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第6回「三陸・田老 大津波と“万里の長城”」
2014年1月11日(土)午後11時〜翌0時30分
【再放送】2014年1月18日(土)午前0時45分〜午前2時15分(金曜深夜)
「津波太郎」。岩手県宮古市田老(たろう)は、そう呼ばれる。豊かな漁場にめぐまれた漁業の町は、繰り返し津波に襲われてきた。昭和8年の大津波では死者911人―三陸最悪の被災地であった。加えて、幾たびも山津波や大火に見舞われた。田老の戦後は、自然災害にあらがい、防災と取り組んでまちをつくりあげてきた歳月でもあった。
象徴的なのが、防潮堤の建設だ。昭和の大津波の1年後、村長関口松太郎の奮闘によって始まった大工事は、やがて県の事業となり、国費もつぎ込まれ、24年をかけて完成した。それは、波に逆らうことなく、二本の川に津波をそらす構造になっていた。
しかし、1960年にチリ津波が来ると、国は構造物によって、津波を防ぐという「チリ津波特別措置法」を制定。田老にも二つ目となる防潮堤が建設される。それは、波に立ち向かい、抱きかかえるような形だった。こうして、総延長2.4キロ、海面からの高さ10メートルのエックス字型の大防潮堤が完成。世界に例を見ないコンクリートの威容を、田老の人々は「万里の長城」と誇った。
しかし、東日本大震災では、二つ目の防潮堤は、津波により根本から壊され、地域に甚大な被害をもたらした。高さ10メートルの最初の防潮堤は崩壊を免れたものの、「防潮堤の2倍はあった」という津波は乗り越えていった。田老は、200人近い犠牲者を出した。
田老の人達は、巨大堤防でどのような町作りをめざしてきたのか。番組では防潮堤の建設の経緯を軸に、つねに自然災害と対峙して生きてきた田老の人たちの営みを証言で見つめていく。
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