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※ 日経新聞の連載モノ:最終回
熱風の日本史
経営優先、戦争熱煽る
第40回「新聞は思想戦兵器なり」(昭和) 美談で飾り、部数V字回復
1931(昭和6)年の満州事変から45年の太平洋戦争終結までの長い戦時体制下、新聞は国民の敵愾(てきがい)心をあおり、戦争を「聖戦」と美化し続けた。言論統制時代に「やむなく」という面もあったが、営利のため進んで戦争熱を演出していた事実がある。弾圧を受けた被害者というよりも、「軍部とともに日本を亡国に導いた共犯」との厳しい批判もある。
「新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫(わ)びる一片の記事も揚げない。手の裏を返すような記事を載せながら、態度は依然として訓戒的である。(略)敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥」
日本国民が太平洋戦争の敗北を知ってから4日目の1945(昭和20)年8月18日、作家の高見順は日記にこう記した。
新聞人が無責任で反省していなかったわけではない。元朝日新聞の主筆で、戦争末期の小磯国昭内閣で情報局総裁を務めた緒方竹虎は戦後、「軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、始終大きな脅威であった。従って各新聞社が本当に手を握ってやれば、(戦争の防止は)出来たんじゃないかと、今から多少残念に思うし、責任を感ぜざるを得ない」(『五十人の新聞人』)と述べている。
これは現在でも語られる「スタンダード」な新聞の戦争責任論だ。新聞が連帯して軍に抵抗し、戦争に反対する勇気を持たなかったという懺悔(ざんげ)だが、「主犯は軍部、新聞は不承不承の従犯」という被害者意識もにじみ出ている。しかし、それだけではない「不都合な真実」がある。
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日本の国際連盟脱退(1933〈昭和8〉年)前に、日本の新聞で唯一脱退反対を唱えた時事新報記者の伊藤正徳は「新聞は戦争とともに発展する」(『新聞五十年史』)と断言している。日露戦争(1904〈明治37〉〜05年)では大手新聞の部数は軒並み3倍に増えた。
「ジャーナリズムは日露戦争で、戦争が売り上げを伸ばすことを学んだ」(半藤一利・保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』)、「戦争のたびに新聞の部数が飛躍的に伸び、新聞社のビルが大きく高くなっていった」(岩川隆『ぼくが新聞を信用できないわけ』)
昭和初期、世界恐慌と緊縮財政の影響で新聞の部数は落ち込んでいた。31(昭和6)年9月18日に勃発した満州事変は、挽回の絶好のチャンスだった。各新聞社は大量の記者を満州に派遣し、写真などを空輸するため飛行機を飛ばした。
大阪朝日は9月11日から翌32年1月10日まで131回の号外を出した。特派員の事変報告演説会は東日本で70回、聴衆は60万人。各地で4002回もニュース映画が上映され、1000万人が見たという(前坂俊之『メディアコントロール』)。
紙面では「肉弾(爆弾)三勇士」のような美談が掲載され、国民を熱狂させた。各社は写真展などの展覧会や国民集会を主催し、戦争ムードを盛り上げた。経済紙の中外商業新報(現在の日本経済新聞)も「満蒙時局大観」という12ページのグラビア紙面を作った。
とくに大阪毎日・東京日日(現在の毎日新聞)の戦争賛美は際立っており、「あくまで支那の非違を責め、支那の反省改悟(かいご)するまで、その手をゆるめ」るなと社説(9月27日付)で軍を叱咤(しった)。「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」といわれた。32(昭和7)年12月19日の各紙には、満州国を不承認とした国際連盟の決定に異議を申し立てる全国新聞・通信132社の共同宣言が掲載された。翌年の連盟脱退を促す結果になり、新聞は国家をミスリードし始めていた。
事変報道で新聞は売り上げのV字回復を果たした。そして6年後、再び「稼ぎ時」がやってくる。37(同12)年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争は、報道合戦をさらにエスカレートさせた。
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当時、ラジオが爆発的に普及し始めており、速報性で劣る新聞は焦っていた。最新の写真電送機などを駆使し、戦場写真と郷土部隊の活躍を美談で粉飾した記事をより早く読者に届けることに腐心した。兵士の安否を知りたい家族は新聞をむさぼり読んだ。速報重視は情報を吟味せず、既成事実を追認していくことになる。事件発生当初の不拡大方針を撤回し、派兵を発表した7月11日の夜、近衛文麿首相は在京の新聞・通信社の幹部を官邸に呼び、挙国一致の協力を要請。新聞側は快諾した。
だが、政府はムチの音も響かせる。13日、内務省警保局は「時局ニ関スル記事取扱ニ関スル件」として、記事差し止め事項の通牒(つうちょう)を突きつけた。「反戦・反軍的」「日本国民を好戦的・侵略主義的との疑念をもたせる」などの記事が禁じられた。
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強まる言論統制、記者登録制に
言論規制の中心となった法律は出版法(1893年)と新聞紙法(1909年)だった。新聞紙法には「安寧秩序紊乱(びんらん)」の取り締まり項目があった。社会の安定を乱す言論は禁止するということだが、具体的に何が問題かは明記されておらず、無限に拡大解釈が可能だった。
戦前・戦中に言論を統制する法令は30近くあったが、そのなかでもあらゆる権限を政府・軍部に与えた「オールマイティー」の法律「国家総動員法」が1938(昭和13)年4月1日に公布される。同法は41(同16)年3月、新聞を含むすべての事業の開始から解散までを政府が勅令で統制・命令できるように改定された。これをもとに新聞事業令・出版事業令が公布され、メディアは言論だけではなく事業そのものの生殺与奪の権を政府に握られることになった。
軍部テロの五・一五事件(32年)、二・二六事件(36年)で一部の新聞が批判報道を行ったが、新聞界全体は沈黙した。国家の言論統制が完成されつつあったためだが、新聞自身にも危機感が欠如していた。
「本紙は昭和九年九月十一日から、従来の朝刊十ページを十二ページに増し、朝夕刊十六ページ建てを断行」「財界の好転により広告の掲載量が増加」(『日本経済新聞八十年史』)というように、戦争景気で新聞は潤っていた。満州事変以降の新聞は弾圧で後退を続けたというより、部数拡大へと前進していた。やがて「内面指導」という編集方針への介入も始まる。
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41(昭和16)年夏、新聞界の自主的統制機関「日本新聞連盟」の編輯(へんしゅう)委員会は「戦時下における吾等(われら)新聞人は、新聞は思想戦兵器にして、新聞記者は思想戦戦士なりとの自覚の上に立ち」の言葉で始まる言論報道統制に関する意見書を作成した。それは「新聞が戦争の機関であることを前提としたものであった」(塚本三夫『実録 侵略戦争と新聞』)。
太平洋戦争開戦翌日の41年12月9日の夕刊各紙は「米英膺懲(ようちょう)(懲らしめる)世紀の決戦!」などと大見出しで戦意を鼓舞した。翌10日、在京の新聞・通信8社が後楽園球場で「米英撃滅国民大会」を開催した。
宮城(皇居)遥拝(ようはい)、国歌斉唱、内閣情報局や陸海軍の報道部幹部あいさつの後、各新聞社の代表が「米英撃滅せずんば止まず」の決意を表明。最後に新聞連盟理事長の田中都吉・中外商業新報社長らが万歳を叫んだ。
翌42(昭和17)年2月5日、新聞事業令に基づく新聞統制団体設立命令により日本新聞連盟は解散し、「日本新聞会」(会長は田中・中外社長)が発足した。情報局幹部が参与の官製の統制機関であった。そして、記者は登録制となる。
記者の資格条件は「国体に関する観念を明徴にし、記者の国家的使命を明確にし――」などとされた。日本新聞会は43(同18)年度末の時点で、申請者約1万2000人を審査して8700人を当局に提出。うち約3300人が不認可となった(里見脩『新聞統合』)。
記者は「錬成」と称して30日間、農耕や参禅、禊(みそ)ぎ、伊勢・橿原神宮参拝など神がかり的な精神修養を課せられた。「ジャーナリズム(ジャーナリスト)の退廃と敗北の、もっとも無残な姿」と同時に新聞が「『思想戦の兵器』であり、戦争の機関」(前掲『実録 侵略戦争と新聞』)であることを表していた。
「合格」した記者の大部分は国策に共鳴する革新派が占めた。反軍記者といわれた者の多くも「海軍記者の陸軍批判」といった番記者型で、「戦争や対外膨張そのものを批判したものは稀(まれ)」(佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』)だった。
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新聞は新聞用紙制限令(38年8月)の兵糧攻めで「1県1紙」へと整理・統合が進められ、38(昭和13)年に約700紙だった普通日刊紙は42(同17)年11月までに55紙に激減した(前掲『新聞統合』)。この間、用紙の奪い合いで中央紙と地方紙が対立。新聞は連帯できなかった。
日本新聞博物館(横浜・中区)3階の「歴史ゾーン」には、検閲に抵触した記事について当局に提出した始末書など戦時の資料が展示されている。新聞の「抵抗と敗北の歴史」だが、同博物館の赤木孝次・担当主管は「当時の新聞は自ら国民の戦意高揚熱をあおり、戦争への道をつくっていった側面もあった。その問題も隠さず展示し、戦争と新聞の関係について考えてもらいたい」と話す。
戦後の46年(同21)年7月23日、自主独立の組織として日本新聞協会が創設された。同時に、戦争に加担した過去を直視、反省したうえで新聞倫理綱領が定められる。今世紀に改訂された綱領に次のような一節がある。
「新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない」
(編集委員 井上亮)
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〈遠見卓見〉主戦論で増進、日露戦の教訓 半藤一利
日露戦争のとき、新聞は主戦論と非戦論に分かれた。非戦論の先頭に立っていたのは『万朝報(よろずちょうほう)』だった。しかし、世論の大勢が「ロシア撃つべし」の方へ向かうと10万部あった部数が8万部に落ちてしまった。
創業者の黒岩涙香(るいこう)は「経営か志か」の判断を迫られ、経営を選択して主戦へと180度社論を転換した。その後は25万部へと大増進した。新聞は戦争とともに栄える。それが日露戦でジャーナリズムが学んだ教訓だ。
大正、昭和の新聞はこの教訓が頭にあった。軍部からの圧力やラジオとの速報競争もあったが、戦争賛成へと傾いていった第一の理由は経営だったと思う。二・二六事件の時点で新聞の抵抗は99%終わり、太平洋戦争中、記者が登録制になったときは死んだも同然だった。
(作家)
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〈余聞〉ユダヤ陰謀論 さかんに
戦時中の新聞は神がかり的な精神論、必勝論を書き続けた。「個人も軍隊も精神的に負けた時にのみ負けるのである」(1943年9月4日毎日社説)、「一億起って総武装すれば必ず勝つ」(44年8月8日中部日本)
異様なのがユダヤとフリーメーソンの陰謀論がさかんに論じられていることだ。「(英米とソ連)両者を支配するものは、(略)ユダヤ民族なのである」(43年12月30日毎日社説)、「(世界征服の野望を抱く)ユダヤの陰謀こそは一億国民が瞬時にも忘れてはならぬ」(44年1月22日読売報知)
「熱風の日本史」は今回で終わります。
[日経新聞6月1日朝刊P.13]
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