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千葉・館山の海岸付近。房総半島はさまざまな大地震の影響を受けてきた(本社ヘリから)
地震が生み出す新たな陸地 房総半島に見る“階段”の背景
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130830/dms1308300731000-n1.htm
2013.08.30 夕刊フジ
地震は疫病神のように恐れられている。しかし、そう言うには気の毒なこともある。
西日本から羽田空港に着陸する飛行機は、伊豆大島の真上を抜け、房総半島の南部をかすめながら左旋回して東京湾を横切って、空港に南から進入することが多い。そのときに房総半島の南端部に階段状の地形を見た人も多いだろう。
階段の幅は数十メートルから数百メートル、段差は10メートル弱のものが4段ほど見えるはずだ。階段全体としては10階建てのビルほどの高さだ。海岸段丘という。
これはちょうど90年前の9月1日、「関東大震災」を起こした大正関東地震(1923年)や、その先代の関東地震が繰り返したことで作った陸地なのである。地震のたびに、それまでの海底が飛び上がって新しい陸地が増えてきたのであった。
この階段は房総半島南端の西部にある館山市から、半島の南端をまわって東側の南房総市千倉(ちくら)まで30キロも続いている。つまり東京ドーム300個分もの広さの土地が、地震で増えたことになる。
1回の地震で海底が飛び上がって陸地になった高さは、例えば房総半島南端の野島崎で大正関東地震のときに1・8メートル。その先代の元禄関東地震(1703年)のときにはずっと大きく5メートル。これは地震が大きかったせいである。
なお、ここにある野島埼灯台は大正関東地震で下から5分の1ほどのところで折れて倒壊してしまった。この灯台は東京湾に出入りする船にとって重要な目印なので、洋式灯台としては観音埼灯台(神奈川県横須賀市)に続いて日本で2番目、1870年に点灯したものだ。設計したのはフランス人技師だった。
この灯台が立っている野島崎は、元禄関東地震のときにそれまでは沖合の島だったのが、陸地とくっついたものだ。
元禄関東地震で新しく生まれた土地を村人が平等に分けたという伝承がある。水田や畑、イワシや網の干場にしたことも記録されている。
一方、隆起した陸地が増えたために村境争いが起きるなど、いろいろな悲喜劇があった。いま観光客に人気の和田や白浜など南房総市のお花畑は、もと海底、いまは海岸段丘になっている平地に広がっているものだ。
ところで元禄関東地震よりもっと先代の地震のことは史料には残っていない。このため正確にはいつ起きた地震か、どんな地震だったのかは分かっていない。
しかし段丘の地球科学的な調査からは、少なくともあと3回、元禄関東地震並みの大地震があって、同じくらいの大きさの海岸段丘が作られたことが分かっている。今から約3000年前、約5000年前と約7200年前だ。そのほかに、大正関東地震のとき並みの小さめの段丘がそれぞれの間にはさまっている。
この関東地震のメカニズムは海溝型地震だから、日本人が日本に住み着くはるか前から、何千回も繰り返してきている。私たちは、そのうちで、ごく近年のものだけしか知らないのである。
■島村英紀(しまむら・ひでき) 武蔵野学院大学特任教授。1941年、東京都出身。東大理学部卒、東大大学院修了。理学博士。東大理学部助手を経て、北海道大教授、北大地震火山研究観測センター長、国立極地研究所所長などを歴任。『直下型地震 どう備えるか』(花伝社)など著書多数。
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