14. 2014年1月27日 02:44:38
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「小野田寛郎・元少尉と陸軍中野学校」 終戦後もフィリピン・ルバング島で29年間も「残置諜者」として活動を続けていた小野田寛郎・元陸軍少尉が、1月16日に亡くなりました。91歳でした。
「残置諜者」とは、敗戦後も戦地に残り日本帝国復活のために情報収集や破壊活動を続ける役割で、小野田氏は1974年3月に元上官による任務解除命令を受けてようやく帰国しました。今回も「終戦を知らずにいた」との報道が一部にありますが、完全な間違いです。 1974年に小野田氏がジャングルから出てきた時の模様はテレビ報道され、眼光鋭く威厳に満ちた「現役の日本軍人」そのものの姿が今も印象に残っています。戦闘用に保持していた小銃や軍刀はそのまま使える状態で、実際に米軍や現地警察と何度も交戦状態となり部下を失い、盗んだトランジスタラジオを短波受信機に改造して世界情勢も正確に把握していました。 「決して自決せず、何年でも生き残って情報収集に努めよ」との命令をしっかりと守っていたのです。つまり小野田さんは「信じられないほど優秀な情報工作員であり、同時に戦闘要員」だったことになります。また英語と中国語にも堪能だったようです。 小野田氏は終戦前年の1944年11月に陸軍中野学校二俣分校を卒業し(中野学校は軍歴に記録されないため正確には退校)、その後すぐに残置諜者としてフィリピンのルパング島に送られました。 陸軍中野学校は、情報工作員の養成機関として1938年に創設されました。つまり終戦までの7年間しか存在していませんでした。翌1939年に正式に陸軍参謀本部直轄となり東京都中野区に移転しました。 もともと満州には関東軍情報部があり、支那(中国)には参謀本部直轄の特務機関があり、それぞれ積極的な諜報活動を行っていました。そこへ新たに陸軍中野学校を創設した理由は、「軍人らしくなく軍人にない能力を持つ情報工作員」を養成するためだったと思われます。 実際に中野学校の卒業生は、一般大学や高校の卒業生や会社勤めの経験者も多く、エリートである士官学校出身者はほとんどいませんでした。また戦況が悪化した1944年には静岡県二俣町にゲリラ戦の戦闘要員を養成する二俣分校が設立され、小野田氏はここを卒業しています。 陸軍中野学校の在籍は軍歴に含まれずしたがって卒業名簿なども存在せず、「授業内容」も一切明らかにされていません。またその「卒業者」が戦争中はどこで何をしていたのかとか、戦後はどのような活動をしていたのかなども、ほとんど明らかにされていません。 非公式な集計では中野学校の「卒業者」は2131名で、戦死者(刑死者を含む)が297名、行方不明者376名とされています。残る1458名は終戦時に生存していたはずですが、その後の活動はほとんど明らかにされていません。 あくまでも本誌の推測ですが、かなりの数の「卒業生」が能力を買われてGHQに徴用され、GHQの表に出せない活動(例えば下山事件など)の実行部隊にされていたかもしれません。また少なからずの「卒業生」が戦後も中国・ロシア・韓国・北朝鮮に残り、それらの政府のために合法・非合法活に従事していたかもしれません。 中野学校の「卒業生」は、どんな困難な指令でも必ずやり遂げていたはずです。 小野田氏も帰国後1年もたたないうちに、世間の好奇の目を避けるようにブラジルに移住し、ゼロから荒れ地を開墾して大規模な牧場経営を始め軌道に乗せます。晩年は日本とブラジルを行ったり来たりしていました。 フィリピンでのサバイバル生活について語ることはあっても、中野学校で教えられたことや命令されたことや仲間の活動などに関しては、固く口を閉ざしたままでした。 文字通り「たくさんのことを墓場に持っていってしまった」ことになります。 小野田氏は講演を依頼されることも多かったのですが、帰国後の日本、皇室、政治、日本人などについても、ほとんど発言することはありませんでした。「釈然としないこと」が多かったはずです。 また「本物の日本人」が1人、日本からいなくなってしまいました。 ご冥福をお祈り申し上げます。 http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1005.html 闇株新聞
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