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若者はなぜクルマから離れたか 最強トヨタが目指す次の道
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20131130-00000502-biz_fsi-nb&p=2
2013/11/30 SankeiBiz
史上初の世界販売1000万台が目前に迫るトヨタ自動車。「最強の製造業」が次に目指すべきものは何なのか。今年9月に100歳で逝去した最高顧問で、トヨタの“中興の祖”といわれる豊田英二氏が残したクルマづくりを振り返ると、その方向性が見えてくる。
東京ビッグサイト(東京都江東区)で開催中の「東京モーターショー2013」。会場内に展示された未来のクルマ、最先端エコカーに、来場者は誰もが目を輝かせていた。今から七十数年前、トヨタの社長、会長をつとめた豊田英二氏も、ある一点を見つめ、同じように目を細めていたに違いない。
視線の先にあるのは英二氏のいとこでトヨタの創業者、豊田喜一郎氏が購入したフランス製の軽飛行機。英二氏はエンジンを分解して研究に没頭した。ただ、その目が見ていたのは飛行機ではなく、そのエンジンを応用した新たな自動車の姿だ。中国・上海市。自動車との最初の出合いは異国の地だった。トヨタグループの創始者で、伯父の豊田佐吉氏が上海に建設中の紡織工場を見学。このときにいろいろな自動車を目にしたという。小学2年生のときだ。
その直後、父、平吉氏がドイツ製の電気自動車を購入。「面白い乗り物と思ったが、自分が自動車づくりに携わるとは夢にも思わなかった」。英二氏はこう述懐している。自動車に傾注していくのは大学時代から。東京帝国大学(現東大)工学部に入学した英二氏は豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)の自動車部(後のトヨタ自動車工業)に通い、エンジン試作に携わる。就職に際し喜一郎氏が英二氏を「自動車をやりかけたのだから、うちにこい」と誘ったのは有名な話だ。
ある関係者は、「英二氏は自動車業界に入るべくして入った人。自動車生産にかかわるうちに、心の奥底に眠っていた子供のころの自動車への興味に火がついたのでは」と推測する。11月6日。トヨタが発表した2013年9月中間連結決算は、記録ずくめの数字が並んだ。最終利益は1兆6億円と中間期として初めて1兆円を突破。通期業績見通しも上方修正し、連結営業利益は2兆2000億円と6年ぶりに2兆円の大台を回復する。
だが、日本では今、若者のクルマ離れが激しく、それが国内市場の縮小につながっている。日本自動車工業会の調査によると、大学生の「興味ある製品」でクルマは17位(08年度)と、40〜50歳代が大学生だった当時の7位から後退している。「ハンドルを握ったときにワクワクするクルマをつくりたい」。豊田章男社長はこう言い続けてきた。一方で、「クルマから離れているのは若者ではなくメーカーなのでは」とも話す。
なぜ、離れてしまったのか。その答えを探すとき、ひとつの参考となるのが、英二氏が目指していたクルマづくりとは何かを考えることだ。「英二氏は常に、次の次を見ていた気がする。時代が、世界が何を求めているのかを問い続けてクルマをつくっていたのではないか」と前出の関係者は分析する。事実、大衆車「カローラ」を発売後、英二氏はこう語っている。
「カローラはモータリゼーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い実際に起こしたと思っている」。会長時代には、米国で「ブランドの奇跡」とまで称された高級車ブランド「レクサス」を立ち上げた。世界初のハイブリッド車「プリウス」も、英二氏の「21世紀にふさわしいクルマをつくれ」という言葉がなければ実現しなかった。
英二氏は大衆車からスポーツカー、高級車、エコカーを世に送り出し、トヨタを世界的な企業に押し上げた。ただ遺産はそれだけではない。国内外の製造業の手本となるものづくりの基礎を築き、世界中に生産革命を起こしたのだ。(佐久間史信、島田耕)
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