http://www.asyura2.com/13/jisin19/msg/283.html
Tweet |
【都司嘉宣の温故地震】静岡・熱海に29メートル大津波 元禄関東地震(1703年)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130916/dst13091609560009-n1.htm
2013.9.16 09:52 産経新聞
■静岡・熱海に29メートルの大津波
元禄16(1703)年11月23日の午前2時、江戸を含む関東地方全域を元禄関東地震が襲った。規模はマグニチュード(M)7・9〜8・2で、房総半島の南端部が4〜5メートル隆起。千葉県から静岡県にかけての沿岸に巨大津波が押し寄せ、死者は3千人を超えた。
江戸旅行の帰途、保土ケ谷宿(横浜市保土ケ谷区)で元禄関東地震に遭遇した京都・下鴨神社の神職、梨木祐之(なしのき・すけゆき)は、周辺の被災状況を詳細に書き留めていた。
興味深いのは、静岡県熱海市についての「500軒あった民家が津波で流され、わずか10軒しか残らなかった」という記述だ。
熱海の民家の98%を押し流すほどの津波とは、いったいどんな規模なのか。江戸時代と市街地の範囲がほぼ同じとみられる明治30年代の地図の標高データから逆算してみた。その結果、98%に被害を及ぼすには、標高約30メートルに達する規模が必要なことが分かった。
梨木祐之はさらに、こんなことも記録していた。
「熱海の名主が津波の被害を受けたが、一命を取り留めた。しかし海水を飲んだため苦しみ、医者を呼んだが死んでしまった」
地震は深夜に発生したのだから、名主は自宅で就寝中に被害を受けたと考えられる。では、名主はだれで自宅はどこにあったのか。
熱海の郷土史の専門家によると、熱海の名主は江戸時代初期から明治維新まで代々、今井半太夫(はんだゆう)という人物が務めていた。
屋敷の位置は地震の8年前の元禄8年に描かれた絵図に記されており、現在の地図と照らし合わせた結果、熱海市上宿町付近に建っていたと突き止めることができた。
筆者はさっそく測量器械をかついで現地に赴き、屋敷跡の標高を測ってみた。すると、今井半太夫の屋敷は標高27メートル地点にあったことが判明した。
当時の建築様式からいって、屋敷の床面は地上から1メートルはあっただろう。また海水をしたたかに飲んでいることから、津波は床面から1メートルほどの高さに達したのではないか。結局、津波は標高29メートル程度まで遡上(そじょう)したと考えられ、98%に及ぶ民家被害から逆算した結果と、ほぼ一致する。
相模トラフ(浅い海溝)が震源の関東地震は、200年以上の周期で繰り返すとされる。大正12(1923)年の大正関東地震(関東大震災)もその一つだ。
大正関東地震で、熱海の津波高は12メートルだった。それでも十分に巨大だが、元禄のように、さらなる巨大化もあり得る。防災計画上、忘れてはいけない視点だ。(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。