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http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20131009-00010001-biz_bj-nb
Business Journal 2013/10/9 06:13
みずほ銀行が暴力団構成員らへの融資を放置していた問題で、10月4日、ようやく同行は記者会見を開いた。持ち株会社・みずほフィナンシャルグループ(FG)の社長を兼ねる佐藤康博頭取(旧日本興業銀行出身)は記者会見には出ず、9月30日付で新たにみずほFGの法令順守担当となったみずほ銀行の岡部俊胤副頭取(旧富士銀行出身)が謝罪した。だが、融資の実態や、なぜこの融資を歴代役員が放置したままにし、トップにこの事実が伝わらなかったのかについては、その理由を明かさず、「これから調べます」と繰り返すばかり。「調査中」なのに、「今のところ反社会的勢力との癒着は見られない」と言い切り、多くの疑問が残る記者会見となった。
問題の融資はすべて、グループの信販大手、オリエントコーポレーション(オリコ)を通じた中古車などのローン。2010年12月には行内で把握されていたが放置され、融資件数は200件以上にふくらんだ。12年12月に金融庁検査で指摘されるまで対策は取られなかった。
岡部副頭取の説明は、歴代頭取に責任が及ぶのを防ぐことに費やされた。問題融資の情報は、当時の副頭取で止まり、頭取ら経営トップに伝えられなかったというのだ。
みずほ銀行が自行調査で230件の問題融資を見つけたのは10年12月。当時の法令順守担当は上野徹郎副頭取(旧第一勧業銀行出身)だったが、西堀利頭取(富士銀出身)に報告はなかった。上野氏の後、法令順守担当は矢野正敏副頭取(第一勧銀出身)、倉中伸常務(興銀出身)へと引き継がれ、その後、今年9月末まで小池正兼常務(第一勧銀出身)が務めた。
みずほ銀行の頭取は西堀氏の後、塚本隆史氏(第一勧銀出身)が引き継いだ。旧みずほ銀行と旧みずほコーポレート銀行が今年7月に合併して誕生した新みずほ銀行の頭取は、みずほFGの佐藤康博社長が兼務した。この間、トップは問題を把握していなかったというのだ。発覚から2年以上経っているのに組織のトップに伝えられなかったという説明は、あまりにも不自然である。
経営統合したみずほ銀行は、不祥事が相次いだ。02年4月、第一勧銀、富士銀、興銀の3行をみずほ銀行とみずほコーポレート銀行に再編した時、みずほ銀行で大規模なシステム障害が発生。11年3月の東日本大震災直後、みずほ銀行に義援金の振り込みが集中し、再び大規模のシステム障害が起こった。
不祥事のたびに、旧3行の派閥争いが原因といわれてきた。今回の問題も同根だ。「オリコは第一勧銀の案件だった」(銀行関係者)といわれ、オリコの問題融資は第一勧銀が処理すべき案件で、富士銀や興銀の出身者は我関せずの態度だったという。
●オリコをめぐり対立深めた旧3行
第一勧銀は1997年にオリコと提携ローンを始め、両社は結びつきが強かった。旧3行が経営統合して、みずほFGが発足したのち、オリコは3行抗争の火種となった。オリコへの融資をめぐり内紛が勃発したのは、07年のことだった。
オリコからの支援要請を受けた07年2月、みずほFGの最高首脳会議が開かれた。その席上で、みずほコーポレート銀行の斎藤宏頭取(当時、興銀出身)は、みずほFGの前田晃伸社長(同、富士銀出身)、みずほ銀行の杉山清次頭取(同、第一勧銀出身)を前にして、「(オリコを)もう切ってしまえ」と発言したという。
オリコは貸金業規制法改正に伴う過払い利息返還請求に備え追加引き当てをしたのが響き、07年3月期に4500億円を超える最終赤字に転落する見通しになった(同期の最終赤字の確定値は4613億円)。1000億円超の債務超過になるため、オリコは、みずほに緊急支援を求めた。黒字を計上できるとギリギリまで説明していたオリコが、一転して債務超過に転落するのだ。正確な経営情報を第一勧銀側から伝えられていなかった興銀出身の斎藤頭取は、怒りをぶつけたのだ。旧興銀派と旧第一勧銀派の内紛が勃発した瞬間だ。
08年7月、週刊誌が斎藤頭取のテレビ東京の女性記者とのスキャンダルを報じ、行内では「第一勧銀出身者による内部告発」と囁かれた。「オリコ問題を追及された第一勧銀出身者のしっぺ返し」と、興銀出身の役員やOBは信じたほどだ。
結局、みずほ銀行はオリコの支援を決定。08年3月期から再建5カ年計画がスタートしたが、早々と頓挫。再々支援に追い込まれた。同行は10年9月、オリコの筆頭株主となり、持ち分法適用会社に組み入れた。13年3月末時点で、旧みずほ銀行と旧みずほコーポレート銀行を合わせて23.8%の株式を保有している。名目上の筆頭株主は伊藤忠商事で持ち株比率は22.6%だ。
●オリコは旧第一勧銀出身者の天下り先
オリコのトップは第一勧銀出身者の指定席となっていた。オリコの経営危機が表面化した07年6月には、第一勧銀出身でみずほコーポレート銀行副頭取だった沖本隆史氏が会長、同じく第一勧銀出身でみずほ銀行常務だった西田宜正氏が社長に就いていた。持ち分法適用会社に組み入れられた翌年の11年6月、西田氏が会長になり、第一勧銀出身でみずほFG常務の斎藤雅之氏が社長になった。オリコの2トップは第一勧銀OBが独占してきたわけだ。
持ち分法適用会社に組み入れた直後の10年12月、みずほ銀行はオリコとの提携ローンの事後審査を開始。当時の上野副頭取らは顧客に組員がいることを把握していたにもかかわらず、問題を放置した。上野氏は11年4月、副頭取を退き、清和綜合建物社長に転じた。清和綜合建物は旧第一銀行(のち第一勧業銀行、現みずほ銀行)の不動産管理会社として誕生して以来、旧第一勧銀出身者の天下り先となっている。同社はオリコの株式を1.0%持つ第7位の大株主だ。
オリコや清和綜合建物は第一勧銀の牙城なのだ。合併しても旧行意識は消えていない。1997年、第一勧銀の総会屋利益供与事件が起き、歴代頭取ら11人が起訴された。この時、旧日本勧業銀行出身の元頭取が「あれは旧第一銀行の案件で旧日本勧業出身者は関係ない」と発言してひんしゅくを買った。
1960年代末に、第一銀行の主力取引先である神戸製鋼所で内紛が起き、右翼の大物、児玉誉士夫氏が子分の総会屋である木島力也氏を使って収拾した。当時、第一銀行神戸支店次長を務めていたのが、自殺した宮崎邦次元頭取だ。木島氏の指示下の小池隆一氏が引き起こしたのが97年の総会屋利益供与事件だった。旧日本勧業出身者は、総会屋との癒着は合併前の第一銀行から引き継がれてきたもので、自分たちは関係ないと言い放った。
今回の暴力団構成員への融資問題は、第一銀行が日本勧業銀行と合併して第一勧銀になる以前の第一銀行の時代から脈々と続く、深くて大きい闇なのだ。旧富士銀や旧興銀出身者が「あれは第一勧銀の案件で我々には関係ない」と言うのは、バンカーに備わった防衛本能そのものである。
●変化するみずほ銀行内の勢力地図
銀行業界では今回の事件を契機に、旧3行の勢力地図が塗り替わるとみている。旧第一勧銀の発言力は一層低下する。持ち株会社の、みずほFG社長とみずほ銀行頭取を兼務する興銀出身の佐藤氏の責任は、どう抗弁しようとも免れない。傷ついた第一勧銀と興銀に代わって、勢力を拡大するのは無傷の富士銀という構図だ。
金融業界が注目した人事がある。みずほFGは今後、金融庁からコンプライアンス(法令順守)の徹底が求められるが、9月30日付で持ち株会社とみずほ銀行の法令順守担当に、ともに富士銀のエースと目された人物が就いた。みずほFGの法令順守担当は、副社長でみずほ銀行副頭取を兼務する岡部俊胤氏。富士銀出身の前田晃伸氏が、みずほFG社長時代に秘書室長を務め、「側近中の側近」といわれている。
みずほ銀行は富士銀出身の辻田泰徳副頭取が法令順守を担当した。前田氏が全国銀行協会の会長を務めた際に前田氏の懐刀として活躍したのが土田氏。行内では「カミソリ」と評されている。
土田氏と岡部氏は、富士銀勢が「ポスト佐藤」を想定して温存してきた次期トップ候補なのだ。富士銀の両エースが、みずほの再生を担う法令順守を担当したことで、富士銀が興銀から主導権を奪還するとの見方が出始めた。
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