06. 2013年9月18日 02:42:25
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「3兆円の経済効果」を吟味するオリンピックと日本経済 2013年9月18日(水) 小峰 隆夫 毎回同じことを言うが、私は大学院で経済政策、日本経済論を講じている。講義ではなるべくホットな話題を教材として使うよう心がけているのだが、日本経済にはその教材が次々に現れるので、大変ありがたい。 今回は、オリンピック・パラリンピック(以下、単にオリンピック)という話題が登場した。2020年、東京でのオリンピック開催が決まり、それが経済を活性化させるという期待が高まっている。この議論は、その結論がどうかということよりも、結論に至る過程で多くの興味深い論点を含んでいる。そこで、例によって、私がこれからの授業の中で取り上げようと思っている論点を紹介してみたい。 論点1 東京オリンピックの意義をどう考えるか 具体的な議論に入る前に、私が東京オリンピックについてどのように考えているかを明らかにしておこう。この部分は経済的な議論ではないので、飛ばしていただいても構わない。 まず、私は、かねてより、東京へのオリンピック招致に批判的であった。前回の東京オリンピック(1964年)当時、高校生だった私は、ナマで開会式を見ているし、さらには、マラソンでゴール直前まで2位だった円谷選手がイギリスのヒートリー選手に抜かれるところもナマで見ている。 この時の東京オリンピックは、まさに戦後から奇跡の復興を遂げ、先進国の仲間入りを果たしつつあった日本が、いわば世界にお披露目をする場であった。オリンピックに合わせて千駄ヶ谷、代々木に競技場を整備したことはもとより、新幹線を開通させ、都心に高速道路網を建設した。「日本でもこれほどの世界的な催しをやり遂げることができる」というところを見せようと頑張り、それに成功したのだ。 この経験があるので、私にはオリンピックは、一流国への仲間入りを果たしつつある国が、自らの地位を世界に認識してもらうための場だという思いが強い。1988年のソウル、2008年の北京はまさにそれだった。すると、既に一流国の一流都市の地位を獲得している都市が開催地となることは、新規参入国のお披露目の機会を奪っていることになる。オリンピックは、目覚しい成長を遂げつつある国・都市がさらに発展するための飛躍となる機会となるべきだ。これが私の基本的な思いだ。 では、東京開催にはそれに代わるだけの意義があるのだろうか。「震災からの復興を世界に見てもらうためです」という意義が強調されているようだが、前回の招致(2009年)は震災前だったのだから、いかにも後付けの理由だし、本当にそう思うのであれば、東北で開催すべきだ。それに東北はまだまだ復興していないし、2020年にどんな姿になっているかも分からない。逆に、これからもっぱらオリンピックに目が行き、資源がオリンピックに投入されるから、東北の復興にはマイナスだとさえ思う。 すると残る理由は「経済活性化」しかない。ニュースでも盛んに経済効果が議論されているところを見ていると「何だかんだ言っても、要するに経済刺激効果を期待しているわけですね」と言いたくなる。それが本音だとすれば、金儲けのことしか考えていない国のように思われて悲しい気がする。 論点2 3兆円の経済効果を吟味する 東京オリンピック招致成功のニュースを見ていると、しばしば「オリンピックで経済にプラスの影響が期待されている」という部分が続き、その中で「3兆円の経済効果があると言われていますが…」という部分が続くことが多い。この「3兆円の経済効果」というせりふは、私に言わせれば「枕詞」である。「オリンピックを開催することには経済的プラス効果がある」と言いたい人は、「何か具体的な数字が欲しい」と考える。すると、東京都が公式に「3兆円の経済効果」と言っている。そこで、その3兆円を何気なく使うのだが、使った人はその3兆円がどのようにして計算されたものかなどということは調べない。 この数字は、東京都が本年6月7日に発表した「2020年オリンピック・パラリンピック開催に伴う経済波及効果は、約3兆円、雇用誘発数は約15万人」という資料に出ているのだが(都庁のウェブサイトで現物を見ることができます)、これをチェックした人は少ないのではないか。こうして「3兆円」という数字が一人歩きし始め、だれも疑わなくなり、単なる枕詞になっていくのだ。 この東京都の原典を見ると、授業で取り上げてみたい論点がたくさん出てきて、不謹慎だがちょっと嬉しくなってきてしまう。以下その主な論点を紹介しよう。 第1に、3兆円という数字が正しいとすると、これはずいぶんと「小さい」数字である。私の授業を受けた人は、この段階で「数字を見たら、その規模感をつかんでおくことが重要だ」ということを知ることになるだろう。 この点について東京都の文書を見ると、分析対象期間は「2013年〜2020年」となっている。2013年度も含めると8年間で3兆円だから、年平均は4000億円以下だ。2012年度の名目GDPが約475兆円だから、年平均ではGDPの0.1%にも足りない。2013年1月に決まった緊急経済対策では5.2兆円の公共投資が追加されているが、オリンピックの効果はこれの13分の1以下ということになる。 私の正直な感想は「これはまた思い切って控えめな試算を出したものだ」というものなのだが、マスコミはいかにも「3兆円もある」と言わんばかりだ。報道するなら「8年間でたった3兆円」「経済効果はほとんど期待できない」と指摘すべきだろう。 第2は、「生産誘発額」と「付加価値誘発額」の違いについてである。この点を議論することによって、私の授業に出た人は「経済にとって本当に重要なのは付加価値である」という重要な点を学ぶことになるだろう。 東京都の文書では、まず、需要増加額として1兆2000億円(100億円以下は省略)という数字が登場する。これは、施設整備費、観戦客の支出額、家計の消費増(テレビの購入など)などを足したものである。これは確かに、オリンピックを開くことによって増えた需要である(厳密にはそれも怪しいのだが、この点は後述する)。これはGDPを増やし、成長のプラス要因となる。 次に、文書では、「経済波及効果」という項目が登場し、「2020年開催に伴う経済波及効果(生産誘発額)は、(中略)全国総計で約2兆9600億円」という記述がある。これが「波及効果3兆円」の根拠である。 さらに当該部分の表中には「付加価値誘発額」として、全国で1.4兆円という数字も出ている。このへんで、この文書を見ている人は段々混乱してくるだろう。「需要増加額」「生産誘発額」「付加価値誘発額」はそれぞれどんな関係があり、どう使い分けているのだろうか。 簡素化して説明すると次のようになる。例えば、東京都がオリンピックのために1億円の施設を建設したとする。建設業者には1億円が支払われるから、建設業者の生産は1億円増加する。これが「需要増加額」である。 建設業者はこの施設を作るために、鉄骨を4000万円とコンクリートを4000万円使ったとする。すると、鉄鋼業とコンクリート業でそれぞれ生産額が4000万円増える。鉄鋼業は鉄を作るために、鉄鉱石と石炭を1000万円ずつ使い、コンクリート業者はセメントと砂利を1000万円ずつ使ったとしよう(輸入はなく全て国産と仮定)。さて、この段階で、当初の需要増加は1億円だったのだが、経済全体の生産額は2億2000万円増えることになる。これが「生産誘発額」である。 さて、この時、建設業者が生み出した付加価値は2000万円(1億円マイナス原材料費の8000万円)、鉄鋼業とコンクリート業の付加価値もそれぞれ2000万円、鉄鉱石、石炭、セメント、砂利の生産者の付加価値はそれぞれ1000万円である。これら付加価値の合計は1億円となり、当初の需要増加額に等しい。各業界は、労働者に報酬を支払い、自らの企業の収益を得、税金も払うのだが、その原資となるのがこの「付加価値」である。 しかし、経済は循環している。各業界で労働者に報酬が支払われると、労働者の所得が増え、その所得は消費となって使われる。その金額が4000万円だとしよう。この4000万円は経済にとっての新たな需要であり、それが新たな付加価値を生む。すると、経済全体で生み出された付加価値の合計は1億4000万円となる。これが「付加価値誘発額」である。 経済効果は「付加価値誘発額」の1兆4000億円 以上のように解説してくると、「経済成長という観点からは、生産誘発額を見ることには意味がなく、意味があるのは付加価値誘発額である」というやや驚くべき結論が得られる。つまり、生産誘発額が当初の1億円より大きくなるのは、中間投入を何度も重複計算しているからだ。前述の例では、鉄鉱石の1000万円は、鉄鉱石の生産額、鉄鋼の生産額、建設業の生産額それぞれに含まれている。要は、こうした重複の度合いが大きいほど生産額誘発額が大きいというだけの話である。しかし、どんなに生産誘発額が大きくても、付加価値の合計は当初の需要増加額に等しく、その付加価値が経済成長をもたらすのだから、生産誘発額の大小は成長には無関係となる。 東京都は約3兆円の生産誘発額をもっぱら経済効果として強調しており、種々マスコミもそれをそのまま使っているが、使うのであれば付加価値誘発額の1兆4000億円を使うべきだったということになる。 第3に、需要増加額についても「それは純増なのか」という疑問がある。この点を議論することによって、私の授業に出た人は、「部分均衡的な発想を避ける」ことがいかに重要かを学ぶことになるだろう。 東京都の文書では、施設整備やテレビの売り上げ増加を需要増加額としている。しかし、これが本当に需要の増加かというと、必ずしもそうではない。ほかの需要と置き換わる(代替効果という)」という面があるからだ。 例えば、オリンピックのための施設整備が行われた場合、それは本来ほかの分野で使われるはずだった予算を回したのかもしれない。その場合は、オリンピックがなかったとしてもその予算は何かに使われたはずだから、オリンピックによって需要が増えたとは言えないことになる。オリンピックを見るためにテレビを買った場合も、「今年はボーナスでテレビを買ってしまったので、家族旅行は取りやめ」ということになったとすると、これも需要が増えたとは言えないことになる。 海外からの観戦客の増加はどうか。さすがの私も、これはオリンピックによる需要の純増と考えていいのではないかと思っていたのだが、日本経済研究センターの桑原進主任研究員と議論していたら、この点も怪しいということが分かってきた。ロンドン・オリンピックが開かれた2012年の例を見よう。 イギリス政府の資料によると(“Visits to the UK for the London 2012 Olympic Games and Paralympics”Office for National Statics,19 April 2013、現物はこちら)、2012年のロンドンへの外国人の来訪者数(1泊以上した外国人の数)は、前年比1.1%増えた。しかし、これは、それまでのペースとほとんど同じか、むしろ低めだった(2009から2011年のロンドンへの来訪者数は7.6%増)。これは、大会期間中は大会関係者がホテルを抑えてしまうので、一般観光客の収容能力が減ること、本来訪れたはずのビジネス需要が減ること、もともとロンドンの収容力に限界があったことなどによるものであろう。 この議論を授業風に説明すると、「オリンピック関連需要がそのまま経済全体にとっても需要増となる」という考えが必ずしも正しくないのは、それが「部分均衡的な発想」に基づいているからだ。部分均衡的な発想というのは、ある部分が変化した場合の影響を見る時に、変化した部分以外は不変と仮定する発想のことである。オリンピック関連施設が建設された時、ほかの分野の予算は不変であると仮定すれば、関連施設の建設は需要の純増となる。しかし、オリンピック向けの予算が増えれば、ほかの分野の予算が不変ということはなく、ほぼ間違いなくある程度は削られるだろう。「部分均衡的な発想は避ける」これが経済学の基本的な教えの一つなのである。 論点3 経済効果についての基本的な疑問 以上、東京都の試算に基づいて考えると、一般に経済的波及効果として言われている3兆円という金額にはあまり意味がなく、付加価値という観点から見ても、とても日本経済全体を活性化するような金額にはならないということを見てきた。 ただしこれはあくまでも、東京都の試算に基づいて考えた場合である。経済波及効果についてはほかにもさまざまな試算が出現しつつあり、中には150兆円という巨額の数字まで表れている。これらほかの試算については、それぞれを精査してみるしかない。 しかし、金額がどうなったとしても、私はオリンピックの経済効果について、次のような基本的な疑問がある。 第1に、これを機会に日本経済を再生するのだという議論がある。例えば、オリンピックを機会に都内の高速道路を作り直すという議論がある。確かに、高速道路が日本橋の上を取り巻き、景観を最大限損なっているのを見るのは悲しいものがあり、できれば元に戻してほしいと私も思う。しかし、本当にそれが必要だと考えるのであれば、オリンピックがなくてもやるべきだ。 本当に必要なことはオリンピックの有無にかかわらずやるべきだし、逆に、オリンピックのような時だからできたという部分には、平時であれば無駄だとされる部分が入り込みやすいということにもなる。 第2に、オリンピックによる経済の活性化は、ある程度期待できるとしても、一時的なものだ。これは、地域振興と同じだ。しばしば、NHKの大河ドラマの舞台となった地域には、観光客が増え、その地域でもこれを地域おこしに使おうとする。それはある程度は成功するのだが、その効果が長く続くことは少ない。ドラマが終わり、次のドラマが始まると、人々は来なくなってしまうからだ。イベントによる経済活性化効果は、イベントの間だけであり、短期的なものである。これが地域おこしが教えることなのである。前回のオリンピックの時も、オリンピックの時(1964年10月)を景気の山として、その後景気後退局面に入っているのも気になるところである。 第3に、これまでの議論全体をぶち壊すことになるが、こうした経済的効果の議論は、検証不能であり、しょせんは「言いっぱなし」になりがちである。東京都の試算を見れば分かるように、オリンピックの経済効果を計算するには、「どの程度の需要増が生まれるか」「そのうち、どの程度が代替効果によって打ち消されるのか」「第1ラウンドで生み出された付加価値が、どの程度第2ラウンドの付加価値を誘発するのか」等々について多くの仮定を置く必要がある。その仮定の置き方によって、経済効果は無数のバリエーションを持つことになる。 そして、オリンピックが終わった後になっても、これらの試算が正しかったのどうかを検証することは難しい。厳密に経済効果を測るには「オリンピックがあった場合の経済」と「それがなかった場合の経済」を比較する必要があるが、経済は実験ができないので「なかった場合の」経済を示すことができないからである。 経済は実験ができないことを考えると、オリンピックの経済効果のような議論については、そもそも最初から厳密な経済学的議論だとは受け取らない方が良い。これが、やがて行われようとしているオリンピックと日本経済についての私の授業の最後の結論になるだろう。 連載をまとめた本が出版されました 『日本経済論の罪と罰』 〈私が注意すべきだと思うのは、「経済の枕詞」である。私が「枕詞」と呼ぶのは、我々が議論を始めるときに、冒頭で一般的な問題意識を述べるような場合に登場する何気ない表現である。(中略)こうした何気ない表現の中に誤った常識が含まれることが意外と多い〉(本書「はじめに」より)。 今回のコラムでも言及がありましたが、何気ない「枕詞」が本質を見えにくくしている例が多くあるようです。日本経済の将来と巷で流布する「誤った常識」を危惧する著者による本書では、人口減少問題、公共投資主導型の経済成長論、反TPP論などについて論じます。ぜひお読みください。 このコラムについて 小峰隆夫の日本経済に明日はあるのか
進まない財政再建と社会保障改革、急速に進む少子高齢化、見えない成長戦略…。日本経済が抱える問題点は明かになっているにもかかわらず、政治には危機感は感じられない。日本経済を40年以上観察し続けてきたエコノミストである著者が、日本経済に本気で警鐘を鳴らす。 |