03. 2014年1月08日 10:26:22
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現代人だけが環境の破壊者なのか?歴史的観点から考える異常気象〜田家康さんに聞く(上) 2014年1月7日(火) 飯村 かおり 昨年、フィリピンを襲った台風の被害の記憶は新しい。それだけでなく、欧州や北米を嵐や寒波が襲い、日本でも年々厳しくなる夏の猛暑や局地的豪雨など、近年、異常気象が増えているように感じる人は多いだろう。 しかし歴史をひもといてみれば、異常気象は現代人だけを襲う現象ではないことが分かる。古代から人々は異常気象に見舞われ、時の為政者たちはさまざまな対策をとってきた。 本業の傍ら、歴史と気候変動の関係を丹念に調べ、3冊の著書を上梓した田家康さんに、歴史の教訓を踏まえつつ、今後、私たちは異常気象とどう向き合っていけばいいかについて聞いた。(聞き手は飯村かおり) 田家康(たんげ・やすし) 1959年神奈川県生まれ。1981年横浜国立大学経済学部卒。農林中央金庫農林水産金融部部長(森林担当部長)を経て、2011年より農林漁業信用基金漁業部長。2001年気象予報士試験合格。日本気象学会会員。日本気象予報士会東京支部長。農林中金総合研究所客員研究員。著書に『気候文明史』『世界史を変えた異常気象』『気候で読み解く日本の歴史』(写真:鈴木 愛子、以下同様) 最近は世界各地で異常気象による自然災害が起きており、やや乱暴な言い方ですが、人為的な環境破壊が異常気象を引き起こす要因になっている、などといった論調もあるようです。ただ、田家さんの著作からは、古代から人の手による自然環境の破壊が行われていたことが分かります。 田家康氏(以下、田家):そのことを象徴的に表すのがマツタケです。マツタケという言葉の初見は1006年編纂の『拾遺和歌集』ですので、その頃からアカマツ林に生えるマツタケが増えていったのでしょう。平安時代末期には、藤原定家がマツタケ狩りをしたと『明月記』に書いています。 一方、奈良時代から平安時代にかけては、『続日本紀』以後の六国史に、近畿地方が度々干ばつに襲われたという記録があります。 近畿地方から巨木が消えた? 日本にはそもそもスギやヒノキといった針葉樹とブナ・ナラといった広葉樹が混合した自然林が広がっていました。飛鳥・奈良・平安時代にかけて、奈良を中心とする近畿地方では木材として針葉樹を伐採し、炭を作るための燃料として広葉樹も伐採しました。古代日本の森林伐採です。その結果、表土が失われた痩せた土地にアカマツが侵入してきました。アカマツは森が荒廃した時に最後に植生する樹木です。 この乾燥したアカマツ林で生育するのがマツタケです。水蒸気の多い「ネバ土にマツタケなし」と言われています。広葉樹の生える湿潤な森林で生育するのがヒラタケです。木曽義仲が京都に入った後、ヒラタケがないと嘆いています。 このように、マツタケを好む日本食文化とは、奈良時代から平安時代での森林伐採と当時の降水量の少ない環境が大きく関わっていると言えます。 今でも奈良や京都には法隆寺や東大寺を始め、木造の建築物が多く残っていますが、こういった建造物を造るための木材を調達するために森林伐採を行ったのでしょうか。 田家:東大寺については、源平の乱で燃えてしまいました。その後、源頼朝が寄進して東大寺大仏殿を再建します。この時使ったヒノキは山口県から持ってきています。ところが再び、三好と松永の戦乱で大仏殿が燃えてしまうんです。戦国時代ですね。今の大仏殿は江戸時代に再建したものですが、当初の3分の2の規模です。しかも木材は宮崎県から持ってきました。 さらに遠くまで行かないと木が調達できなくなってしまったほど、近畿地方での森林伐採が進んでいたということでしょうか。 田家:はい、近畿地方にはもう巨木はなくなっていたんです。日本独特の文化として畳がありますが、これも木がなく板張りの床がつくれなくなったために考えられたものです。 畳は、いつごろから始まったものなのですか。 田家:奈良時代から平安時代にかけてです。土塀もそうですね。それから檜皮葺。この3つは木材資源がなくなった畿内地方で始まりました。 本格的な植林が行われるようになったのは江戸時代以降 日本の自然と調和した住まいや建物の伝統の背景には、森林の乱伐があったということですね。森林がなくなった結果、干ばつや飢饉も頻繁に起きたようですが、当時の為政者には問題意識を持っていたのでしょうか。 田家:森林伐採の問題は江戸時代までずっと続いています。奈良時代、平安時代は畿内地方だけに限られた問題でしたが、室町時代、足利義満の頃には中部地方から山陽、山陰まで森林伐採がありました。
江戸時代の初期、人口が3000万人に増える段階では、東北を除く本州、四国、九州ではたいへんな森林伐採がありました。当時の日本ははげ山ばかりだったでしょうね。木を1つ切ったら首を切るぞといわれ、森林保護政策が始まったのは江戸時代です。 植林といったようなことを始めたのでしょうか。 田家:はい。材木の植栽の文化は鹿島神宮で866年にやったという記録はありますけれども、本気で日本が植林を始めたのは江戸時代からです。ですから、樹齢100年を超える吉野杉と言っても、これまで3回転ぐらい回っていることになりますね。人口が少なければ自然の回復力があって収奪してもなんとかなったと思います。ただし、それはぎりぎり室町時代ぐらいまでで、人口が3000万人の大台に乗ってからは無理だったのでしょう。 干ばつや飢饉といった非常事態に際しては、時の為政者によって危機対応能力が全く違うようです。中でも鎌倉時代の北条泰時と江戸時代の徳川家光の対応には一目置いていらっしゃるそうですね。 田家:徳川家光は大したものだと思いました。 1630年代から1640年代にかけて、世界各地で異常気象の発生が記録されています。太陽活動の低下と火山噴火によるものと思われます。日本でも1636年(寛永13年)から、干ばつによる凶作の記録が出てきます。1641年ごろから江戸幕府は飢饉の発生を把握していました。翌年4月、家光は家康二十七回神忌の日光社参を済ませるとすぐに飢饉対策に着手しました。 家光がまずやったのは、情報収集です。その上で黒書院において飢饉対策の会議を開いて陣頭指揮を執り、老中らに具体的な指示を出しました(『徳川実紀』)。庶民には慌てないで精を出して農業に従事しなさいと言い、その上で贅沢禁止令を出したのです。情報を集めてまずは落ち着かせ、その後、対処方針を立てるというのは近代的です。今につながる危機管理の手法だと思います。 もう一人、田家さんが評価しているのが、鎌倉時代、執権政治を完成させた北条泰時です。 田家:1230年(寛喜2)の「寛喜の飢饉」の時です。1220年後半から1230年代はじめにかけて、世界各地で異常気象に見舞われました。日本でも飢饉が進行しましたが、これについては、藤原定家の『明月記』と『吾妻鏡』を比較すると興味深いです。 情報を遮断した朝廷、問題を共有した鎌倉幕府 いずれも、寛喜2年夏には尋常でない冷夏になっているとの記録があります。ところが、『明月記』では、定家自身も所領から大凶作があったとの報告で状況を認識しているものの、朝廷からの話として「凶作により下民の憂慮があり、悪党世にはびこる状況につき外に漏らすな」と言われたとあります。皮肉屋の定家はそんな通達など意味がないと冷笑しています。 一方鎌倉幕府では、第3代執権北条泰時のもと、1230年6月の時点で『吾妻鏡』に異常気象で大変だ、こんなのは天地開闢以来だということが書かれています。危機意識が歴史書にも残っているということは、政権全体で問題を共有しているということだと思います。 1230年秋から毎日の食料を減らすようにとの指導が始まり、翌年年初には贅沢禁止令が発せられます。飢饉は2年続くといわれています。凶作になると翌年に蒔く種籾まで食べてしまうからです。泰時は種籾の貸与が円滑に行われるよう指導し、時には自分が保証するとしました。 朝廷ではどのような対策を採ったのでしょうか。 田家:朝廷では奈良時代同様に祈祷が中心でした。もちろん朝廷でも1231年(寛喜3)5月に贅沢禁止令を発してはいますが、貴族のライフスタイルは変わらなかったようです。7月12日、『明月記』に競馬・蹴鞠に興じるとあります。 藤原経光は『民経記』の中でこの行楽について「天下飢饉の折から叡慮なく不快」と憤り、9月15日に貴族が水田に船を浮かべる姿を「天下ただ遊放するか、これに至りて所々、海内の財を尽くす」と嘆いています。 朝廷と鎌倉幕府では飢饉というたいへんな危機に際しての対応がまったく違っていたということですね。 田家:はい。少し話がそれますが、泰時の人となりも大きく影響しているでしょう。例えば執権就任後の遺産相続の際のエピソードがあります。大江広元とともに泰時の執権就任を推していた北条政子が遺産の配分がそんなに少なくていいのかと泰時に尋ねました。すると泰時は、もう執権になったのでいいです。おやじからの遺産はみんな舎弟に与えますと言ったというのです(『吾妻鏡』)。 泰時は長子といっても実は出自不明の側室の子供で、バックボーンはなかったんです。また、承久の乱で京都に攻め入ってから、3年ほど京都の六波羅探題にいました。その時の経験も政治を動かす時に役立ったのではないでしょうか。 太陽活動に見られる周期性 先ほどお話のあった、家光の頃の17世紀の異常気象のように、太陽活動の低下と火山活動が気象に影響を与えているようです。太陽活動の周期と異常気象の関係について、簡単に教えていただけますか。 田家:太陽活動の周期については、黒点の変化傾向を元にした11年周期が有名です。しかし、太陽活動の強弱をスペクトル分析で調べてみると、これ以外にも22年、87年、208年、約500年、約700年、1000年、さらに、1500年〜2300年といった周期性が現れてきます。 なぜ、このような周期性があるのかについては、太陽物理学の世界でもまったく未知の世界です。昨年、木星・土星・天王星・海王星といった質量の大きい外惑星の軌道が影響しているのではとの論文が発表になり、天文学者は注目しています。とはいえ、依然として仮説の段階です。 そして、太陽活動の周期とはいくつかのサイクルが複合的に重なり合っているものと考えられます。ですので、太陽活動の長期的な周期は定期的なものになっていません。「小さな氷河期」(小氷期)の間の3つの活動低下期(シュペーラー極小期、マウンダー極小期、ダルトン極小期)も、低下期間も低下の幅も異なります。 今後は太陽活動の低迷期が訪れる? 今後の太陽活動はどのような周期に入るのでしょうか。 田家:太陽活動の低迷については、現在、太陽物理学者の間ではもっともホットな話題のひとつになっています。太陽黒点周期は太陽活動が活発化(低下)すると短く(長く)なる傾向にあります。先ほど申し上げたように、一般的には黒点周期は11年ですが、1996年から2010年の間は12.6年と長くなりました。このことから、17世紀後半に到来したようなマウンダー極小期(1645年から1715年までの70年間で太陽表面から黒点がほとんど消えた時期)といった太陽活動低迷期が来るのではないかとの予想があります。 ただし、太陽の日射量の変動はそれほど大きくありません。11年周期では0.1%程度です。マウンダー極小期にどれだけ低下したかははっきりと分かっていませんが、太陽と同じタイプの恒星の変動幅からせいぜい0.2%程度であろうとの仮説もあります。 この程度の変動では、直接的な地球全体の平均気温の変動は少ないとみられます。むしろ、太陽日射の中で紫外線量の増減幅が大きいことから、太陽活動の強弱が地球環境の中で増幅されているのではないかとの説があります。ただし、これは科学的に未知の世界です。 台風や竜巻、豪雨や豪雪、あるいは高温など、異常気象と呼ばれる現象は世界的に見られるだけでなく、日本でも最近顕著に発生している印象がありますが、今後も異常気象は増えていくのでしょうか。 歴史的に続いてきた異常気象 田家:異常気象は、定義としては「30年に一度あるかないかという頻度での大雨・大雪・降水といった気象現象」を指します。近年、異常気象の発生が目立つ印象を持ちますが、日本や世界のいずれかの土地で起きるとすれば、確率的にみて増えているのか、確認する必要があります。また、観測機器の充実といった面もありそうです。 2011年にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は「気候変動への適応推進に向けた極端現象及び災害のリスク管理に関する特別報告書」 を発表しています。この中で、「気温の上昇が起きる可能性は高い」「極端に強い雨が増加した地域が、減少した地域よりも多い可能性が高い」「世界中の沿岸域で極端な高潮が増えた可能性が高い」としていますが、一方で「熱波が増加した可能性は中程度」「干ばつは一部の地域では増加したものの、別の地域では減少しており、確信度は中程度」「熱帯低気圧(台風やハリケーン)の活動が増加、竜巻・雹の増加、洪水の変化の確信度は低い」としています。 台風や熱波といったわれわれが肌で感じるような自然災害について、その多くが、地球温暖化に起因するかどうかは科学の知見として曖昧なままです。 以上を見てきますと、異常気象と呼ばれるものの多くが過去の歴史から続いてきたものと思われます。地球温暖化が起きた時に増加すると見込まれる異常気象は、「高温」「降水量が増える地域の偏在」「高潮」といったものです。 昔のようにできるだけ自然な環境に戻せば、異常気象は防げるのでしょうか。 田家:気候変動の要因には、以下のものがあります。1つ目は、内部変動です。これは、物理的な「ゆらぎ」によるもので、エルニーニョ現象などがこれに当たります。3〜7年サイクルで起きてきました。また、寒冷化した時代にエルニーニョ現象の年の頻度は増えています。これはビャークネス・フィードバックといって、大気が冷たくなった効果は太平洋西部のほうが太平洋東部(赤道湧昇がある)よりも大きく、エルニーニョ現象が発生しやすくなるためです。 2つ目は外部要因です。これは、太陽活動の変化や火山活動といった自然要因のことです。 そして3つ目が人為的要因(温室効果ガス、公害による硫酸エアロゾル)です。 このように、異常気象の原因となる気候変動は、人為的要因がなくとも自然要因だけでも発生しうるのです。 また上の各要因はさまざまな組み合わせがあります。21世紀に入って地球全体の平均気温は横這いになっています。これを「温暖化の中断問題」と言って、気候学者は頭を悩ませています。恐らく内部変動や自然要因により一定程度相殺されているためでしょう。 狩猟採集生活を営むとすると、1キロ平方メートルあたり、人間が生存できる人数は0.1〜1名といいます。この生存規模が、農業を営むことで18世紀の欧州で40〜60名へと増加しました。人間が自然を破壊するという見方もありますが、本当に破壊しないのなら、狩猟採集民当時の400万人程度しか生存できません。 農地や灌漑用水も突き詰めれば自然破壊といえます。そうした認識の上で、世界人口を維持するためには、どのような農業を行うのか、循環型の自然利用システムをどのように作るかということが課題になると思います。 (次回に続く) 気候変動に対する適応力を身につけよ 歴史的観点から考える異常気象〜田家康さんに聞く(下) 2014年1月8日(水) 飯村 かおり (前回はこちら) 人々は長い歴史の中で、幾たびも異常気象や気候変動に見舞われてきた。時の為政者たちはさまざまな対策をとり、人類は技術革新や危機への備えなどによって困難を乗り越えてきた。 歴史と気候変動の関係を調べている気象予報士の田家康さんに、異常気象との向き合い方を聞くシリーズ。後編では、データと備えの軽視が大きな厄災を招いた歴史上の出来事と、避けられない異常気象や気候変動とどう向き合っていけばいいかについて聞いた。(聞き手は飯村かおり) 世界的に影響を与えた気候変動として、「1300年イベント」というものがあるそうですね。 田家康(たんげ・やすし) 1959年神奈川県生まれ。1981年横浜国立大学経済学部卒。農林中央金庫農林水産金融部部長(森林担当部長)を経て、2011年より農林漁業信用基金漁業部長。2001年気象予報士試験合格。日本気象学会会員。日本気象予報士会東京支部長。農林中金総合研究所客員研究員。著書に『気候文明史』『気候で読み解く日本の歴史』『世界史を変えた異常気象』(写真:鈴木 愛子、以下同様)
田家:「1300年イベント」という言葉は、フィジーのサウス・パシフィック大学海洋地球学部のパトリック・ナン教授が提唱したものです。もともとは南太平洋の島々に住む人びとの歴史から考察を始め、1250年から1350年にかけての100年間に社会システムが変わった。島においても高い場所から海辺に集落が移った。他の島との抗争があった、といったものです。こうした社会の変化から、この時期を温暖期から寒冷期への移行期ととらえました。ナンは議論をアジア諸国にまで広げています。 確かに、日本でも1250年代後半に北半球中緯度では寒冷な時代が続いたことが、正嘉の飢饉を始めとして歴史的な記録にあります。これは、1256年(建長8年)の大雨と洪水に始まるもので、1259年(正嘉3年)になっても全国規模の飢饉が続きました。日蓮は、1260年(文応元年)の7月16日、「立正安国論」の冒頭で、飢饉の惨状を書いています。 この時期、太陽活動が低下期に入るとともに、1250年代と1270年代に巨大噴火があったことが氷床コアに残る火山性エアロゾルで確かめられています。また、欧州では1313年〜1317年にかけて、後世に「the Great Famine」と伝えられる厳しい飢饉が訪れました。 古気候から新田義貞の鎌倉攻めを考えると この気候変動が、新田義貞の鎌倉攻めに影響を与えたそうです。 田家:新田義貞による稲村ケ崎の海岸突破については、2002年に歴史学者で中央大学の磯貝富士男教授が、気候変動によって海面水位が低下したためではないかとの説を提唱していました。 神奈川県の三浦半島は地震による地盤の上下動がある地ですから、古気候サイドでの研究論文で検証を行いました。ロシアの研究者による国後島での海面水位の変動と島根大学の三瓶良和教授らによる鳥取県中海での湖水面の変動から、1300年頃に海面水位の低下があったとことが確認されました。こうした古気候面での研究成果から、磯貝教授の仮説はより有力になったと考えられます。 前回、飢饉といった非常時の対応が見事だった先人として、徳川家光と北条泰時についてお話を伺いましたが、反対に、為政者や人々が気象にかんする情報を重要視しなかったために危機対応に失敗した事例というのは歴史上、ありますか。 田家:ナチスドイツがモスクワを攻めた時があります。1941年の冬です。これは10月から始まって12月に頓挫します。 ベルリンにいたドイツ気象学会の大御所であったフランツ・バウアーは、1941年から1942年にかけては絶対暖冬だと予想しました。2年続けて寒かったから今年は暖かいに違いないと。ところが、その年はエルニーニョ現象が発生し、東ヨーロッパは寒くなりました。前線からは零下30度だという声が聞こえてくる。参謀本部も暖冬予想をしたフランツ・バウアーに問い合わせました。 すると彼は「観測データが間違っているに違いない」と答えているのです。自分たちの予想のほうが正しくて、前線での実際の観測情報が間違っていると言ったわけですね。自らの理論や理屈に拘泥し、観測情報を軽視するほど恐ろしいものはありません。 市場で高く売れるからと余剰米を売ってしまった人々 日本では、宝暦の飢饉(1753〜1757年)の事例があります。東北地方の各藩で被害が大きかったものですが、八戸藩士の上野伊右衛門は『天明卯辰梁』の冒頭で、宝暦5年の5月は冬のように寒く一日中ヤマセが吹いて空が晴れないと書いています。大凶作となることは十分予想できたはずです。ところが、商人が普段のレートの2倍、3倍でコメを買うと言ってきたので、藩の余剰米をみんな売ってしまっていた。江戸や大坂といった巨大消費地への回米を優先させたのです。その後に大飢饉がきました。 宝暦の飢饉の場合は、藩の役人は気候がおかしいことを知っていたのにもかかわらず、町人や農民は高い値段が付いたからといって、米を備蓄せずにみな売ってしまったわけです。1782年(天明2年)からの天明の飢饉でも同じことが繰り返されます。 飢饉は何度も訪れているのに、それに対する備えという発想はなかったのでしょうか。 田家:天明の飢饉の後、社倉制度といって穀物を備蓄する制度を充実しようという話が出ました。老中筆頭、松平定信が、大商人による私的な囲米を摘発し、市場主義によらない飢饉対策を打ち出しました。 ところが、備蓄しておいても凶作が起きない限りは全然使い道がない、秋田藩では、むしろ貸したら儲かると言って、備蓄米を利子をつけて貸し出しました。そうしているうちに、1832年(天保3年)から天保の飢饉が起きました。30年も経てば人々の記憶は薄れてしまうのです。ただ、天保の飢饉は7年間と長期にわたりましたが、死者を比較するかぎり、天明の飢饉の規模を超えるものではありませんでした。飢饉対策が効果を発揮したためと思われます。 前回申し上げましたように、異常気象は、定義としては「30年に一度あるかないかという頻度での大雨・大雪・降水といった気象現象」を指します。30年に一度というのが、人間が、初めてじゃないか、聞いたことないなという感覚なんですよね。ちなみに昨年8月に出された特別警報というのは、50年に一度です。これは、一生に一度あるかないかの確率として出しています。 農業技術を発達させるなど、異常気象や気候変動に対応するために人々が起こした「イノベーション」もあったのではないかと思います。 田家:異常気象や気候変動が人類の生存を脅かす大きな理由は、食料確保という点があります。 もともと、農業そのものも異常気象がきっかけになって営まれるようになったとの有力な説があります。農業の開始というのは、1万8000年前頃に最終氷期が終わり間氷期という温暖な時代が始まる過程において、一時的に急激な寒冷化があった時代に始まったとするものです。直線的に、野生穀物の採取→貯蔵→栽培といった形に進んだわけではありません。 もう少し詳しく言うと、約1万2000年前にヤンガードリアス期という1000年に及ぶ寒冷化がありました。要因は北米大陸の上にあった巨大な氷の塊が大西洋に滑り落ちたためです。これによって中東地域では気候が激変し、狩猟採集生活では人口を維持できなくなりました。この時の気候の激変をきっかけにして、約1万年前頃から現在のイスラエルにあたる地域で野生の穀物を栽培するようになったのです。
16世紀から19世紀はじめにかけての「小さな氷河期」(小氷期)の時代、ヨーロッパでは湿潤寒冷な気候が続き食料難になりました。この時代の気候に適合した農産物として、南米大陸高地が原産のジャガイモが普及しました。 日本での異常気象対策としては、日本全土での灌漑設備の整備により、江戸時代に干ばつによる全国的な凶作が無くなった点は注目されます。 大事なのは適応力と情報収集能力 今後、人間は異常気象とどう向き合っていけばよいのでしょうか。 田家:内部要因や自然変動でも異常気象や気候変動は起きることから、予防よりも適応(起きてしまった時にどう対処するか)がより大事なポイントになります。人間は適応力を持っていたからこそ、最終氷期以後の気候変動に対処し、文明を築き上げることができたと見るべきでしょう。 異常気象や気候変動への根本的な対応策は、農業やエネルギーといった面での科学技術の進歩があります。これは不断の努力を続けるべきものです。 一方で、起きてしまった現象に対してどう適応するかといった問題が、為政者にも個人にもあります。 為政者にとって重要なのは、前回述べたように、徳川家光が寛永の飢饉でまず行ったように、状況の的確な把握です。これがなければ、正しい対応策が考えられるわけがない。そして、人々に正しく必要な情報を伝えることです。 個人の立場でいえば、たとえ人為的温暖化問題を解決したとしても、異常気象は必ず発生するものという覚悟が必要なのではないでしょうか。天に不満を述べても仕方ありません。むしろ、「自然への畏れ」という発想を持つべきです。こうした姿勢があれば、災害が起きた際にも冷静に対応し、的確な情報を集めることができると思います。 最後に田家さんのご研究についてお伺いしたいのですが、働きながらご研究を続けていらっしゃるとのことですが、なぜ気候変動と歴史について調べようと思ったのですか。 田家:IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が2001年に第3次評価報告書を発表した際、いわゆる「ホッケー・スティック論争」という議論が起きました。 今まで自然は豊かな安定的な環境を人間は保ってきた。しかし、人間活動が環境を乱しているという意見が非常に強く主張されました。アル・ゴアの『不都合な真実』もそういう感じでした。 私は本当にそうなのかと思いました。昔から歴史書で大きな冷害が来たとか、干ばつが来たとかいう話は読んでいましたし、安田喜憲先生が先駆的な研究をなさっていたのを読んでいましたので、自分で調べ始めたのが発端です。 田家さんは気象予報士でもありますね。 田家:はい。実は(日本気象予報会の)東京支部長をやっているのですが、要は講演の紹介係です。時々、講演者がどうしても決まらないときなど私が話をしたのですが、気候と歴史の話をやるととても受けがよかったんです。 本業で投資関連の横文字の本を読んで忙しかった時でしたが、仕事と全然関係ない知識を入れた方が脳のバランスがよくなるんじゃないかと思いました。 そんな時小倉義光さんの『一般気象学』という本を読んだら、すっと入ったんですね。相性がよかったんでしょう。1998年ですから、ちょうど15年ぐらい前です。 もっと遡ると、高校生のとき山岳部におりましたが、気象通報で天気図を描くんです。1年生の時、お前、描いてみろと先輩に言われて描いた天気図が褒められて、天気図を描く素質があるのかなと思っていました。 1980年代以降は古気候学の革命が起きた時代 それから既に3冊の本を書かれるまでになったわけですが、膨大な数の論文や本などの資料を読まれていますね。 田家:運が良かったんです。実は1980年代以降というのは古気候学の革命が起きた時代といわれているんです。科学ライターのジョン・コックスが『異常気象の正体』という本に書いていますが、これは地質学でプレートテクトニクスが提唱されたのと同じぐらいの衝撃だと。 それまでの古気候学というと、年輪の幅を測って、この年は雨が少なかったなどと言うものでした。ところが1970年代から80年代にかけて新しい手法が編み出された。氷の柱を南極やグリーンランド、あるいは山岳氷河から取ってきて、それらの同位体を使いながら気温を分析するという方法です。以後、非常に革新的な論文がどんどん出るようになってきました。 気候と歴史の話には不幸なエピソードがあります。これは著書の『気候文明史』の最初にも書いたんですが、こういった研究は戦前は結構盛んに行われており、20世紀前半、米国人の地理学者、エルズワース・ハンチントンが気候と人類史の関係について、大胆な仮説を提唱しました。ところが、この説は「環境が文化を決める」という環境決定論だと言われ、批判を浴びました。 もう1回、ルネサンスのような動きが出てきた背景には、ブライアン・フェイガンの本など、やはり1980年代以降の新しい気候学の知見というのがあると思います。 よく友人から「お前、ライフワークでやっているのか」と言われるのですが、そうではなく、研究を始めた時期が非常に旬だったんです。 研究時間は、出勤前の時間なのですか? 田家:そうですね。3時半ぐらいから7時です。7時になると家族が起きてきますので。夕方家に帰ってきてからだと仕事の頭になっていて、朝の方が私は作業は進みますね。 (この項終わり)http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20131227/257648/?ST=print |