07. taked4700 2014年1月18日 16:44:08
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>>06 http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h24/69/past.html 桜島大正噴火は、明治末期から大正初期にかけて、日置地震(1913年)や霧島御鉢噴火(1913年)など、南九州一帯で地震や噴火が相継ぎ、地学的な活動期に発生した。 現在も2011年1月霧島山新燃岳が300年ぶりに噴火し、また、同年12月奄美近海地震が発生、徳之島では震度4であった。2012年桜島昭和火口の爆発回数は観測記録を更新しつつある。 桜島のマグマは大正噴火時の9割がた回復しているという。時あたかも2014年には大正噴火百周年を迎える。また、東北地方太平洋沖地震で日本列島の力のバランスが崩れ、南海トラフの連動型超巨大地震や富士山噴火などが取り沙汰されている。二十世紀最大の火山噴火であった桜島大正噴火の事例を知っておくことは今後の教訓として役立つだろう。1914年正月前後、桜島周辺では井戸水の水位低下、温泉湧出、頻繁な有感地震など、さまざまな前兆現象が起きていた。島民は異常現象に不安を募らせ自主避難を始めたが、鹿児島測候所は「桜島に噴火の恐れなし」と言い続けた。しかし、1月12日午前10時過ぎ、西山腹の引ノ平から、その約10分後東山腹の鍋山上方から噴火が始まった。轟音を伴いながら猛烈な黒煙を噴き上げて全島を覆い、その高さは数千mにも達した。同日午後6時半にマグニチュード7.1の直下型地震も発生、激しい噴火活動は約1日半続き、13日午後8時過ぎには溶岩を流出し始めた。西山腹から流出した溶岩は15日には海岸線に到達、やがて沖合約500mにあった烏島を埋没してしまった。東山腹から流出した溶岩は瀬戸海峡を埋め尽くし、1月末頃には大隅半島と陸続きになった。西山腹の活動は約2ヶ月で終息したが、東山腹の活動は翌年の春まで続いた。また、噴火に伴い、姶良カルデラを中心に地盤の沈降も発生、鹿児島湾奥部では数十cmも地盤沈下し、塩田や干拓地が水没する被害も出した。 桜島大正噴火は溶岩流出が大変有名だが、降灰量も莫大で、西風に乗って広く大隅半島を覆い、遠くはカムチャツカまで火山灰が到達したという。噴出した火山灰・軽石・溶岩の総量は約2立方kmと見積もられているが、これは雲仙普賢岳噴火の約10倍、富士山貞観噴火と宝永噴火を合わせた量にほぼ匹敵する。降灰の厚さも牛根村(現垂水市)付近では1mにも達しており、大隅半島最高峰の高隅山で数十cm積もったことから、植生は破壊され、山地は荒廃、ここを源流とする河川では、その後十年近く土石流や洪水などに悩まされた。 当時、桜島島内の人口は3,100戸、約2万1,300人だったが、大部分自主避難していたため、島民の死者・行方不明者数は30名にとどまった。そのうち、火山噴出物による直接の被害者は数名で、多くは対岸まで泳ごうとして冬の海で溺死した人たちである。一方、対岸の鹿児島市(当時の人口約7万3,000人)方面では噴火の被害はなかったが、地震で29名の犠牲者を出した。その中には避難途中、がけ崩れによって亡くなった人9名が含まれている。石塀や家屋の倒壊による犠牲者も多い。 物的被害も甚大だった。多くの集落が溶岩に呑み込まれたり、厚い降灰に覆われたりして、次回述べるように移住せざるを得なくなった。もちろん、溶岩や熱い噴石によって焼失した家屋もある。桜島島内全戸数の実に62%が被災している。島内だけでなく、厚い降灰に覆われた牛根村や百引村(現鹿屋市)の人たちも含め、罹災者数は約2万人にのぼる。降灰に覆われたところに2月、3月と無情の雨が降り注ぎ、土石流が頻発、田畑を埋め、家屋を押し流した。この土石流のため避難先で亡くなった子供が3人いる。降灰が谷筋を埋めて河床が上がり水害も頻発した。堤防や堰を改修しては壊され、賽の河原の繰り返しだったという。当時の基幹産業だった農業に対する影響は致命的で、主要作物である麦・茶・タバコ・桑(養蚕)などは大打撃を受けた。移住まで至らなかったところでも、軽石層を下に埋め込み耕土を表面に出す「天地返し」を行わざるを得なかった。また、遠方では火山灰層の厚さは薄くても、粒子が細かいため、水で湿るとモルタル状になって、植物の根が入らず生長を阻害したという。 ライフライン災害もあった。地震で鉄道は不通になり、土石流で橋も流された。電信電話も局舎の倒壊や、降灰による碍子の漏電などで不通となった。新聞社社屋も損壊、情報が途絶えてデマが蔓延する原因にもなった。 また、長期にわたる不衛生な避難生活と水源の汚染により赤痢・腸チフスなど伝染病が蔓延、その死者数は火山・地震災害や土砂災害の犠牲者数を上回る。 http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h24/70/past.html 1914年1月 桜島大正噴火 その2 桜島大正噴火は、二十世紀わが国が経験した最大の火山災害。 当時、地縁社会が健在だったことから周辺町村から支援の手が差し伸べられ、行政や軍も敏速に対応した。しかし、溶岩や分厚い火山灰・軽石に覆われた住民は故郷を捨てて移住せざるをえなかった。 噴火の概要と土石流など二次災害を含む災害実態については前号を参照されたい。 岩松暉(鹿児島大学地域防災教育研究センター特任教授) 桜島大正噴火の救援と復興 桜島は、大正3(1914)年1月12日午前突如大爆発を起こし、その夕刻には直下型地震も発生した。さまざまな前兆現象があり、安永噴火の伝承も残っていたことから、住民達は自主避難をしたが、鹿児島測候所が桜島噴火を否定したため、科学を信じた知識階級は島内に踏みとどまった。結局、冬の海を泳いで逃げる羽目になり、多数の溺死者を出した。そのことを今に伝えるのがいわゆる「科学不信の碑」である。曰く「本島ノ爆發ハ古來歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未前ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス」 「科学不信」の碑(東桜島小学校) 「科学不信」の碑(東桜島小学校) 一方、青年会・婦人会・在郷軍人会など地縁組織が健在だったことから周辺町村から一斉に救援の小舟を出した。前日が日曜だったため、行政は若干出遅れたが、湾内停泊中の船舶を緊急徴用、救助船に仕立てた。陸軍もたまたま沖縄演習のために用意していた輸送船を向かわせ、海軍も直ちに佐世保港を出港し、折から帰港途上にあった艦船も桜島に向かわせた。安山岩溶岩の流速は遅いため、島にとどまっていた人たちは全員救助された。
瀬戸海峡3部落民救助の光景(山下兼秀 桜島大爆発絵巻(3 巻のうち上巻部分)1916 年) 瀬戸海峡3部落民救助の光景(山下兼秀 桜島大爆発絵巻(3 巻のうち上巻部分)1916 年) 鹿児島市内も地震被害と「津波が来る」、「毒ガスが来る」とのデマでパニックとなり、一時無人になるほど郊外への避難が続出した。
避難先では学校・寺院などに仮宿泊、婦人会などの炊き出しが行われた。地元富豪の寄付などが当てられたという。やがて郡役所が避難所(仮設住宅)を建設し、避難民を収容した。 地震被害は一過性であり、現在なら地震保険に加入しておけば、住宅再建も可能である。しかし、火山災害は長期にわたり、建物だけでなく土地まで失うことも多く、悲惨である。 これに対し、皇室からの御下賜金、三井・三菱など財閥からの寄付、東北九州災害救済会(総裁・松方正義元総理)や赤十字社・新聞社などが集めた義援金など多額の金品のほか、海外からも寄付が寄せられた。 県も直ちに災害復旧費や教員給与費などを国庫から起債、国は無利子とした。さらに国は勅令で主務大臣(内務・大蔵・文部)の権限を県知事に委任、現状に即した機敏な措置が執れるようにした。 噴火後5日目には、熊毛郡長宛に移住の打診をし、北海道など各地に吏員を派遣、移住候補地の調査をさせている。移住には指定移住地と縁故をたどる任意移住地とがあった。指定移住地は国有林を県に無償で払い下げ、県はこれを罹災者に貸与、開墾が完了して一定の年数が経過したら、無償譲渡する仕組みだった。移住民には移住費・農機具・種苗費・小屋掛け費・家具費・食料費などが支給された。3月12日には種子島に移住が開始され、また、垂水村大野原では4月中に入植が完了している。このように敏速な措置が執られたが、国有林の原野を開墾するのは困難を極めた上、飲料水の入手に苦労した。移住記念碑の横に水道記念碑が並んでいることがあるのは、その間の事情を物語っている。 大正時代の大中尾尋常小学校(南大隅町立大中尾小学校 所蔵) 大正時代の大中尾尋常小学校(南大隅町立大中尾小学校 所蔵) 子供たちは山道を近在の学校に通わなければならなかったが、それもできない僻地には、移住民のために尋常小学校が3校新設された。しかし、残念ながらいずれも過疎のため、現在休閉校中である。父祖の想像を絶する苦労を思うと暗澹となる。 前号で述べたように、大隅半島では分厚い降灰のため、土石流や洪水が頻発した。まだ土木学会も生まれておらず、ましてや重機などなかった時代、モッコ担ぎの勤労奉仕で堤防修築や河川改修、耕地整理が行われた。串良川沿いだけで12個も記念碑があり、同じ場所に2つあるところもある。修復と決壊が繰り返されたのであろう。 農地も酸性化したので、農事試験場が火山灰対策を懇切に指導したようだ。やはり水田のためには用水路の確保が先決で、耕地整理組合を結成して苦心惨憺している。なかには山重太吉翁のように私財を投げ打って完成させた人もいる。 桜島島内では前述の記念碑後段にあるように、次の噴火災害に備えて殖産興業に励んだ。代表的な人物が久米芳季西桜島村長である。島民丹精の農産物が鹿児島の問屋に安く買いたたかれていたのを改めるため、対岸の鹿児島市小川町に青果市場を設置したり、村営バスや村営フェリー事業を興したりした。桜島大根や桜島小ミカンなどの特産品と観光事業で、折からの新婚旅行ブームと相まって、村民税ゼロと言われる豊かな村を築き上げた。ようやく鹿児島市と合併したのは平成の大合併のときである。 国や県の柔軟で迅速な対応や地縁社会が有効に機能したことなど、今日学ぶべき点が多い。 ************************************************************ http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1914-sakurajimaFUNKA/pdf/05_chap02.pdf#page=3 の記述によれば対象大噴火時の 鹿児島市の人口:約73000人 鹿児島市の住宅戸数:約13000 現在の鹿児島市の人口も戸数も10倍程度ですから、従来の住宅地以外がかなり開発されているのは事実です。大部分はかなりきちんと開発されているのでしょうが、危険性の高い地域もあるのではないでしょうか。 |