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明治からの日本。
植民地。
江戸末期、世界はほとんどすべてが西欧列強の植民地であった。残るは日本と朝鮮しかなく、清が、まさに植民地化されようとしていた。
それを知った武士たちは愕然とした。その現実に対し、どう対応するかで議論沸騰し、小競り合いが始まる。
そして、立場を超えて維新を達成してゆく。
その頃、ロシアが満州まで南下していた。次は朝鮮である。ロシアの南下を食い止めなければならない。
そして、日清・日露と、きわどい戦争を勝ち抜いた。ロシアの南下を阻止し、満州・朝鮮の植民地化を防いだ。
当時、中国には、各国が入り乱れていた。日本も巻き込まれてゆく。
そのうち、アメリカが石油禁輸。日本は南方の石油が必要となる。植民地化されていた東南アジアへ進出。結局、空襲。原爆。敗戦。東京裁判となる。
その後、植民地は、続々と独立を果たす。植民地はなくなった。
無条件降伏した日本は、空襲。原爆。東京裁判。理不尽なことも何もかもすべてを受け入れた。
そして、今は、南京と、慰安婦。多くの国民は、何も考えずに受け入れる気でいる。
しかし、この問題を少しでも調べる気になると、虐殺から、空襲、原爆、東京裁判、植民地支配のやり方、共産党の粛清、文化大革命、ポルポトなど、山盛りの理不尽に気付くこととなる。
そして、中国の、チベット、ウイグル問題。
まだまだ世界は民主化し、人権を大切にしているとは言えない。
今、私たち日本人の置かれた状況は、大変深刻である。
原発は放射能を出し続け、セシウム、プルトニウムは拡散して、いつ、どんな形で私たちの体内に入ってくるかわからない。
竹島・尖閣問題もある。
そこで平和憲法。
前文、読んでみればわかる。自分たちの生存を、諸国民の公正と信義に委ねると言っている。そして、9条で軍隊は持たないし、国には交戦権がないという。これは当時300万ともいわれる日本人が死んで、ほとんどの家に戦争での犠牲者が出たのである。そして、戦後の食糧難により、死ぬ苦しみを経験した。その人たちの思いは何であるか?大切な我が子が戦地で死んだ。どんなに苦しんで死んでいったことか。空襲で焼け死んだ。その思いたるや、自分が身代わりになりたいほどの思い。つまり、思いの上では、日本人はすべて死んだといってもいい。その反省が見事にここに表現されている。
アメリカから言えば、神風特攻などをする野蛮な日本人は、二度と戦争できないようにとの意図があったとしても、日本人からすれば、まさに、戦争はもうこりごりで、日本人の思いにぴったりなのである。最もふさわしい憲法ができたのであり、どこの誰の作品であっても、いいものはいいのである。芸術作品と同じこと。感覚が優れている。それでいい。それが憲法としての地位を得た。これはまさしく奇跡に近いこと。
人は、自分が生きていて、この世界を認識できるから、人もその認識の中で生きているとも言える。そして、すべての人が同じくそうなのであるから、そして、それ以外の認識主体がないのであるから、単位としては、一人一人という単位しかあり得ない。これを家族や国と言ったグループ分けの単位と同列に置くべきではない。家族や国は認識主体としての機能はないのであるから、全く別物である。認識主体としての意味は、世界を認識し構築することが出来るという事だ。家族や国はそれらを為し得ない。だからこそ、家族会議や国会で個人が議論するのである。
我が国は、すでに、戦いを体験し、空襲で焼き尽くされ、そして、原爆を落とされた。広島・長崎と20万人が一度に殺され、その後、原爆症でどれだけの人が死んでいったことか。
そして、無条件降伏。これは、日清、日露戦争の降伏ではなく、無条件なのだ。
日清、日露は、話し合って、賠償金や、領土をもらった。これは、喧嘩して、参ったと言わせただけ。
無条件降伏は、徹底的にやられて、「殺せ!」と起き上がれずに叫んでいる状態。殺すかどうかは相手任せで、最後の反撃の力もない状態。
だから、天皇が殺される心配もあった。そして、総理大臣は処刑された。
普通、戦争では、民間人は殺しません。日本のように無差別爆撃で女子供しかいないような下町を空襲するなど、今では考えられないことです。
この戦争で何百万人もの人が死んだのです。日本人は誰でも大事な家族が犠牲になっています。その家族はかけがえのない人です。そして、戦後の苦労です。こんな惨めな思いをするくらいなら、つらい思いをするくらいなら、あの戦争で死んでいた方がましだったと、どれだけ多くの人が思ったことか。
ほとんどの国民がこんな思いを経験したからこそ、今の憲法を受け入れたのです。
また、起草したアメリカ人にしても思いは同じだったのでしょう。
いずれにしても、すでに憲法として存在しており、それが世界で最も平和を希求する憲法であることは日本国民として再認識する必要があります。
もし、この経験がなければこのような戦争を放棄して、軍備も持たないと宣言した憲法など受け入れられるはずもなく、すぐに改正したでしょうし、自分たちは自分たちで守ると考えるだろうし、外国は何をしでかすかわからないと思うのが当然です。しかし、この同じ考えで明治維新から富国強兵策をとって頑張った結果がこの敗戦であるから、この考えは破たんしています。
そこで、現実の経験を経たその思いの叫びとして、この理想的な憲法が実現したということです。
それはまさに願いであり、国を超えた、人としての存在をかけた憲法なのです。
そこで前文にあるように、諸国民を鬼畜米英などと蔑視するのではなく、その公正と信義を信頼して、我々の生存と安全を託すとしているのです。これは無条件降伏をしたことからくる帰結なのです。それが憲法となった。だから、戦争に突き進んだ過ちを二度と繰り返さないためにも、その総決算である憲法を守らなくてはならないのです。
非武装の論理は、通常の考えからは生まれない。無条件降伏があってこその事です。
すなわち、通常の状態では他国を信頼することなど、議論すればするほど出来ない理屈になります。多数決で国論を決定するならなおさらです。より安全に、もし、他国が侵略してくる懸念があれば、それに備えて軍備をするのは理の当然となるのです。準備をする。備えるとは対抗する力を備えること。だから、軍隊を持たないなどあり得ないことになります。
しかし、日本は戦争に備え、そして、戦い、無条件降伏した。だから、国がなくなることも、天皇が死刑になることもあり得たのであり、もう二度と戦争はしないとして、非武装憲法を作り、諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意したのです。
この状態で初めて他国を敵視するのではなく、信頼する決意をしたのです。ソ連に占領されていれば共産主義国になっていたであろうし、アメリカの一つの州になっていれば、日本国憲法はないのです。丁度その日本であったればこその日本国憲法なのです。
このような稀有な状態がなければ、この非武装の丸腰平和憲法を持つ勇気はどこの国にもありません。
今の戦争を知らない日本国民に議論させれば、武装するのは当然ということになります。これでは戦前と同じことの繰り返しです。戦前も日本が血を流して勝ち取った遼東半島を三国干渉で理不尽に取り上げられ、国民が怒るのは当然です。その結果、日露戦争です。その後もずっと戦争です。そして連戦連勝なのです。神国日本なのです。日本が勝ち続けていた昭和17年頃に、戦争を止めていれば、東南アジアと中国を放棄して、朝鮮台湾は日本だったかもしれません。満州国も存続したかもしれないのです。
でも、国民はやめさせないでしょうし、まして、やめる条件として東南アジアと中国等占領地を放棄するなど、戦って死んだ家族の賜物なのだから、とうてい認められません。
また、アメリカがそれを認めるとも思えません。これは、今から言えることで、現実的にはあり得ない事なのです。
やめるためにはこちらの有利な時に、譲歩してやめるのですが、勝っている時にやめるというのは、個人的にも出来ない事です。つまり、やり始めたらなかなか止められないという事です。
わが国は明治維新からずっと戦争を、敗けるまで続けてきました。アメリカも連戦連勝だから独立戦争からずっと、日本に勝った後も、戦争を続けています。戦争で死んだ国民は何人でしょう。家族の悲しみはどれだけあるでしょう。国民の立場からは平和がいいのです。
戦争に勝てば、その後も戦争をしてしまいます。利益追求だから、続くのです。国民はたまりません。これは戦争の悪循環、戦争スパイラルともいうべきものでなかなか抜け出すことは不可能です。
日本は多大なる犠牲を払って、抜け出したのであるから、敗けたことを忘れてはなりません。
敗けたから抜けだせた。これからも抜け出したままにしましょう。
一人の人間としては、戦いで殺されるのも、殺すのも嫌です。それをするくらいなら少々の損は我慢します。個人的にはそうなのです。
日本は占領されました。鬼畜米英と言っていた連合軍が進駐してきたのです。男は殺され、女は犯されると心配した人もいたのです。でも、そうではなかった。もし、日本が勝って、アメリカを占領していたら、男を皆殺しにしたでしょうか。日本はしなかった。朝鮮・台湾でしていないのだからしないのです。つまり、日本も、アメリカも皆殺しなんてしていないのです。
私も人を殺すなんて嫌です。占領軍の兵士も嫌でしょう。多くの人は嫌なものです。日本の子供たちは、アメリカの兵隊さんに「ギブミーチョコレート」と言って近づいて行きました。結婚した人もいます。人と人が面と向かって身近に接すれば人として付き合うことになります。姿形ではなく、中身が姿形に現れるのですから、中身の付き合いになるのは当然です。
日本はこの事を経験したのです。
だから、無意味な虐殺などあり得ません。さっさと負けて、相手と一つになりましょう。戦争で殺し合うよりましなのです。
そこで、政治家を考えてみましょう。日本が勝っていた時に、譲歩したりすれば、国益を害したことになり、日露戦争の戦後処理のように、国民から非難されます。殺される可能性もあります。責任がはっきりすれば、損害賠償を課せられる危険もあります。こうなると、国益を損なうことはできません。
国益に反したかどうかは、得べかりし利益を損なったということになりますが、得べかりし利益というのは、予見可能性の問題で、予想できるかどうかです。日本が勝っているときに、負ける予想はできません。講和条約で譲歩でもすれば袋叩きです。そんな勇気のある政治家はいないでしょう。アメリカとの戦争は長引けば敗けるというのはわかっていたのですが、勝っているうちに、この戦争はいずれ負けると言う政治家がいなかったのです。もし、そんなことを言えば、国論としてまとめ上げる前に、殺されています。戦争を続けることは国益に反するとわかっていたとしても、殺されることは、それより重要な個人益なのです。だから、如何に国益に反することがわかっていたとしても、勝っているときに、負けると言い出す人はいないのです。誰も言い出さないので大きな声にもなりませんし、何れ負けるという真実を知らせることもできません。そして、完全に負けるまで突き進むしかないのです。政治家は兵隊ではないので、基本的に死にません。だから、わかっていても黙っています。兵隊もまた言えません。言えば非国民となり、兵役拒否しても、家族に迷惑がかかり、殺されるかもしれない。出征すれば生きて帰る可能性もある。何も言えず拒否もできない状況にあるのです。
これでは、どうしても、敗けるまで戦争をすることになります。
これほど戦争というのは途中でやめるのが難しいのです。決着がつくまで戦いは終わらないと言えば、戦争の性質がわかりやすいでしょう。
だから、最初から負けるのです。その覚悟をもって、戦いから遠ざかりましょう。
そんな時に正義を振りかざしては、飛んで火に入る夏の虫です。正義を捨てましょう。これまで名目上正義の戦争ばかりなのですから、戦争と正義はペアなのです。
戦争を捨てるなら、正義も捨てなければなりません。命を取られるなら、正義の主張も出来ないのですから、泣き寝入りしましょう。正義などというのは、事実関係の認識が変わったり、立場が違えばどうにでもなる口先の問題です。命のやり取りとは次元が違います。
命がかかったら、正義などきれいさっぱり忘れましょう。実際の戦いの場では、殺すか殺されるかで、正義などどこにもありません。勝つことが先決問題です。
個人の場合、恐喝されれば、その場で正義を振りかざしはしないでしょう。そんなことをすれば、火に油を注ぐ結果になりかねません。だから、その場では負けるでしょう。そして、被害届を出して、警察に任せるのです。
国と国の場合も、その場では戦いを避けて、日頃から諸国民の正義が実現できるよういろいろな方法で努力しましょう。
それが諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した日本人の責務であり、この憲法精神を国際社会において、形にし、世界をリードする地位を占めなければなりません。
日本は明治維新の時、西欧列強が東洋の国々を植民地にしていたので、そうならないように西洋文明を学び、富国強兵策を取り、東洋が一丸となって、西洋に対しなければ、負けてしまうとして、大東亜共栄圏の形成に邁進したつもりでした。しかし、東洋の国々からは、侵略と評価され、周りのすべての国々を敵に回して、負けてしまった。つまり、西洋対東洋の構図が間違っていたのです。
だから、今度は、全世界共栄圏の形成を目指さなければならない。今回は、仮想敵国がない。全世界だから。
そして、憲法には、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するとあります。すなわち、全世界の国民一人一人なのです。ここには国はない。世界の国々ではなく、諸国民の公正と信義であり、生存権なのです。つまり、国を超えて、全世界の人々とつながって、その公正と信義を育て、平和な生存を確保する責務を担うのであり、この活動は国民一人一人がなすべきもので、その相手は、諸国民であるから、一人一人なのです。政治家であっても、一人の日本国民として、相手国の政治家に対し接する機会があれば、諸国民の一人として、公正と信義を醸成し、平和な生存に貢献すべく連帯する責務があるのです。
この一人一人が基本単位であることを憲法が主張しています。そして戦争を起こす行為を国という単位が起こすものとして否定しています。
人権を大切にするというのは、一人一人を大切にするという事です。人類の基本単位が一人一人であることの当然の帰結です。
この基本単位を中心に世界を再構築しなければなりません。
そこで、人間の形というものに目を向けなければならない。
人間の形。
ここに二人の人が相対しているとしましょう。
自分の内面と、相手の外面を知っている。知らないのは、相手の内面と、自分の外面・自分の表情やしぐさ。二人が話し合う場合。その世界には、二つの内面・心、と二つの外面・表情で構成されています。この4つの要素からなり、その半分しか知らないのです。
自分が意見を言う時、心の中の事を、言葉で表現しています。相手は、その言葉と、表情を受け取り、心の中を推測する。そして、推測したものについて、自分の考えと照らし合わせて言葉にする。そして、これが繰り返される。
すなわち、相手の心を推測する作業が欠かせない。心を言葉にするのも、なかなか難しい。人それぞれでもあるから、言葉の意味するものを正確に把握するなど、いくら表情を参考にしても、出来るものではない。つまり、誤解だらけであるということ。二人の世界の半分しか知らないのであるから、仕方がない。このことを忘れてはならない。言葉は表現手段のひとつであり、その目的は心にあるものを相手に伝えるためであるから、言葉だけでなく、場や表情、前後、しぐさなど外面の情報すべてを総動員して推測する必要がある。
生れて此の方自分の心しか知らないことを肝に銘ずべきである。
この、人間に課せられた制約から、いろいろな問題が派生してくる。
言葉によって決めつけても仕方がないこと。所詮推測でしかないこと。自分の心をもすべてを正確に知っているわけではないこと。心にはその人のすべての経験が詰まっている事。
二人の世界だけでも半分しか知らないので、その他大勢の人の心など、共通性はあるとしても、ほとんど姿形からは見えないのであるから、分からないというのを基本に置くしかない。
そうなると、相手の話をじっくり、今推測すべき表現にかかわる生い立ちや、経験、立場など想定しながら理解するべく努力しなければならない。
誤解に基づく行動は、無意味で害があり、無くす必要がある。そのためには、一つに決まらないものはわからないとして、分からないままで置いておく必要がある。それに耐えられなくて、決めつけてしまうとトラブルの基となる。
これからの人権の時代は、慎重な理解と、分かるまで解らない状態を保つ強さを持つのを常識とする必要がある。
所詮、国際政治と言っても、各国首脳の思惑である。即ちそれぞれの人の心の中。誤解すれば戦争にもつながりかねない。
人類が、正確な理解に向かって努力することは、いいことだ。国レベルでは情報戦などというが、お互い正確に理解できれば、戦争の結果もわかろうというものだ。
この時、国民が問題であったりする。神風日本・軍国日本・鬼畜米英であったりすれば、政府にもどうにもならない。国民世論は無視することは出来ない。
個人の場合には、自己犠牲の決断も出来なくはない。しかし、国レベルでは、国益を損なうことはできない。遼東半島、三国干渉、返す代わりに賠償金という流れを織り込み済みの小村寿太郎に焼き討ちをかける国民がいるようでは、このような素晴らしい外交はできないこととなる。
すなわち、団体の長は、その構成員の信任が必要であるが、交渉ごとのすべてを明かすことはできない。明らかにしないから、分からない面が出てくる。それを追求されても明かせない。その時、決めつけられて、責任を取らされたのでは、その交渉は出来ず、誰がやっても同じような、誰にでも説明できる単純な交渉しかできないこととなる。分かる時まで、分からないこととして、決めつけない賢さが必要なのである。
国民一人一人が主役として賢くならなければならない。
特攻隊の若者たちは、家族・国を守るために散っていった。そして、敵艦に体当たりした。アメリカの若者も死んだ。同じ若者。家族がいる。美しい国がある。
国は、国益のために、国民のために、他の国と争い、戦争を起こす。そして、国民が死んでゆく。政府は国益を放棄できない。個人は、家族のため、未来のために自己犠牲を選択し、相手を殺して死んでゆく。少しの国益のために、全面戦争、消耗戦となれば、国益どころの騒ぎではない。
この矛盾は、国が単位としてあるからである。乗り越えるためには、国を単位としない。
一人一人を単位とする。一人一人ための政治であり、経済である。
我が国の憲法理念を際立たせ、はっきりさせる必要がある。
日本は、沖縄返還を経験した。多くの国民にとっての変化は、パスポートが不要となったこと。その程度の利益。沖縄の基地も、アメリカ人所有のパブやレストランもそのまま。つまり、平常時の領土返還は、国境の線引きの問題でしかないということ。
すなわち、領有権と所有権は関係ないということ。
今、日本では竹島、尖閣、北方領土問題など、注目を集めている。領土問題と所有権がごっちゃになっているようである。領土というと、日本のものといった所有感覚が付きまとうが、実際には、所有関係とは別物である。尖閣が誰のものでも、日本の領土に変わりはない。領土が決まるのは、近隣諸国との国境線の引き方によって決まるのである。いわば国と国とが決めた約束である。所有権は法人も含めた個人のものである。尖閣が国有でも、個人所有でも、国は、国境を警備する。もし、尖閣が中国人のものであっても、国は、国境を警備する責任があるのは同じである。日本は、国として尖閣を買ったが、買わなくても何も変わらない。中国が国として、尖閣を買ったとしても、国境が変わるわけではない。尖閣が日本の領土であることに変わりはないのである。
中国人が日本の土地や、建物を所有しているであろうし、中国国家自体も、持っている。中国にも、日本人所有の物がある。それでも、日本の土地は日本の領土であり、中国国内は中国の領土であることに変わりはない。
この二つは関係ないのであるから、国が尖閣を買ったこと自体は、領土問題とは関係なく、なぜ買ったのかわからない。
個人としての国民は、尖閣が誰のものでも、何の関係もない。
竹島は、韓国が実効支配している。しかし、竹島の場合は、韓国がいわゆる李ラインという国境線を引いているので、これは、国境の問題である。国境線が日本の通りであれば、竹島は、侵略され、占領されている状態である。
国同士が平和でありさえすれば、個人の所有権も守られているが、ひとたび戦争になれば、敵国人の所有物は没収される。人間は捕まえられて、収容所行きとなる。これこそ大変である。戦争が終われば、一から出直しなんて、冗談じゃないし、家族を戦いで亡くした地元民たちからは、目の敵にされてしまう。まさに、死ぬほどの苦しみである。
尖閣が、中国国家の所有であっても、中国の領土になるわけではない。国境線は、専管水域なども含む国同士の決め事である。
北方領土の場合、日本に返還されたとしても、日本人の所有になるわけではない。今住んでいる人たちの所有権は、そのまま認めるしかない。
ロシアの法における所有権が日本と違えば調整が必要だろうし、日本に住みたくない人は、日本国が買い取る必要があるかもしれないが、両国の話し合いで決まることである。
尖閣のために戦争したら、尖閣の代金以上の損である。資源が欲しいだけなら、売り買いの話し合いだ。それでも戦争になるなら、相手国も含め世論に訴えるしかない。世論の形成は、たくさんの人。人を動かすにはつながるしかない。
日本人は、護身用の銃を持てない。銃だけではなく、凶器も持っていてはならない。日本は武器のない社会となった。これも敗戦のお蔭である。アメリカはまだ銃社会である。
自分の身は自分で守る。武装は抑止力となる。本当にそうなのか。
日本の泥棒はドライバーを持っている。アメリカでは、空き巣狙いも防衛のために銃は欠かせない。もし、見つかれば撃たれるから。警察官も日本より危なくてしょうがない。だから、間違って発砲することは多い。アメリカの警察官が日本に派遣されれば、銃を持ち出すこともなく、安心して近づき、逮捕することもできる。相対的に、結局日本の方が安全である。
銃で殺される人は圧倒的に日本の方が少ない。
ここに、抑止力のウソがある。
これは、国でも同じ。武器がなければ、隣国は安心していられる。攻め込まれる可能性はない。
武器を持てば、相手はより強力な武器を持とうとする。軍拡競争になる。そのうち、経済を犠牲にしてでも、軍備へつぎ込む。国民に無理を強いる。不満がたまる。この競争を長くは続けられない。相手国より優勢な軍備を整えた段階で、開戦の好機となる。時期を逃せば、相手国が優勢となり、それを超える資力がないとなれば、先制攻撃するしかないと決断する。
すなわち、軍備は抑止力にはならないどころか、必ず戦争を起こしてしまうこととなる。同じことを相手国も考えていることは、当然であるし、殺される前に殺すというのは、卑怯であろうと何であろうと、殺してしまえば、何事もないことになる。結局、相手より早く攻撃して、必ず勝つということが、全てとなってしまうのである。そこには、戦争の理由も話し合いも約束も何もない。
これが軍備と、防衛のメカニズムであり、抑止力のウソなのである。
今はアメリカと中国の間に挟まれて、武器を捨てさせてはくれないけれど、非武装憲法精神を文化としての形にまで高めよう。
世界の人が、肌身で安心を感じ取れるように、いろいろな形として表現しよう。洗練された文化の域にまで工夫しよう。
人の脳細胞は、虐待や、恐怖の中では、発達しないそうだ。
人は両親から生まれ、愛情に包まれて育つことが人間に備わった仕組みとして考えれば、当然の事だ。愛情の中でこそ脳は発達する。それは、思いやられることをたくさん受けて、快適であり、その心づかいの中で育つことは、同じく思いやる推測の当否に関する複雑さの中にいるのであるから、脳細胞も複雑になる。
これが虐待の中であれば、思いやられることなく、命令され、強制されるので、従う以外に選択の余地はなく、恐怖に慄くばかりで何ら理解する手立てはないのであるから、脳も発達の仕様がない。
このように人間の根源的な状態が愛情の中に生きることであるから、思いやり、信頼し、世界の人々とつながることは、人間に根差したものとして、間違ってはいない。
そして、虐待の連鎖である。虐待を受けたものは、虐待しやすいという。これは、虐待の仕方を知っているということ。愛情の経験が少ないということ。つまり、虐待の具体性しか知らないので、何かにつけ、その表現方法を選択してしまうということ。
愛情の中で育てば、愛情表現しか知らないので、その表現が得意なのと同じ。
これは、虐待の形を少なくし、愛情表現を増やすということ。愛情の形を増やせば増やすほど、再生産されてゆくということ。悪いことをした人には、悪いことをされた過去があるのであるから、どんな悪いことをされたのか、きちんと聞いてあげましょう。そこには隠れた悪があるからです。それが明るみに出されれば、癒やされるでしょう。隠れた仕打ちを思いやることになるでしょう。このような思いやりを受ければ、愛情に包まれた経験が一つ増えます。その一つが過去のひどい仕打ちを一つ消すことになるでしょう。
だから、目には目を歯には歯をではない。これをやれば復讐の連鎖となり、いつまでも再生産されることになる。目には愛情。歯にも愛情なのです。これを常識化すれば、復讐の連鎖は断ち切れ、愛情の連鎖が始まる。
そして、この地上から、偏狭と隷従がなくなる。
これまで、個人ではやりようがなかった。国は大きく、一人では何もできなかった。愛情をかけても裏切られる。自分は自分で守るしかない。自業自得。仕方がない状態であった。
それが、国というより個人になり、愛情に包まれているのが根源的な人間の状態であることが分かり、虐待の連鎖を知り、抑止力の無意味さ、防衛のメカニズム、軍拡と戦争の関係、トラウマの解き方、何事も再生産されてしまう怖さ、国を代表する個人のつらさ、だから、目には愛情、歯にも愛情の勇気。そして、平和憲法。
これだけ整えば、後は、ネット社会。一人一人がつながることができる。ネット社会に国はない。一人一人が単位。そして、一人一人がようやく発信できるツールを得た。
今初めて、個人が主役となった。
そこで、基本単位が人間であること。命であること。思いであること。生きていること。これらは人間皆共通だ。この共通な部分だけでつながろう。自分を尊重するなら、自分と同じ相手も尊重するのは当然だ。人間に共通する部分は皆尊重しなければならない。
人が皆、共通な部分に対して、自分を通して、自分を大切にする如く大切にし、尊重すると認識するなら、そんな人がつながって、集団を形成するだけで、何も言わずとも、サイレントマジョリティとなり、無言の圧力、あるいは戦いを否定する安心感になるのではないか。
闘争本能がある。競争心がある。だから争いはなくならないという。
人間には、人間として形成されるまでのいろいろな段階の本能と言われるものがある。闘争本能と言われるものは、動物にも共通するものであろう。本能には脳の深い部分に根ざす動物的な本能と、新皮質と言われる人間のみが有する脳の部分に根ざす本能がある。
愛情に包まれているのが人間で、それがなくては脳が発達しないというのは、まさに、人間特有のものであるから、その発達した部分を使って、動物的本能をコントロールすることができるであろう。スポーツを通じて闘争本能を発散させることもその一つであろう。
また、思いやりや、愛情表現は、日本の茶道や、和食、おもてなしなどの文化として、形成されているから、それらを参考に、より徹底した思いやり文化の形成も可能であろう。
そこで、まずはネットでつながろう。集団を形成するだけにしょう。誰が中心でもない。何をいうでもない集団。数だけ増やそう。人間と言うだけでつながろう。全世界の人、人としてつながって連合しよう。
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