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2013/7/9 19:57 日経新聞
江戸時代中期の1707年に発生した宝永地震(マグニチュード8.6)で、大坂(現・大阪)市中の津波などの死者は2万1千人を超えたとする記録が残っていたことが9日、分かった。矢田俊文新潟大教授(中世災害史)が尾張徳川家に伝わる文書で確認した。
有史で最大級の南海トラフ地震だが、被害実数が分かる史料は少なく、大坂の死者は数千〜1万人、全国で計2万人との推計が通説だった。地震直後に尾張藩士が幕府の報告書を写したもので信頼性が高く、宝永地震の被害見直しを迫る史料となりそうだ。
「天下の台所」と呼ばれ、物流拠点として栄えた大坂の人口は当時約35万人。死亡率は6%に達し全国最多とみられる。
尾張徳川家は将軍家に次ぐ御三家筆頭で、代々、尾張藩(愛知県など)の藩主を務めた。矢田教授は藩士が17〜18世紀に幕府の動静や事件、災害を記録した「朝林」を調べた。
朝林によると、地震6日後の大坂は「3537の家がつぶれ、5351人が圧死、1万6371人が(津波で)溺死」。文末に「公儀御帳面之写のよし」とあり、大坂町奉行から幕府に届いた報告書を写したものと分かった。
当時の幕府の公式記録は火災などで大半が失われ、将軍徳川綱吉の側近・柳沢吉保の公用日記には地震翌日の日付で「大坂は建物被害900軒、死者260人」と記されているが、その後の記述は見つかっていない。
一方、別の尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」には「地震から6日後の幕府の評定(会議)では死者2万人」とあり、他にも大坂で1万人以上が死亡したとの史料も残っていたが、東日本大震災が起きるまでは研究者に注目されていなかった。
矢田教授は「大震災を受け、史料を再検討した。宝永地震では今の大阪市中心部の大半が浸水し、多くの橋が落ちた。朝林の記述は現実的だ。将来の防災に生かしてほしい」と話している。〔共同〕
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