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2015年3月24日
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20150324/440371/?ST=business&P=1
1995年に発生した地下鉄サリン事件からちょうど20年たった3月20日、オウム真理教の元代表、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の三女、松本麗華(りか)さんに会って話をした。彼女は現在、心理カウンセラーの勉強を続けている。
死者13人、負傷者6000人以上の凶悪な地下鉄サリン事件
麗華さんはかつて「アーチャリー」と呼ばれ、教団幹部として最高の階級である「正大師」についていた。自らの人生を記すことによって、今まで語られることのなかった側面を伝えたいという思いから、この3月に『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社)を出版した。
1995年3月20日午前8時ごろ、東京の営団地下鉄(現在の東京メトロ)の千代田線、日比谷線、丸の内線の車内で神経ガスのサリンが散布され、駅員と乗客の13人が死亡、6000人以上が負傷した。オウム真理教によるこの史上稀に見る凶悪な同時多発テロ事件は日本だけでなく世界に強い衝撃を与えた。
地下鉄サリン事件発生後の3月22日、警視庁などが上九一色村(山梨県)の教団施設25カ所を強制捜査し、サリン原材料など大量の薬品を押収した。その後、幹部が次々に逮捕され、麻原彰晃も地下鉄サリン事件の殺人および殺人未遂容疑で逮捕されて、オウム真理教は瓦解する。
11歳で周囲の環境がすべて瓦解するという体験
サリンを用いた無差別殺人事件を起こしたオウム真理教の罪はきわめて重く、その真相は解明されなければならない。遺族や被害者の感情を考えれば、かつての教団関係者の出版に異論があるかもしれない。
しかし、いまだに闇の多いオウム真理教の実態に少しでも近づくためにも、「アーチャリー」と呼ばれた麗華さんがつづった文章を読み、話を聞くことはまったく意味のないことではないだろう。
私が興味深く思ったのは、地下鉄サリン事件が起きたときの麗華さんは11歳、日本が戦争に負けて終戦を迎えたときの私も11歳で、それぞれの体験に似たようなところもあるということだ。
終戦の年、私は小学校5年生で夏休みの8月15日に玉音放送に聞き入った。それを境にして、1学期までは「この戦争は正しい戦争だ。聖戦だ」と言っていた先生が、2学期になると「あの戦争は、間違いだった」と言い始めた。大人の言うことが180度変わったので「大人は信用できない」と思い、国に対しても「国民をだますのだなあ」という思いを強く抱いた。
ある意味では、麗華さんもオウム真理教という存在がすべて瓦解していくのを11歳で体験し、周囲の言うことが信用できない気持ちに追い込まれていったのである。
麻原に進言する幹部たち
「麻原彰晃」という父親はどんな存在だったのか。
麗華さんによると、父親と母親の間で夫婦喧嘩がよくあったという。一方的に母親が父親を怒鳴りつけ、母親が父親の頬をぶつこともあったようだ。そのとき父親の「麻原彰晃」はぶつぶつと弁解するだけだったらしい。母親がよく怒った理由は父親の浮気だった。
そうした話を聞くと普通の家庭とあまり変わらない印象を受け、その父親、母親のイメージと地下鉄サリン事件はあまりに結びつかない。
麗華さんにとってオウム真理教は「町」のようなもので、自分の父親は「町長」のような存在だったという。
現在も東京地裁でオウム真理教元信徒の公判が行われており、被告である教団元幹部たちは松本死刑囚が命令を下し、それに従って実行したという証言が行われている。
しかし、麗華さんによると、かつて幹部たちが父親のもとにやってきては「これをすべきです」「いえ。大丈夫です。問題はまったくありません。すでに準備も整っています」などと進言していたという。
父親である麻原は「そうかなあ。そういうこともあるのかなあ」「いや、それはまずいんじゃないか?」などと言っていたという。
父親の麻原が自ら指示する姿をあまり見たことがなかったから、麗華さんは今でも「父親が地下鉄サリン事件の実行を命令したとは思えない」ようだ。
「日本は『空気』の国」、誰が言い出すともなく突き進む
もしかしたら、「松本死刑囚の命令で一糸乱れずに実行した」というのではなく、物事は周囲がつくり出す雰囲気に押されて進んでいくこともあるのではないかという思いがしてくる。
1941年、日本は米国を中心とする連合国との太平洋戦争に突入した。そのとき、米国と戦争をして日本が勝てると思っていた日本人はほとんどいなかったと言ってもよい。
昭和天皇自身も戦争をしたくなかった。『昭和天皇独白録』(文春文庫)によると、昭和天皇は後に開戦の決定について次のように語っている。
「私が若し開戦の決定に対して『ベトー』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない。それは良いとしても(中略)果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ〔た〕であろうと思ふ」(注:ベトーとは、君主が大権をもって拒否すること)
山本七平さんはかつて「日本は『空気』の国」と言ったが、誰が言い出すともなく、ひどく無茶苦茶な事件が起きてしまうこともあるのかもしれない。
「壊れてしまった」父親
地下鉄サリン事件発生時に11歳だった麗華さんはその後、小学校にも中学校にも行かなかった。高校は通信教育で学んだ。大学はいくつか受験し、入学拒否にあった。裁判により「出自による差別」は憲法違反という判断がくだされ、文教大学に入学し、2008年3月に卒業した。
麗華さんによると、2000年にオウム真理教を改称して発足した宗教団体「アレフ」にしても誰にしても、自分を利用しようとするか、あるいは「麻原の娘」として忌み嫌うかのどちらかだという。
「悪の権化」となった父親には2004年9月、9年4カ月ぶりに拘置所で接見した。久しぶりの再開なのにいくら話しかけても、父親は一言も言葉を発しなかった。
父親には20回以上、面会に行ったそうだ。しかし、ギギッと雑音が入るような「音」を喉で鳴らすだけで、それ以上の反応はない。父親はすでに「壊れてしまった」のだという。
田原総一朗(たはら・そういちろう)
田原総一朗 1934年滋賀県生まれ。早大文学部卒業後、岩波映画製作所、テレビ東京を経て、フリーランスのジャーナリストとして独立。1987年から「朝まで生テレビ!」、1989年からスタートした「サンデープロジェクト」のキャスターを務める。新しいスタイルのテレビ・ジャーナリズムを作りあげたとして、1998年、ギャラクシー35周年記念賞(城戸賞)を受賞。また、オピニオン誌「オフレコ!」を責任編集。2002年4月に母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生たちの指導にあたっている。
著作に『原子力戦争』(ちくま文庫)、『ドキュメント東京電力』(文春文庫)、『塀の上を走れ―田原総一朗自伝』(講談社)、共著『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』(幻冬社)、『元祖テレビディレクター、炎上の歴史(文藝別冊)』、『日本人と天皇 昭和天皇までの二千年を追う』など多数。
近著に『愛国論』(田原総一朗・百田尚樹著、KKベストセラーズ)がある。
Twitterのアカウント: @namatahara
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