http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/281.html
Tweet |
3紙で18年間働いた日本人記者が明かす 米国の新聞はなぜ瀕死の状態に陥ったのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36880
2013年09月03日 現代ビジネス
文/岩部高明(元「ニューズ&オブザーバー」写真記者)
■5年後に自分の仕事はあるのか
その夜、ダウンタウンのバー「アイザック・ハンター」は談笑する人々で溢れ返っていた。
米国ノース・カロライナ州の州都ローリー市の新聞社「ニューズ&オブザーバー」が主催した「フォト・ナイト」は、同紙の読者と写真記者の交流の場として設けられた。初めての試みだったにもかかわらず、たくさんの人が詰めかけ、私もスタッフ・カメラマンとして、訪れた人たちとの会話を楽しんでいた。今から2年前、2011年の夏のことだ。
このパーティーのホスト役を勤めたのは、同紙のトップ・エディターで編集責任者でもあるジョン・ドレッシャー氏。夜も更けて、人々が帰り始めた頃、私はバーの中ほどに立っていた彼に歩み寄り、催しが成功したことを祝福した。
同紙のみならず、新聞業界全体にとって暗い話が続いていたので、読者との結びつきを深めるこのようなイベントは、スタッフの士気を高める意味でもタイムリーだった。そして何より、大勢の人が詰めかけてくれたことが嬉しかった。
しばらくドレッシャー氏と世間話をした後、話題はやはり仕事のことに行き着いた。私は自分が懸念していたことを思い切って彼にぶつけた。
「ジョン、今から5年後に、僕の仕事はまだあると思う?」
私は、自分が解雇になる可能性について尋ねたのだ。オレのクビは大丈夫だろうか? と。
「タカアキ、お前は何てことを聞くんだ?」
いつも冷静なドレッシャー氏が、珍しく大きく動作でかぶりを振った。「そんなネガティブなことを言うもんじゃない」とか「余計な心配はやめて、目の前の仕事に集中しよう」などと言われるのかと一瞬考えたが、出てきた言葉はそのどちらとも違うものだった。
「私自身の仕事があるかどうかもわからないのに、そんなこと、わかるわけがないだろう」
バーの低い天井から届く柔らかい照明の下で、彼はごく真面目な表情をしていた。冗談を言ったというサインが微塵もないことを確かめながら、私は「やっぱりそうか・・・」と、内心ひどくうなだれていた。
■ピューリッツアー賞を3回取った硬派の新聞
「ニューズ&オブザーバー」は現在の部数が約13万部(日曜日は約18万部)の、米国でいうミッド・サイズ・ペーパー、いわゆる"中新聞"だ。地域に根差した記事作りをするため、この規模の地方紙は「リージョナル・ペーパー」(地域の新聞)とも呼ばれる。もっとも、「ニューヨーク・タイムズ」や「USAトゥデイ」などの例外を除けば、米国の新聞はすべてリージョナル・ペーパーということになるのだが。
「ニューズ&オブザーバー」の創刊は1865年で、ほぼ100年間にわたって、地元に大きな影響力を持つダニエル家という一族が所有していた。ところがダニエル家は1995年、同紙をマクラッチーというメディア企業に3億7300万ドルで売却してしまう。マクラッチーは現在、「マイアミ・ヘラルド」や「カンザス・シティ・スター」を含む30紙を全米で保有している。
私はかつて、「ニューズ&オブザーバー」の2代目オーナーでエディターも務めたフランク・ダニエル氏を街中で見かけたことがある。杖をつきながらゆったりとダウンタウンを歩く老人を指差して、何人かの通行人が「あれがダニエルさんだよ」と近くにいる者に囁いていた。出版人としての功績はもちろん、新聞社をいい時代に売り払って巨額の富を手に入れたビジネスマンとしても、氏は地元で半ば伝説の人と化していた。
「ニューズ&オブザーバー」は、拠点であるローリー市に加えて、隣町のダーラムとチャペル・ヒルを重点的にカバーしている。州都の各行政の現場はもちろん、デューク大学やノース・カロライナ大学(UNC)といった地元の大学、そして企業の研究所が世界から集まっている「リサーチ・トライアングル・パーク」という地域などを主な取材範囲にしている。
同紙は過去に三度、ピューリッツァー賞を受けたことがあり、"Old Reliable" (頼りになる奴)とか、あるいは紙名の頭文字を取った"N&O"というニックネームで地元民に親しまれてきた。一方、保守的な読者たちからは、紙名をもじって"Nuisance & Disturber"(胸糞悪くてうるさい奴)とか"Noise & Disturber"(厄介でうるさい奴)などともよく揶揄されているが、批判する者も含めて、地元の人間に広く熱心に読まれてきたメディアであることは間違いない。
私がこの「ニューズ&オブザーバー」に入ったのは、2004年の春のことだった。ドレッシャー氏とサウス・カロライナ州の新聞社で一緒に仕事をしたことがあり、彼が間接的にリクルートしてくれたのだ。高いクオリティーが評判の新聞で働けることに、私はエキサイトしていた。
「ニューズ&オブザーバー」の記者やエディターには優秀な人材が豊富で、ここで活躍して「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」に引き抜かれてゆく者が少なくなかった。
1996年に取ったピューリッツァー賞は、州の養豚産業が引き起こしていた環境汚染とその巨大ビジネスを裏で保護していた政治家たちを指弾したもので、そのせいもあってか、「調査報道に力を入れている硬派の新聞」というイメージが強い。それが地元の政治家やエスタブリッシュメントから"Disturber"(うるさい奴)と言われていた所以だが、米国でジャーナリズムをやっていて、これ以上の褒め言葉はない。
写真部が強いという点も、米国で長く写真記者としてキャリアを積み重ねてきた私が同紙を転職先に選んだ理由だった。同紙では例えば、日々の取材でも記者より先にカメラマンが動くことが多く、ネタになりそうな取材対象を自分たちで探し、良い写真が撮れたときは担当の記者を引っ張ってきてコメントを取らせる、といったケースも珍しくなかった。さらに、紙面に写真がどう掲載されるかについても、フォト・エディターの意向で決定され、よほどの事情がない限り、それが覆ることはなかった。
16人いたカメラマンたちの腕も当然良く、彼ら/彼女らから学ぶことは多かった。写真部の真ん中には大きな机があり、そこで作業をしながらその日の取材の経過を話し合ったり、持ち帰った写真を見せ合ったりするのだが、そのテーブルに座ると、誰かが必ず次の取材のヒントになるようなアドバイスをしてくれた。
休みの者やプロジェクトに関わっている者を除いた8人から10人のカメラマンが、日々、割り当てられたアサインメント(任務)のため、あるいは自分で出したアイディアを形にするため、取材先のさまざまなコミュニティーに散っていく。早朝の農作業を取材するために夜明け前に家を出る者もいれば、ナイト・ライフを撮りに夕方出社する者もいる。
皆、取材した後はオフィスに戻って、まず自分でざっくりと素材を編集してから、それを待ち構えているフォト・エディターと一緒に見直して、出版用の写真を決めてゆく。議論の末、「もう一度撮り直し」という指示を受けることもあった。
米国の新聞は「ニュース」「スポーツ」「フューチャー」「ローカル」・・・という風にセクションが分かれている。そのすべてのフロント・ページに、ニュース性と芸術性に優れた写真が大きく掲載された日は、自分が撮ったものではなくても、私は嬉しかった。それらのページを自宅のフロアに並べ、誇らしい気持ちで眺めたものだった。
■若い人材から大量解雇されていく
目に見える凋落は、2008年に始まった。
インターネットが紙媒体に及ぼす脅威については、それ以前からすでに周知の事実ではあった。「ニューズ&オブザーバー」でも、ネットに読者を取り込むための工夫に、試行錯誤しながら取り組んでいた。例えば、人々がコンピューターの前に座る朝の時間帯に合わせて、天気や交通情報やその日のイベントのリストを掲載し始めており、私もこの早朝のニュース・チームの一員として、早出を繰り返していた。
インターネットの普及によって時代が大きく変わりつつあることは、当然ながら同紙の全員が強く実感していたと思う。それでも景気が上向いているかぎり、つまり紙面の広告収入が今まで通りであるかぎり、紙とネットの主従関係が見直されることはなかった。「紙を主体にしながら、新しいことを少しずつ電子版上で展開していこう」という従来通りの姿勢を続けていたのだ。
それが急転直下、行き詰まったのは2008年秋、リーマン・ショックの後からだった。これによって大不況が始まると、広告収入は激減し、米国各地で新聞経営は文字通り瓦解していった。「ニューズ&オブザーバー」も、マクラッチー傘下の他の新聞社でも、事情はほぼ同じだった。
マクラッチーの経営陣は「この危機は従業員の解雇でしか乗り切れない」と判断した。その結果、各新聞社の編集室を含めたほとんどの部署で、容赦ないレイオフ(首切り)が始まった。「ニューズ&オブザーバー」でも、2009年の3月に一度、そして9月にもう一度、大規模な人員整理が行われた。その合間にも、5人、6人と数名単位で解雇されていった。
首切りは、まず退職金を用意して早期退職者を募り、その後、早期退職希望者が予定していた数に達しなかった場合は、足りない分の人数をさらに解雇してゆく。この手順は、おそらくどの業界でも似たり寄ったりだろうと思われる。
ただ、「最後の段階で誰を辞めさせるか」に関して、マクラッチーは意外な取り決めを作り、それを傘下の全新聞社で実行した。各部署から人数を決めて(例えば「スポーツから5人」とか「写真部から3人」など)解雇してゆくのだが、その際、「新聞社での勤労年数が少ない順から辞めさせる」と発表したのだ。簡単に言えば、「若い奴からクビにする」ということだ。
この期に及んで年功序列を持ち出してきたことに私は唖然としたが、要するに、これは訴訟対策だという。30社で大掛かりな人員整理を行うわけだから、解雇の基準を明確にしておかないと従業員から訴えられる可能性が高く、いくつもの裁判を抱えることになってしまう。これは、会社としてはどうしても避けたい事態だったのだろう。
しかし、年に2回行ってきた社員のパフォーマンスの査定はこんなときのためにあったはずだし、何よりも、健全な実力主義が幅を効かせているジャーナリズムの世界でこのような線引きが行われることは、驚きを越えてほとんど滑稽な出来事だった。
今にして思えば、これは大混乱を避けるための苦肉の策にほかならず、そこまで会社は追いつめられていたのだろうが、当時は、定年直前の疲れた人材の代わりに元気で能力の高い20代の人材を解雇することに、残る者たちは強い不満を覚えていた。それでいて、「若い読者の獲得を」という、以前と変わらぬお題目を繰り返すマネージメントへの不信は募る一方だった。
編集室である大部屋にスタッフが集合するのは、何か特別な発表があるときだけだった。同僚の誰かが大きな賞を取ったり、ワシントンやニューヨークへ栄転していったりするときに、ケーキや風船を囲んで大きな人の輪ができ、そこに冗談を交えたスピーチが添えられる。しかし、人員整理が始まってからは、残念ながら、私たちが大部屋に集められるたびに悪い知らせが待っていた。
二度目の大掛かりなレイオフが完了する日の午後、ドレッシャー氏はまた全員を大部屋に集めた。その日限りでニュースルームを去る部下たちをねぎらうことが目的だった。
短い感謝の弁の後、ドレッシャー氏は、辞めてゆく記者たち一人一人の名前を読み上げ始めた。途中、彼がその名前のリストの最後までたどり着けるどうか、誰もが心配になったのは、彼が喉をつまらせ、涙を流し始めたからだった。
米国では、大人が人前で泣くことはめったにない。場合によっては、感情をコントロールできないと見なされ、その人間に対する評価が著しく下がる恐れもある。
その点、「男泣き」が美談のように語られる日本とは文化が違う。にもかかわらず、部下たちの前で涙を流したということは、ドレッシャー氏が相次ぐ大量解雇にどれだけ大きなショックを受け、苦しんでいたかを物語っている。
■民主主義の手続きから新聞が除外される
米国にはPublic Notice Lawという法律がある。市町村や州の行政機関で新しい取り決めができた場合、それを逐一、地元の新聞に広告として掲載することを行政に義務づけたものだ。
このルールのおかげで、地元の新聞の「リーガル・ノーティス」(法に関するお知らせ)というセクションを注意して見ておけば、人々は、自分の暮らしに関わりある法令の変移を知ることができる。要するに、Public Notice Lawとは政治情報の透明性を守るために作られた法律で、このような仕組みがあるからこそ、新聞は民主主義のウォッチ・ドッグ(番犬)として機能してきたとも言える。
ところが今、このPublic Notice Lawそのものが各州で見直されている。ノース・カロライナでも、各取り決めを行政機関が自らのウェブサイトに掲載すれば済むようにする法案が議会を通過しつつある。
新聞から、存在意義と広告収入の一部(田舎の小さな週刊新聞などにとっては決して少なくない金額だ)を同時に取り上げることになる法案には、保守化が進んだ議会で勢いを得ている新聞嫌いの政治家たちの企みという側面もあるが、ある意味で、新聞の影響力の低下を示す象徴的な動きでもある。要するに、「ネットで見られればいいだろう」という言い方が公的にもまかり通るようになってきている。民主主義の手続きから、新聞が除外されつつあるのだ。
こうして新聞が廃れることが「草の根の民主主義」に与えるダメージは計り知れない。過去十数年で、2万人近い新聞記者と編集者が解雇された米国では、地方政治の腐敗の進行が懸念されている。
トレーニングを受けたプロの記者が、しかるべき場所に日々顔を出して、チェックの目を光らせておくことの力を過小評価してはならない。また、地道で継続的な取材を通してしか得られない情報は多岐にわたっており、この役割をブロガーに期待するのは土台、無理な話だ。
実は米国でも、この民主主義のピンチを多くの人は頭では理解している。にもかかわらず、新聞に対して財布の紐を開かなくなっている、というのが現状だ。「地元のジャーナリズムをサポートしたい」と頭で考えていても、ウェブ上で記事を有料で読むペイウォールが出てくると、反射的にそっぽを向いてしまう。
スマートフォン使用料やネット環境費は必要な経費だが、新聞の購読料は無駄遣いだ。ヘッドラインを流し読みしたり、ソーシャルメディアに貼り付けられる記事を覗いたりしていれば、「ニュースをフォローしている」という感じになれる---。こんな風に、情報をタダで得ることに慣れてしまった今では、なかなか後戻りすることはできない。ノース・カロライナの取材先や街中で「N&O、ちゃんと読んでるよ」と声をかけてくれる人は最近でもたくさんいたが、はたしてそのうちの何人が購読者だっただろうか?
ちなみに新聞に取って代わる、あるいは新聞不在のギャップを埋める存在として、しばらく前から非営利ジャーナリズム団体の動きが注目されているが、これもまだまだ模索が続いている状態だ。大学のジャーナリズム科や個人の寄付などさまざまな運営モデルが出てきているが、ひと握りの例外を除いて、どこもうまく機能しているようには思えない。財政的に2年先、3年先が見えているところは皆無と言ってもいいのではないか。
つい最近までビジネスとしても旨味の大きかった米国の新聞経営が、これほど早く瀕死の状態に陥るとは、いったい誰が予想しただろう? 雑誌もテレビジャーナリズムも壁際に追いやられた形になり、「マスメディアの時代はもう終わった」とさかんに論じられている。にもかかわらず、米国の大学のジャーナリズム科には入学を志望する学生が後を絶たないという。
■「やらせ」が絶対に許されない厳しさ
私が日本の大学を卒業したのは1991年だった。その前年にバブル経済が弾けていたが、未曾有の好景気の余力は強く、まだ同級生たちは企業に請われるようにして就職していった。一方、米国へ留学することを心に決めていた私は、その頃、付け焼き刃の英語習得に追われていた。
結局、ウエスト・バージニア州にあるマーシャル大学の大学院に行くことを決めたのは、私の英語力では、遊びの誘惑の少ない田舎で集中して勉強しなければ、とても大学院のカリキュラムについていけないと判断したからだ。加えて、正式な承認を受けているジャーナリズム・プログラムは当時、全米で90近くの大学にあったが、マーシャル大学のそれは学費が一番安かった。
私にとって幸運だったのは、マーシャルのジャーナリズム・プログラムが徹底的にプラクティカルだったことだ。倫理のクラスなど、今でも印象に残っているアカデミックなコースもあったが、授業の根幹になっていたのは理論ではなく、実践的な技術の習得だった。
学生はまず、ライティングや文法の基礎などベーシックな部分を学び、次にキャンパス内の新聞やラジオ局の運営に携わる。仕上げとして、地元のメディアでインターンとして働いて実体験を積む。ちなみにインターンシップは卒業のための必須条件だった。
およそアカデミックでなく、ジャーナリスト養成を目的としたかのような路線だったが、これは都会の大学や名門大学には太刀打ちできない田舎の州立大学にとって、残された唯一の選択なのかもしれなかった。いずれにしても、「あわよくば米国で仕事を」と考えていた私のような留学生には、ありがたいやり方だった。
私の場合、日本で修得した学位がジャーナリズムではなかったので、マーシャルでの1年目は、ベーシック・ライティングなどのクラスをフレッシュ・マン(学部の1年生)たちと肩を並べて履修しなければならなかった(これも私にとっては幸運だった)。そして、「とりあえず英語力がつくまで、ビジュアルで勝負できる写真のクラスを取ったらどうか」という学部のアドバイザーの言葉が、その後の私の写真記者という進路を決めることになった。
私はマーシャル大学大学院ジャーナリズム科で3年間のコースを修了すると、写真記者として最初の仕事を、ナイアガラの滝がある街の小さな新聞社「ナイアガラ・ガゼット」で始めた。発行部数3万部にも満たないローカル紙だったが、仕事は激務だった。ときに観光客と間違われながら、地元のコミュニティーに密着して、1日に4件、5件の取材をこなさなければならない。
そんな毎日を過ごしているうちに身に付けたのは、ドキュメンタリー写真の基本でもある「徹底的な現場至上主義」だったように思う。事がなされるそのときに、その場にいること。他人の日常を撮りたいのであれば、取材者として立ち合うだけでなく、たとえ数十分であれ、共に時間を過ごすという心構えで臨むこと。
ちなみに、米国の新聞紙面を飾る写真には、あらゆる意味で「やらせ」はないと思ってよい。被写体が撮られていることを意識している限り、どこまでがポーズでどこからがリアルなのかはグレーゾーンだが、「○○の動作をやってください」というリクエストを含めて、作為的なシーンを撮影して掲載することは御法度であり、それが発覚すると即刻クビである。例えば、老人が庭の手入れをしている写真が出ていたら、それはカメラマンが取材に来たから「いつも通り」のことをしたのではなく、老人が庭に出る時間に合わせてカメラマンが訪問した結果なのだ。
「ナイアガラ・ガゼット」での3年を経て(三度の長い冬を越して)サウス・カロライナ州コロンビア市にある新聞社に移れたことは、私のキャリアにとって大きなブレイクだった。「ステイト」という名のこの新聞に、後に働いた「ニューズ&オブザーバー」ほどのクオリティーはなかったが、いわゆる「特集もの」に力を入れていて、そのネタ選びについてもスタッフの提案をどんどん取り入れる風通しの良さがあった。在籍した5年の間に、私は1ダースほどの特集の企画を立て、紙面に掲載することができた。
サウス・カロライナというアメリカ深南部のカルチャーには保守的で閉鎖的な部分も多々あったが、一歩街を出ると、まるで何十年も時間が止まっているような風景があり、そこには典型的な郊外のモール・カルチャーでは決して見つけられない、びっくりするような話題がたくさん眠っていた。
例えば、州の沖合に連なる小さな島々には、西アフリカの文化を色濃く残した「ガラー」と呼ばれる言葉と生活様式がある。気候が稲作に適しているため、18世紀中頃の農園主たちは、アフリカで米作りの技術を身に着けていた奴隷たちをまとめてこの島々に送り込んだ。
その結果、地理的や歴史的条件が重なって独特の文化が生まれ、「ガラー」と呼ばれるようになり、今日も生き長らえて継承されている。私も取材でこの島々に2週間ほど滞在したが、そこで見たエキゾチックな光景は忘れ難い。
やがて私は「ステイト」を去り、前述したように、3つ目の新聞社に当たる「ニューズ&オブザーバー」で働き始めた。2004年のことだ。ここで私は写真記者としてキャリアのピークを迎え、そして終わらせることになった。
■消えつつあるジャーナリズムの伝統
「ニューヨーク・タイムズ」の有料デジタル記事の購読者は、今年6月で70万人近くに達し、2年前に課金制度を取り入れて以来、確実な伸びを見せている。しかし広告収入の急落には歯止めがかからず、全体的な売上高はマイナスにとどまっている。
ただし2012年には、同紙は創業以来初めて、通年の購読料収入が広告収入を上回ったとしている。これは、収入の8割以上を広告に頼ってきた今までの米国の新聞のビジネスモデルに照らし合わせると、まさに画期的な出来事と言える。
「ニューヨーク・タイムズ」に倣うようにして、多くの地方紙も、今年の初め頃から一斉に課金の壁を取り入れ始めている。「ニューズ&オブザーバー」の課金制度も予想よりは好調な滑り出しらしいが、紙の広告収入は依然として不調で、全体的にじり貧状態であることには変わりがない。紙媒体を中心とした経営モデルの終焉は確実に近づいているが、新しい時代のモデルが、今ある形の有料デジタル版なのかどうかは、まだはっきりしていない。
その間にも、ネット上のコンテンツを充実させようと米国の各新聞社はトライしているが、いかんせん、使えるリソースが限られているし、迷走を続けている感は否めない。2010年前後に、「これからの新聞ジャーナリズムに必要なビジュアル要素はビデオではないか」という議論が起こり、各紙の写真記者が一斉に動画を撮り始めた時期があった。
当時、私たちも、本職である写真のクオリティーを下げてでも取材現場で動画を撮影して持ち帰り、時間をかけて編集してウェブサイトに掲載したものだが、読者はほとんど付かなかった。ネット上の読者にとって、ニュース・ビデオは面倒くさいものであり、次々とクリックできる写真のスライドの方が使い勝手が良いらしい。
また、スマートフォンやタブレットの台頭に合わせて、各新聞社はモバイルのアプリも用意した。「iPadのユーザーは従来通りのパッケージ化されたニュース・コンテンツを好んで活用する」という趣旨のレポートを受けて、タブレットが救世主になるのではないかという期待が高まった。しかし、そのサービスの開始から3年ほど経った現在でも、紙のコンテンツをそのまま載せたり、わずかにコンテンツが上乗せされたりしただけのものが多く、ウェブサイトとの差別化はほとんど進んでいないのが現状だ。
今年の夏、私は18年間続けた米国の地方紙勤務を終えて帰国し、日本で働くことを決心した。カメラを抱えて米国のさまざまなコミュニティーを走り回る日々は終わった。
他人の家の中、仕事場、裁判所に刑務所に病院、イベントの舞台裏、そして事故現場---。米国での記者の仕事は、私を実にさまざまな場所に連れていってくれた。「こんなところまで見られるのか」と心の底から唸ったこともある。そんな毎日の幅広い取材を可能にしてくれたのは、「言論の自由」という後ろ盾もあったが、米国という国の人間のオープンさも大きかったと思う。
私の徘徊癖と好奇心を十二分に満たしてくれた仕事だったが、一番の誇りは「自分が関わっているストーリーがきちんと読まれており、それはコミュニティーで大切な役割を果たしている」と強い確信が持てたことだった。
庶民が個人の権利を守り、自分の住む地域を広く深く知るために、欠かせない役割を果たしてきた米国の新聞ジャーナリズム。今、消えつつあるその伝統に身を浸すことができた時間は、とても得難いものだった。
5月末、私は「ニューズ&オブザーバー」を退職した。その別れの日、かつて1000人を越えていた従業員は、すでに380人を切っていた。
〈了〉
岩部高明(いわぶ・たかあき)
1968年、横浜市生まれ。91年、日本大学国際関係学部を卒業、渡米。94年、米国ウエスト・バージニア州立マーシャル大学大学院ジャーナリズム科修了。95年から2013年まで、米国の「ナイアガラ・ガゼット」「ステイト」「ニュース&オブザーバー」の3紙で写真記者として働く。Society of Newspaper Designより銀賞、ニューヨークAPよりベスト・オブ・ザ・ショウ、サウス・カロライナ州フォトグラファー・オブ・ザ・イヤーなど報道写真の受賞歴多数。2013年6月、日本に帰国。ブログ http://goinghome.hatenablog.com/ ポートフォーリオ http://www.iwabuphoto.com
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。