04. 2014年7月28日 20:44:17
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最近話題になった焼岳や函館付近以上に、あのエリアは昔から群発が多いから当然、それだけで巨大地震が短期間で発生するとは到底、言えないだろう http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%99%BA%E5%9C%B0%E9%9C%87 日本で記録に残る代表的な群発地震としては、下記の例が挙げられる。 1938年5月から - 福島県沖の福島県東方沖地震[11] 1965年から1970年 - 長野県の松代群発地震 1975年から1976年 - 宮崎県霧島山周辺[12] 1978年 - 函館周辺[13] 1992年 - 西表島周辺[14] 1998年 - 岐阜県飛騨地方[15] 特に、箱根、伊豆半島から伊豆諸島(伊豆大島、式根島、三宅島など)周辺では、1800年代からの発生記録が残っている。また、近代的な観測網が整備された以降でも、1978年以来、20数年間にわたって30回以上の群発地震活動[16]が数えられており、顕著な被害を伴った群発地震も発生している。 1816-17年、1868年(または1870年)、1930年 1978年6月から - 伊東沖群発地震 1993年1月から - 伊豆半島東方沖群発地震[17] 1995年 - [18] 2000年 - 伊豆諸島北部群発地震[19] 2009年[20] 焼岳付近でも 1968年[21]、1990年[22]、1998年[23]、2011年[24]、2014年とたびたび群発地震や深部低周波地震が観測されている。 http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/web_j/dprinews/news18/n18-1.html 伊豆諸島の群発地震と火山噴火 2000年11月
写真1 三宅島の噴火(2000年8月29日) (撮影・中田節也:東京大学)
この夏、日本で記録された中でも最も強い群発地震のひとつが伊豆諸島で起きた。それは三宅島‐神津島‐新島一帯の多数の地震と、三宅島の噴火を含む複雑な一連の活動だった。地震と噴火の関係は地震学者や火山学者にとっていまだに謎であり、これについては今後も多くの研究が行われることになろう。
今回の活動は6月26日、三宅島での小さな地震で始まった。火山学者は噴火が切迫していると考えたが、その時には噴火は起きなかった。しかし、島の西側で小規模な海底噴火が起きたかもしれないという徴候はあった。7月に入ると震源は神津島の方へ向かって西へ移動し、活動は地震の数においても規模においても大きくなった。7月1日にはM6.4(最大震度6弱)、7月9日にはM6.1(最大震度6弱)の地震が三宅島と神津島の間で起きている。これらの地震は神津島に被害をもたらした。ガラスは割れ、各所で地すべりが起きた。学校は閉鎖され、多数の人々が島から避難した。地震はだいたい三宅島と神津島の間の約25キロメートルの線に沿った地域に集中している。 7月中旬になると地震の数はいくらか少なくなり、震源の分布は広がった。7月15日にはM6.3(最大震度6弱)の地震が集中地域の北側、新島の近くで起きた。一方、7月30日には集中地域の南側に当たる三宅島の南西でM6.4(最大震度6弱)の地震が起きている。7月15日の地震は新島で多くの地すべりを起こすとともに、ほかの被害も多少出した。また、8月18日にはM6.0(最大震度6弱)の地震が三宅島と神津島の間で起きている。しかし、活動は8月になると低下し、9月、10月と進むにつれて群発地震はだんだんおさまりつつある。6月27日から9月20日の間には何百もの有感地震があり、M5級は42回、M6級は6回を数えている。 7月と8月、海底を震源とする地震がさかんに起きていたころ、三宅島の火山は何度か大きな噴火を起こしている。7月14〜15日、8月10日、18日、29日の噴火は爆発的で、噴煙は上空15,000メートルにまで達し、小規模ながら火砕流も発生した。これほど大きくない噴火活動は無数にあり、とくに9月いっぱいは活発だった。三宅島の全住民は9月1日、島からの避難を余儀なくされ、10月半ばの今に至るまで帰島が許されていない。火山研究者にとっても三宅島の噴火活動を予知することは難しい。というのも、1983年の前回の噴火とはまるきり様子がちがうからである。1983年には強い群発地震が起きて数時間後に噴火が起こり、その噴火活動もわずか数時間で終わった。何ヶ月も続いている今回の2000年の噴火活動とは対照的である。 kozu1.jpg Photo of village on Kouzushima. In the background one can see some of the landslides caused by the earthquakes kozu2.jpg Landslide blocking road on Kouzushima. (Photo by Kato Teruyuki, Univ. of Tokyo) 何が群発地震を引き起こしたか、また、三宅島の噴火とは正確にはどういう関係があるのか、などについてはまだはっきりしていない。GPSの計測によれば、群発地震の活動中、神津島と新島は互いに~100センチメートル離れるように動いた。地震のメカニズムも震源の線に沿って互いに離れる方向のストレスがあったことを示している。これらの観測結果はこの線に沿ってマグマの注入があったことを示唆している。ひとつ重要な問題がある。マグマは三宅島から群発地震域へ向かったのか、あるいは、深部のどこかほかのソースから出て、三宅島、群発地震域の両方へ向かったのか? 地震予知研究センター、DPRIのチーム(Mori、渋谷、佐藤)は7月3〜8日、強震動計を設置するために神津島へ赴いた。大規模地震の記録をとるためである。7月初め、地震活動が西へ移動しつつあるのを見たわれわれは、地震が神津島へ近づいてくるだろうと予想し、近距離で地震の記録をとるめったにないチャンスだと考えた。われわれは大地震を捕まえようと現地へ行った。結局、地震活動は神津島までは来なかったが、M5やM6を含む多数の地震の記録をとることができ、いいデータを大量に集めて帰った。 計器を設置している間、われわれは50回以上の地震を感じた。われわれがいた数日間には大きな地震はなかったが、震度4の地震は数回、震度3はたくさんあった。地震に加えて、台風まで島に近づいて来ているという報道もあった。これを聞いたとき、われわれはすぐさま荷物をまとめ、できる限り早く島から立ち去ることにした。地震学者は地震はそんなに怖くはないが、台風は怖いのである。 (地震予知研究センター MORI James Jiro) |