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セーの法則について
http://www.asyura2.com/13/hasan83/msg/620.html
投稿者 shn 日時 2013 年 11 月 04 日 19:33:28: EW7wpe.Zqh2lo
 

 「日本経済論の罪と罰」(小峰隆夫)の第1章の1は「GDPの三面等価」の説明から始まっている。

 「経済成長は、GDP(国内総生産)がどの程度の勢いで増加しているかを指す概念である。そのGDPには、「三面等価の原則」という定義的な関係がある。生産(供給)、支出(需要)、所得の3つは等しいというものである。
 これは、よく考えれば自然な考えである。誰かが200万円の自動車を買えば、200万円消費が増える(支出)。その支出が実現されているためには必ず200万円の自動車が生産されている(生産)。そして、おカネが渡ったのだから、必ずその支払われた200万円を所得として受け取った人がいるはずだ(所得)。すると、一定期間における経済全体の支出と生産と所得は等しくなるはずだ。
 ただし、名目値では三面等価が成立するが、実質地では必ずしもそうならない。交換条件(輸出価格と輸入価格の比率)が変化すると、名目所得は同じでも、実質所得が変化してしまうからだ。この点は第6章第2節「GNI(国民総所得)から読み解く」で取り上げるが、以下では簡単化のためこの点は無視して、名目でも実質でも三面等価が成立すると仮定する。」

 この説明は正しいのだろうか。

 石川秀樹「速習マクロ経済学」ではこう説明している。

「三面等価を一言でいうと…
 日本の国内総生産(GDP)は約500兆円です[生産面の国民所得]。その約500兆円は誰かの所得として分けられるので、国内の所得の合計[分配面の国民所得]と同じになります。また、なぜ約500兆円もの付加価値を生産したかというと、お客さんの注文があったからです[支出面の国民所得]。」          
 
「500兆円生産したからと言ってお客さんの注文もちょうど500兆円とは限らないのではないかという疑問が出てきそうです。これは重要なポイントなので、後ほど詳しく説明します。」                    

「支出面の国民所得とは、国内で支出した金額の合計ではなく、国内で生産した付加価値への支出を合計した指標で、国内総支出ともいわれます。(中略)

国内総支出=民間消費+民間投資+政府支出
 
これら民間消費、民間投資、政府支出のうち、外国製品を買う(輸入する)場合には、国内で生産する価値への支出にはなりませんので、差し引く必要があります。また、外国人がその国内で生産する価値への支出をする場合は足す必要があります。
 そこで、海外も考えると、

国内総支出=民間消費+民間投資+政府支出+輸出−輸入

 現実には、国内で生産する価値への支出はこれだけのはずです。ですから、国内総生産より、国内総支出が小さい場合、生産した分より支出が少ないので、ものが売れ残り、倉庫に売れ残り品が増えます。ところが、統計上は、この売れ残った分は、その作った企業が支出したと考え、在庫品増加という項目にして国内総支出に加えるのです。

国内総支出=民間消費+民間投資+政府支出+輸出−輸入+在庫品増加

 このように考えれば、統計上は、支出面の国民所得(国内総支出)と生産面の国民所得(国内総生産)とは常に等しくなります。」(同書)

「しかし、これは、統計上は、売れ残った分は作った企業が支出して買ったことにしてしまうので、等しくなるというだけで、現実の生産量と需要量(支出額)が等しく売れ残りがないということではありません。」

「たとえば
 国内総生産(=生産面の国民所得)が500兆円のとき、生産した価値への支出(需要)が490兆円しかなかったとしましょう。このとき10兆円だけ売れ残りが出るのですが、統計上は、その10兆円は生産した企業が支出したとみなし、国内総支出に加えます。その結果、国内総支出(支出面の国民所得)は490+10=500となり、国内総生産(生産面の国民所得)と常に等しくなるのです。」(同書)
参照→http://free-learning.org/?page_id=390#05

小峰が描いているのはセーの法則が成立している世界であり、石川の世界ではセーの法則は成立していない。

「経済学には二つの根本的に対立する考え方がある。第一は経済全体としては過剰生産は不可能であるということ、すなわち総生産額が決められると、それらに等しいだけの総需要が常に作り出されるという見解であり、第二は総産出額が総需要を決めるのではなく、その逆、すなわち総需要が総生産額を決めるという見解である。第一の見解はセイの法則と呼ばれ、第二のそれは「有効需要の原理」といわれる。19世紀前半まで経済学界に君臨していたリカードはセイの法則を承認していたから、それはケインズによって古典派の公準と呼ばれた。このような公準は一般均衡が成立するために必要であるから、ワルラスはじめ一般均衡論者はセイの法則を認めたが、19世紀中期以後にはセイの法則を否認する学者(例えばマルクスおよび彼の追随者)が現われ、このような反対者の思想は最後にケインズの「有効需要の原理」として結実した。ケインズの『一般理論』が出版されるまでの約百年間の経済学史の主題はセイ法則の世界(リカード経済学)を転覆させて、反セイ法則の体制(ケインズ経済学)を構築することにあったと考えうる。

 本書は「有効需要の原理」の立場に立っているが、そのように態度を決めてしまう前に、なぜ「セイの法則」は承認しえないかを説明しておこう。産出量が決まると労働者の賃金や企業者の所得も決まるが、彼らはそれぞれの所得の一部を消費し、残りを貯蓄する。もしこの貯蓄に等しいだけの投資が常に保証されるならば、総産出額はつねに総消費額と投資額の和、すなわち総需要額に等しく、したがってセイの法則が成り立つ。一般過剰生産は不可能であり、消費財産業に過剰生産があれば資本財産業は過少生産でなければならないからである。このようにセイの法則が成立するためには、総産出額の大きさのいかんにかかわらず、総貯蓄額に見合うだけの総投資が創出されていなければならない。

 しかしこのことは不可能である。投資の意志決定をするのは企業者であって、労働者や金利生活者は関与しない。総産出額が大きい時、それに応じて総貯蓄額も大きいから、貯蓄は容易に投資を超過しうるし、産出額が小さい時には逆に総貯蓄が総投資に達しないことがある。このようにどのような産出額の大きさに対しても総貯蓄が投資に等しくなるのではなく、たまたま特定の値の総産出額において貯蓄が投資に等しくなるにすぎない。この特定の産出額は均衡産出額といわれるが、均衡値以外の産出額では貯蓄が投資以上(またはその逆)になりうるから、一般過剰生産や一般過少生産は可能である。

 こうしてセイの法則は否定される。どのような大きさの産出額に対しても、その時の貯蓄にちょうど等しいだけの投資をするような投資計画改定のメカニズム――あるいはそのような改定をもたらす柔軟性――が企業者の投資決意に具備されていないからである。現実の経済では逆に、企業が決定した投資額に対して産出額が適応する。こうして均衡値の産出額を生み出す規模の生産が行われるが、このような規模の生産では必ずしも労働の完全雇用が実現されるとは限らない、企業者の投資意欲が旺盛でないときには、それに応じる均衡生産量も小さく、その結果雇用量は少なく、失業の発生は不可避である。

 完全雇用に対する障害はセイの法則の下では存在しない。完全雇用を実現するような産出量の生産を行いさえすれば、それに応じる貯蓄に見合うように投資が適応して、完全雇用産出量のもとで需給が均衡する。――過剰生産も過少生産も生じない――からである。セイの法則が成り立たない経済では、少なすぎる投資は完全雇用の障害となる。そして投資意欲不足の経済では、政府が積極的に需要を発注して、需要不足を解消するか、金融機関が投資意欲を振起するような刺激を作り出さねばならない。こうして財政政策及び金融政策が本書第二部の主要課題となるが、これらの政策の副作用(財政赤字、インフレーション、スタグフレーションその他)に対処するにはどうすればよいかという問題もまた論じられるであろう。」           森嶋通夫「ケインズの経済学」序論。

この森嶋の本はもともと英語版The Economics of Industrial Societyの日本語版で、London School of Economicsの一年生用の教科書に使ったのだという。イギリスの大学生はこういうことを習っているのだ。
 
 で、小峰と石川・森嶋のどちらが正しいのだろうか。
 
 僕は石川森嶋の言っていることのほうが正しいと思えるが、問題は、この二人が在野の、または海外の経済学者であることだ。それに対し、小峰は「日本のエコノミスト、元官僚。埼玉県出身。法政大学大学院政策創造研究科教授。国土交通省国土計画局長、経済企画庁経済研究所長などを歴任した。」(wikipedia)だそうだ。このような人たちが日本の経済をあずかっているのだ。竹中平蔵もと○○大臣も
「セーの法則というのがあるのだからもっと市場を信頼して…」と国会で答弁していた。

 日本の経済運営は大丈夫でしょうか???


ふろくとして以前に発信した「貯蓄と貧困1」を付け足しておきます。

サラ金だって、「ご利用は計画的に」というのに、計画経済ではなくてなぜ自由主義市場経済は可能なのか。

神の見えざる手という有名な言葉があって、経済は市場の自由な運動に任せておけば需要と供給の関係でおのずから最適な位置に落ち着くのだということのようですが、でも供給と需要は全然別のものじゃないか、おコメを百俵作った人がそれを売りに出したがそのコメを必要とする人には金がなくて、コメは売れ残り人は餓死するでは最適な状態とは言えないのではないか、というと、そういうことではなくて、セーの法則、もしくは販路の法則というのがあって、供給それ自体が需要を生み出す、のだそうです。これは経済学上ではあたかも物理学におけるエネルギー保存の法則といえるものなのだそうで、どういうことかというと…

ある樵が山林地主に一万円をはらって木を切り出し、二万円で材木屋に売った。それを家具職人が三万円で買い、テーブルを作って四万円で売りに出した。各人の収入はそれぞれ一万円で、四人の収入の総計は四万円である。左側には四万円の収入があり、右側には四万円の商品がある。
 もし樵の取り分が五千円であれば三万五千円の総収入に対して三万五千円の商品になり、材木屋が自分の収入を一万五千円にすれば四万五千円の総収入が四万五千円の総商品に対することになる。さらに一人の商人が現れてそのテーブルを買い五万円で売るとしても同じで一方に五万円の総収入があり反対側には五万円の商品がある。全世界の収入の総額と商品の総額は常に等しい。この二つは違うことができない。だから収入のすべてが支出されればすべての商品が売り切れる。
 
これは非常に優れたシステムで、もし商品が売れ残るとすればそれはその商品が市場にとって不要なものだったからであり、必要な商品である限り必ずそれが売り切れるだけの収入がおのずからもたらされていることになる。
 ただしここで肝腎なのは「収入のすべてが支出される」ということで、(マルクスとケインズが批判したのもここですが)
このとき、収入の一部が支出されずに貯蓄に回されるとするとその分の商品が売れ残ることになり、その商品が売れればもたらされるはずの収入が実現しないことになる。そこに発生する貧困の量は貯蓄の量と等しい。使われずに残った貯蓄は世界の反対側に自分と等しい量の「実現しなかった収入」・貧困を生み出す。

一方で、貯蓄するということはもう消費に金は使わない、消費財はいらない、と市場がいっているわけなのだからそれだけ資本財、生産財に資源を振り向ける余裕を手に入れたのだともいえる。
資本主義の初期においてはブルジョワジーという偉大な種族がいて利潤をすべて投資に次ぐ投資に振り向け資本財、生産財を拡充し世界を豊かにしたというふうに昔習った記憶があるのですが、今の日本はカネ余りとか言って産業育成のための投資に振り向けられずに漫然と溜め込まれたままになっているのだそうで(というよりは投機目的で溜め込まれている)、するとその巨大な貯蓄の分だけ消費が不足し、実現されない収入・巨大な貧困が生まれる。
自由主義市場経済で完全雇用が実現するのは貯蓄がゼロのときで、貯蓄が存在するときは貯蓄と同じ大きさの投資をしなければ失業と貧困が発生する。

もはや投資に次ぐ投資で事業を拡大した偉大な種族が滅びてしまった現在、国づくりがあらかた終わってしまったといわれる現在では、この巨大な貯蓄を何とかするには、貯蓄している人に何とかものを買ってもらうとか、軽いインフレ状態にして今使わなければ損をするぞと脅かすとか、貯蓄分は税金で没収するぞといって強制的に支出させるとか、それでも使わなければ本当に没収して国が代わりに使ってやるとか、もしくは安い金利で借り上げて国づくりに使うとか、多く貯蓄する富裕層からあまり貯蓄のできない貧困層に所得を移転するとか、または、使わないで貯めこむだけの人がいるなら、貯めないで使う人がいればいいわけだから誰かが巨大な赤字を出して借金経営の事業をするとか、とはいってもそれだけの赤字に耐えられるのは民間にはいないだろうから国が赤字財政で何かをするとか、またはそもそもカネがしまいこまれてしまっているのだからその不足分のカネを印刷するとか、が必要になる。

投資しきれないほどの貯蓄が眠っているということはそれだけのお金を持つ資格と能力のない人の手にお金が集まっているということであり、一方にはお金がなくて失業、ホームレス、餓死、自殺が発生しているということは現在の貯蓄のシステムが重大な欠陥を抱えていということだ。失業、ホームレス、餓死、貧困…は自己責任ではない。

http://homepage2.nifty.com/okutamahomeless/jokyoshn.htm
 

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コメント
 
01. 2013年11月04日 19:53:58 : nJF6kGWndY

あほらしい

>以下では簡単化のためこの点は無視して、名目でも実質でも三面等価が成立すると仮定する。」 この説明は正しいのだろうか。

厳密には間違いに決まっている

しかし、価格変動が無視できる状況や、廃棄量が十分無視できるような理想的な状況では近似的に成立する

だから具体的に小峰の主張を引用して批判しないで、こういう言葉尻で批判しても意味はない

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130422/246988/?ST=print
http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20100630/215197/?ST=print


02. 2013年11月04日 19:58:21 : nJF6kGWndY

>巨大な貯蓄を何とかするには、貯蓄している人に何とかものを買ってもらうとか、軽いインフレ状態にして今使わなければ損をするぞと脅かすとか、貯蓄分は税金で没収するぞといって強制的に支出させるとか、それでも使わなければ本当に没収して国が代わりに使ってやるとか、もしくは安い金利で借り上げて国づくりに使うとか、多く貯蓄する富裕層からあまり貯蓄のできない貧困層に所得を移転するとか、または、使わないで貯めこむだけの人がいるなら、貯めないで使う人がいればいいわけだから誰かが巨大な赤字を出して借金経営の事業

まさにアベノミクスだなw


03. 2013年11月04日 21:34:50 : CiFcXC3kMA
いつまでも旧式の概念に取りつかれてはいけない。
経済には金額が同じ支出と収入が同時に行われるマネーの原理があるだけの話だ。
この経済で最も重要で尊重される物理の原理が作用している限り、貨幣経済は正常だということだ。

この原理から自明の理として導かれる原理は経済活動は金銭的にとらえれば、ゼロサムゲームだということだ。金銭的な勝者がいれば、同額に近い敗者がおり、彼らの成果の総和はゼロに均衡する。

バブルの生成と崩壊もこの原理の作用で必然的に起こる。金銭的な勝者が増えた期間の後には金銭的に同程度の敗者がからなず増える時期が来る。

経済の重要な法則はマネーの原理以外にあるはずがない。金融学はこの法則の呪縛から、永久に逃れることはできないのだ。

貸し借りのごまかしをしないマネーの原理に従う今の中央銀行の量的緩和ではこの呪縛からは決して逃れられない。


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