03. 2013年9月30日 09:54:54
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【第28回】 2013年9月30日 伊藤元重 [東京大学大学院経済学研究科教授、総合研究開発機構(NIRA)理事長] 国民の多くが社会保障の既得権益者! その改革こそ財政健全化の最大ポイント 国債暴落による金利急騰のリスク 私は国債価格暴落のリスクについてずっと考えてきた。もう10年以上前からそのリスクについて言及してきた。その間も国債利回りである長期金利は下がる一方であった。来るはずもない国債暴落が来ると言っている狼少年だと批判されたこともある。 しかし、これまで国債価格の暴落が起きなかったから、今後もそんなことにはならない、と考えるわけにはいかない。スペインやイタリアで起きたことが、日本で起きないという保証はない。 ちなみに、イタリアで国債価格の暴落(国債金利の急騰)が起きたとき、その公的債務はGDPの125%程度であったという。日本の公的債務はGDPの200%を超えている。それでも日本では絶対に国債価格の暴落が起きないと言い切ることはできないだろう。 国債価格の暴落の問題がやっかいなのは、その確率が非常に小さいということだ。仮に5%あるいはそれ以上の確率で国債価格が暴落すると市場が思えばとっくに暴落している。そうなっていないのは、市場が国債価格の暴落の確率を非常に小さいと見ているからだ。 確率は小さいが、いざそれが起きたら大変なことになるリスク──これを「テールリスク」と呼ぶ。あるいはそうしたリスクの重要性を指摘したナシーム・ニコラス・タレブの世界的ベストセラー『ブラック・スワン』 にちなんで「ブラックスワン・リスク」と呼ぶ。 リーマンショックがテールリスクの典型的な例だ。リーマンショックの前から大きなリスクが存在することを指摘していた専門家はいた。しかし、市場全体がそのリスクは非常に小さいと見ていた。だから、リスクがあったにもかかわらず、株価も不動産価格も上昇を続けた。しかし、リーマンショックが起きてしまうと、大変な混乱に金融市場は陥ったのだ。 たとえ日本国債の価格暴落の確率が小さいとしても、もしそれが起きたらそれに対応する手段はあまりない。日本銀行が大量に国債を購入すればよいという議論があるが、いったん暴落してしまえば中央銀行が大量購入したからといって抑えきれるものではない。それどころか、そうしたかたちで金融政策が使われれば、中央銀行の信頼が失われ、市場はますます混乱することになる。 政府にも、国債暴落を防ぐことができるわけではない。国債が暴落するということは、日本の財政に信頼がなくなったということでもある。そんな事態に陥ったとき、財政政策を司る政府にそれを阻止できるものではない。 マクロ経済政策の運営で財政健全化に配慮することの重要性は、まさにこのテールリスクの可能性を徹底的につぶすことにある。健全な財政運営を実現すれば、国債価格が暴落するリスクはさらに小さくなるからだ。 大国はいかにして衰退していくのか 経済学者は、どうしても最悪のケースを想定する傾向がある。だから、国債価格の暴落を心配する。しかし、財政破綻あるいは破綻のリスクというのは、必ずしも国債価格の暴落だけではない。 最近、私はこの点について真剣に考えるようになってきた。そのきっかけとなったのは、Glenn HubbardとTim Kaneによる『Balance: The Economics of Great Powers from Ancient Rome to Modern America』という本を読んでからだ。古代ローマから現代の米国まで、大国が衰退するのはどのようなプロセスを辿るのか、経済的な視点から興味深い分析が提示されている。この本の重要なメッセージは、衰退は一瞬で起きるものではない、時間をかけて少しずつ腐っていくものであるということだ。 古代ローマのケースで言えば、財政問題が次第に深刻化していった。それに対応するため、ローマは貨幣の質を少しずつ落としていった。要するに貨幣のなかの銀の含有率を少しずつ下げて財政支出に回したのだ。それでもローマは何百年も存続することになるが、次第に衰退して、最後は外敵の侵入で滅びてしまう。 財政問題が深刻化していったとき、その破綻はある日突然国債価格が暴落するというかたちで起きるとは限らない。時間をかけて経済が少しずつ衰退していくという道もあり得るのだ。最後は外からの大きなショックでその国が倒れることになる。それがGlenn HubbardとTim Kaneによるローマ衰退の分析である。 不健全な財政運営のコスト さて、この分析を日本に当てはめてみよう。日本の公的債務は増え続けている。それにもかかわらず国債利回りは非常に低い水準で推移している。少なくともこれまでのところは国債価格の暴落は起きていない。今後も起きないという保証はないが、まだしばらくは起きないという見方もあり得る。 それでは日本の財政問題は重要ではないのか。いや、むしろその逆ではないだろうか。 公的債務が大きくなっても国債価格の暴落が起きないように、政府はさまざまな対応策を打つ。国債が日本の金融機関によってしっかりと保有されるように、国債管理政策を強化する。目先の危機を起こさないためにはそうした対応は必要なのかもしれないが、それでますます国債の残高が増えていく。 社会保障政策でもそうしたパッチワーク的な面がある。放置すれば際限なく増え続ける社会保障費。それでは困るので、政府はとりあえず可能な対応を繰り返す。高齢者の自己負担を増やし、保険料の収入を増やすような制度改正を行い、そして軽度の高齢者の介護費用を節約しようとする。 消費税の引き上げさえ、こうしたパッチワークに見えることがある。消費税を上げたのだから社会保障支出をもっと増やしてもよい──そう考えている人は多いようだ。これだけ財政赤字が続き、公的債務が増え続けても、社会保障費をもっと増やしてもよいと考えてしまうのだ。 こうした微調整は必要だろう。微調整をしなければもっと大変なことになるからだ。しかし、そうした微調整で何とかしのごうとすればするほど、大切な改革は先送りされ、社会保障の費用負担の深刻さは増していく。パッチワークでの対応が目先の危機を軽減すればするほど、より深刻な問題を先送りしてしまうことになる。 社会保障で本格的な改革が行われていないことは、すでに大きな影響を財政運営にもたらしている。日本政府の非社会保障支出は、対GDP比の数値で見ると先進国でも最低水準に近いという。それは教育費や若年層の雇用支援、子育て支援などの支出額が非常に低いということだ。膨張し続ける社会保障費に対応するために、それ以外の公的活動が徹底的に削減されているのだ。 日本の財政問題の取り扱いが難しいのは、公的債務の増大の主たる理由が社会保障費の拡大にあるということだ。社会保障費は、政治的な決断で瞬時に削減できるものではない。これが公共事業であれば、関連業界の反対はあるかもしれないが、大胆に削減することは政治的には可能なはずだ。既得権益者の怨嗟の声はあったが、小泉内閣のときにはそうした対応をした。 しかし社会保障制度は国民全体を巻き込んだものである。一度手にした利益を、国民は手放すことをいやがるものだ。年金でも医療費でも、国が払ってくれるのであれば、それを前提に生活が営まれる。年金や医療費負担が増えるということには、徹底して抵抗するだろう。 もし、手厚い保護がもともと存在しなければ、誰もその削減について大きな声で不満の声をあげることはしないだろう。しかし、いったん手にした既得権は懸命に守ろうとする。財政政策の運営がその国の経済を少しずつ衰退させていくのは、こうした国民の過度な期待感かもしれない。これが現代の大国が衰退し得る最大の問題とも言えるだろう。 深刻な財政問題がどのようなかたちで展開していくのかはわからない。ある日突然国債が暴落して大混乱が起きるのか、あるいはパッチワークで危機をなんとか回避していくなかで経済全体が少しずつ衰退していくのか──。 いずれも日本にとって好ましい道ではない。財政健全化のあるべき姿について、より踏み込んだ議論を始める必要がある。 【編集部からのお知らせ】 安倍政権のブレーンである伊藤元重教授の最新著書『日本経済を創造的に破壊せよ!』が発売されました。アベノミクスの先行きを知るためにも必読です! 日本経済を創造的に破壊せよ! 衰退と再生を分かつこれから10年の経済戦略 http://diamond.jp/articles/-/42291
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