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西山事件とあさま山荘事件、そして、電源三法制定
事件が起こっていた当時は気が付かなかったが、今から振り返るとその意味が分かることがある。その一つが沖縄密約を報じた毎日新聞の西山記者について事件とあさま山荘事件、そしてその後の電源三法制定の関連だ。
毎日新聞の凋落は、1972年、沖縄密約事件のスクープ報道が男女間の関係を利用したものだと問題視されたことから始まったのだと考えている。実際、あの事件以前は、朝日、読売とそん色のない発行部数を誇っていたはずだ。そして、毎日新聞の凋落は1970年代に一気に始まった日本の原発の商業運転開始をにらんだものだったと考えている。以下その根拠を述べる。
まず、ウィキから「西山事件」の一部引用:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1972年3月30日 - 外務省の内部調査で、女性事務官が「私は騙された」と泣き崩れて西山に機密電信を手渡したことを自白。
1972年4月4日 - 国家公務員法111条(秘密漏洩をそそのかす罪)違反で西山が女性事務官とともに逮捕される。
1972年4月5日 - 毎日新聞は朝刊紙上で取材活動の正当性を主張。他紙も同調。
1972年4月15日 - 東京地方検察庁検察官佐藤道夫が起訴状に「ひそかに情を通じ…」と記載。同日夕、毎日新聞夕刊が「本社見解とおわび」を掲載。
1972年5月15日 - 26年ぶりに沖縄復帰。
以上引用終わり。
毎日新聞の事件が表面化する直前にあさま山荘事件が起こっている。
ウィキから「あさま山荘事件」の一部引用:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98
あさま山荘事件または浅間山荘事件[注釈 1](あさまさんそうじけん)は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」[注釈 2]において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。
以上引用終わり。
この時期、つまり、1970年代は日本の原発が商業運転を開始していった時期だ。以下、商業運転開始の順に最初の10基を並べる。
1.日本原子力発電東海発電所(廃炉)
1966年7月25日
2.日本原子力発電敦賀発電所
1号機沸騰水型軽水炉(BWR-2)
1970年3月14日
3.関西電力美浜発電所
1号機加圧水型軽水炉
1970年11月28日
4.東京電力福島第一原発
1号機BWR-3(廃炉)
1971年(昭和46年)3月26日
5.関西電力美浜発電所
2号機加圧水型軽水炉
1972年7月25日
6.中国電力島根原子力発電所
1号機沸騰水型軽水炉
1974年3月29日
7.東京電力福島第一原発
2号機BWR-4(廃炉)
1974年(昭和49年)7月18日
8.関西電力高浜発電所
1号機加圧水型軽水炉
1974年11月14日
9.九州電力玄海原子力発電所
1号機加圧水型軽水炉(PWR)
1975年10月15日
10.関西電力高浜発電所
2号機加圧水型軽水炉
1975年11月14日
つまり、西山事件が起こる前に商業運転していた原発は4基しかなかったのだ。そして、西山事件の起こる一か月ほど前にあさま山荘事件が起こっている。あさま山荘事件により、一般市民や学生による政治への参加意識は一気に退潮し、社会全体にノンポリ化が進む。また、この後、学生運動は内ゲバが激化し、多くの活動家が内ゲバに名を借りて殺されていく。
そもそも、西山記者はこの事件直前まで相当な数のスクープを連発していたという。しかし、ある程度優れた記者であってもそうそうスクープを連続して書くことは難しい。つまり、彼はもともと記者として報道することに熱心で、ある程度優れた記事を上げていたことに目を付けられ、自分自身を過信するように誘導されたのではないだろうか。また、女性事務官の言動にも疑問を付けようと思えばいくらでも疑問を付けることが出来る。多分、いろいろな形で誘導が女性事務官にもあったのは確実だ。
そして、西山事件のほぼ一年後にオイルショックが起こる。その結果制定されたのが電源三法であり、この法律ができたおかげで原発立地自治体は補助金漬けにされ、たとえ原発が危険だと分かっても原発を止めることが出来ないという状況に置かれた。しかも、運転開始後10年程度経過すると補助金が減り、結果的に次の原発建設を立地自治体が自ら要望せざるを得ないという構造が作られた。福島や新潟、そして福井県の原発集中立地はまさしく電源三法が作ったものだ。なお、一般にはオイルショックで原発立地が進んだと思われているが、1973年時点で現在ある原子力発電所のほとんどすべては立地が決まっていて、過半数の原子炉は原子炉設置許可も出ていた。だから、オイルショックはあくまでも電源三法制定が目的で、国際的に起こされたものだ。オイルショックにより原油価格は上がったが原油の生産から精製、販売までを独占していた石油メジャーの利益はオイルショックによって却って増加した。
つまり、あさま山荘事件により、一般市民や学生のノンポリ化を進め、西山事件によってマスコミの政治権力への追及に一定程度のストップをかけ、その上で原発の一斉運転開始と電源三法制定に突き進んで行ったということだ。なお、この時期、日本は田中角栄首相の元、日本列島改造論を教義にして、大変に景気の良い社会だった。しかし、同時に、この時期に大学の学費が大幅に上がり出し、オイルショック前は年額10万円以下だった国立大学や多くの私立大学の学費が今では国立で50万円以上、私立では100万以上にもなっている。また、同時にこの時期は赤字国債の大幅発行が定着した時代であり、建設国債ならいくら発行してもいいという社会的な合意、実際にはとんだ勘違いと言うか屁理屈でしかないのだが、現在の大規模な財政赤字につながる財政の赤字体質が始まった時期でもあった。同時に、この時期以降、所得税制の変更がどんどんとされていき、社会の格差化が進む。現在の格差社会の基礎はこの時期に作られたものだ。だから、戦後日本の最初の曲がり角がこの1970年代前半であったと言っていいのではないだろうか。
そして、以上の経過を見れば、ある意味、毎日新聞は日本に原発を広めるためのいけにえにされたと解釈するのが本当だと思う。
2014年1月29日21時55分 武田信弘 ジオログのカウンターの値:42182
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