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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130901-00010004-bjournal-bus_all
Business Journal 9月1日(日)15時3分配信
経営理論には流行がある。2000年代に経営改革のキーワードとして「選択と集中」が登場し、あっという間に産業界を席巻した。1980年代にゼネラル・エレクトリック(GE)の最高経営責任者(CEO)を務めたジャック・ウエルチが実戦した戦略として有名である。
日本では1980年代のバブル経済の真っただ中に多角経営がもてはやされ、「選択と集中」が注目されるようになったのはバブル崩壊後の1990年半ばからだ。バブルの時代、広げすぎた戦線の縮小を迫られ、その時の行動指針となったのが、ウエルチの「選択と集中」である。
「選択と集中」の結果はどうだったのか? 成果を上げた企業もあるが、失敗した企業のほうがはるかに多い。最大の難問は雇用である。日本には長期雇用という慣行がある。ウエルチの「選択と集中」は、大規模な人員整理・解雇とワンセットになっている。長期雇用を重視する日本では、従業員の解雇につながる事業売却は簡単ではなかった。雇用を重視している企業が「選択と集中」を行っても、売り上げが落ちるだけで人は減らないため、マイナスの効果のほうが大きい。
この難問に回答を出したのが、95年9月にキヤノンの社長(現・会長兼社長)に就任した御手洗冨士夫である。23年間米国に駐在した御手洗は、「経営手法は世界共通だが、雇用はローカルに徹する」という独自の経営哲学を生み出した。
伝統的な終身雇用制を守りながらパソコン事業など赤字部門を切り捨て、複写機やプリンターに使うインクカートリッジなどに経営資源を注力する「選択と集中」を実施した。社員のクビを切らない代わりに年功序列は廃し、実力主義の賃金体系を組合に認めさせた。ウエルチの日本バージョンである。
●黒字事業を売却した武田薬品の手法
たいていの企業は経営が厳しくなってから事業の見直しやリストラに踏み切るため、うまくいかないケースが多い。そう考えると、経営好調期の「選択と集中」のほうが容易であることは明らかだ。一時的に売り上げが減っても、会社は全体として好業績のまま。大きな事業構造の転換をやりとげる経営体力もある。しかし、黒字企業にとって「選択と集中」を実行する難しさは、当たり前のことだが、黒字の事業を切ることだ。黒字事業から撤退する際には抵抗が大きい。
武田薬品工業は1995〜2000年の中期経営計画で武田國男社長(当時)のもと、「医薬品特化」の方針を打ち出し、黒字事業を売却する「選択と集中」で成果を上げた。
武田薬品はそれまで、動物薬事業、ビタミンバルク事業、化成品事業、食品事業、農薬事業、生活環境事業など、医薬品以外の多くの事業を抱えていた。医薬品事業に経営資源を集中するため、医薬品以外の事業の売却を進めた。口で言うのは簡単だが、黒字の事業を簡単に売れるものではない。
当時の武田社長は巧妙な作戦を練った。売却先には、いずれも日本の各分野のリーディングカンパニーを選んだ。いきなり全部を売却するのではなく、5年程度の期限付きのジョイントベンチャーを組み、緩やかに譲渡するやり方を採った。ジョイントベンチャーが発足した段階で、出資比率が5割を超えるパートナー企業に経営権が移るが、武田薬品はマイノリティ(少数派株主)として従業員をサポートした。社員には雇用条件の違う企業に転籍してもらうわけだから、労働組合との話し合いを密にしながら、雇用条件のすり合わせを行った。こうしたプロセスを経て、ジョイント期間終了後に、武田薬品は保有する株式をパートナー企業にすべて売却した。
ウレタン関連事業は三井化学、調味料などの食品事業はキリンビール、農薬事業は住友化学に売却した。06年、武田食品のハウス食品への売却をもって非医薬品事業の売却は完了した。これにより、00年の段階で7割程度だった医療用医薬品事業の構成比は9割に達した。武田薬品はヘルスケア関連事業を含め、医薬品に特化した企業となったわけだ。
武田社長が周囲から最も抵抗を受けたのは、医薬品以外の黒字事業の売却であった。黒字事業の切り捨てには労働組合だけでなく、その事業を担当する役員も反発した。しかも、非薬品部門は武田社長の父親である6代目社長・武田長兵衛が育てた上げた分野だった。
武田社長は改革について、こう語っている。
「実行はできるんです。問題は、それで結果が出るかどうかです。結果が出なかったら、自分のクビが飛びますからね。ですから、怖いんですよ。近頃の新聞には“改革”という言葉が躍っていますが、失敗する方が多いから、利口な人は絶対に手を出さない。改革なんて一番バカな人がやることなんです。バカじゃなかったらできません」(「日経ビジネスマネジメント」<日経BP社/08年10月20日号>)
いかにも武田社長らしい諧謔に富んだ言い回しだが、創業家でありながら、冷や飯を食ってきた異端児だったからこそ改革を実行できたのである。その彼をもってしても、黒字事業の売却はドライに、スパッとは割り切れなかった。5年をかけて緩やかに事業を譲渡し、従業員が新しい会社に溶け込みやすいように工夫した。武田社長の「選択と集中」もまた、日本型だった。
●GEの経営改革
「選択と集中」の第一人者ともいえるジャック・ウエルチは、米マサチューセッツ大学で化学を専攻、続いてイリノイ大学で化学工学の博士号を取得。60年にゼネラル・エレクトリック(GE)に入社したが、GEがすぐ嫌になった。61年、息が詰まるような官僚システムに嫌気がさして、イリノイ州の国際鉱物化学薬品に転職しようとした。当時のウエルチの上司が「失うのは惜しい」と、昇給と昇格を約束して引きとめた。この時、GEを辞めていたら、「伝説の経営者」は生まれなかった。
その後は、昇進街道を疾風怒涛のごとく駆け上がる。68年、33歳でGEの歴史上最も若いゼネラルマネージャーになった。81年、CEO兼会長に就任したとき、ウエルチは45歳。GEで最も若いCEOだった。
前述の通り、日本の企業の経営者が手本としたウエルチの手法は主に2つある。ひとつは「選択と集中」。もうひとつは「ダウンサイジング」と呼ぶ大規模な整理・解雇だ。世界を相手にして競争に勝ち残ろうとするなら、GEは変わらなければならないとウエルチは考え、宣言した。
「GEを世界で最高の価値を持つ企業にする。そのためには利益の出ない分野をすべて切り捨てる。将来、すべてのGEの事業は、その業界でナンバーワンあるいはナンバーツーの立場を確保しなければならない」
そして経営の重点をサービス業へと転換させることによって、1000といわれる多数の新事業を生み出した。他方、70の事業は他企業へ売却するか撤退した。
ウエルチは、ナンバーワンとナンバーツーの事業に注力する理由をこう語っている。
「市場で4位か5位でいると、No.1がくしゃみしただけで肺炎にかかってしまう。No.1なら、自分の命運をコントロールできる。第4位の連中は合併に明け暮れ、苦しむ。苦しむことが仕事になってしまう」
次にウエルチは組織構造にメスを入れた。組織の贅肉を切り落とし、個々の事業部門を筋肉質に変え、GE全体の権限の分散化を推進した。入社以来、目の敵にしてきた官僚システムの解体である。「戦え、憎め、蹴り飛ばせ、破壊しろ」。ウエルチは公然とこう言った。長い年月をかけて念入りにつくり上げられた管理階層はごみ箱に捨てられたのである。結果、20万人近いGEの従業員が会社を去り、60億ドル以上の経費を削減した。凄まじいリストラだ。「建物を壊さずに人間のみを殺す中性子爆弾」の特性になぞらえて、「ニュートロン(中性子爆弾)ジャック」と綽名された。
ウエルチの経営改革は株式市場で高い評価を得た。81年3月から99年11月までの期間に、GEの株価はわずか4ドルから133ドル(4回の株式分割を織り込んだ修正値)になった。同じ時期、GEの売上高は272億ドルから1732億ドルに伸び、利益は16億ドルから107億ドルに増加した。99年、米フォーチュン誌は「20世紀最高の経営者」の称号を彼に授与した。
編集部
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