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池田大作の生涯
創価学会内部改革派憂創同盟残党
【はじめに】
私は以前、池田大作は広宣流布を頓挫させるためにこの世に生を受けた、と書いた。
「第六天の魔王 智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王 我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」(最蓮房御返事)―――これが該当する可能性は無い。
池田大作は単なる俗物であり、創価学会に入り戸田城聖氏のもとへ就職したことが偶然の幸いとなり、劣等感に根ざした極めて強い権力志向が、お人好しの極めて多かった創価学会に於いてライバルを蹴落とし、創価学会の会長となり、栄華を極めた、と考えるのが適切な説と思う。
池田大作の人生を幼少時より書いてゆく。
【幼少時代】
池田大作は零細な海苔製造業者のである池田子之吉(ねのきち)、妻一(イチ)の五男として昭和三年一月二日、東京都荏原(えばら)郡入新井町大字不入斗(いりやまず、現・品川区)に生まれた。男女併せて十人の兄弟がいた。
昭和六十年前後の状況を山崎正友氏が(懺悔の告発:日新報道:1994)に書かれている。
長男 喜一 ビルマにて戦死
長女 とよ子 国立第一病院看護婦
次男 増雄 大衆食堂経営、家を継ぐ
三男 小宮開造 阿部商会(外車ディ−ラー)役員、死亡
四男 清信 三洋工業、学会幹部
五男 太作 本人
六男 栄一 トビ職
七男 隆一 東和工業
八男 正利
次女 いね子 東芝社員の妻
これを見ると、明らかに学会員であるのは一つ上の兄のみである。
山崎正友氏が池田大作の家系を調べたところに依ると、数代先まで東京湾でノリ採集や漁師をしていた、という。
インターネットでは池田大作が在日朝鮮人という論が強い。しかし、山崎正友氏は在日朝鮮人ということは全く言及されていない。
しかし、小学生時代に病床の父から韓国語を教わっており韓国語が堪能であるとインターネットでは言われている。
池田大作の少年時代は、同級生や教師などの証言に依れば、貧しい、女好きの、子だくさんの海苔屋の五男で、特徴もなく、一生懸命勉強しても中位の成績の、目立たない少年だった。
後年、創価学会の会長になったと聞いて、誰もが驚いたという。
二十五歳(昭和三年生まれであるから昭和二十八年)までは池田太作(タサク)が本名であったが、二十五歳の時、正式に戸籍上、池田大作に名前を変更している。戸田城聖氏や池田大作の奥さんのように勝手に名前を変えることはできる。しかし戸籍の名前を変えることは家庭裁判所が認めたときのみである(少なくとも以前はそうであった。現在は在日外国人のことで簡単に変えられるようになったようである)。戸籍の名前を変えることはそれほど困難なものであった。池田大作は妄想型統合失調症(軽症)であるため、その誇大妄想と被害妄想により凄まじい執念で戸籍の名前をも変えた。池田大作の当時の給料は一般人の百倍近くであったと言われる故、その有り余るお金で買収したとも考えられる。この戸籍の名前を変えることができたことは一つの謎(調査中)と山崎正友氏は書かれている。
【青年期】
池田大作は戦後の混乱期、定職にも就かずブラブラしていたが川崎市から大田区を縄張りとする暴力団の手先となって貸し金の取り立てなどを手伝っていたらしい(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p105 )。
この頃、学校時代の友人であるMという女性に誘われて座談会に参加し、御本尊を渡される。このとき「人間革命」に書いてある戸田城聖氏との劇的な出会いはない。戸田城聖氏との劇的な出会いに詩を詠んだということはない。それは「人間革命」の本当の作者である篠原善太郎氏(東大卒。戦前、河田清のペンネームで小説を書いたことがある。小説家志望だった。学会総務。外郭会社・東西哲学書院社長。同社は信濃町近辺や全国の学会会館近くにレストラン、寿司屋、書店のチェーン店を展開している学会外郭の最大手の一つだった。既に亡くなっている。竹入義勝氏とともに長野県の日蓮正宗法華講の古くからの剛信な一族出身)が池田大作より命令され創作したものである。
次のように書かれている。
「学校時代の友人に誘われて創価学会本部へ行きました。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしょうか。五時間ぐらいそこで締め上げられたのです。
南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で敗れて信仰しなければならないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない」(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p71-2)
「それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。
家に持ち帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴り、私の上でゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二解の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長(小平芳平のこと)から折伏されたんですよ」(S32・10・18付聖教)
以来、肺病を患っていた池田大作は肺病を治すためもあり、熱心に信仰を始めた。勤行唱題の声が喧しいと大家さんから注意されるほどであった。
池田大作はそして幾つかの事業を行っていた戸田城聖氏の処へ就職の面接に行く。戸田城聖氏は金を貯めている学会員から借り入れて手形割引などで他の学会員に高利で貸す金融業「大蔵商事」も営んでいた。戸田城聖氏は池田大作の借金取り立ての経験に目を付け採用する。
この金融業で池田大作は経験と才能を発揮する。金を貯め込んでいる学会員の家を当てるのが極めて巧かった。戸田城聖氏の傾きかけていた事業を再起させたのは池田大作の金融業での経験と才能だった。取り立ても厳しく、病気で寝ている老人の布団を剥いで持って帰ることもあったという逸話もある。
大蔵商事で池田大作は営業部長として辣腕を振るい、池田大作の給料はそのため当時の平均給料の百倍近くであった(ここの給料は歩合制であった)。この金で池田大作は女子部員をものにし、また、幹部達に金を振る舞い、次期会長を狙うべく人脈作りを行ったらしい。(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994)
「人間革命」の「この冬もオーバーコートなしで過ごさねばならない」ということは虚構である。
この金融業の時代に池田大作は毎日のように金集めのため松島勇氏の家に出入りする。松島勇氏は埼玉県大宮市の国鉄機関車区に勤めており池田大作の依頼に基づいて仲間の国鉄職員から貸し金を集め、池田大作のドル箱であった。そのため池田大作は毎日のように松島家に出入りした。家族同然の付き合いだったと言われる。「月刊ペン事件」で有名な、松島家の三畳間で裸身を松島道子にタオルで拭かせていたのを学会員の小沢よねさんに目撃されたのはこの頃のことである。
松島道子は後に参議院議員になった。夫となった松島一郎は衆議院議員になった。松島道子と池田大作との関係は二人(松島一郎と松島道子)の結婚後も続き、そのためその夫婦の間は冷え切っていた。松島一郎は妻の不倫に気付いていながらも黙認を仕方なくされ、その黙認したことにより衆議院議員に池田大作より推薦されることができた。
松島道子の姉が池田大作批判の急先鋒である藤原行成氏の妻である。池田大作は松島道子の姉にも手を出そうとした。しかし手を出すことができず、池田大作は松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐め続けることになる。松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐めることに実の妹である松島道子が手助けをしていた。
松島家以外にも戸田城聖氏の金融業の資金集めに協力した故に後に創価学会幹部に取り立てられた一家は他にもたくさんあり、そのなかには、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで山崎正友氏が負債処理に当たった処もあったという。
池田大作がこの戸田城聖氏の元で行っていた金融業は現代のサラ金と同じものであった。「人間革命」にはそのことが解らないように脚色されてある。
池田大作は昭和四十九年、大石寺大山荘に於いて山崎正友氏と酒を飲んでの雑談の時、「戸田先生の唯一の失敗は私に金貸しのような汚い仕事をやらせたことだ。俺なら後継者の人生経歴をそんなことで傷つけたりしない」と言った。戸田城聖氏は池田大作を創価学会の後継者とは考えていなかったから金貸し業に突っ込んだと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p107-8)
また、池田大作は「資金繰りが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだあれがしたあ』(当時流行していた歌謡曲“星の流れに”の替え歌)と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」と思い出話を語ったと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p108)
この大蔵商事は学会首脳が働いていたが、昭和三十五年の池田大作の会長就任とともに学会首脳は退き、以降は戸田城聖氏の妾であった森重紀美子とその甥らが経営したが、脱税摘発や貸金こげつきで事実上、倒産する。その後、大同商事と社名を変え、昭和四十七年頃から中西治雄氏が関わり、創価学会の建物の火災保険、学会員や学会本部関係の物品販売、大石寺土産物取扱い、学会員相手の高利貸し、などを行う。
昭和三十二年の大阪事件に於いて臆病な池田大作は卑怯にも警察に全てのことを話している(すでにこのとき池田大作は堕落していた)。つまり仲間を売っている。そのために池田は早期に釈放されたし無罪になった。大阪事件では何十人もの創価学会員が有罪になり、創価学会は有罪になった人たちを全員、除名にした。この大阪事件の判決は昭和三十七年であった。
【会長就任後】
池田大作は特別書籍と呼ばれるゴーストライター軍団を会長室の上の階に設置し、自らの著作および講演原稿を作らせるようになった。責任者は原島嵩氏で、その下に、上田雅一(慶大卒、副会長)、桐村泰次(東大卒、副会長)、野崎勲(京大卒、副会長)、石黒東洋(東工大卒)、細谷昭(一橋大卒、副会長)らで編成されていた。このゴーストライター軍団は原島嵩氏が抜けたりメンバーこそ多少替わったものの現在(平成二十二年)も健在である。
“潮”や“第三文明”などに掲載する文化人、学者との対談も、すべてゴーストライター軍団に依るものである。トインビー博士との対談も、同様にして作られた。池田大作は相手と会って食事したり雑談し、写真を撮るだけである。
昭和四十九年から翌年にかけて「月刊ペン」誌上で編集長である渡部大蔵氏が創価学会批判を行ったが、それは池田大作の女性関係にまで及んでいた。この池田大作の女性関係は真実であり、創価学会側は笹川陽平氏(笹川良一氏の三男、船舶振興会理事長)に相談し、二千万円を渡部大蔵氏の弁護士に渡し買収に成功した。しかし渡部大蔵氏はどのように金額を積んでも頑なに拒否した。そして裁判は弁護士から裏切られた渡部大蔵氏の執行猶予付きの懲役刑となった。
渡部大蔵氏はこの裁判を不服として上訴中、病に倒れ死亡した。しかし渡部大蔵氏の死後、藤原行正氏などの造反が起こり、彼らが証言台に立ち、池田大作の女性関係が真実であることが裁判に於いて立証された。
この女性関係は凄まじく、日本全国だけで二十名を超えていたという。一部を書くと、公明党の衆議院議員となった二人の女性は池田大作の愛人であった。
全国各地にある学会施設には池田専用の極めて豪華な部屋へついて昭和五十二年、民社党の春日一幸氏から竹入委員長宛に一通の手紙が届いた。このことを国会に於いて追求するという内容であった。九州の霧島では国立公園の真ん中に法律を無視して施設を造っていた。これは愛知県渥美半島、北海道、広島でも同じようであった。広島では税務署が池田大作の豪華設備について「宗教と関係ないから課税する」と言ってきていた。急遽、これら池田専用の極めて豪華な設備を解体する作業が行われた(この解体作業に費やした費用も莫大であった)。結局、創価学会が「選挙で票をよこす(公民選挙協力)」と約束し、民社党は追及を行わなかった。
(未完)
創価学会内部改革派憂創同盟残党
【はじめに】
私は以前、池田大作は広宣流布を頓挫させるためにこの世に生を受けた、と書いた。
「第六天の魔王 智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王 我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」(最蓮房御返事)―――これが該当する可能性は無い。
池田大作は単なる俗物であり、創価学会に入り戸田城聖氏のもとへ就職したことが偶然の幸いとなり、劣等感に根ざした極めて強い権力志向が、お人好しの極めて多かった創価学会に於いてライバルを蹴落とし、創価学会の会長となり、栄華を極めた、と考えるのが適切な説と思う。
池田大作の人生を幼少時より書いてゆく。
【幼少時代】
池田大作は零細な海苔製造業者のである池田子之吉(ねのきち)、妻一(イチ)の五男として昭和三年一月二日、東京都荏原(えばら)郡入新井町大字不入斗(いりやまず、現・品川区)に生まれた。男女併せて十人の兄弟がいた。
昭和六十年前後の状況を山崎正友氏が(懺悔の告発:日新報道:1994)に書かれている。
長男 喜一 ビルマにて戦死
長女 とよ子 国立第一病院看護婦
次男 増雄 大衆食堂経営、家を継ぐ
三男 小宮開造 阿部商会(外車ディ−ラー)役員、死亡
四男 清信 三洋工業、学会幹部
五男 太作 本人
六男 栄一 トビ職
七男 隆一 東和工業
八男 正利
次女 いね子 東芝社員の妻
これを見ると、明らかに学会員であるのは一つ上の兄のみである。
山崎正友氏が池田大作の家系を調べたところに依ると、数代先まで東京湾でノリ採集や漁師をしていた、という。
インターネットでは池田大作が在日朝鮮人という論が強い。しかし、山崎正友氏は在日朝鮮人ということは全く言及されていない。
しかし、小学生時代に病床の父から韓国語を教わっており韓国語が堪能であるとインターネットでは言われている。
池田大作の少年時代は、同級生や教師などの証言に依れば、貧しい、女好きの、子だくさんの海苔屋の五男で、特徴もなく、一生懸命勉強しても中位の成績の、目立たない少年だった。
後年、創価学会の会長になったと聞いて、誰もが驚いたという。
二十五歳(昭和三年生まれであるから昭和二十八年)までは池田太作(タサク)が本名であったが、二十五歳の時、正式に戸籍上、池田大作に名前を変更している。戸田城聖氏や池田大作の奥さんのように勝手に名前を変えることはできる。しかし戸籍の名前を変えることは家庭裁判所が認めたときのみである(少なくとも以前はそうであった。現在は在日外国人のことで簡単に変えられるようになったようである)。戸籍の名前を変えることはそれほど困難なものであった。池田大作は妄想型統合失調症(軽症)であるため、その誇大妄想と被害妄想により凄まじい執念で戸籍の名前をも変えた。池田大作の当時の給料は一般人の百倍近くであったと言われる故、その有り余るお金で買収したとも考えられる。この戸籍の名前を変えることができたことは一つの謎(調査中)と山崎正友氏は書かれている。
【青年期】
池田大作は戦後の混乱期、定職にも就かずブラブラしていたが川崎市から大田区を縄張りとする暴力団の手先となって貸し金の取り立てなどを手伝っていたらしい(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p105 )。
この頃、学校時代の友人であるMという女性に誘われて座談会に参加し、御本尊を渡される。このとき「人間革命」に書いてある戸田城聖氏との劇的な出会いはない。戸田城聖氏との劇的な出会いに詩を詠んだということはない。それは「人間革命」の本当の作者である篠原善太郎氏(東大卒。戦前、河田清のペンネームで小説を書いたことがある。小説家志望だった。学会総務。外郭会社・東西哲学書院社長。同社は信濃町近辺や全国の学会会館近くにレストラン、寿司屋、書店のチェーン店を展開している学会外郭の最大手の一つだった。既に亡くなっている。竹入義勝氏とともに長野県の日蓮正宗法華講の古くからの剛信な一族出身)が池田大作より命令され創作したものである。
次のように書かれている。
「学校時代の友人に誘われて創価学会本部へ行きました。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。その友達は哲学のいい話があるから来ないか、と誘ったのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしょうか。五時間ぐらいそこで締め上げられたのです。
南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で敗れて信仰しなければならないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない」(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p71-2)
「それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。
家に持ち帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴り、私の上でゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」(小口偉一編『新心理学講座』第四巻)
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二解の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長(小平芳平のこと)から折伏されたんですよ」(S32・10・18付聖教)
以来、肺病を患っていた池田大作は肺病を治すためもあり、熱心に信仰を始めた。勤行唱題の声が喧しいと大家さんから注意されるほどであった。
池田大作はそして幾つかの事業を行っていた戸田城聖氏の処へ就職の面接に行く。戸田城聖氏は金を貯めている学会員から借り入れて手形割引などで他の学会員に高利で貸す金融業「大蔵商事」も営んでいた。戸田城聖氏は池田大作の借金取り立ての経験に目を付け採用する。
この金融業で池田大作は経験と才能を発揮する。金を貯め込んでいる学会員の家を当てるのが極めて巧かった。戸田城聖氏の傾きかけていた事業を再起させたのは池田大作の金融業での経験と才能だった。取り立ても厳しく、病気で寝ている老人の布団を剥いで持って帰ることもあったという逸話もある。
大蔵商事で池田大作は営業部長として辣腕を振るい、池田大作の給料はそのため当時の平均給料の百倍近くであった(ここの給料は歩合制であった)。この金で池田大作は女子部員をものにし、また、幹部達に金を振る舞い、次期会長を狙うべく人脈作りを行ったらしい。(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994)
「人間革命」の「この冬もオーバーコートなしで過ごさねばならない」ということは虚構である。
この金融業の時代に池田大作は毎日のように金集めのため松島勇氏の家に出入りする。松島勇氏は埼玉県大宮市の国鉄機関車区に勤めており池田大作の依頼に基づいて仲間の国鉄職員から貸し金を集め、池田大作のドル箱であった。そのため池田大作は毎日のように松島家に出入りした。家族同然の付き合いだったと言われる。「月刊ペン事件」で有名な、松島家の三畳間で裸身を松島道子にタオルで拭かせていたのを学会員の小沢よねさんに目撃されたのはこの頃のことである。
松島道子は後に参議院議員になった。夫となった松島一郎は衆議院議員になった。松島道子と池田大作との関係は二人(松島一郎と松島道子)の結婚後も続き、そのためその夫婦の間は冷え切っていた。松島一郎は妻の不倫に気付いていながらも黙認を仕方なくされ、その黙認したことにより衆議院議員に池田大作より推薦されることができた。
松島道子の姉が池田大作批判の急先鋒である藤原行成氏の妻である。池田大作は松島道子の姉にも手を出そうとした。しかし手を出すことができず、池田大作は松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐め続けることになる。松島道子の姉(藤原行成氏の妻)を虐めることに実の妹である松島道子が手助けをしていた。
松島家以外にも戸田城聖氏の金融業の資金集めに協力した故に後に創価学会幹部に取り立てられた一家は他にもたくさんあり、そのなかには、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで山崎正友氏が負債処理に当たった処もあったという。
池田大作がこの戸田城聖氏の元で行っていた金融業は現代のサラ金と同じものであった。「人間革命」にはそのことが解らないように脚色されてある。
池田大作は昭和四十九年、大石寺大山荘に於いて山崎正友氏と酒を飲んでの雑談の時、「戸田先生の唯一の失敗は私に金貸しのような汚い仕事をやらせたことだ。俺なら後継者の人生経歴をそんなことで傷つけたりしない」と言った。戸田城聖氏は池田大作を創価学会の後継者とは考えていなかったから金貸し業に突っ込んだと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p107-8)
また、池田大作は「資金繰りが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだあれがしたあ』(当時流行していた歌謡曲“星の流れに”の替え歌)と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」と思い出話を語ったと山崎正友氏は書かれている。(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p108)
この大蔵商事は学会首脳が働いていたが、昭和三十五年の池田大作の会長就任とともに学会首脳は退き、以降は戸田城聖氏の妾であった森重紀美子とその甥らが経営したが、脱税摘発や貸金こげつきで事実上、倒産する。その後、大同商事と社名を変え、昭和四十七年頃から中西治雄氏が関わり、創価学会の建物の火災保険、学会員や学会本部関係の物品販売、大石寺土産物取扱い、学会員相手の高利貸し、などを行う。
昭和三十二年の大阪事件に於いて臆病な池田大作は卑怯にも警察に全てのことを話している(すでにこのとき池田大作は堕落していた)。つまり仲間を売っている。そのために池田は早期に釈放されたし無罪になった。大阪事件では何十人もの創価学会員が有罪になり、創価学会は有罪になった人たちを全員、除名にした。この大阪事件の判決は昭和三十七年であった。
【会長就任後】
池田大作は特別書籍と呼ばれるゴーストライター軍団を会長室の上の階に設置し、自らの著作および講演原稿を作らせるようになった。責任者は原島嵩氏で、その下に、上田雅一(慶大卒、副会長)、桐村泰次(東大卒、副会長)、野崎勲(京大卒、副会長)、石黒東洋(東工大卒)、細谷昭(一橋大卒、副会長)らで編成されていた。このゴーストライター軍団は原島嵩氏が抜けたりメンバーこそ多少替わったものの現在(平成二十二年)も健在である。
“潮”や“第三文明”などに掲載する文化人、学者との対談も、すべてゴーストライター軍団に依るものである。トインビー博士との対談も、同様にして作られた。池田大作は相手と会って食事したり雑談し、写真を撮るだけである。
昭和四十九年から翌年にかけて「月刊ペン」誌上で編集長である渡部大蔵氏が創価学会批判を行ったが、それは池田大作の女性関係にまで及んでいた。この池田大作の女性関係は真実であり、創価学会側は笹川陽平氏(笹川良一氏の三男、船舶振興会理事長)に相談し、二千万円を渡部大蔵氏の弁護士に渡し買収に成功した。しかし渡部大蔵氏はどのように金額を積んでも頑なに拒否した。そして裁判は弁護士から裏切られた渡部大蔵氏の執行猶予付きの懲役刑となった。
渡部大蔵氏はこの裁判を不服として上訴中、病に倒れ死亡した。しかし渡部大蔵氏の死後、藤原行正氏などの造反が起こり、彼らが証言台に立ち、池田大作の女性関係が真実であることが裁判に於いて立証された。
この女性関係は凄まじく、日本全国だけで二十名を超えていたという。一部を書くと、公明党の衆議院議員となった二人の女性は池田大作の愛人であった。
全国各地にある学会施設には池田専用の極めて豪華な部屋へついて昭和五十二年、民社党の春日一幸氏から竹入委員長宛に一通の手紙が届いた。このことを国会に於いて追求するという内容であった。九州の霧島では国立公園の真ん中に法律を無視して施設を造っていた。これは愛知県渥美半島、北海道、広島でも同じようであった。広島では税務署が池田大作の豪華設備について「宗教と関係ないから課税する」と言ってきていた。急遽、これら池田専用の極めて豪華な設備を解体する作業が行われた(この解体作業に費やした費用も莫大であった)。結局、創価学会が「選挙で票をよこす(公民選挙協力)」と約束し、民社党は追及を行わなかった。
(未完)
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