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大阪市北区の新阪急ホテル。阪急阪神ホテルズは、ホテル事業の現場に精通した生え抜きの藤本和秀新社長のもとで信頼回復と再生に取り組むが、道は険しい
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131117/dms1311171730011-n1.htm
2013.11.17
【西論】
6年前、平成19(2007)年の世相を表す「今年の漢字」は「偽」だった。日本漢字能力検定協会が公募で選ぶこの年の上位には、圧倒的多数だった「偽」のほか、「嘘」「疑」などが並んでいる。日本人として情けない年だった。
いうまでもなく、食品偽装が次々と明るみに出た年である。産地や賞味期限のごまかし、売れ残りの再利用と、なんでもあり。料亭の料理から菓子、肉、ウナギなどなど、これでもかといわんばかりの無節操ぶりだった。
業界の体質はこれを機に改まったかと思っていたが、さにあらず。驚かざるをえない。
改めてこの問題を振り返ってホテルなどに欠けていたものは何かと問えば、客や世間の信頼を大切にしようとする姿勢、というにほぼ尽きる。不信の連鎖する偽社会にまた日本をおとしめるつもりかと、あきれる。
最初に世間を騒がせた阪急阪神ホテルズでは、「偽」の年より先、7年前から偽装があったのもさることながら、初動の甘さにも驚いた。公表したのは消費者庁への報告から約2週間後、しかも部長クラス。その後「偽装ではなく誤表示」と強調した社長は、やがて辞任せざるをえなくなった。
信頼を失うことの重みを見誤っていたとしかいいようがない。意図があろうがなかろうが客を欺いたのであれば、世間の感覚ではこれを偽装という。非を認めて謝罪することからしか信頼回復は始まらない。
一連の問題で目立った「誤表示」「意図はない」の連発も、世間の感覚では言い訳という。不信を募らせることにしかならない。6年前、産地偽装が問題になった大阪の料亭の社長(当時)は「意図したものではない」としていたが、翌年、食べ残しの使い回しが発覚。廃業に追い込まれた。
■社会資本としての「信頼」
社会学などで、「信頼」が社会の大きな資本をなすという考え方がある。筆者なりにおおざっぱにいえば、こういうことだ。
法も道徳もないに等しい地域があるとする。そこには店も工場もあるが、嘘つきや悪漢がごろごろいる。ふつうの住民が外に出れば襲われるかもしれないし、店にたどりついたとしてもまがい物を高額で売られるかもしれない。店にしても、工場から仕入れている商品が本物かどうかわからない。
そういう地域で経済活動が成り立つだろうか。ふつうの住民は買い物など行くまいし、外の住民からの投資も呼び込めないだろう。信頼できない社会では健全な経済が成り立たないということだ。
その具体例を、例えば私たちはいま中国に見ている。昨年のすさまじい反日デモ以降、中国以外に拠点を求める企業の動きが目立っている。実際に嫌がらせなどがあるだけでなく、中国の社会そのものに信頼が置けなくなっているところが大きいだろう。それは当の中国人にしてもしかりなのだ。報じられる共産党幹部の海外での蓄財は、自国の行く末を自ら信頼していないことの表れといってよい。
だが不信がはびこる隣国を、この体たらくの日本が笑えるかどうか。社会の信頼を崩す行いは、ひいてはその国の国益を損ねるといっても過言ではない。一つ一つを挙げないが国難というべき事態を、日本が一丸で乗り越えて行くべきときである。その国の内側で何をやっているのだ、といっておく。
■不可欠な「世間」への視線
阪急阪神ホテルズの社長が辞意を明かした同じ日、暴力団関係者への融資放置問題で、みずほ銀行が社内処分を発表した。頭取は留任で、甘いといわざるをえないものだった。問題の質は食材偽装とは異なるが、日本を代表する東西の企業の不祥事には通底するものも感じてしまう。企業の私の都合が優先され世間は二の次になっているのではないか、という懸念である。
「誤表示」を強調した同ホテルズの姿勢は身内の理論でしかなく、世間様がどう思うかという健全な常識を欠いていた。反社会的勢力への融資を放置していたみずほ銀行の場合、反社会ということ自体が世間様に背いているのであって、その自覚が切実でないならことはゆゆしい。
もうけだけではない。保身や言い逃れに走るのも、わたくしごとの利である。私利の暴走を戒める見方や考え方を、幸いなことに日本人は多く持っている。「三方よし」といわれる近江商人の精神もその一つだ。売り手と買い手がよしとするだけではだめで、その商いを世間がよしとしてくれないといけない、と。近江商人が残した家訓のたぐいには、自分勝手や規則違反を戒める言葉が並んでいる。
食材偽装を社会や国家の信頼にまでつなげていく見方など、いまどき笑われるかもしれない。過去にもこんな文がある。「もし商業を談ずるにあたりて、国家ということをもってせば、人みな笑いて空論とし、嘲(あざけ)りて過大とするを常とす」。資本主義化が進む近代日本で、公益を忘れ私利にのみ走る商人を批判して言論人、三宅雪嶺(せつれい)が書き付けた言葉。明治24(1891)年のこの本、題を「偽悪醜日本人」という。
次から次へと偽装は明らかになった。程度に差はあれ、正すべきは正すべし。今年の世相を表す漢字が再び「偽」となることなどないよう、願う。
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