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神戸のいじめ教師事件について、いろいろ考えさせられた。これは非常に深刻な問題であり、このまま無視することはできないと判断した。このいじめ事件については今でも何も解決していない。いじめは特定の人物を多数で攻撃する卑劣なものであり、それが単なる悪ふざけとか冗談だと加害者が主張しても、被害者に大きなダメージを与えることは間違いない。それにいじめの多くは放置され、そのままうやむやにされることが多く、その結果、次々に別の犠牲者が出て、いじめ加害者は同じいじめを繰り返すことが多い。とにかく日本ではどんなことでも、いじめということにされると、それが免罪符のようになり、調査も何もされず、放置されることが多い。神戸のいじめ教師事件は、児童生徒同士のいじめではなく、教師同士のいじめということで加害者も未成年ではない。それどころか主犯格の40歳代女性は未成年どころではない。主犯格の家庭は家族も親戚も教育関係者ばかりで、いじめに関してもまったくの素人ではなく、むしろいじめをなくすための教育指導をしており、生徒児童の相談にも対応していた。ところがその一方で、本人自身が熱心にしつこく執拗に陰湿に繰り返しいじめを続けていたということで恐るべきことである。さらに生徒のいじめのようにいじめグループまで結成しており、いじめの手下というかいじめの部下まで存在した。いじめの被害者は自殺まで考えており、かなり深刻なダメージを受けている。しかも犠牲者は一人ではなく、複数存在したということだ。少なくとも4人以上の犠牲者がいて、男性教師2人、女性教師が2人となっている。いじめ加害者は、これらの被害教師に対して、お互いに性行為をするように強制、脅迫行為をしており、これまた信じられないひどさだ。しかもこれらのいじめ加害者は、教員免許の返却はやっておらず、別の学校で、またしても教師として教壇に立つ意思は捨てていないようだ。いじめ行為に対しても反省しているようには見えない。もしも他の学校に行き教師として教壇に立っても、またいじめを繰り返すだろう。今後はどうなるのか不明である。そこで、こういういじめが起きたらどのように対応するべきかをここで考えてみたい。今回の犠牲者はいずれも若い20歳代の新任教師だった。未成年ではないものの非常に若い。それで狙われたのだろう。若い新任教師が入ってきたということで、古株の教師は危機感を感じたのかもしれない。絶対服従の主従関係を確立するために、奴隷状態に置き、洗脳して、完全支配をすることを計画したのかもしれない。学校という閉鎖的な環境において、自分達の立場を優位に保とうとしたのだろう。新人の教師になめられてたまるものかということで、攻撃的になったのかもしれない。だがこれは悪ふざけとか冗談で済むようなことではない。いじめ常習犯の特質として、あっという間にいじめ空間を構築し、それを確立するという能力がある。これは驚くべき技術とでもいうべきもので、こういう卑劣な連中は、本当にあっという間にいじめの環境を生み出してしまうことができるのだ。いじめ常習犯は独特のいじめに熟練した卑劣な性質が共通してある。それはありとあらゆるものを見下し、嘲笑し、侮辱し、常に陰口悪口を言い、いつも他人を侮辱し、人の噂話しかしないというものだ。こういう連中は、常に嘲笑の空間に浸りきっている。というよりもそういう嘲笑の世界でないと生きられなくなっている。常に誰かを攻撃していないといられないのである。他人を尊敬するとか他者を尊重するとか、そういうことは一切できない。常に他人を馬鹿にして侮辱し、嘲笑し続けることが唯一の生きる手段となっている。それは強烈なコンプレックスが原因となっているっている。人生の敗北者はいじめの被害者ではなく、いじめの加害者の方なのだ。いじめの加害者は自分達に未来がないことを知っている。そして組織にとって、自分達の価値はないことも知っている。それにいじめ以外のことには一切興味はない。いじめをすることしかできないのだ。いじめ加害者の人生観というのは、この世のすべてはいじめであり、すべてはいじめの加害者になるか被害者でしかないので、加害者の側を選択している。しかしもちろんこの世はいじめがすべてではない。しかしこういう連中はいじめ以外の生き方を知らない。いじめは一人を多数で攻撃するものなので、ターゲットに選ばれると勝ち目はない。それで助けを求めることは当然である。それからいじめの被害者が、何もかもすべて一人で解決しなければならないということではない。ただ、いじめの被害者にやってほしいことは、いじめを誰かに相談することだ。それだけはやってほしい。相談したからといっていじめが解決するわけではないが、誰かに話をしないといじめそのものが起きていることがわからない。相談するときにも相手を選ぶべきだ。いじめが発生した組織は腐っていることが多く、その組織の管理者とかも無能だったり、それどころかいじめに関係していることすらある。だから相談するときには組織関係者以外の人に相談してほしい。今回のようないじめについては警察に相談するべきだ。たとえそれで警察が何もしなかったとしても、それは警察の問題であり、相談者の過失ではない。いじめを放置していても、何も解決しない。それどころかどんどんエスカレートしてひどくなる一方だ。今回の神戸のいじめ事件でも主犯格は完全にいじめをグループ組織を結成しており、しかも盤石の態勢で、教育委員会ですらも一切口出しができないようにしていた。また前校長や現在の校長までも完全に支配しており、このいじめグループは無敵の存在だった。だが、如何なるいじめグループ組織にしても、やっていることは不正なことだし、犠牲者は次々に出てくるので、いつかはすべてが暴露されてしまうし、何もかも発覚し、やがてそれは問題となる。こういう時にどうしていじめの被害者はすぐに誰かに相談しなかったのかとか、すぐに警察に知らせなかったのかと思うかもしれないが、それはなかなかできないことだ。そいういうことをすると、裏切り者呼ばわりされてしまうからだ。本当は知らせるのが正しい事なのだが、それをやってしまうと、組織の悪事を暴露することになり、自分は何も悪いことをしていないのに、まるで加害者になったような気分になる。たとえ卑劣ないじめ加害者だとしても、自分の先輩であることに変わりがなく、また組織の不正行為を暴くということは、やはり学校関係者だけでなく、児童生徒だけでなく、保護者にも地域住民にも衝撃を与えるものだ。しかし、それはいじめ被害者のせいではない。そういういじめをする教師が悪い。だからすべてを公表しなければならない。できるだけ詳細にいじめを記録し、できれば証拠となるようなものを確保していたほうが良い。こういういじめが暴露されると、必ずいじめ加害者は、何も悪いことはしていないと主張するからである。教育委員会も信用できない。できればきちんとした相談機関に相談するべきだ。信用できる友人や知人でもいい。こういう時にこそ、本当に信頼できる人間は誰なのかがわかる。こういうトラブルに関わりたくないという人は逃げ出すだろうし、何とかして助けたいと思う人は助けてくれるだろう。こういう時には組織内部の人間よりも外部の人間の方が頼りになることが多い。文部科学省も役には立たない。こういう官僚組織とか縦割り行政は何でもかんでも全てもみ消そうとするものである。なぜならばこういうことは組織の無能が暴露されてしまうからである。組織内部の人間は自分にも影響が及ぶので、常にいじめ問題とは無関係であるようにする。これは他のことでも同様だ。どんな組織でも組織悪というのが存在する。いじめはこれを巧妙に利用している。警察はいじめ問題には関わらないことが多い。いじめはこういう環境を巧妙に利用している。いじめがすぐに発覚し、暴露され、的確に迅速に対応されるのであれば、始めからいじめは起きない。ある教師にいじめに対応するにはどうすればいいのだろうかと聞いたことがある。すると、一つ一つのいじめに対して、個別に対応することはとても難しいということだった。それよりも、始めからいじめが起きにくい環境を作ることの方が重要で、いじめが次々に起きるような事態になる前に、できることをやるべきだということだった。それからいじめを無視して放置していると、その組織の腐敗と堕落は急速に進み、収拾がつかなくなるほど荒廃が進むという。本来はその組織のリーダーがいじめに対しては毅然として立ち向かい、組織内部にいじめがはびこらないようにすることが重要だ。そういうことをしないでだらけたことをしていると、いじめグループはますますいじめを繰り返すようになる。やがて完全にいじめが組織をしはいしてしまう。するとその組織に所属する人はすべていじめの支配下になってしまう。組織の健全性は失われ、まさにいじめだけの組織となるのだ。これは学校だけでなく、会社でも同じだし、あらゆるスポーツグループとか学習グループでも共通している。法律よりもいじめのルールが支配する。そうなるととても奇妙なことになる。一般社会のルールは適用されず、いじめ組織が勝手に決めたルールが支配する。これは地方自治会でも同じことで、どんな組織でもいじめ組織になりやすい。いじめの攻撃を受けたときにはそれを誰かに知らせるべきだ。いじめ問題を被害者一人がすべて解決することなどできないし、またやるべきでもない。いじめの被害者がやることはいじめを知らせることだけだ。それから多勢に無勢なので、できれば仲間を増やしてほしい。いじめの被害を受けている人同士でも協力や助け合いをするべきだし、警察にも連絡するべきだし、できれば法律に詳しい人にも相談した方が良い。マスコミにも知らせた方が良い。だが、誰に相談しても、相談しただけで、すべてが解決するとは期待しないほうが良い。警察も何もしないかもしれないし、公的な相談機関にしても、何も権限はない。マスコミも無視することが多い。それでも誰かに相談すれば、少しは気が楽になるし、相談しても、何もしないであればたとえ権限がないとしても、そういう相談機関にも責任がある。別の学校なり、職場の人間に相談するのも一つの方法だ。もしも友人や知人がいなければ、通行人であろうとも相談した方が良い。もしもそういうことができないなら、電話でもいいし、手紙とか電子メールとかブログとかSNSやLINEや掲示板やツィッターなどいろいろある。ひとりでつぶやいたり、新聞に投稿したり、いろいろできるはずだ。そういうことも一切できないなら、せめて日記帳にはすべてを記録してほしい。それをコピー印刷してばらまくという方法もある。できれば信用できる人間を何人か確保してほしい。誰もが多忙だし、特にこういうことには関わりたくないという人が多いので、少なくとも10人ぐらいは確保したい。いじめの被害を誰かに知らせるべきだが、その一方で、いじめ加害者本人がやたらに「いじめだーいじめだー」と糞餓鬼みたいに騒ぐことが多いのも事実だ。自分達こそがいじめの張本人で、日頃からいじめを繰り返しているにもかかわらず、そのようにしていじめの被害を受けたと主張して撹乱する。非常に巧妙で、悪賢いというか本当に卑劣だ。何も知らない人は混乱してしまう。とにかくいじめの常習犯というのは、常にいじめをしていないと生きられないし、いじめをしない人生など考えられないし、いじめ中心の生活をしている。あまりにも日頃からいじめを繰り返しているので、それが悪いことだとも思っていないし、自分を正当化する方法も知っている。何よりも組織の権力者とは親しい関係を維持しており、自分達が罰せられないように巧妙な人間関係を構築している。いじめグループはいじめをしていないときでも常に群れている。そのいじめの組織は強い結束力がある。だが健全な組織ではないので、裏切りもあるし、上下関係も厳しい。暖かい良好な親密的な関係ではなく奴隷関係といえるだろう。主人と奴隷の関係で、いつも命令を出す側とそれに服従する側で構成されている。だからそのいじめグループから抜け出したいと思っていても、それができないようになっている。いじめは犯罪なので、いじめ組織もそういうものなのだ。それからいじめグループ組織はただ単にいじめだけをやっているのではない。これは暴走族グループと同じことだ。暴走族も暴走行為だけをやっているわけではない。だから危険なのだ。決して放置してもよい組織ではない。放置しても自然治癒はしないし、自分達で反省することもないし、良心の呵責とかそんなものもない。とことんまで暴走していくものだ。しかし、それに対応するのはいじめ被害者ではない。社会全体で、国家全体で、警察で、対応するべきことで、いじめの被害者にすべてを負担させることはできない。もしもそういうことを負担させるのであれば、あらゆる権限を与えるべきだ。日本はこういうジレンマ状態の問題が多い。権限を与えないでおいてすべての責任を押し付ける。何でもかんでも個人の問題だとし、それで何かやろうとすると権限を与えないで放置する。だから日本は少子化になるし、衰退する。どうしていじめが起きるのかというと、自分達の所属する組織に何らかの不満を持つ連中が、その意思を表明するために、他人を利用して知らせようとしている者と思われる。直接的に何か意見を言うと、それによって自分達の評価が下がる場合、他人を利用して不満を知らせようとしている。そういうことのために利用された者はとんでもないことだが、平気でそういうことをするのだ。いじめという形であれば、本当は組織に強い不満があり、組織の体制に影響を与えたいとしても、何もできないが意思表示はできる。いじめを繰り返していると、いつかはいじめ問題に対応しなければならない。そういう騒動になって、困らせるのが目的だ。いじめの被害者を攻撃するというよりも組織の権力者を攻撃しているのだと言える。自分達の現在の地位や、役職や給与や報酬に不満があり、何らかの圧力をかけてやろうということらしい。将来に対する不安や夢や希望もないという状態なのかもしれない。それからいじめを何度も繰り返しているとそれが習慣となってしまう。奇妙なことに、組織体制としては、いじめを黙認し、放置する傾向にあるが、いじめの被害者が少しでも反撃しようとすると、即座に迅速な対応をすることが多い。普通、一般的にいじめはありふれたことなので、きちんとした対応なり、反応なり、反射的なものは何も起こることはないと考えられている。だがそれは違う。組織はいじめ全体を隠蔽しようとするので、そういうものもすべて隠す。だからいじめをいくらやっても、何も影響はないということはない。むしろ、せっかく苦労して努力していろいろな活動をしていても、そういういじめ行為のためにすべてを台無しにしてしまうことがある。またいじめの被害者が何もできないとしても、周囲の人間がすべて何もできないということはない。人間というのはこういうときにいろいろな反応をするものだ。それらのすべての人に対して、単なる悪ふざけですとか冗談ですとか遊びですなどという弁解が通用するだろうか?もしもあらゆることを悪ふざけとか冗談とか遊びということで片付けようとするならば、その本人も他人が同じことをした場合には何も言えなくなる。
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