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山水蒙
《易経本文》
彖辞 蒙は、亨。
我れ童蒙を求むるにあらず。童蒙より我を求む。
初筮は告げる。再三すればけがる。けがるればすなわち告げず。
貞しきに利ろし。
《彖伝》
彖伝曰く、蒙は、山下に険あり。険にして止まるは蒙。
蒙は亨るとは、亨るをもって行きて時に中するなり。
我より童蒙を求むるあらず。童蒙、我を求むとは、志応ずるなり。
初筮は告ぐとは、剛中をもってなり。再三すればけがる。
けがるればすなわち告げずとは、蒙をけがせばなり。
蒙もって正を養うは、聖の功なり。聖の功は、聖人のつとめ。
《象伝》
象伝曰く、山下に出づる泉は蒙。
君子もって行ないを果たし、コを育う。
1.山水蒙という卦について
《山水蒙》とは、無知無明にして昏暗に迷う最上の卦。
艮上坎下、山のふもとに泉が沸いている。
坎の雲は山を覆い、艮の霧は谷を閉す。ゆえにこれを蒙という。
蒙は、暗昧にして迷い、惑うなどの意であり、また、童蒙とも見る。
これは経験のない若者を表す。誠実だが、無知。
山は不動、また、水は陥穽の象を持つ。
危険な穴の寸前で当惑し留まることを表す。
内に悩みを抱え、外は行き止まり、という状態である。
2.山水蒙が示す状態
《初筮は告げる》とは、最初の託宣に天意が示される(同じ事を二度占ってはならない)という、機の妙を取って占断する卜占の基本的なルールである。調べてみると出典は易経の山水蒙で、ここでまず示されているのは「教えるー学ぶ」という関係性のようだ。
《我れ童蒙を求むるにあらず。童蒙より我を求む。初筮は告げる。再三すればけがる。けがるればすなわち告げず。貞しきに利ろし。》とは、「私が若者に教えようと申し出ているのではなく、若者自らが教えを請うことだ。その志に私は応じよう。しかし彼が私心によって、私が指し示したものに不満を持ち、同じ事を二度も三度もしつこく聞くのならば、もう教えない。まずは自分でよく考える姿勢を持ち精進せよ。」というごく当たり前の話であった。
興味深いのは、蒙を介して艮・坎が相互密接に関係し象徴的な象意が入れ替わるように見える所だ。視界を閉ざす蒙自体が悪いものでは無い。蒙の発生は山と水から、蒙は霧のような気体でもあり、木を覆う蔓草でもある。卦辞ではその蒙を以って経過が暗示される。水は智(仁義礼智信の智)の意味があり、これは蒙が開けることで初めて表面化する能力、だという。山水蒙は、霧が晴れれば、湖面に映る山の姿として現れる。山は積み重ねた智となる。また水面は波立たず澄んでいなければ何者も映さない。水の本来の姿は循環・流れる、とされる。泉は大河となり、山は揺るがぬ心の態度を示す。
という具合に、時間軸を持ち変化していく。
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