うこともあるし、記者の側に知識や技術がないということもあってほとんどなかった。 で、オーディエンスとしては実は、下世話な話である3にいちばん関心がある。そこをハッキリさせたいといった野次馬的な感覚に基づき、2を利用しつつ3をこじ開けようといった展開になった。これが記者会見の本当のところではなかったのか?ただし小保方氏自身はこれをうまくすり抜けた。 メディアイベントによって、次第に大衆は記者会見に納得がいかない状況に だが、その結果、メディアは「記者会見には納得がいかない」というイメージを一般に伝達していったのだ。そして、その「納得がいかない」は3についてなのだが「2と1」をハッキリさせないというツッコミへと転じていった。つまり「議論のすり替え」。ちなみに、記者会見で2は謝罪しているんだからハッキリしているし、1についてはこの記者会見で明らかにする予定はないのでハッキリするさせる必要もない。だが、こういった文脈ゆえ「謝罪していないで、パフォーマンスをしているだけ」「STAP細胞についての本当のところを一切言わなかった」というバッシングに転じたのである。 この時、興味深かったのがYahoo!が実施していたアンケートによる意識調査の結果で「会見に納得したか?」という質問項目について、当初、納得したと納得しないが35対45程度だったのが、メディアの報道が繰り返される中で「納得した」が減少し、「納得しない」が上昇していくという現象が発生したのだ。おそらく、これはメディアイベント的にマスメディアがこの会見を報道したために、こうなっていったのではないか?と僕は読んでいる。つまり「納得できない」と報道したから一般人は、だんだん納得できなくなっていった。でも、よくよく考えてみれば、この「納得がいかない」というイメージはメディアがマッチポンプ的に作り上げたものといえないだろうか。記者会見の中で質問項目を絞り明確な回答を得るといった技量を、質問する記者側が持ちあわせていなかったのだから。 われわれが建設的に追求べきなのは1と2、つまりSTAP細胞の存在と、科学倫理 この問題の本質は1と2の二つに集約されるだろう。最も重要なのが1=STAP細胞の存在で、次に2=科学者としての倫理・ルールにまつわる問題だ。で、1についてはまだ決着が付いていない。2については小保方氏自身は謝罪している。だから、本来なら今後メディアが議論すべきなのは1についてということになるのだ(これに2における不正を見抜けなかった、さらにはそれを許容したり荷担したりしていた理研の体質についての議論が加わる)。 そして、間違えていけないのは、やはりこの二つの混同だ。すなわち2が明らかに×であったとしても、それは必ずしも1も×と言うことにはならないのだ。1949年、考古学者・相沢忠洋は群馬県岩宿で槍先形石器を発見し、それまで否定されていた旧石器時代が日本にあったことを証明したのだけれど、発見時、相沢は学者ではなく、独学で考古学を学ぶ行商だったのだ。つまりアカデミズムのきちんとした手続きを得ていたかどうかはあやしかったのだ。しかし大発見をした。ということは小保方氏の場合も、科学的手続きがあやしかったしても、STAP細胞の作成には成功していたかもしれない。もちろん、していないかもしれないが、二つ(1と2)を直結するのは、実に「非科学的な手続き」。これはあくまで「科学的手続き」によって証明されるべき事柄だ。 しかし、ここに小保方氏の3、つまりオボちゃんとしてのメディア性が加わった瞬間、状況は一変してくる。小保方氏が「フツーの男性の科学者」であったらということをイメージしてみて欲しい。この場合、記者会見ではやはり2に(そして最終的には1に)問題の焦点がいくはずだ。ところがオボちゃん、けっこう「可愛かった」。しかも若いし、対応が科学者らしくない。で、メディアはタレント的な魅力をそこに見てしまった。だから割烹着やムーミンをことさらに取り上げたのだ(こんなことを書くと「あの人間のどこが可愛いの?」とツッコミを入れたくなる御仁もおられるかも知れないが、ここで「可愛い」と指摘するのは、僕の個人的好みに基づくのではなく、あの取り上げられ方がどうみても「可愛い」という前提に基づくものによるという判断に従ってそう表現している。これはスポーツ選手が美人だったり可愛かったりしたら実力以上に取り上げられるのと同じ。モーグルで里谷多英より上村愛子が、女子体操で鶴見虹子より田中理恵がもっぱら取り上げられたことを思い出して欲しい。マスメディアってのは、結構差別的で残酷なのだ)。 スキャンダルとして楽しむのは勝手だが、個人的には1や2の方に関心がある。だから、1と2の部分の問題の明白化が3によってかき消されてしまうのは、ちょっとねえ?という感じでもある。ジャーナリズムが今回の騒動の明確性を求めるのなら、これらをゴッチャにしないで別々に切り分けてさらに切り込んでいかない限りダメだろう。強いて言えば、重ね合わせるのはその後だ。ただし、やっぱり大衆的関心は、結局、この三つをゴッチャにしつつ「他人事」「ネタ」として楽しんでしまうところにあるんだろうけれど。 小保方さん、タレント性十分ですけど、いちおう科学者ですから、まずはそっちで扱ってもらいたい。はっきり言ってオボちゃんなんか、どーでもいいでしょ?……まあ、ダメかな? http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/65026932.html |