01. BRIAN ENO 2014年2月10日 09:39:50
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ディアトロフ・インシデント 『ディアトロフ・インシデント』(原題:Devil's Pass / The Dyatlov Pass Incident)は、2013年制作のアメリカ合衆国・イギリス・ロシアのホラー・スリラー映画。1959年にソ連(当時)のウラル山脈で実際に起きたディアトロフ峠事件を題材としたドキュメンタリー映画の制作に乗り出した5人のアメリカ人学生が現地で遭遇する恐怖体験を、ファウンド・フッテージの用法で描いた作品。レニー・ハーリン監督。 目次 [非表示] 1 キャスト 2 関連項目 3 脚注 4 外部リンク
キャスト[編集]
役名
俳優 日本語吹替 ホリー ホリー・ゴス 白石涼子 ジェンセン マット・ストーキー 川島得愛 J・P ルーク・オルブライト 丸山壮史 アンディ ライアン・ホーリー 岡本未来 デニーズ ジェマ・アトキンソン 長尾明希 関連項目[編集] ディアトロフ峠事件 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 脚注[編集] 1.^ Turek, Ryan (2013年8月6日). “Renny Harlin’s Dyatlov Pass Incident Now Devil’s Pass, See It This Month”. Shock Till You Drop. 2013年12月20日閲覧。 外部リンク[編集] 日本版公式サイト ディアトロフ・インシデント - allcinema ディアトロフ・インシデント - KINENOTE Devil's Pass - AllMovie(英語) The Dyatlov Pass Incident - インターネット・ムービー・データベース(英語) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%88 ディアトロフ峠事件(ディアトロフとうげじけん)とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイルKholat Syakhl山(Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意[1])の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ジャートロフ、ジャトロフ、Игорь Дятлов)の名前から、ディアトロフ峠(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、Перевал Дятлова)と呼ばれるようになった。 当時の調査では、一行はマイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていた[2]。 事件は人里から隔絶した山奥で発生し、生還者も存在しないため未だに事件の全容について不明な点が残されている[3][4]。当時のソ連の捜査当局は“抗いがたい自然の力”によって9人が死に至ったとし[3]、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた[2]。 目次 [非表示] 1 事件発生まで 2 捜索と発見 3 捜査 3.1 事件の原因 3.1.1 事件を巡る議論
4 その後 5 事件を扱った映画・その他作品 6 参考文献 7 脚注 8 外部リンク
事件発生まで[編集]
急病で旅から離脱することになったユーリー・ユーディンが、リュドミラ・ドゥビニナを抱擁して別れを惜しんでいる。脇で笑みを浮かべているのがリーダーのイーゴリ・ディアトロフ。 一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校(Уральский Политехнический Институт, УПИ)、現在のウラル工科大学の生徒か卒業生だった。メンバーは次の通りである。 1.イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ(Игорь Алексеевич Дятлов)、一行のリーダー、1936年1月13日生まれ。 2.ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ(Зинаида Алексеевна Колмогорова)、1937年1月12日生まれ。 3.リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ(Людмила Александровна Дубинина)、1938年4月12日生まれ。 4.アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ (Александр Сергеевич Колеватов)、1934年11月16日生まれ。 5.ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン (Рустем Владимирович Слободин)、1936年1月11日生まれ。 6.ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ(Юрий (Георгий) Алексеевич Кривонищенко)、1935年2月7日生まれ。 7.ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ(Юрий Николаевич Дорошенко、1938年1月29日生まれ。 8.ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ (Николай Владимирович Тибо-Бриньоль)、1935年7月5日生まれ。 9.セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ (Семен (Александр) Александрович Золотарёв)、1921年2月2日生まれ。 10.ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン(Юрий Ефимович Юдин)、1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没[5]。
一行の最終目的地は事件発生現場から10キロメートル北のオトルテン(ロシア語版)山に設定された。そこまでのルートは、事件当時の季節では踏破の難易度は極めて高いと推定されたが、一行の全員が長距離のスキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。 1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリ(英語版)に一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落ヴィジャイ(ロシア語版)に到着、そして1月27日いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日ユーリー・ユーディンが急病に侵され途中離脱、一行は9人になった。 ユーディンと別れて以降、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はついに山麓まで到達し、本格的な登山準備に入る一方で下山するまでに必要と考えられる食料や物資を取り分け、余剰となった分を帰路に備えて周囲に残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪、視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れ、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロメートル下って森林地帯に入って風雪を凌ごうとせず、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした[2]。たった一人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは既に登っていた地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている[2]。 捜索と発見[編集]
一行がキャンプを設営しているところ。1959年2月1日午後5時頃と推定される。写真はキャンプ付近で後に発見されたフィルム・ロールから現像されたもの。 ディアトロフは、一行がヴィジャイに戻り次第、速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていて、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかしディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず、誰もこの事に特に反応しなかった。こうした遠征には、数日の遅れは付き物だったのである。2月20日になってようやく、一行の親族達の要請で、ウラル科学技術学校が、ボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った[2]。その後、軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。
2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で酷く損傷して放棄されたテントを発見した。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている[2]。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの、靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロメートル北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなった。森のはずれで、捜索隊は大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見した。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、恐らく一行が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を見ていたことを示していた。ヒマラヤスギとキャンプの間で、捜索隊は更にディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの三人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置から別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。 残り4人の遺体を探すのには、更に2ヶ月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木から更に森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者達に譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。 捜査[編集]
1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバー達は靴下や裸足でテントから逃げ出していた。 最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められた。検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかった事がわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明した。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。
5月に発見された4人の遺体の検死は、事情が違った。彼らのうち3人が、致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士(Dr. Boris Vozrozhdenny)は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった[2]。当初、先住民のマンシ人(英語版)が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された[2]。 気温がマイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。低体温症による死亡のうち、20から50パーセントはいわゆる矛盾脱衣と関連があり[6]、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まっただろう[7][8]。 事件の原因[編集] 超常現象から軍の秘密兵器実験に至るまで(後述)、事件を様々な原因と結びつけようとする説が持ち上がったが、なかでも事件のもっともらしい説明の一つとみなされているのが雪崩である[9]。 この説に基づくシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、キャンプ地を破壊したというものである。一行はテントを切り裂いて逃げ出したが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまった。氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招く[10]。チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所に居るのも構わず、助けを求めて移動しようとし、渓谷に滑落した。彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左と見なしうる。 この説を支持する要因は、雪の降り積もった山の斜面における雪崩が、特段珍しいものではないことである。この一帯は雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はあるものの[11]、面発生表層雪崩は新雪が積り、人が雪塊を崩したところでよく起こる[12]。事件のあった夜は雪が降っており、キャンプ地は山の斜面にあって、一行がいたために雪塊は不安定になっていた。そして、テントは部分的に切り裂かれ、雪に覆われていた。これらのことは、小規模な雪崩がテントを押し流したという説を支持する根拠になる。 一方、捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことと、足跡に明らかな雪崩の影響が見られなかったことは、雪崩説を否定する根拠になるかもしれない。しかし、キャンプが発見される以前の25日間に降雨がなく、かつ大量の雪が降った後に雪崩が起きたとすれば、足跡が保存される可能性はある。 ジャーナリスト達は、入手可能な死因審問の資料の一部が、次のような内容であると報告している。 一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。 9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。 テントは内側から切り開かれていた。 一行は、最後に食事を取ってから6時間ないし8時間後に死亡した。 キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。 先住民のマンシ人が一行を襲撃したという説を払拭するために、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と述べた[2]。 何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められた[2]。 発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。 当局の最終的な調査結果は、全員が“抗いがたい自然の力”によって死亡したというものであった[3]。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論した。資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、幾つかの資料が失われていた[2]。 事件を巡る議論[編集] 研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。 後にエカテリンブルクに拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ(Юрий Кунцевич)は、一行のメンバー達の葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している[2]。 幾つかのメンバー達の衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。 事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している[2]。同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている[2]。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ(Eugene Buyanov)によって証明されている[13]。 一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測に繋がる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。 ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。 その後[編集] 1967年、スヴェルドロフスク州の著述家でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイ(Юрий Яровой)は、この事件にインスピレーションを受けた小説「最高次の複雑性」 (Of the highest rank of complexity,Высшей категории трудности)[14]を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していた。小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようであるが、いずれも検閲で出版を拒否された。1980年に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまった。 1990年になると、事件の詳細の一部が、以下の出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで、公にされるようになった[要出典]。そうした最初の出版物の著者の一人が、アナトリー・グシュイン(Анатолий Гущин)である。グシュインは、警察当局が死因審問のオリジナルの資料を調査し、それらを出版物に使うことを認める特別許可を出したと報告している[要出典]。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ(envelope)」などに関する、多数のページが資料から消されていたことに気づいた。同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の非公式な研究者の間に出回り始めた[要出典]。 グシュインは、彼の著書「国家機密の価値は、9人の生命」(The Price of State Secrets Is Nine Lives,Цена гостайны – девять жизней)の中で、調査結果をまとめている[3]。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は超常現象への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。そうした中の一人が、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフ(Лев Иванов)であった。1990年の彼の著書[15]によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して、捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けたというのである。イヴァノフ個人は、何か超常現象─具体的に言えば、UFOなど─が起きたことを信じているという。 2000年、地元テレビ局が、ドキュメンタリー番組「ディアトロフ峠の謎」(The Mystery of Dyatlov Pass,Тайна Перевала Дятлова)を制作した。制作にあたっては、エカテリンブルク在住の著述家で、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説[4]を執筆したアンナ・マトヴェーエワ(Анна Матвеева)が協力した。この小説の大部分は事件の公式の資料や、犠牲者達の日記、捜索に携わった者からのインタビューや、映画製作者が集めたその他の資料の引用から成っていて、物語のおおまかなあらすじは、事件を解明しようと試みる現代に暮らすある女性(著者自身の分身)の、日々の日常と考えを追うといった内容である。 フィクション小説であるにもかかわらず、マトヴェーエワの著書は、事件に関して公表されてきた情報源の中としては最大級のものとして扱われ続けている。また、事件の資料やその他の文書のコピーや写しが、熱心な研究者に向けて、徐々にWebフォーラムで公開されはじめている[16]。 エカテリンブルクでは、ウラル工科大学の助けを借りて、ユーリー・クンツェヴィチによってディアトロフ財団が設立された。財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者達の記憶を保存するディアトロフ記念館を維持していくことである。 事件を扱った映画・その他作品[編集] ディアトロフ峠の謎 Тайна перевала Дятлова: 2000年, TAU (ウラル・テレビジョン・エージェンシー) (ТАУ – Телевизионное Агентство Урала, 2000г.)。 エンシャント・エイリアンズ(英語版) (シーズン3, 第10話: "Aliens and Evil Places")、ヒストリー・チャンネル。 映画『ディアトロフ・インシデント』、レニー・ハーリン監督作品。2013年2月28日公開[17]。 テレビ番組ダーク・マターズ: ツイステッド・バット・トゥルー(英語版)の2012年8月25日放送のエピソード"Cold War, Cold Case"の中で、事件について触れられている[要出典]。 アレック・ネヴァラ=リー(Alec Nevala-Lee)の2012年の小説City of Exilesの中では、事件が重要な位置を占めているという設定である[18]。 ロシアのトークショー番組"Let Them Talk"の2013年春の2時間スペシャルで、事件が特集された。 ギリシャの小説家Panayiotis Panagopoulosは、事件の舞台をオリンポス山の斜面に移した小説To Perasma tou Ignatiou(イグナティウス峠)を執筆した[19]。 参考文献[編集] McCloskey, Keith Mountain of the Dead: The Dyatlov Pass Incident (The History Press Ltd, 1 July 2013, ISBN 978-0-7524-9148-6) 脚注[編集] 1.^ 「死者の山」と解釈する人もいるが、野生動物の生息数が乏しく、この地域では狩りの獲物が見込めないところから来ている名前である。 2.^ a b c d e f g h i j k l m n Svetlana Osadchuk (2008年2月19日). “Mysterious Deaths of 9 Skiers Still Unresolved”. セントピーターズバーグ・タイムズ (ロシア) 2008–02–28閲覧。 3.^ a b c d Гущин Анатолий: Цена гостайны – девять жизней, изд-во "Уральский рабочий", Свердловск, 1990 (Gushchin Anatoly: The price of state secrets is nine lives, Izdatelstvo "Uralskyi Rabochyi", Sverdlovsk, 1990)[要高次出典] 4.^ a b Матвеева Анна: "Перевал Дятлова", "Урал" N12-2000, Екатеринбург (Matveyeva Anna: "Dyatlov pass", "Ural"#12-2000, Ekaterinburg) [1][要高次出典] 5.^ Дарья Кезина (2013年4月27日). “Умер последний дятловец”. Rossiyskaya Gazeta 2013年4月27日閲覧。 6.^ “"Paradoxical undressing" in fatal hypothermia”. J. Forensic Sci. 24 (3): 543–53. (July 1979). PMID 5416277.^ New Scientist (2007). “The word: Paradoxical undressing – being-human”. New Scientist 2008年6月18日閲覧。8.^ Wedin B, Vanggaard L, Hirvonen J (July 1979). “"Paradoxical undressing" in fatal hypothermia”. J. Forensic Sci. 24 (3): 543–53. PMID 5416279.^ Dunning, Brian. “Mystery at Dyatlov Pass”. Skeptoid. 2012年9月1日閲覧。 10.^ Schomberg, Jessie. “Hypothermia Prevention: Survival in Cold Water”. Minnesota Sea Grant. University of Minnesota. 2012年9月1日閲覧。 11.^ “Dyatlov Pass – Some Answers”. Curious World. Curious Britannia Ltd.. 2012年9月1日閲覧。 12.^ “Avalanches”. National Geographic. 2012年9月1日閲覧。 13.^ “The mystery of "fireballs" resolved (ru)”. Alpklubspb.ru. 2012年11月16日閲覧。 14.^ Яровой Юрий: Высшей категории трудности, Средне-Уральское Кн. Изд-во, Свердловск, 1967 (Yarovoi, Yuri: Of the highest rank of complexity, Sredneuralskoye knizhnoye izdatelstvo, Sverdlovsk, 1967)[要高次出典] 15.^ Иванов Лев: "Тайна огненных шаров", "Ленинский путь", Кустанай, 22–24 ноября 1990 г. (Ivanov, Lev: "Enigma of the fire balls", Leninskyi Put, Kustanai, Nov 22–24 1990)[要高次出典] 16.^ “Перевал Дятлова: форум по исследованию гибели тургру>> И. Дятлова”. Pereval1959.forum24.ru. 2012年12月27日閲覧。 17.^ “Dyatlov Pass Incident, The”. A Company Filmed Entertainment. 2013年4月2日閲覧。 18.^ “City of Exiles”. Publishers Weekly. 2013年2月閲覧。 19.^ The disappearence of the nine hikers. (in Greek) http://www.dete.gr/news.php?article_id=62198 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、ディアトロフ峠事件に関連するカテゴリがあります。 Map sheet of the Dyatlov Pass region (sheet P-40-83,84) scale 1:100000 (ロシア語) Deathly Urals location draws in tourists Complete photo gallery including search party photos (ロシア語) Some photos and text (ロシア語) Photo gallery including: party photos, photos of some investigator's documents including termination of criminal case act (ロシア語) Mystery at Dyatlov Pass – A look at one of the most bizarre cases in Russian cross country skiing history Skeptoid: Critical Analysis of Pop Phenomena The Dyatlov Pass Accident EErmaktravel.com article on the incident, part of series of "spooky" sites Photo-video site with English Atlas Obscura article on the Dyatlov Pass Incident Death on the trail. Controlled delivery theory by A. Rakitin(ロシア語) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E5%B3%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6 フィラデルフィア計画(フィラデルフィアけいかく、Philadelphia Experiment)は、ペンシルベニア州フィラデルフィア沖合で行われたとされる、アメリカ海軍のステルス実験(正式名称『レインボー・プロジェクト』)。 目次 [非表示] 1 「フィラデルフィア計画」 1.1 実験に至るまで 1.2 実験と結果 1.3 密告の発端
2 アメリカ海軍による見解 3 関連ドキュメンタリー作品 4 関連映画 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 「フィラデルフィア計画」[編集]
実験に至るまで[編集] この実験は、1931年、ニコラ・テスラが設立したと言われるレインボー・プロジェクトの一環であった。当時のレーダーは、「船体が発する、特徴ある磁気に反応するシステムである」と考えられていた[1]。そのため、テスラは、「テスラコイル(高周波・高電圧を発生させる変圧器)で船体の磁気を消滅させれば、レーダーを回避できる」と考えていた。 その後、この実験はフォン・ノイマンに引き継がれ、1943年、駆逐艦「エルドリッジ」に船員を乗せ、初の人体実験を行なうこととなる。 実験と結果[編集] 1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われた。 当時は第二次世界大戦の真っ只中であり、実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであった。 エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生 駆逐艦がレーダーからはもとより、肉眼でも認められなくなった。実験は成功したかのように見えたが、不可思議な現象が起こる。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていったのである。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまった。 「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りであった。しかし直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていたのである。それから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動した。 再び戻ってきたエルドリッジだが、驚くべきことに乗員は、次のような惨状に陥っていた。 体が突然燃え上がった 衣服だけが船体に焼き付けられた 甲板に体が溶け込んだ 発火した計器から火が移り、火だるまになった 突然凍り付いた(冷凍化) 半身だけ透明になった 壁の中に吸い込まれた また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図の如くであった。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだった。 こうして実験自体は成功したが、「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になった。このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したといわれている。 密告の発端[編集] そもそも、この「実験が行われた」という密告は、1956年にモーリス・ケッチャム・ジェサップ(天文学の分野で博士号を持つ作家)の元に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から届いた手紙に端を発する。その手紙には「レインボー・プロジェクト」の内容が克明に綴られていたという。 しかし、モーリスはこの手紙を受け取った3年後(1959年4月)、謎の自殺をしている(排気ガスをホースで車内にひきこみ、一酸化炭素中毒で死亡)。アメリカ海軍は総力をあげてアレンデという人物を捜したが、失敗に終わったという。 一説では、「マンハッタン計画に対する欺瞞作戦」とも言われる。現在でもこの不可解な超常現象の伝説は、多くのマニアを惹きつけている。 アメリカ海軍による見解[編集] エルドリッジは実在の駆逐艦である。アメリカ海軍歴史センター、および海軍研究所(ONR)の調査によれば、エルドリッジは8月27日にニューアークで就役して以来、1943年中には一度もフィラデルフィアに寄港していない。この期間を含めたエルドリッジの戦時日報はマイクロフィルムに保存されており、誰でもそのコピーの閲覧を請求できる。また、ノーフォークで、テレポートしてきたエルドリッジを目撃したとされる商船アンドリュー・フルセスは、記録によると10月25日にはノーフォークを出港しており、以降1943年中は地中海にあった。また、同船に乗り組んでいた米海軍予備士官ウィリアム・S・ドッジ少尉は、彼も他の乗組員もノーフォーク在泊中に特に変わったものは見ていないと断定する手紙を寄せている。そもそも、エルドリッジとアンドリュー・フルセスが同時にノーフォークに在泊していたことはない。エルドリッジは1951年にアメリカ海軍から除籍され、ギリシャ海軍に払い下げられ、1991年には除籍、解体のため売却されている。 ノーフォークを管轄する第5海軍管区の将兵は、海軍工廠で行われていた様々な実験がこの都市伝説の元となったのではないかと考えている。また現在に至るまで信じられている説としては、「消磁」に関する実験が誤解されたのではないか、という説がある。この消磁とは、艦船が持つ磁気が地磁気を乱すのを探知して爆発する「磁気機雷」から身を守るため、艦船に電線を巻き付け電流を流し、電磁石の原理でもともとの艦艇の磁気を打ち消す作業のことである。消磁をきちんと行えば、艦船は磁気機雷からは「見えなく」なる。ただし、人間の目やレーダー、ソナーなどには通常通り映る(詳しくは「船体消磁」の項参照)。 別の説としては、1950年代に駆逐艦ティマーマン(Timmerman)で行われた、通常の400Hzの発電機ではなく、コイルを小型化できる高周波数(1,000Hz)の発電機を搭載する実験が元となったというものもある。この実験では高周波発電機から放電現象などが起こった。乗組員に実験による影響はなかった。 なお、1956年に、様々な科学的な手書きのコメントが書き込んである、モーリス・ジェソップが出版したUFOに関する本が海軍研究所に郵送されてきた。個人的に興味を持った研究所の研究員がこの本をジェソップに見せたところ、ジェソップはこの本のコメントを書きこんだ人物と、以前フィラデルフィア計画について手紙を彼のところに送ってきた人物は同一人物だろうと推断したという。 関連ドキュメンタリー作品[編集] 特命リサーチ200X F.E.R.C Research Report - File No.0415「フィラデルフィアの怪実験を追え!」(日本テレビ 1998年1月18日放映) 関連映画[編集] 『フィラデルフィア・エクスペリメント』 原題 : The Philadelphia Experiement 製作 1984年 アメリカ 出演 マイケル・パレ 監督 スチュアート・ラフィル 製作総指揮 ジョン・カーペンター 都市伝説としての同実験をモチーフに、サスペンスやアクション、ラブストーリー等の要素を取り入れたSF映画。実験によって時空の狭間に停止してしまった駆逐艦エルドリッジから脱出した乗員デビッドとジム。艦から飛び降りた2名は40年後(1984年)のネバダ砂漠にタイムスリップしてしまった。だがエルドリッジに積まれた磁場装置が時空の狭間で稼働したままになっていることで地球の時空が崩壊しつつあり、デビッドは地球の危機を救うため艦に向かう・・というストーリー。『フィラデルフィア・エクスペリメント2(英語版)』(1993年) 脚注[編集] 1.^ 実際のレーダーの作動原理とは異なっており、それは当時から判明していたことである。 関連項目[編集] ニコラ・テスラ テスラコイル 外部リンク[編集] Science Article about High Tech Materials that can funnel light around an object(英語) Link catalogue for the Philadelphia Experiment and the Montauk Project(英語) Site debunking the claims of one Alfred Bielek, allegedly an eyewitness and survivor of the Philadelphia Experiment(英語) Excerpts from The Case for the UFO(英語) Transcription of the Varo Edition of The Case for the UFO(英語) 2 chapters of Gone Dark by "W.B. Smyth", supposed "document" of the experiment. 50 Years after Albert Einstein: The Failure of the Unified Field(英語) Naval Historical Center's entry for the "Philadelphia Experiment"(米海軍歴史センターによる調査結果)(英語) Navweaps.com entry for the "Philadelphia Experiment"(英語) 「Philadelphia Experiment」 - Skeptic's Dictionaryにある「フィラデルフィア計画」についての項目。(英語) The UFO and the Sailor(英語) Robert Goerman's Alias Carlos Allende: The Mystery Man Behind the Philadelphia Experiment(英語) Joe Turner's The Philadelphia Experiment: What They Don't Want You to Know(英語) Anatomy Of A Hoax: The Philadelphia Experiment 50 Years Later(英語) Straight Dope on the Philadelphia Experiment(英語) Recreation of the Philadelphia Experiment in 2006(英語) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E8%A8%88%E7%94%BB 『フィラデルフィア・エクスペリメント』(原題:The Philadelphia Experiment)は、1984年制作のアメリカ映画。 有名な都市伝説「フィラデルフィア計画」をモチーフに造られたSF映画。当初は製作総指揮のジョン・カーペンターが監督する予定だった。シナリオもカーペンター版とは全く異なるものである。 目次 [非表示] 1 あらすじ 2 キャスト 3 関連項目 4 脚注 5 外部リンク
あらすじ[編集]
第二次世界大戦中の1943年、フィラデルフィア港でアメリカ海軍によるある極秘実験が行われようとしていた。“フィラデルフィア計画”と呼ばれるその実験は、敵のレーダーから消え、味方の船を探知されないようにするというものであった。 その実行役となった水兵のデイヴィッドとジムが実験機械のスイッチを入れた途端、実験の舞台である駆逐艦エルドリッジはレーダーのみならず、実際に海上からも姿を消してしまった。艦はしばらくして再び出現したが、艦内では乗組員が大火傷を負ったり、艦の壁や甲板に身体がめりこんだりしており、デイヴィッドとジムは姿を消してしまっていた。 その頃、デイヴィッドとジムは、時空間をトリップして1984年のネバダ州の砂漠にタイムスリップしていた。2人は行きずりで出会ったアリソンと共に逃避行に出る。 一方、実験の指揮者であるロングストリート博士は、41年前と同じ実験を今度は砂漠のゴーストタウンを対象にして行なう。するとジムは激しい痙攣を起こし、赤い電磁波に包まれて消滅してしまった。 今回の実験のエネルギーがあまりに膨大なものだったので、時空の連続体にひずみが生じて巨大な裂け目が現出、様々な異常気象を発生させたのだ。さらに実験の影響で空にできた渦があらゆるものを吸い込み、地球そのものにも危機が迫っていた。 デイヴィッドはアリソンと共に実験場へ乗り込み、これを食い止めようとする。 キャスト[編集] 役名
俳優 日本語吹替 フジテレビ版
テレビ朝日版 デイヴィッド マイケル・パレ 神谷明 山寺宏一 アリソン ナンシー・アレン 小宮和枝 小山茉美 ジム ボビー・ディシッコ 中尾隆聖 堀内賢雄 ロングストリート博士 エリック・クリスマス 山内雅人 パメラ ルイーズ・レイサム 佐々木優子 バーニー スティーヴン・トボロウスキー クラーク少佐 キーン・ホリデイ 大塚明夫 ベイツ保安官 ジョー・ドーシー 石森達幸 1985年12月7日 フジテレビ「ゴールデン洋画劇場」TV初放送。 テレビ朝日版その他、大塚芳忠、滝沢久美子、加藤精三、田原アルノ、藤波京子、小島敏彦、筈見純、糸博、幹本雄之、荒川太郎、西村知道、稲葉実、喜多川拓郎、松本保典、梁田清之、青木和代、城山堅、秋山嘉子、喜田あゆ美、叶木翔子 関連項目[編集] フィラデルフィア計画 陰謀論 ステルス性 脚注[編集] 1.^ The Philadelphia Experiment (1984) - Box Office Mojo 外部リンク[編集] フィラデルフィア・エクスペリメント - allcinema フィラデルフィア・エクスペリメント - KINENOTE The Philadelphia Experiment - AllMovie(英語) The Philadelphia Experiment - インターネット・ムービー・データベース(英語) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
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