http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/678.html
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朝日新聞が2002年2月23日に報道しています(紙面掲載は2月24日)。
<朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表>
朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったことが23日、立命館大学(京都市北区)で開かれている「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝日新聞社後援)で明らかにされた。韓国軍慰安婦について日本で公になったのは初めて。発表した韓国・慶南大客員教授の金貴玉(キム・ギオク)さん(40)=社会学=は「日本軍の慰安婦制度をまねたものではないか」とみている。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/img/img10814_130608-03kim.jpg
「軍慰安婦は日・米・韓にまたがる問題。米兵の慰安所利用実態も明らかにしたい」と話す金貴玉さん=京都市北区の立命館大学で
金さんは96年、離散家族のインタビューの中で、「50年10月、韓国軍の捕虜になり、軍慰安隊の女性と出会った」という男性の証言を得た。以後5年間インタビューを重ね、「直接慰安所を利用した」「軍に拉致されて慰安婦にされかかった」という男女8人の証言を聞いた。
さらに金さんは、韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所−特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。
証言と併せ、軍隊が直接経営していた慰安所があった、と金さんは結論づけた。
軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」とする内容のものもある。
どんな人が慰安婦になったかは明らかではないが、朝鮮戦争時に娼婦(しょうふ)が急増し、30万人にも及んだことから、金さんは「戦時の強姦(ごうかん)や夫の戦死がきっかけで慰安婦になった民間人も少なくない」と見ている。
金さんは「設置主体だった陸軍の幹部の多くは日本軍の経験者だった。韓国軍の慰安婦が名乗り出るためには、日本軍慰安婦問題の解決が欠かせない。韓国政府と、当時軍統帥権を握っていた米国の責任も追及したい」と話している。
◇
大阪外国語大学の藤目ゆき助教授(歴史学)の話 非常に重要な報告だ。軍慰安婦については、韓国でもほとんど知られておらず、発見といっていい。韓国にいて韓国軍の暗部を問うのは難しい。同胞の女性を性奴隷化した自国社会を直接問うことになるからだ。アジア女性史研究の上でも、軍慰安婦と現在の軍事基地周辺での性暴力がどのようにつながっているのかを知る助けになる。(23:32)
asahi.com : 社会 : 速報 2002/02/23
http://www.asahi.com/national/update/0223/028.html】
(ぼやきくっくり
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1393.html)
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これを報じる中央日報↓
★「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張(中央日報)
http://japanese.joins.com/article/331/24331.html
日本軍の慰安婦制度を真似た慰安婦制度が、韓国戦争当時、韓国軍にもあったという主張が提起されたと朝日新聞が24日報道した。
韓国の慶南(キョンナム)大学の客員教授の金貴玉(キム・キオック、40)氏は、23日京都の立命館大学で開かれた国際シンポジウムでこのように発表したと同新聞は伝えた。
金教授は「1996年以後、5年間『直接慰安所を利用したことがある』、『軍にら致され、慰安婦になった』など男女8人の証言を聴取した」と明らかにした。
金教授はまた「韓国陸軍本部が1956年編さんした公文書『後方戦史』に『固定式慰安所−特殊慰安隊』と記録された部分を発見し、これには4カ所で89人の慰安婦が1952年に限って20万4560回の慰安活動をしたという統計資料が添付されていた」と同新聞は付け加えた。
一方、国防軍事編纂研究所の関係者は『当時、軍は売春婦と合意の下で場所を提供した。また慰安行為の対価は部隊運営費から支給されたと聞いている」とし「しかし、日本の植民地時代に日本軍が人権を無視し、一般庶民を強制に連れてきて運営した従軍慰安所とは違う」と説明している。
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国防部 (大韓民国)
大韓民国の国家行政機関であり、庁舎はソウル特別市龍山区にある。国防部の長を「国防部長官」と称し、国務委員が任命される。諸外国の国防省、日本の防衛省に相当し、大韓民国国軍を司る。。。(Wikipedia)
つまり韓国政府が韓国軍慰安所があったと認めたわけですね。
山口支局長の報じた韓国軍のベトナム慰安所ですが、産経や東京新聞は報じてますが、朝日新聞や韓国のメディアは報道しません。
これが朝日新聞の実態であり、韓国の正体です。
慰安婦問題は人権問題ではなく、プロパガンダです。
<参考リンク>
◆消された論文 〜韓国戦争の時、韓国軍も慰安婦を運営していた〜(シンシアリーのブログ)
http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11535210516.html
全訳、開始します------‐
韓国戦争60周年を迎えた6月25日までに、彼女は誰よりも忙しい日々を送った。
漢城大学校研究棟805号には、放送局のカメラが来て戦争と分断を尋ねた。様々な学術イベントや原稿依頼が押し寄せてきた。理由がある。韓国戦争を専攻した学者は多いが、ジェンダー(gender)の視点の平和研究者としてキム・グィオック教授は独歩的な存在だ。彼は韓半島分断の歴史の民衆、女性が受けた歴史的な苦痛を集中的に研究して男性中心の既成政治史にバランスを取ってくれた。これまで、その実体は全く明らかにされなかった北派工作員と民間人の拉致に関する歴史的事実を月刊<マル(=言葉)>や<民族21>などに寄稿して注目を集めた。
特に、2002年に日本の京都で開かれた第5回 "東アジアの平和と人権国際シンポジウム"で、韓国戦争当時、韓国軍慰安婦がいたという論文を発表した。これは、朝日新聞とオーマイニュースに同時に報道された。朝鮮日報を除く国内主要日刊紙やニュースでも、この衝撃的な事実を扱った。
しかし、韓国軍の恥部に触れたこの論文はすぐに歴史の裏舞台に片付けられた。国防部資料室に備えた韓国軍慰安婦関連資料の閲覧は禁止され、メディアは約束でもしたかのように沈黙した。大学から "気をつけた方がいい"という連絡が来た。
公然の秘密となったこの問題は、 "スクープ"に喉が渇いた各放送局の時事番組担当者には置いておいて我慢できない誘惑である。最近もずっと電話がかかってくる。 "韓国軍慰安婦問題を扱いたい"と。しかし、彼女は拒絶する。
一様に韓国軍慰安婦おばあさんたちの顔公開を要求するからである。扇情的なアングルの横暴からその人たちを守ること、歴史的真実のために個人の犠牲が必要ではないということは、知識人として彼女が守ってきた倫理である。
・昼は洗濯、夜は慰安
(論文は泣いているが顔は笑っている。菊のような姉の笑顔だ。その柔らかさが50年の岩のような時間を溶かした。彼女は1996年から博士論文を書くために越南人(戦争の時、韓国に渡ってきた北朝鮮の人たちのこと)集落である江原道束草 "オボイ村"に住んでいた。村に部屋を借りて半年ほど滞在し、現地調査を行った。人々の生活の中で歴史を伺い、読み取った。地元の人々に会い、彼らの記憶に内在しているものを見つけた。単純に離散家族の問題よりも反共主義がどのように生活の中で具体化されアイデンティティを形成するかに関心を置いた。ある日、束草で越南民の金氏をインタビューしていた所、驚くべき話を聞いた。)
"1950年、国連軍に逮捕された金さんは、民間人なのに人民軍(北朝鮮軍)に分類された。平安北道の小川から巨済島の捕虜収容所に移送されるまで、米軍部隊と一緒に移動し、ご飯と洗濯をしていたが、金氏は、その部隊に慰安婦がいたと話した。北側の言葉使いではなかったのは確かだと、金氏は言った。北側から集めてきた女性ではないということだ。つまり、米軍と韓国軍は、50年10月に休戦ラインを突破する時に、すでに女性を集めて連れて行ったという事が分かる。 "
その後5年間、キム教授はインタビューなどを通じて、 "直接慰安所を利用したことがある"、 "軍に拉致されて慰安婦になった"など、男女8人の証言を聴取した。最終的に韓国陸軍本部が1956年に編纂された公文書である<後方戦史>にて、「固定式慰安所 - 特殊慰安隊」と書かれた部分を発見した。この本に載っていた特殊慰安隊実績統計表は、1952年にソウル、江陵など4つの小隊に編成された慰安婦89人が、年間20万4560人の兵力を「慰安」したと記録している。慰安婦1人で一日平均6〜7人の将兵を慰安したのだ。
チェ・ミョンシン、キム・フィオなど予備役将軍たちの回顧録も韓国軍慰安婦の実体を支えている。
"当時、私たちの軍隊は士気高揚のために60人余りを1個中隊とする慰安婦部隊を三、四隊運用していた"、 "チケット制で運用された。戦場で勇敢に戦った順にチケットを配った"(チェ・ミョンシン著書「死線を超えて超えて」より)。
"連帯1課から中隊別に第5種補給品(※軍補給品は1〜4種までしかなかった)受領指示があったので行ってみたところ、私たちの中隊にも週間8時間の制限で6人の慰安婦が割り当てられていた。これは、過去、日本軍の従軍経験のある何人かの連帯幹部たちが、部下の士気高揚のために、わざわざ巨額の厚生費をかけてソウルから調達してきたのだ(キム・フィオ著書「人間の香り」より)。
一つ、二つ、パズルピースが合わせられた。前の越南民が言ったように、50年までは女性が非正規な形で軍部隊と共に移動しながら昼は洗濯、夜は慰安をする形だったがには、戦況が膠着状態に陥る51年から慰安隊の設置が本格化したと金教授は推定した。
軍の記録によると、慰安隊設置の表面的な目的は、 "国軍の士気高揚と戦闘力の損失を防ぐこと"である。
・"左翼容疑者たちを性奴隷にして報復した"
"51年夏、戦争が小康状態に陥った。後方の退屈な戦争が続き、定期的に前方から後方に交替される将兵たちに、何か「慰労」が必要だったのだ。将校たちは、すでに北に行った時に女性を連れて来てるから、別の慰労は必要無かった。前方の最前線にある家は、将校たちがそれら女性と一緒に住んでいる家だ。
'性は公平である "という男性の論理に基づいて、将兵たちにも慰安の機会が与えられた。
男性の証言者たちに、慰安婦の女性たちがどんな感じだったか聞いてみた。化粧したり洒落た感じの売春街の女性ではなく、陳腐な容姿の15〜16歳程度の少女だという。もちろん、戦争孤児もいただろうけど、ほとんどは左翼賦役嫌疑者(容疑者)と推定される。
いわゆる「パルゲンイ(共産主義者)」の疑いをされている状況で、武力を備えた軍人たちへの慰安婦を拒むなんて、それは死を意味することだった。左翼であることを口実に、連れてくることなど簡単だったはずだ。これは根本的羞恥心に触れる処罰で、左翼への暴力的報復であると見ることができる。 "
金教授は、韓国軍慰安婦たちの「声」を聞いてはいない。慰安婦と推定されている少数の人々に会っても、涙と沈黙で答えるだけだった。 "墓に持っていくことにします(誰にも言わないでおきます)"と、次の日には陳述を変えたりもした。
ムン某氏(1936年生まれ)は、1951年当時16歳で、ウォンサンの前の海にあるヨドという島で、女性同盟(女盟)会議をしていたが、夜中に諜報工作活動をしていた北派工作員(※韓国が北朝鮮に派遣したスパイのこと)に拉致された。その工作員の一人に体を犯された後、強制的に慰安婦生活を余儀なくされ、子供を二人も生んだ。
苦労して探し回って、彼女を見つけたが、 "戦争の時に子供を産んで・・苦労して・・生き残りました"と、彼女は多くを語らずに口述を拒否した。
1950年当時、医科大学生だった李某(73)氏は、拉致または強要によって慰安婦になるところだった、また別の女性の事例である。
625(韓国戦争)当時、ソウルに残っていたが、人民軍に協力したことで軍に逮捕された李さんは、他の女性医学生3人と一緒に、引き渡された部隊の将校4人に "割り当て(慰安婦として配当)"された。
李さんは、幸いにも、彼女を哀れに思ったある将校の助けで釈放されたが、他の3人はそれ以来二度と見ることが出来なかった。
国による性暴力だ。
じゃ、韓国軍慰安隊を導入した主体が誰なのか? <後方戦史>には書いてない。しかし、いくつかの状況と将軍たちの証言に記載されているように、当時、韓国軍首脳部の多くは日本軍出身であったことを考えると、日本軍の慰安婦制度を経験した軍首脳部が主導的に導入したことを推定することに無理はない。そして戦時の軍というのは、すべての人的、物的資源を動員する事実上の国家である。
慰安婦は週に2回、軍務官の協力で性病検査を受けた。つまり、公娼制度や日本軍慰安婦制度で性感検査を行ったのと同じように、国は、女性の体を管理し、制御することにより、兵士の体を保護する "身体の政治学"を活用したのである。 <後方戦史>には、 "休戦に応じて、これらの施設の設置目的が済み、公娼廃止の潮流に従順して、檀期4287年(1954年)3月、これを一斉に閉鎖した"と書かれている。
"一部では、韓国軍慰安婦問題に対して、公娼だと断定して、再論の余地がないとする傾向がある。国からみれば、公娼だったのかもしれないが、女性の立場から見ると韓国軍慰安婦制度は軍による性奴隷制度だ。
公娼制度が、国が女性の性を制御するものだとした場合、慰安所は戦時という状況で、国よりも強力な力を発揮する軍が運営の主体である。戦争と武力の前で女性に自立などの選択の余地は無かった。構造的に、その道しか開いていないなら、それは選択ではない。それは構造的な暴力だ。 "
金教授はまた、論文では "韓国軍慰安婦を、すべての人間の歴史の中で性欲と性暴力が普遍的に存在してきた一例として使用することはできない"と主張した。
人類が存在する限り性欲は存在したが、性欲が表現される方法や文化は、時代や社会、目的ごとに違いがある。性暴力が際立つ社会もあるが、性暴力の兆候がほとんど無い社会もいくらでもある。また、性売買を密かに認められている社会は多いとしても、制度として正式に認められている社会は、近代的には限られている。そのような点で、性欲がある社会に性暴力が存在するという図式は、過ぎた一般化ということである。
・日本軍慰安婦と一緒に解決すべし
(2002年、韓国軍慰安婦問題が公式提起されたが、韓半島は沈黙した。当時、女性界、高度の男性知識人、社会学会を問わず、そのほとんどが日本の極右による悪用を懸念するだけだった。
金教授には、「日本軍慰安婦問題とつなげてはいけない」と、有・無言の圧力が加えられた。
韓国戦争当時、韓国軍の慰安婦と経験したある男性は、 "韓国軍慰安婦は日本人ではなく韓国人としたのだから、それでもよい方ではないか"と弁解した。)
このように、家父長的イデオロギー、民族主義イデオロギー、反共イデオロギーが同時に働き、韓国軍慰安婦の真実を覆った。金教授は "韓国軍慰安婦と日本軍慰安婦問題を断絶的に考えてはいけない"という立場だ。
"日本の極右勢力が韓国軍慰安婦問題を認めることは、日本軍慰安婦問題をも認める結果を生む。韓国軍慰安婦は日本軍慰安婦をモデルに設立され、運営したからだ。また、冷戦親日派がその元祖である韓国の右翼が反省しない限り、日本の右翼を反省させることはできない。だから、 "国益"を前面に出して、これを先延ばしすべきではなく、軍が作成した公式文書がある限り、話をすべきだと思う。しかし、誰も言わなかった。
韓国軍慰安婦が個人の恥の問題ではなく、過去の歴史清算問題として対処するための条件を作らなければならないのに、そんなことができなかった。
根強い家父長的イデオロギーと二重的な性文化のせいである。慰安婦被害者ムンさんや李さんのように徹底的に苦まれながらも、その事実が知られることを恐れている女性は、明らかにどこかにもっといるだろう。真実究明による本人の苦痛だけではなく、貧しい子息たちに軍慰安婦という痛みまで及ぼしたくない心情を理解できる。
日本軍慰安婦おばあさんたちもほとんど70歳超えて自分自身を現わし、無縁故者または子がない場合がほとんどである。容易ではない。国が恥を話す自省の雰囲気が造成されていない状態で、その方たちに告白を要求することはできない。 "
-------------全訳はここまでです。
ソースは「Weekly SOYUNOMO」24号。多分、2011年2月?
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