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この暑いさなかに、なんと縁あって、歌舞伎と文楽、連チャンでいくことになった。
八月納涼歌舞伎、「狐狸狐狸ばなし」
まあ、歌舞伎のドロドロ物のなかでも筆頭格^^
生臭坊主と人妻おきわが出来てしまった。おきわの夫伊之助はもと上方芝居の女方。
おきわの体を毎晩ベロベロなめ回すスケベ。
そんな夫に嫌気がさしてきたところ、おきわの浮気相手の坊主に縁談が舞い込んだ。
相手は男の体をベロベロ舐めるのが好きな牛女^^^^
おきわは嫉妬に狂うが、坊主は「テメーの旦那を殺したら一緒になってやる」と言い放つ。
真に受けたおきわはスケベ旦那を毒殺、牛女を追い出して坊主に一緒になろうと迫る。
ところが・・・
がははは、こんな下品な話、アタクシには関係ありませんわ・・・
なんて顔をした、オバサマ達が、なんとなく汗っぽくなりながら、ふふふふ笑いながら、異様というか、狂っているというか、いや、歌舞伎って、まさに、そーなんですよ。
しかも、俺の隣にいたオナゴは、まだ二〇歳前半、こんな話わかるの?って子が真剣に観てるのね。
最前列にいた母親と二〇歳くらいのお嬢さん、人生を誤らないように@@
おきわは七之助。
いよいよ女形の最盛期に突入の感があり、奇妙な色気がでてきて玉三郎よりいい。
勘九郎も真摯な柔らかみがあって、勘三郎亡き後、中村屋はびくともしない趣。
さて次の日は三谷文楽「其礼成心中」
三谷は「おのれナポレオン」の失敗を確認して、もう観る気がしなくなったのだが、「其礼成心中」は妙に人気があったので行きたかったの。
チケットがどーしても手に入らずガックリしていたら、
「みっちゃん、お元気−」
と、どこからか、かわいい声が聞こえてきたんだな@@
はふはふ、アナタは、ユウちゃんじゃありませんか!
え?文楽にはまっている?「其礼成心中」東京まで観に来る?え、チケット取ってくれる!
いやはや、なんと、ユウちゃんが、文楽のファンになっておりまして、○○さんの後援会に入っていたんだな。
で、あなた、すぐに実力行使してくれて、チケット取ってくれたんです、
ありがと、ありがと。
そんなわけで、真夏のパルコ劇場へ。
その席がまた、ピッタシの良席で、いたく泣けました。
三谷先生、大夫と三味線を正面の天井近くに宙づりにしたんですね。
だから全体の目線バランスが舞台の中程になる、最前列ですと相当に見上げないと全景がつかめない。
アタシの席は6列目で、人形と目があいました。
話のほうは三谷版ですから、最初からパシパシ小気味よく走らせていく。
その走らせ方と太夫の声のウネリ具合は齟齬をきたしていなかったので、練りあげ成功と
いってもいいでしょう。
アタシはいつも思うのですが、いろんな意味でのコラボというのは、双方がそれぞれの
世界で、すでに独自なものを形づくっていますね。
とくに文楽には何百年という歴史がある。
その時間の重みで醸造された香りというものを、、三谷先生は簡単に獲得出来るでしょうか。
そんなことは出来るわけがない。
三谷自身が近松の言葉にすり寄ることの困難さを書いています。
じゃあ、どうやって融合するの?どうやって切磋琢磨して止揚して、ステージを上げていくの。
それが楽しみで、あるいは皮相的な目で、観客は観にいっているかもしれない。
だから、腹の練り具合、こーゆう言葉がピンとこない方は、すでに日本芸能とは縁遠い方
だと思うのですが、この練り具合が、うまくいったと感じた次第であります。
そして、やはりというべきか、コラボの力配分では、七割方文楽の色気にアタシは感激したのであって、残りの三割が三谷采配ということになりましょうか。
劇中、登場人物が文楽を観劇する場面がある。
『心中天網島』です。
そこで光の白い配色が心中する二人を照らし出す、人形の純白な顔、手、首スジ、うねりくねる腰。
観劇する二人は暗めの黄色い光のなかで身もだえしながら興奮して観ている。
いってみれば我々は箱庭を眺めながら世界を観ているような構図なんですが、その箱庭の
なかで悶えているのは、われわれ観劇者の投影でもあるんです。
そんな奇妙な立体交錯の中で、お人形さんのシロだけが息苦しいほどのリアリティで黒空間に勃起していく。
はふはふ、いや、勃起とはこーゆうときに使うんですよ。
文楽は血を抜いたエロス、だから、どんなおぞましい風景を眺めようとも、アタイは負の
興奮を伴いながら入っていける。
三谷は人生を生きていく上での知恵を、いろいろ、お人形さんに語らせていました。
あの愚直な言葉の温かみが、もしかしたら、文楽の新しい世界を広げていくかもしれない。
三谷文楽、これだけの成果を上げたのだから、さらに介入すべし・
http://sniperfon.exblog.jp/i0/
八月納涼歌舞伎・・・「狐狸狐狸ばなし」「棒しばり」2013年08月04日
今月の歌舞伎座の夜の部の第三部は、喜劇のオンパレード、勘三郎の趣向であろう。
とにかく、北條秀司作の色と欲の皮のつっぱた狐と狸の化かし合いのどんでん返しと、狂言オリジナルの歌舞伎で、酒好きの太郎冠者次郎冠者が、両手を縛られても飲みたい一心で必死になって編み出した珍芸の披露であるから、面白くない筈がない。
お化けの芝居も良いが、暑気を一気に笑い飛ばすと言うのも、夏の良い趣向である。
まず、「狐狸狐狸ばなし」が面白いので、一寸長いが、概略次の如し。
手拭屋の伊之助(扇雀)はもと上方芝居の女方で、その女房おきわ(七之助)は元下座で三味線をひいていた女だが、酒飲みで怠け者の上、近所の閻魔堂に住む法印の重善(橋之助)と乳繰り合う仲。
ところが、重善に、財産家「山権」の娘で舐め回すので「牛娘」と評判のおそめ(亀蔵)との婿養子の話が持ち上がっており、
重善のすむ閻魔堂へ、おそめとの間を仲介した福蔵(巳之助)がやってきて重善に婿入りを催促していると、そこへおそめも忍んできて重善に口移しでお酒を飲ませたり、ベロベロ嘗め回したりしていると、おきわがやってきて怒って刃物をふりまわすので、おそめは逃る。
おきわが一緒に逃げようと言うと、重善は亭主を殺したら一緒になってやると言う。
家に帰ったおきわは、伊之助が用意しておいたふぐ鍋を食べ始める。一寸頭の弱い手伝いの又市(勘九郎)が、染め粉を買って来て棚に置いたので、伊之助は「染め粉は毒だから注意するように」と言ったのを聞いていたおきわは、伊之助が部屋を出た隙に、染め粉をふぐ鍋に入れる。戻ってきた伊之助は、味がおかしいといいながらふぐ鍋を食べて、苦しみだして倒れる。
翌日、伊之助はふぐにあたって死んだと言うことにして、重善が経を読んで葬式をだし、火葬場に運ぶ。又市を番に残し重善とおきわは閻魔堂へ引き上げる。
ところが、死んで火葬した筈の伊之助が、家で相変わらず立ち働いているので、仰天しながらも、伊之助はどうも幽霊ではなさそうだと思い直して、重善、甚平、福蔵、又市とおきわは一計を案じ、古沼のほとりでもう一度伊之助を殺すことにする。
とぼとぼとやって来た伊之助を、又市が、今までこき使われてきた恨みをはらしたいので、殺害を自分にやらせてくれと言うので死体を沼の底に沈めるのも総て任せて、後の連中は夜鳴き蕎麦を食べながら待つ。しばらくして、又市が帰ってくるのだが、またもやその後から伊之助の亡霊がついてくるので皆恐れおののいて逃げ出す。
閻魔堂で、おきわが重善に一緒に逃げてくれと縋るが、重善が伊之助の亡霊から逃れたい一心で牛娘と一緒になろうとしているのを悟って、重善に、伊之助に飲ませた染粉の毒を酒にまぜて飲ませ、自分も死のうと飲む。二人とも悶えるが苦しくも痛くもない。
しかしここへも伊之助の亡霊がやって来るので、重善は泡を喰らって逃げ出し、おきわは気を失って倒れる。
数日後、伊之助の家に庭先で、気のふれたおきわが三味線を弾いている。
実は、伊之助を殺した又市は狂言作者で、おきわの浮気に悩んだ伊之助に頼まれて、毒だという染め粉も嘘で殺したと言うのも嘘、グルになって一芝居打っていたのである。放心状態になったおきわの口にご飯を食べさせてやる伊之助は、もう浮気される心配もなくなったと喜び、おきわを置き去りにして又市と遊びに出かける。
そこへ寺男の甚平がやってくると、気がふれた筈のおきわが、ウキウキしながら重善からの便りを聞いて、喜んで「金毘羅船船・・」を爪弾きだす。
騙した筈が騙されていた、正に色と欲の突っ張った狐と狸の騙し合いの夫婦物語。
さて、この「狐狸狐狸ばなし」だが、昭和36年に、森繁久弥・山田五十鈴・十七代目中村勘三郎・三木のり平で初演され、勘三郎の重善、森繁の伊之助、山田五十鈴のおきわ、三木のり平の又市と言うのだから、さどかし抱腹絶倒、空前絶後の喜劇の世界が展開されたのであろう。
その後の“新歌舞伎”の舞台では、十八代目の勘三郎が、福助や扇雀のおきわを相手にして伊之助を演じているのであるから、七之助や勘九郎が、素晴らしい喜劇役者ぶりを見せてくれるのも当然であろうか。
しかし、勘三郎が存命であれば、中村屋一家の極め付きの「狐狸狐狸ばなし」が鑑賞できた筈なので、残念ではある。
さて、ここで、大阪弁を上手く喋らなければならないのが、伊之助とおきわと又市だが、関西人の扇雀は当然としても、中村屋の両兄弟もそれ程なまりが気にならない感じで良い味を出している。
七之助の重善への情の深くて激しいアタック振りや、頭の弱いボケ役の又市の勘九郎ともに、中々の芸達者であり、二人で、素晴らしい「狐狸狐狸ばなし」をお家芸にするのは、何時の事だろうか。
扇雀は、あの「夫婦善哉」の維康柳吉をやらせても良い味を出すと思うのだが、上方芝居の女形と言う役どころがぴったりで、ほんわかとした味と、愛嬌のある幽霊ぶりが面白い。
橋之助の助平で節操のない生臭坊主ぶりは、中々秀逸で、海老蔵もやったと言う同じセリフ「おれはどうしてこう女に惚れられるんだろうなぁ」と言うニヤケ振りも含めて、やはり、この舞台の要であろう。
ずっと、牛女おそめを演じていると言う亀蔵だが、厳つい顔をした醜女の凄さ面白さは流石で、激しくアタックして押し倒された橋之助が口に武者ぶりつかれたり舐め回されたりして、必死になって逃れようとする異様な姿が爆笑を誘う。
「棒縛」は、今年の2月の国立能楽堂での「式能」で、和泉流の野村万蔵家の素晴らしい狂言の舞台を観ており、歌舞伎での「棒しばり」は、久しぶりなので、そのバージョンの違いに興味を持って鑑賞した。
棒で縛られるのがシテで、面白いのは、和泉流では、太郎冠者がシテなのだが、大蔵流では、次郎冠者がシテで、この歌舞伎は、三津五郎が奴だこのように棒で縛られる次郎冠者、勘九郎が太郎冠者、そして、彌十郎が主・曽根松兵衛なので、その流れを受けたのであろう。
主人は、外出の用事が出来たのだが、太郎冠者次郎冠者が、留守中に酒を盗み飲みする心配があるので、一計を案じて、次郎冠者に棒を使わせて不意を突いて棒に両手を縛り、油断したすきに太郎冠者を後手に縛って、出かけて行く。
そんな不自由な格好になっても、二人は、好物の酒を飲みたい。
四苦八苦の末に、奇抜な手を考えて、次郎冠者が、右手に持った杯で酒を梳くって太郎冠者に飲ませ、次は、その盃を太郎冠者の後手に持たせて次郎冠者が飲む。
これを繰り返してほろ酔い機嫌になって、調子に乗って舞いを舞って酒盛りを楽しんでいるところへ、主人が帰って来て、大騒動。
と言うのが話の筋だが、能と歌舞伎では、同じ、パーフォーマンス・アーツでも、その違い、バリエーションが面白い。
狂言では、帰って来た主が、酒宴を見て憎い奴だと独白した後(静かに近づくだけの場合もある)、二人の間に置かれた盃の後に立ったので、主の顏が、盃に映るのだが、これは、留守中に酒を盗み飲みされやしないかと言う主の執心が映ったのだと二人は語り合って、これについて謡があると言って、「月は一つ、影は二つ、みつ潮の夜の杯は、主を乗せて、主とも思わぬ内の者かな。」と謡って舞う。
これは、能「松風」の海女の謡をもじったパロディ版となっており、怒った主が中に割って入って二人は追い込まれる。と言う話になる。
ところが、歌舞伎の方では、杯に影が映ると言った粋な趣向は消えて、酒宴中の二人に割り込んだ主人が、怒りながら一緒に舞うと言った形で終わっていて、狂言のような一寸捻ったアイロニー風の深みには欠けている。
もう一つ、最初に、杯で酒を梳くって飲もうとしたシテが、杯に口が当てられないので、飲もうと杯を傾けると前のめりになったり酒が顔にバシャリと来るところなども含めて、不自由な両手縛りながら、酒を飲みたい飲もうと言った演技上の仕草などや、両手縛りでのさす手引く手を肩と顎で表現するなど、狂言の方が工夫がなされていたような気がするのだが、その代わり、松羽目もの歌舞伎は、三味線を活用できたと言う特色を生かして、バックに陣取った豪華な長唄囃子連中の共演を得て、非常に、舞い踊りの舞台が華やかで、見せて魅せる舞台であり、特に、三津五郎の本領発揮のシーンが楽しませてくれた。
杯を地面に置いて、這い蹲って酒を飲んだり、その盃の尻を相方が足先で持ち上げたり、歌舞伎の演技のコミカルさは、狂言の洗練された演技とは違って、もっとリアルで面白い。
主は、狂言では人間国宝の野村萬、歌舞伎では彌十郎が演じていたのだが、やはり、台詞回しは、狂言の方が、はるかに本格的で味があって良く、彌十郎の方は、どこか間延びがして冗長な感じがしたのだが、これは、三津五郎も勘九郎も同じような感じで、歌舞伎独特の松羽目ものの本歌取りとしての舞台のあり方が違うのかも知れないと感じた。
三津五郎、勘九郎、彌十郎、夫々に、遊び心とユーモアのセンスを十二分に備え持った卓越した歌舞伎役者なので、実に楽しい舞台を楽しませて貰った。
2 コメント
Unknown (mom)2013-08-12 23:48:18
本日、歌舞伎座に行ってまいりました。
3部、棒しばりめあてにいきましたが2作品とも、本当に楽しかったです。
扇雀さん、艶っぽくていいですね。
びっくりです。
物語も面白くて何度も笑ってしまいました。
棒しばりは勘九郎さんがお父さんの芸を引き継いでいてよかったですねえ。
三津五郎は当代きっての日舞の名人。
うまいなあと思いました。
歌舞伎を知らない人、歌舞伎を敬遠している人に是非観て欲しいとおもいました。
追記 (ポコマム)2013-08-12 23:50:52
昭和36年に、森繁久弥・山田五十鈴・十七代目中村勘三郎・三木のり平で初演され・・・これは面白かったでしょうねえ。観てきたいです。
http://blog.goo.ne.jp/harunakamura/e/0bca4064da85f36860482358b9783382
狐狸狐狸ばなし 鮮かなどんでん返し 2003.12.26
20日、歌舞伎座夜の部を見てきました。
主な配役
伊之助 勘九郎
おきわ 福助
重善 新之助
又市 弥十郎
牛娘 おそめ 亀蔵
寺男 甚平 家橘
博打打ち 福蔵 市蔵
「狐狸狐狸ばなし」のあらすじ
吉原田圃で手拭屋をしている伊之助はもと上方芝居の女方。その女房おきわも元下座で三味線をひいていた女だが、酒飲みで怠け者の上、今では近所の閻魔堂に住む法印の重善と深い仲である。
ところがその重善に婿養子の話が持ち上がった。相手は上方下りの財産家「山権」の娘で世間では「牛娘」と評判のおそめ。これを聞いて嫉妬するおきわに、重善は「伊之助が気がつかないうちに別れよう」と持ちかけるが、おきわは「亭主は自分たち二人の仲を知っている」と言い出す。
こちらは重善のすむ閻魔堂。おそめとの間を仲介した福蔵がやってきて重善に婿入りを催促する。そこへおそめも忍んできて重善に口移しでお酒を飲ませたり、ベロベロ嘗め回したりしていると、おきわがやってきて刃物をふりまわし、おそめは逃げ帰る。
おきわが「いっしょに逃げて」と頼むと「それなら亭主を殺せ」と重善は言う。
伊之助のうちでは、伊之助が女房のオコシを洗濯しているところ。そこへ帰ってきたおきわと、用意しておいたふぐ鍋を食べ始める。するとちょっと頭の弱い手伝いの又市が、染め粉を買って帰ってくる。伊之助は「染め粉は毒だから注意するように」と言う。
それを聞いていたおきわは、伊之助が部屋を出た隙に、染め粉をふぐ鍋に入れる。戻ってきた伊之助はふぐ鍋を食べて、苦しみだし倒れる。
翌日、「伊之助はふぐにあたって死んだ」ということにして重善が経を読んで葬式をだし、火葬場に運ぶ。又市を番に残し重善とおきわは閻魔堂へ引き上げる。その後から亡者の姿の伊之助が付いていく。
その次の朝、二人のところへ青い顔をした又市が「だんなさんがお上さんを呼んで来いといっている」と言いにくる。たしか昨日火葬にしたはずなのにと、皆はぞっとする。そこへおきわを迎えに来た伊之助見て、重善は狂ったように木魚をたたき出す。
伊之助はどうも幽霊ではなさそうなので、重善、甚平、福蔵、又市とおきわは一計を案じ、古沼のほとりでもう一度伊之助を殺すことにする。
すると又市が「今までこき使われてきた恨みをはらしたいので、自分にやらせてくれ」と言い出し、後の連中は夜鳴き蕎麦を食べながら待つ事にする。
しばらくたって又市が「死体は沼の底に沈めた」と帰ってくる。しかしまたもやその後から伊之助の亡霊がついてくるので皆恐れおののいて逃げ出す。
閻魔堂ではおきわが重善に一緒に逃げてくれるよう必死にたのむが、重善は伊之助の亡霊から逃れたい一心で、牛娘の親の世話になることにひそかに決めている。それを悟ったおきわは重善に、伊之助に飲ませたと同じ毒を酒にまぜて飲ませ、自分もそれを飲みほす。
毒を飲まされたと知って重善はも今にも死ぬと動転するが、なぜだか何事もおこらない。しかしここにも伊之助の亡霊がやって来るので、重善は泡を喰らって逃げ出し、おきわは気を失う。
それからしばらくたったある日、伊之助の家では気のふれたおきわが庭先で三味線を弾いている。
実は伊之助を殺したはずの又市は狂言作者で、おきわの浮気に気をもんだ伊之助に頼まれて一芝居うったのだった。毒だという染め粉もわざと仕掛けた嘘だった。
何もわからなくなったおきわの口にご飯を食べさせてやる伊之助も、今ではちょっぴり後悔している。だが「もう浮気される心配もなくなった」と伊之助はおきわをおいて又市と遊びに出かける。
ところがそこへ寺男の甚平がやってくると、皆がてっきり気がふれたとばかり思っていたおきわは、なんとウキウキしながら重善からの便りを聞いているではないか。だましたと思ったらだまされていた、狐と狸の化かしあいのような夫婦だったのだ。
北条秀司作の傑作喜劇、「狐狸狐狸ばなし」は昭和36年に伊之助に森繁、重善に勘三郎、おきわに山田五十鈴、又市に三木のり平に当てはめて書かれた芝居。
森繁と五十鈴は大阪出身だったので元は大阪が舞台だったのですが、昭和54年に大阪中座で上演される際「江戸みやげ狐狸狐狸ばなし」と舞台が江戸に書き換えられたそうです。
福助のおきわが、野田歌舞伎のノリで個性を十二分に発揮していました。最後に三味線を弾きながら宙をみつめる目つきは真に迫っていて、「可哀想に!とうとう気が狂ってしまったのか」とこちらもすっかり騙されてしまいました。
そういえば襲名の時に巡業で福助が「藤娘」を踊ったのを見たことを思い出しました。あの時藤の木の陰から走り出てきた藤娘がいきなりニ〜ッと笑ったのにはびっくりさせられましたが、今の福助を見れば「なるほど一風変わったキャラクターの持ち主だったのだ」と理解できます。
新之助の重善は、死んだと思った伊之助が現れて仰天、ぴょんと高く飛び上がったり、あわてふためいて飛び六法で花道をひっこんだりする、とぼけた役柄ですが、武蔵と全然違ったこの役を楽しそうに演じていました。
アゴをなぜながら「おれはどうしてこう女に惚れられるんだろうなぁ」とボヤく台詞はあまりに新之助にぴったりで場内大爆笑。かぶる必要もないんじゃないかと思える坊主の鬘をかぶっていましたが、素顔よりずっと良い男に見えるのはさすが役者!
亀蔵の牛娘に口移しでお酒をのまされたり、あちこちペロペロ嘗め回されたりしてしまう新之助の重善、仕方ないなぁと言う感じで全く無抵抗でした。が後で手拭でさりげなく拭いていたのがおかしかったです。
以前牛娘を獅童がやったのだとか、こっちも一度見てみたいなと思います。しかしこの牛娘というのは歌舞伎ではちょっと他に類のない役です。新劇では女優がやる役だとか。亀蔵の牛娘はあれでもおとなしめにやったと筋書きのインタビューにありました。
福助のおきわが「どこへ逃げようか」というと「巌流島というところへ行って見たいなぁ」と新之助。福助が「のどが渇いた。お〜いお茶」とか、テレビを話題にしたギャグも。
最初は情けない男にみえた勘九郎の伊之助も、物語が進むにしたがってなかなかしたたか者だということが判ってくるしかけ。
「こんぴらふねふね」を歌いながら花道を仲よく引き上げるおきわと重善の後を、亡者の格好でチョコチョコ小走りに後を追いかける伊之助が傑作でした。
気の狂ったおきわにご飯を一口ずつ食べさせてやる伊之助。面倒くさくなってきて、ご飯が段々お結び大になり「これを食べさせたら死ぬな」とブツブツつぶやいていたのが伊之助の薄情さを感じさせました。
他の演目の最初は「絵本太閤記」の「尼崎閑居の場」。十次郎を演じた勘九郎が印象的でした。前回は新之助が十次郎をやりましたが、こういう丸本物の中で格を保ちながら存分に芝居が出来るようになるまでには、やはり時間がかかるものなのかと思います。光秀の團十郎は風邪を引いたのか、高い方の声がかすれ気味で残念。芝翫の操が歌舞伎の絵の中にぴったりはまっていました。
もう一つは橋之助の舞踊劇「素襖落」。張り切って踊っていたのですが、ちょっと頑張りすぎたのか後半、ヒューヒューと口で息をする音が気になりました。そこらへんの兼ね合いが難しそうです。
この日の大向こう
最初の「絵本太閤記」にはたくさんの方が声をかけていらっしゃいました。大向こうの会の方も6人ほどみえていたとか。しかしたくさん声を掛ける方がいる場合、どうしても掛けるタイミングが少し早くなりがちで、ちょうどいい時には、掛からなくなります。おひとり早くなると、我勝ちになってしまうみたいです。
十次郎と初菊が階段の上と下で極まるとき、「ご両人」とかかりました。
「狐狸狐狸ばなし」の時には掛け声が少なかったのですが、お客さんが笑ったり拍手したりして反応が直にわかる芝居なので寂しいということもありませんでした。「こんぴらふねふね」の時には手拍子になっていました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/freddy/watching61.htm
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