02. 2013年9月12日 10:24:52
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いよいよ水月湖を掘削へ、研究者たちの貧しく暑い夏「年縞」を読み解いた在英日本人研究者(その3) 2013年9月12日(木) 山根 一眞 世界の歴史の「ものさし」の標準とする決定が下された、水月湖の「年縞」に世界の熱い目がそそがれている。 失敗できない2回目の掘削 2006年(平成18年)6月30日の朝、水月湖畔に荷物を満載した大型のトラックや25トン吊りのクレーン車が到着した。ボディには佐世保通運の文字。水月湖の「年縞」の湖底掘削のために必要な資材が、はるばる長崎県から運ばれてきたのである。 2006年6月30日、水月湖の「年縞」ボーリング作業の資材、機材が水月湖畔に到着。作業のための準備が開始した。(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project) 水月湖の「年縞」の掘削は、1991年(平成3年)に始まっている。安田喜憲さん(現・国際日本文化研究センター名誉教授)がこの年に試掘を行い、1993年(平成5年)に本格的な掘削を行ったが、これまでの掘削では完全な「年縞」は得られていなかった。1993年の掘削に京都大学の学生として参加した中川毅さん(現・英国ニューカッスル大学教授)は、じつに13年目のリベンジとして、第2次調査のプロジェクトのリーダーとして「年縞」の掘削に挑むのである。
水月湖は水面から湖底までは34メートル。その湖底の下には堆積した73メートルの泥の堆積層がある。このうち、上部45メートルに7万年分の「年縞」があることがわかっている(下部の28メートルは「年縞」がない15万年分の泥だ)。 この約7万年かけて積もった45メートルの堆積泥が1センチの欠けもなく連続して得られれば、世界初の7万年分の歴史のモノサシになる。予算が乏しいなか、やっとこぎつけた第2回の掘削だったため、これは何としても成功させねばならなかった。 水月湖は福井県若狭町にある三方五湖のうち最大で最深の汽水湖だ。水月湖畔に立つ案内看板の写真と地図(写真:山根一眞) 安田さんによる第1回の掘削後、中川さんはフランスのエクス=マルセイユ第三大学に留学し学位を取得。1998年(平成10年)に帰国後、日本文化研究センター(日文研)のポスドク(任期制の博士研究員)となり、のち3年時限の助手となった。日文研では、安田研究室の助手だった北川浩之さん(現・名古屋大学教授)と水月湖の「年縞」の分析に取り組む。
「北川さんはすごい人で、1994年(平成6年)から4年をかけて水月湖の縞数えと葉の化石に含まれる炭素の放射性同位体(炭素14)の測定を1人ですべてこなし、1998年(平成10年)に科学誌『サイエンス』に発表しています。北川さんは年代測定が専門で僕は花粉分析が専門です。彼が年代を決めてくれたおかげで、僕の花粉の仕事も面白くなったんです」 スターになれると思ったら職を失ってしまう 日文研の助手の最終年度、中川さんは2002年(平成14年)から10カ月間、文部科学省の在外研究生としてロンドン大学ロイヤルホロウェイ校に行く。水月湖の花粉の研究はロンドンでも続け、その成果を2003年(平成15年)1月に『サイエンス』に投稿し掲載された。その直後にニューカッスル大学で開催された学会でも発表している。 2003年1月末に帰国したが、期待していた日文研の「助手」の契約延長ができないことがわかる。 「あと2カ月でクビ!と言われて、ショックですよね。公務員宿舎もあと2カ月で出なくてはならなくなったんです。『年縞』の花粉研究で大きな注目を集め、成果を上げて意気揚々と帰ってきた。内心、これでスターになれると思ったらハローワークですよ」 すでに34歳、結婚もしていたが、退職金100万円弱も引っ越し費用などで消えた。 世界が注目する成果を上げたにもかかわらず職を失うという理不尽さは、多くの日本のポスドクたちが味わってきた。それは、日本そのものにとっても大きな損失なのだが……。 「年縞」の一部を樹脂で固めたサンプルを手に2006年の水月湖の調査を語る中川毅さん。(写真:山根一眞) その中川さんを救ってくれたのが、大分県別府市にある京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設の教授、竹村恵二さんだった。ところがポスドクとして赴任し論文の執筆を始めた半月後、会ったことのないイギリス人からメールが届いた。ニューカッスル大学のダレル・マディー博士からだった。
最年少記録でニューカッスル大学の教授に 「『うちの大学で今度レクチャラー(講師)の公募があるので応募してはどうか』という内容でした。そこで応募書類を送ったところ、5月になって『最終選考に残ったからイギリスに来い』と」 しかし渡英費用などなかった。「ごめんなさい!お金がないのであきらめます」と返信すると、「費用は大学が全額出す」という。のちに、イギリスではそれがスタンダードなのだと知る。人事は研究機関にとって重要なことなので優れた人材を採用するためには費用を惜しまないのだという。 2003年6月24日、ニューカッスル大学で、レクチャラーに公募した3人がプレゼンテーションを行ったが、当日に中川さんのみが採用と決まった。 「マディー博士は空港まで送ってくれたんですが、彼と別れて空港のバーで飛行機待ちの間、ビールを飲みながら涙が出ました」 もっとも給料は手取りで1200ポンド、当時のレートで約22万円と「食べていけないほど低い額」だ。じつは採用が決まったあと、イギリスの研究者は大学側と給料の交渉に入るのだが、そんなカルチャーを知らなかったばかりに即座に採用を受けてしまったため、イギリスの研究者としては最低金額の給料になってしまったのだった。 焦ったのは中川さんを呼んだマディー博士で、「昇進の書類を出せ出せとプッシュしてくれた」という。イギリスでは、昇進は自ら申請して得るものなのだからだ(それによって給料も少しだけ上がる)。 マディー博士は河川地形の専門家で、中川さんに水月湖の研究をさらにしてほしかったのだという。その恩人のおかげもあり、中川さんは2009年(平成21年)に40歳で教授のポストを得たが、これは今も破られていないニューカッスル大学地理学教室の最年少記録だ。 ニューカッスル大学に着任1年後、中川さんは「水月湖」の新たな掘削を行い完全な「年縞」を得たいと考え、新任後3年間だけ応募資格のある新人のためのグラント(科学研究費補助金)に応募した。だが、通らなかった。その理由は信じがたいものだった。 「水月湖」の研究はきわめて高いポテンシャルがある。これほどおいしい課題を日本が放っておくとは信じられない。よって、日本人とはいえイギリスに拠点をもつ研究者が水月湖の研究をすれば、日本との関係が悪くなることがあり得る。 これは、水月湖の大きな価値を世界が認識していたことを物語っている。 「世界の奇跡」とも言われるようになった水月湖を西岸からのぞむ。数万年変わることがなかった静かな湖面は神秘的でさえある。(パノラマ合成写真:山根一眞) 2005年(平成17年)、中川さんは再度、このグラントに応募する。もっとも、それには前年の評価を覆すため、日本側が大いに賛同しているという書類を添付する必要があった。
ようやく1000万円の予算を確保 「それで、安田先生に、『日本社会はこの件に関してハッピーである』という推薦状を書いて下さいとお願いしました。安田先生の返答はOKでしたが、『君が代筆しなさい』と。そこで私が安田先生になりきって『この研究計画を日本は全面的に応援をする』という作文をし、漢字でサインをして提出したんです」 応募は通り、5万ポンド(当時のレートで約1000万円)が確保できたのである。 「当時1ポンドが210円だったんです。2008年(平成20年)にはリーマンショックで150円以下に落ちたので、もう2年遅かったらアウトでした」 とはいえ、水月湖の「年縞」のボーリングはとても1000万円の予算ではできない。そこで別府の恩師、京都大学・地球熱学研究施設の竹村恵二さんに「これだけの予算で掘削をしたいが……」と電話で相談したところ、大阪市立大学の准教授、原口強さんを紹介された。原口さんは地質工学が専門で、活断層の研究でも知られる。建設コンサルタントや地質調査を手がける民間企業に24年半携わった経歴の持ち主で、懇意にしているボーリングによる地質調査会社に頼んでもらえるだろう、と。 残った予算は数十万円 その地質調査会社が西部試錐工業なのである。「今回だけ」という条件で900万円台で引き受けてくれたのである。赤字覚悟だったという。西部試錐工業の本社は長崎県の大村湾に面する時津町にあり、1988年(昭和63年)に設立された陸上、海上の地質調査会社できわめて高度の技術をもつ。掘削作業は、社長の北村篤実さん自らが陣頭指揮をとってくれることになった。 水月湖の「年縞」ボーリング作業を引き受けてくれた西部試錐工業の北村篤実さん。この会社の高度な技量なしには完璧な「年縞」を得ることはできなかった。(写真提供・中川毅・Suigetsu Varves 2006 project) 2006年6月30日。
水月湖畔には、中川さんを筆頭に国内外から多くの研究者が集まり、国際プロジェクトとして「年縞」のボーリングと標本整理の作業が開始された。 だが、残った手持ち資金は30万〜40万円のみ。この資金で信じがたいほど貧しい真夏の作業を続けることになる。 (つづく) このコラムについて 山根一眞のポスト3・11 日本の力 経験したことのない巨大災害に見舞われて、人類の歴史とは幾多のカタストロフィーを経験し、それを克服してきた歴史なのだということを筆者は実感している。「頑張ろう!」と励ましあうことは大事だが、どう頑張ればいいのかの道しるべが求められている。今、何が必要とされ、どんな行動をとるのが望ましいのか。それぞれの現場に取材して伝えながら提案していく。また、この大災害を、「豊かな文明」のありようを大きく変える時ととらえ、日本が世界でもっとも力強い国となれることを信じて、そのシナリオを探る。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20130909/253151/?ST=print |