http://www.asyura2.com/13/hasan81/msg/805.html
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ネットで見つけた太平洋戦争突入までの軌跡を説明した記事です。大変な長文ですが、かなり面白く読めました。太平洋戦争突入への、まあ、かなり簡略化した、そして、これでも一面的な説明です。
今の自民党の政治家の方たちや財界首脳の方たちも、昭和初期から太平洋戦争突入のころまでの日本のリーダーたちの行動と同じになっていないか、今一度考えていただきたいものです。
特徴は、「勝気」、「言論というか、言葉で状況を説明して、一般市民の理解を求めるという考えがないこと」の二つですね。要するに「いいかっこしい」ですよ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/
第二章・あの戦争に至る軌跡(経済編)
あの戦争、大東亜戦争は当時の日本の経済状態を原因としているのではないか?。これはわたしの「勘」であります。どうも二・二六事件の記述などを読んでいても、青年将校たちの妹が身売りされるほどの、当時の日本の酷い不況が見え隠れしてくる。これは当時の日本の経済状態が、事件の背景として非常に重要な面であることの証拠である。
そこで何とか、この時代全体の経済状態を俯瞰できるような資料は無いか、と探してみた。しかし、これがなかなか見つからない。で、ようやく見つけた一冊が、
「昭和経済史(上)」 日経文庫
これのみ。ざっと読んで見ても書いてある量が多すぎ、知らない事件・人物が多すぎ、不明の経済学の単語が有りすぎ、で、いまいち全体の把握が出来ない。自分の知識不足を嘆いていても仕方ないので、とにかくやってみる。
まずは、何とかこの時代全体を俯瞰できるる様にする必要がある。そこで主な点を抜き出して、さらに他の軍事関係・政治国際関係の資料とも突き合わせた上で、この時代全体を俯瞰できるような、わたしなりのこの時代のダイジェスト版を作成してみることにする。
1.第一次世界大戦(まずはここから。)
(大正3〜7年 1914〜18)
大正3年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まる。開戦直後、世界経済の中心であったロンドンでは一切の機関が停止し、世界経済は大混乱に陥る。各国政府は当時の国際貿易の決済に使われていた「金」の輸出を停止。日本もこれに習う。このため為替取引が途絶され、日本経済も大混乱に陥る。日本の輸出も激減。一種の恐慌状態に陥る。
しかし、翌4年夏頃から、輸出の激増・海運の活況という兆候が顕著になり、景気は好況になる。この後、直接戦争の被害を受けていない日本は、戦争景気で大好況になる。「産業別事業計画資本」が製造業全体で30倍強の伸び、会社利益率も主要産業総計で、大正7年下期には55.2%の伸び。特に海運業は191.6%、造船業は166.6%の高利益率を示した。まさに、バブル経済も真っ青な大好況。株価は開戦時の3倍に暴騰し日本中が異常な企業熱・投機熱に包まれる。
大戦期を通じての日本の貿易は、輸出超過約12億円、貿易外受取(海上運賃等)超過約12億円、の大幅な貿易黒字。(ちなみに、当時の国家予算規模は10億円内外)
三井・三菱・住友などの大財閥もこの間に資産を倍増させるが、いわゆる「戦争成金」とくに「船成金」を数多く排出させる。その代表で新財閥とも言える存在になったのが、神戸の鈴木商店。その総帥金子直吉支配人の強気の経営が成功し、一時期スエズ運河を通る積み荷の一割が鈴木のもの、と言われたほどになる。
この大戦は、日本の経済構造をも変容させ、産業経済部門別生産額において、工業が農業を抜く事になる。日本はこの段階でようやく、明治維新以来の農業国から、工業国への変貌を遂げたと言える。
また軍事的にこの大戦ではっきりしたことは日本軍の装備が欧州列強の軍と比較すると完全に時代遅れに成っていることである。戦車・機関銃・航空機・毒ガス等の新兵器を駆使しての戦い。各国の兵士の動員率は日露戦争の数倍の規模。大量消費される武器弾薬等の軍需品の補給のため労働者の大量動員。あらゆる物資を戦争遂行に注ぎ込むために行われた食料品や日用品の統制・配給。この大戦で欧州列強の行ったのは、国家の資産を総動員し戦う国家総力戦であった。それに対し日本軍は、日露戦争の装備、日清・日露戦争の時のままの限定戦争を想定しての配備。軍部には至急「軍装備の近代化」「国家総力戦への備え」の必要を痛感させる。
政治的にはこの大戦の結果は、ドイツの軍国主義に対する、英米仏のデモクラシー(民主主義)の勝利と理解された。君主制・貴族制と違い民主制、すなわち政治はお上が決める物でなく人民が権力を所有し政治を決めるというデモクラシー。これは国家の問題点を正す為には特定の指導者に頼るのではなく人民一人一人が自覚を持ち政治を改善する必要があるという考えに繋がる。明治後期の護憲運動から始まっていたデモクラシー運動は、この大戦により正しいものとして国民に認識され、新しい政治システム・政治思想として人々に多大の影響を及ぼし始めるこになる。いわゆる「大正デモクラシー」が始まる。
2.戦後恐慌・関東大震災・軍縮
(大正9年〜昭和元年 1920〜26年)
大戦終了後も1年間は続いた好況もそれ以上は続かず大正9年春、過剰投資の反動から株式市場、商品市場が大暴落。戦後恐慌となる。一年後に一応沈静化した後も、石井定七事件(石井商店が大借金の上で破産)、銀行の取り付け事件なども起こり、政府・日銀の行った銀行救済策については「問題を本質的に解決せず、かえって病状を悪化させた」などの批判もでる。
ついで大正12年9月1日関東大震災が起こる。関東一円の商工業地区に壊滅的大打撃を与える。震災直後の経済混乱を避けるため、政府は被災地・振出地とする手形「震災手形」を、政府補償のもとに日銀に再割引させる「日本銀行震災手形割引損失補償令」を出す。つまり被災地関連の手形を政府が肩代わりして経済混乱を避ける政策。その額は通算4億3000万余り。
この震災復興のために、政府は翌年度以降、多額の震災復興予算を計上。財源は多額の公債。特に高利回りで発行された外債は国辱国債という批判も浴びる。政府のこの救済政策により復興景気が起きるが、「景気」というよりむしろインフレを引き起こす。
またこの間、国内では軍事的な仮想敵国ロシアの消滅もあり、財政に見合った規模への国防予算の削減・軍縮の気運が高まる。その結果、
・ ワシントン軍縮会議により海軍軍縮
(大正10年 1921年 11月)
・ 山梨軍縮による陸軍師団の兵員の削減
(第一次 大正11年 1922年 8月)
(第二次 大正12年 1923年 4月)
・ 宇垣軍縮による陸軍4個師団削減
(大正14年 1925年 5月)
が行われる。特に陸軍は軍縮により兵員の3分の1を削減。軍縮派の中心、宇垣陸相は軍内部の反対派を予備役に編入して軍縮を強引に押し進める。宇垣の考えは兵員削減により浮いた軍事費を装備の近代化に充てるというもの。
ちなみに予備役とは、軍を退役して民間に戻るが、戦争等の国家緊急時に軍人の増員が必要になるため、この時たたちに現役に戻れるよう、軍籍だけは持っている立場。つまり事実上の引退。
この軍縮により多数の陸軍将校が失業。軍人の社会的地位は低くなり、青年将校の結婚難が問題になったほど。軍内部の志気はかなり低下。ポストが少なくなり出世が難しくなった軍将校の間には「出世第一主義」「事なかれ主義」という見えない、そして致命的な構造腐敗が蔓延していく。
政治的には「大正デモクラシー」による民主化を求める大衆運動が盛んに成り、その成果としてついに大正14年5月25歳以上の成人男子全てを選挙人とする「普通選挙法」が公布される。
またこの時期から、不況と恐慌を背景に労働問題が深刻化して、労働争議が多発している。雇用・労働条件の悪化に対して労働者が反発・抵抗を始めたのが原因。全国に労働組合運動が起きる。これは共産主義運動と結びつき、労働争議は次第に長期化・暴力化している。これに対して政府は治安を乱すものとして仰圧。この労働争議の増加傾向はその後も続いていく。
3.金融恐慌
(昭和2年 1927年)
昭和2年3月14日、衆議院予算委員会でで、先の「震災手形」の満期引き延ばし法案を討議中、蔵相が「渡辺銀行が破綻した」と失言。(実はまだ破綻していなかった)これをきっかけに多数の銀行への取り付け騒ぎが起き、金融恐慌へと発展。全国の銀行で預金が引き出し(取り付け)が殺到し、休業に追い込まれた中小銀行は37行、大手銀行にも取り付けが殺到した。
「震災手形」の大口所持銀行の筆頭は台湾銀行、大口債務者の筆頭はその取引先の鈴木商店。なぜ神戸の鈴木商店が「震災手形」を多く抱えていたかというと、鈴木は第一次世界大戦好況期に借入金により巨額の投資をしたが、その後の戦後恐慌により苦況に陥る。そこに起きたのが関東大震災。鈴木商店と台湾銀行はこのどさくさに紛れて、関係手形を「震災手形」とし、決済を先延ばしにしていた。同じ様な理由で、大戦ブーム期に過剰投資を行い、戦後恐慌でつまずいた企業・銀行が多くの「震災手形」を抱えていた。(渡辺銀行もその一つ。)手形は当然、満期がくれば決済の必要が有るため、満期引き延ばしが行われないとこれらの銀行・企業は資金売りが困難になる。
首相の若槻礼次郎(憲政会)は震災手形処理の重要性から政友会および政友本党と政治休戦を結び、法案支持の約束を結んでいたが、政友本党が憲政会と連合したために政友会が反発。憲政会内閣への攻撃を始めた。3月14日の事件はこの時の出来事。
政友会は台湾銀行救済のための緊急勅令を否決させ、政府特殊銀行である台湾銀行でさえ救済されなかったことで、預金者たちはパニックに陥る。結局、倒閣を目的とする政党同士の抗争が事態に火に油を注ぐ形となった。
4月、第一次若槻礼次郎内閣倒れ、田中義一内閣(政友会)成立。蔵相は元首相の高橋是清が再登板。事態沈静化のため三週間の支払猶予(モラトリアム)に関する緊急勅令公布。この間に日銀券を大量に印刷し政府補償下の日銀特融(特別融資)。この時には表のみ印刷した日銀券までもが発行される。5月には金融恐慌は何とか収束。高橋是清蔵相危機を脱出後在職42日で辞任。
この金融恐慌は全国で44行を破綻させ(台湾銀行を含まず)それと結びついていた多くの企業グループを破綻させた。破綻したのは鈴木商店を代表とする大戦ブーム期に急成長した新しい企業。この後も中小銀行破綻は続き、預金は大手銀行に集中することになる。銀行法施行と政府の合同促進政策もあり、銀行の合併・買収による整理統合が進む。代表的なものは12行が合併した安田銀行、5行を買収した住友銀行。
これ以後、金融業界は寡占の時代に入り次第に五大財閥(三井、三菱、住友、安田、第一)に資産集中することになる。これは政治にも影響を与え財閥と政党の癒着が酷くなる。特に三菱財閥と憲政会、三井財閥と政友会の癒着は明治期からのものであり、政党に対する財閥の力が強くなり、金権政治が横行する。
翌昭和3年6月3日、河本大作(関東軍高級参謀・大佐)の謀略による中国北方軍閥の長、張作霖の爆殺事件起きる。この事件は現場指揮官の軍令を無視した勝手な行動である。田中首相は白川陸相に対して軍法会議に掛け処断する事を求める、が陸相は職を賭してこれを拒否、河本は軽い処分に。この事がこの後、陸軍が政府の方針を無視して行動する先駆けに成ります。
田中首相、この事件により天皇の信任を失い総辞職。次に浜口雄幸内閣(憲政会の後身民政党)成立。蔵相には日銀出身の井上準之助が就任。
4.緊縮財政
(昭和4〜6年 1929〜31年)
このままでは公債の発行しすぎで国家財政が破綻するため、井上蔵相による公債発行をゼロを掲げての緊縮財政が開始される。井上蔵相の財政政策の基本方針は、次のような内容。
・ 「緊縮財政」
各省には経費の1割以上削減を要求。さらに公共事業を殆どストップ。昭和6年には官吏の減俸案まで出て大騒ぎとなるが何とか実行。
・ 「非募債主義」
歳入で公債非募集の方針を掲げ、昭和5年度予算では一般会計において20数年ぶりに公債金をゼロにする。
(ちなみに公債とは国の債券のことで、現在は赤字国債・建設国債・地方債ぐらいしかないが、この時代は「震災善後公債」とか「報国国債」とか色々な種類が有るため、ここでは全てまとめてを「公債」と呼んでおきます。)
・ 「金解禁」
金解禁とは「金」の輸出を自由化することで、当時国際経済の主流であった金本位制度に復帰する事を意味する。金本位制度とは各国の通貨量を中央銀行が保有する「金」に応じて決める制度。(当時の日本では純金750ミリグラムにつき1円)これで単なる紙切れである紙幣の価値が安定する。これに基づき国際貿易をすれば、通貨の交換レートが安定し非常に市場経済原理が働きやすい。第一次世界大戦でいったん行われた各国の「金」の輸出規制は、その後、経済状態の回復した国から順に、自由化され金本位制度に復帰していた。つまり井上蔵相としては、金融恐慌によって露呈した日本経済の欠陥を、国際経済の常道(グローバルスタンダード)である金本位制度に戻す事で、日本経済を強化し、経済・財政を正常に戻そうという考え。つまり正統的な財政・経済の再生を目指していた。金解禁は昭和5年1月11日に実施される。
・ 「対中国外交改善」
・ 「軍縮促進」
昭和5年1月にはロンドン軍縮会議が開かれる。政府はこの海軍軍縮条約に調印。軍縮が進む。またこの条約を巡り統帥権干犯問題が起きる。
当然デフレーションになり不況が進む。昭和5年度一般会計歳出は16億円で前年度約10%減だったが、不況による税収の歳入欠陥となり、さらに予算を4%削減。それでも歳入減に追いつかず、結局「震災善後公債」を発行。「非募債主義」は初年度からつまずいた。翌、昭和6年度一般会計歳出は14億8000万円で前年度8%弱減だったが、失業救済事業費は公債発行で捻出せざるを得なかった。
この頃の軍上層部に蔓延していたのは「事なかれ主義」「出世第一主義」、さらに長閥(明治維新に功労のあった山口県出身者による派閥。宇垣陸相は岡山出身だがこの長閥について出世した口)による「身内優先主義」。
この閉塞感に対して軍の内部改革を志す陸軍大学出身の若手将校達が集まり、「一夕会」が結成される。メンバーは永田鉄山、小畑敏四郎、東条英機、鈴木貞一、石原莞爾、板垣征四郎、山下泰文、武藤章、牟田口廉也など40名ほど。同会では「軍政改革」「国防方針」「満蒙問題」などが活発に論議された。さらに荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛り立てて、陸軍を改革することを目指す。この三将軍は長閥に対抗した薩閥につながる人脈で、部下の人望の厚かった将軍たち。
5.昭和恐慌始まる
(昭和4年〜 1929年〜)
緊縮財政の最中の昭和4年10月24日、ニューヨーク株式市場での大暴落、後にいう「暗黒の木曜日」が起きる。第一次世界大戦後、世界経済の中心であったアメリカが恐慌に陥ることにより、世界恐慌に発展。折しも金解禁をした日本は、この恐慌にもろに巻き込まれて昭和恐慌となる。GNP(国民総生産)18%、輸出47%、個人消費17%、設備投資31%、それぞれ減少。
この時代のキーワード
・ 「中小企業の苦境」
金融恐慌から脱して、一旦は収まっていた中小銀行の破綻が、この恐慌により続出し始める。それらの銀行と取引のあった中小企業では、金融資金の調達難に陥り倒産が相次ぐ。各地の商工会議所をはじめ民間団体の陳情の波が政府に押し寄せ、中小企業問題が社会問題化する。
・ 「産業合理化」
この恐慌を乗り切り、さらに国内産業の国際競争力を高めるために、政府は産業合理化を推進する。能率の増進、コストの切り下げにより企業の国際競争力を高め、一方、企業合同、カルテル(価格協定等の市場における競争を制限する企業の協調行動)化により無秩序な競争を廃し、日本資本主義の再建を図る。いわば日本経済の再建を図る井上蔵相の総仕上げ。その推進母体として昭和5年6月に「臨時産業合理局」が発足。産業合理化は国民運動として推し進められる。この運動の成果により工業の一人あたりの生産指数は増加。しかし賃金は低下、さらに企業内で余った労働者のリストラ(解雇)が進む。
・ 「労働争議頻発」
この雇用・労働条件の悪化にともない金融恐慌の頃から続いていた労働争議増加の傾向がこの頃ピークに達する。企業側はこれに対して労働組合を排除し争議の指導者を解雇することで対抗。争議が長期化する。しかし組合運動側も方針を巡って内部で、強行派の共産党系左派と、穏健派の右派が対立。左派の一部が破壊活動・テロなどの過激行動に走り、社会不安をかき立てる。結局、この労働運動は、内部分裂・一部の過激運動により大衆から見放され、大きな勢力になるには至らなかった。
・ 「失業時代」
企業の倒産・合理化により失業率が増大する。内務省社会局の統計では、昭和5年5月で、失業者数37万8515人、失業率5.3%となっている。しかしこれはかなり怪しい数字で、当時の「エコノミスト」誌の推定では、昭和5年上半期で失業者数120万−130万と推計。別の社会学者の推計では200万−300万。同時期のアメリカの失業率は28%であるから、実質は日本もこれ位か?。都市には失業者があふれ、すむ場所を失い浮浪者になる者も多く、「ルンペン」(浮浪者、物乞い)という言葉が登場する。また同じく内務省社会局調査の、昭和5年度卒業生就職率は、大学卒39.1%、専門学校卒43.8%。まさに「大学は出たけれど」(昭和4年4月封切りの映画、小津安二郎監督作品)状態。
・ 「農村不況」
恐慌による農産物価格の大暴落で農村も不況になる。当時の代表的農産物である米と繭(繭=生糸=絹製品は当時の日本の主力輸出品)の価格を見ると、昭和5年には米価はその半分まで、繭価に至っては3分の一に墜ちている。しかも政府主導で企業がカルテルを結んでいるお陰で、肥料・農機具等の価格はそれほど下がらない。さらに都会で失業して実家に帰る人も多く、農家の貧困に追い打ちをかける。当時の農民は、地主より土地を借りて耕作する小作農と、多少の土地は持っているが小作もする自小作農が全体の7割に及んでいる。特にこの小作・自小作農の農家経済が非常に困窮。小作料引き上げ反対、小作地取り上げ反対の小作争議が全国的に広がる。農村地帯では「白いご飯は夢の夢」と言われ、欠食児童(自宅に食べ物が無く、学校に弁当を持って来られなくなった児童)、娘の身売りなどが世間の目を引く。
・ 「三月事件」(昭和6年3月)
陸軍桜会と民間右翼大川周明らによるクーデター未遂事件。以下、桜会(国家改造を目指した将校グループ。首班は橋本欣五郎・中佐)の趣意書より抜粋。
「今の社会を見ると、為政者や政党の腐敗、資本家の大衆無視、言論機関の誘導による国民思想の退廃、農村の荒廃、失業、不景気、文化のび爛、学生の愛国心の欠如、官吏の保身等々、国家のため寒心に堪えない事象が堆積している。ところが政府には、何らこれらを解決すべき政策がなく、また一片の誠意も認められない。したがって政府の威信はますます地に墜ち、国民は実に不安な状態におかれ、国民の精神は次第に弛緩し、国勢は日々降下しつつある。さらに外交面では、為政者は国家百年の体計を忘れ、列国の鼻息を窺うことにのみ汲々として、何ら対外発展の熱意を有せず、そのため人口・食糧問題解決の見通しは暗く、時々刻々国民を脅威しつつある。我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよと絶叫する我々の主張は、為政者によって笑殺されるばかりである。」
これがこの時代の雰囲気を良く表している文章であります。
計画では内閣を総辞職させ、宇垣陸相を首班とする内閣を誕生させる予定だったが、結局宇垣本人の反対で中止。事件発覚後も陸軍省首脳が絡んでいたため、誰も責任を問われず処罰もなし。事件は箝口令がしかれ闇に葬られた。
この辺あたりから、政治的中立が基本であるべき軍隊の、政治化が始まる。原因は言うまでも無くこの大不況。そして不況に対してなにも有効な対策をとれない政府と既成政党への不信といらだち。この状況に対して何か行動を起こしたいという軍人達の心意気も理解できなくもない。
昭和5年11月14日、浜口首相右翼テロで重傷(前年のロンドン海軍軍縮条約を巡っての統帥権干犯問題が原因)。翌昭和6年4月に総辞職。第二次若槻礼次郎内閣(民政党)に変わる。井上蔵相はそのままで緊縮財政は続けられる。
6.満州事変
(昭和6年 1931年)
石原完爾(関東軍作戦主任参謀・中佐)と板垣征四郎(関東軍高級参謀・大佐)の謀略により満州事変勃発。石原たちは満州の関東軍(約1万)を勝手に動かし、中国北方軍閥の張学良軍(約22万)に戦いを挑み、見事にこの事変を成功させる。この満州事変は国家の閉塞状況を打破してくれる物として不況のさなか国民の拍手喝采を浴びる。この事変を成功させた石原は国民的英雄となる。
ちなみに関東軍とは、日露戦争後の明治39年(1906年)に遼東半島南端の関東州租借地と満鉄付属地の守備のために組織された関東都督府陸軍部が前身。簡単に言えば、日露戦争で得た、満鉄・租借地などの中国での日本の利権を守るための植民地駐留軍です。
満州事変は、石原完爾の構想では、意図的に対外危機を作り出し、それをテコに国家改造も成し遂げようという、いわば対外クーデター見るべき事件です。事件の謀略及び経緯を順を追って説明すると、
(1) 9月18日夜、柳条湖の満鉄の線路が爆破される。(石原グループの謀略)これを中国軍の仕業として守備隊が付近の中国軍北大営を奇襲攻撃。
(2) 19日、本庄繁関東軍司令官に圧力をかけ関東軍を出撃させ満鉄沿線を制圧。同日、政府は閣議で事態不拡大の方針を決定される。陸軍三長官(陸相・参謀総長・教育総監)会議が開かれここでも不拡大方針が決定。
(3) 21日、在満居留民への驚異をあおり、それを理由に林銑十郎朝鮮軍司令官が独断で部隊を越境。(海外に派兵する為には天皇の奉勅が必要、これは重大な軍規違反)軍中央には事後承認を迫る。
(4) 22日、閣議で朝鮮軍の越境が承認される。
(5) 24日、政府は日本軍の行動を自営のため年事態不拡大をうたった声名を発表。
(6) 10月8日、日本軍錦州を空爆。
(7) 11月19日、チチハル占領。
(8) 昭和7年2月5、ハルビン占領。これで満州の主な都市を全て占領。以後、満州国樹立に向かう。
(9) 3月1日、満州国設立宣言。清朝最後の皇帝溥儀を皇帝として担いだが、完全に関東軍の傀儡政権。政府の実体を見ても、名目上は大臣に満人を据えたものの、実権は日系官僚が握っていた。
早い話が、たかが植民地軍の一部の軍人達が謀略を企て、それが不況で苦しんでいた国民の指示を得たため、政府もその独断専行を処罰するどころか、その動きを追認した。つまりこの時点で政治の主導権を握っていたのは首相でなく満州で勝手に軍事行動をしている石原達軍人の手に移っている。対外クーデターはひとまず大成功といったところ。あとは自分達軍の主導で、国体改革を実現すればよい。
また(3)の時に陸軍参謀総長は内閣の閣議決定を待たずに直接、天皇に上奏しようとするが、これに猛反発したのが永田鉄山(陸軍省軍事課長・大佐)。
「閣議の承認を得ずに上奏するのは、天皇に対する道でない」
と主張し強硬に反対。直接上奏は取りやめられ、閣議決定を待つことになる。つまりたかが軍事課長の意見が陸軍トップの三長官の考えをひっくり返している。
この石原・永田の二つの事例が示しているのは、「無為無策」の政府、「事なかれ主義」の軍上層部、などの情けない指導層に対して軍の中堅クラスの実力者が上からの指示を受けずに独自に動き始めており、また指導層はこれを止める実力もなくただ右往左往して事態に流されるだけの存在に成り下がっている。つまり指導層が指導層としての役目を果たせなくなっているわけで、石原はこの状態を見抜き「独断専行」により事変を成功させたわけである。(中国が内戦中のため、行動するのに最適の時期であった事も大きい)これ以降この「独断専行」と実力のある者が上部を無視して行動する「下克上」の雰囲気が軍部に蔓延する。
また満州事変と呼応する形で、この年10月には桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる。日本国内で本格的暴力的手段を用いてのクーデターを起こす計画だったが、あっけなく軍首脳部に漏れ、首謀者が拘束されて未遂に終わる。例によってこの事件も軍部の方針によりもみ消され箝口令が敷かれた。桜会は解散させられたが、最も重い処分は橋本の重謹慎20日。
この事件はかなり情けない事件だったらしく、首謀者達は明治維新の志士気取りで待合いで豪遊していたうえに、クーデター後、首相に担ぐ予定の荒木貞夫にはなんの話も付けていなかった(このルートで漏れたらしい)という状態ですから、失敗するのも当然の話。桜会は所詮、陸大出の陸軍省エリート将校を中心とした集まりであるため、何か世間とずれていた様です。クーデター未遂事件に対して、処分は謹慎だけと言うのも酷い話で、軍上層部の「事なかれ主義」的処分が、軍内部に「なにをしても罰せられない」という雰囲気を作り上げることになる。
この不明朗な結果に対して、クーデターの実働部隊として参加していた、若い尉官クラスの将校たちが、あきれ果てて桜会グループから離脱。国家改造を目指して独自の活動を開始する。この活動は20代から30代前半の陸軍将校が中心だったため、後に「青年将校運動」と呼ばれる。
国内の世相としてやたらと愛国的な風潮になり、右翼が活況を呈する。彼等の主張を要約すると以下のようなもの。
・陸軍の支援。
・英米依存外交を排し自主外交の確立。
・財閥と結んだ政党政治の打破。
・協力政権の樹立。
財政的には、満州事変による緊急事態を名目にした軍事費膨張により、井上蔵相の緊縮財政、完全に破綻。財源不足のため、年度末には減債基金繰り入れ中止(国債償還の停止)4400万円のほか、「満州事変公債」7700万円を含めて一般・臨時軍事費特別会計における新規公債発行は1億8900万円にたっする。11月には井上蔵相も昭和7年度予算では歳入補填公債、つまり赤字公債を発行せざるを得ないことを認めた。
若槻内閣は軍部の独走も止められず12月に総辞職。犬養毅内閣(政友会)成立。軍部との強調路線に進む。蔵相は高橋是清が再び登板。就任直後には、金の輸出を再び禁止し金本位制を停止させた。
7.テロの頻発
(昭和7年〜 1932年〜)
昭和7年頃、昭和恐慌が頂点に達する。
昭和7年2月、前蔵相の井上準之介、右翼テロにより暗殺。3月、三井財閥総帥、団琢磨、右翼テロにより暗殺。犯人は農村青年や東京帝大を含む各大学の学生からなるグループ。「血盟団事件」
恐慌のさなか、資産が五大財閥特に三井、三菱に集中するようになりその経済的支配力を高めていた。さらに政党と結びついた金権政治への世間の反発も激しく、この為財閥は左右両翼の非難の的になっていた。
5月15日、海軍将校4名が首相官邸に押し入り、白昼堂々、犬養毅首相を殺害。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」「問答無用」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。「五・一五事件」
この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の指示を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいつだため、なり手が無くなった点も大きい。)
次の首相は斉藤実海軍大将。「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。
さらに翌8年には、重臣・財閥・政党の指導者を一斉に暗殺して、軍政府樹立を企画した、右翼団体によるクーデター計画が発覚する。「神兵隊事件」
8.昭和恐慌終了
(昭和7年 1932年)
経済不況を脱出するため、高橋是清蔵相による積極財政開始。高橋蔵相は、金解禁と財政緊縮政策が今回の深刻な経済政策を招いた、と指摘し、景気回復のため財政政策を積極政策に転換させる。
その政策の内容は、
・ 「軍備拡張」
井上財政では予算の3割に満たなかった軍事費は、高橋財政では5割近くに膨張。これで満州事変はさらに拡大。軍需物資、特に重化学工業製品の生産が増え、雇用も増える。つまり満州での軍事的緊張を国内の景気・雇用対策に利用したわけです。
・ 「時局匡救」
農民経済を救済し、農村不安を鎮静する事を中心政策に掲げた斉藤内閣は、8月の臨時議会で時局匡救事業を提案。7年度から10年度まで継続事業で実施されることになった。これは公共土木事業を中心とし、農家負債の整理、農村金融の拡充等を目的とした諸政策である。
・ 「輸出振興」
輸出振興のため政府は外国為替の低位安定政策を採る。さらに井上前蔵相の「産業合理化」政策の効果が出てきており、日本企業は国際競争力をつけていた。このため世界中の貿易が沈滞している中、日本の輸出だけが躍進。特に綿製品の輸出増加はめざましく、インド市場を巡ってイギリスと激しい争奪合戦。日英綿戦争とまで言われる。しかしこれには諸外国からダンピングだとの批判もでる。
この積極政策の財源は公債による赤字財政。高橋蔵相は、
「経済が沈滞している時期だから、増税による経済への圧迫は避け、経済力の回復増進を第一に考えるべきである。そのために一時公債が増えても産業が復興すれば、国民の税負担能力も増え、税収の増加も期待できる。その時に公債も償還できる」
と考えていた。
このため7年度から「歳入補填公債」(赤字国債)が発行される。これと同時に高橋蔵相、深井英五(日本銀行総裁)とくみ、新規公債を日銀引き受けにより発行する新方式を提案、実行される。これで沈滞した経済界に通貨を供給し、刺激を与えるための資金が、公債を発行することで容易に得られる。
この公債政策のためには、日銀の発券能力の拡大が必要となる。このため関連法を改正、日銀券の保証準備発行限度(「金」の裏付けの無い発券限度、裏付けがある発行は正貨準備発行と言う)を1億2000万円から10億円に拡張、制限外発行税を5%から3%に引き下げた。さらに、景気回復対策と国債償還を円滑に進めるため、低金利政策も必要となり、実施されている。
これらの政策のため一般会計歳出は、
昭和6年度 : 14億8000万
昭和7年度 : 19億5000万
昭和8年度 : 22億5000万
と次第に膨張していく。
取りあえず日本は世界で一番早く世界恐慌から脱出。ここから昭和12年度までの日本の実質GNP成長率は7%に達し、好況の時代となる。この時期が、戦前の日本を代表する時代と言われる。
この高橋財政で特に問題なのは、禁じ手である日本の中央銀行・日銀による公債引き受けを始めた事である。これで政府は資金が必要な場合、公債を発行し日銀に引き受けさせることで、簡単に資金を調達できる。つまり事実上、政府が自由に日銀券を発行出来ることになる。しかも、同時に日銀券の保証準備発行限度を大幅に増やしている。これは通貨制度において、金本位制度を放棄し、現在と同じ管理通貨制度に中途半端に移行していることを意味する。
元来、中央銀行の役目とは、政府による自由な通貨発行を許していては、通貨価値が安定せず、経済不安を招くため、通貨の番人として政府から独立して金融政策行う役割のはずである。管理通貨制度の場合、この役目はより重要になってくる。金本位制度にある「金」という通貨価値の裏付けが無くなる、代わりに、中央銀行では景気・経済対策のため、柔軟に通貨量を決める事が可能となる。ただし、通貨量・金融政策の管理をよほどしっかりやらないと、簡単に通貨はその価値を喪失する。紙幣が文字通り単なる紙切れになる可能性がある。日本はこの管理通貨制度に、なし崩し的に、中途半端に移行した。
公債を日銀が引き受けるという高橋政策は、日銀からこの通貨管理能力を、政府が奪った上で、政府の公債発行の歯止めを取り払ったことになる。もし政府が公債=通貨の発行を過剰にした場合、簡単に悪性インフレーションを引き起こし、しいては日銀券が通貨としての信用を失うことになる。つまりは日本の金融制度が破綻する。
この財政政策は、近代金融制度・市場経済原理を理解している高橋蔵相の管理下で、高橋蔵相の読み通りに経済が回復すれば何とかなるが、一端その管理を離れると暴走を始める危険性がある。管理通貨制度が管理不能の事態に陥る危険性を含んでいた。
9.皇道派と統制派の対立
(昭和7年頃〜 1932年〜)
この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月には真崎甚三郎が参謀次長に、林銑十郎が教育総監に就任している。
そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。彼らの社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、
「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する。」
と言うもの。で、具体的にどの様に改造するかというと、私有財産の制限、土地の国有化、等々。一端、天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうというもの。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、どうも共産主義と国粋主義の混在した考えのようです。
北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、
「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である。」
となる。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちである、その部隊の兵士は徴兵された、貧しい一般市民・農民出身者がほとんど。現実の国民の窮乏がよく分かっていた。しかし20代,30代の青年の集まりらしく、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動ではあります。
荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍は支持を受けた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
「本件に参加したのは、若者ばかりである。こうした純真な青年たちがこうしたことをやった心情を考えると、涙の出る思いがする。彼らは名誉や私欲のためにやったのではない。真に皇国のためになると信じてやったことである。だからこの事件を事務的に処理すべきではない。」
両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれる。このほかのメンバーは小畑敏四郎・山下泰文など。
これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派。彼らは、
「軍人の政治活動は軍人勅諭によって禁じられた事であり軍人は全て組織の統制に従うべきである。そんなことを認めれば国家のためになるなら、上官の命令に反抗しても良いことになる。これでは軍の規律が緩んでしまう。厳しく統制することにより、国家の危急に備えなければならない。」
と主張して、この運動に憂慮を募らせている。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章など、陸軍省エリート幕僚を中心としている。永田は皇道派を次のように批判している。
「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、清竜刀式頭脳、まだ残って居ること、及び過度に日本人の国民性を自負する過誤に陥って居る者の多いことが危険なり。国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造が出来ないのが欧米と日本との国情の差中最大のものなるべし、此の欠陥を糊途するため粉飾するために、負け惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるは、止むを得ぬ事ながら、これを実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」
陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた
陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことは出来ず、議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失う。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買う。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。
昭和9年1月、陸相は統制派の林銑十郎に交代。軍務局長には永田が抜擢される。この時の人事で、皇道派は陸軍省中枢ポストから排除される。参謀次長から教育総監に転じていた真崎もこの時罷免された。
基本的には皇道派・統制派の両派ともに、国体改革が必要な点では一致していたが、この時点で改革の方針を巡り、陸軍内部の改革派は二つに分裂したわけです。これ以降、二・二六事件まで陸軍内部では、怪文書が飛び交う皇道派と統制派の激しい対立が続くことになる。
10.新官僚の登場
(昭和7年頃〜 1932年〜)
この頃、官僚内部にも新官僚と呼ばれる革新派が出てくる。彼等の集まりであった国維会は、後藤文夫・近衛文麿などを理事として昭和7年1月に結成。
一、広く人材を結成し、国維の更張を期す。
一、大いに国家の政教を興し、産業経済の発展を期す。
一、軽佻詭激なる思想を匡正し、日本精神の世界的光被を期す。
を綱領として掲げた。
同会は、満州事変を契機とする日本内外の事態を国家滅亡の危機と捉え、これに対処して維新を遂行する志士を結集するものとしてスタート。一方でこの危機を招いてかつ、これを克服できない既成政党を批判し、他方でこの危機を利用して革命を成し遂げようとする共産主義者を排して、日本精神による維新を成し遂げようとした。
国維会は昭和9年には解散しているので考えが同じであった訳ではないが、共通していたのは腐敗した既成政党の官僚支配に対する反発である。実際、彼等の行った選挙粛正運動(選挙に金が掛かりすぎるため政党が腐敗する。政治の腐敗を無くすには正しい選挙を行う必要がある。という運動)は既成政党に打撃を与えている。
この頃、満州国では、「王道楽土」の建設、「五族協和」(日本人・満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人)の実現を掲げ、国造りが進められていた。これには日本からきた、岸信介などの官僚グループが積極的に取り組んでいる。彼らは満州組と呼ばれ、官僚指導による統制政策を実施した。以後、満州国は日本の統制政策の巨大実験場となってゆく。彼ら満州組もまた新官僚と呼ばれる。
この他、新官僚と言われたのは、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ている。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。
彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と、結びついてゆくことになる。
昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。これで斉藤内閣総辞職。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする、大疑獄事件。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げ。昭和12年には全員に無罪判決が出る。右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があり、事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。(事件の黒幕は平沼騏一郎だと言われている)
しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめも無く、後には司法次官に栄転する。これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも「身内優先」「事なかれ主義」という、腐敗が蔓延していた様です。
次には岡田啓介内閣が成立。蔵相には高橋是清が再び留任。
11.積極財政行き詰まる
(昭和10年 1935年)
積極財政以降、この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げている。昭和6〜11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。
しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。
(1) 景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。
(2) このため低金利の公債に資金が向かなってくる。
(3) さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。
(4) これにより一般貸し出し金利が上昇する。
(5) このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。
(6) 低金利の国債は、価格維持も難しくなる。
この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。
この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円)
昭和10年下半期には深井日銀総裁が、
「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」
と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。
また陸軍内部では皇道派と統制派の対立が頂点に達し、この年8月10日には陸軍省内部で白昼堂々、統制派リーダ永田鉄山(軍務局長・少将)が、皇道派の相沢中佐に斬殺される事件が起きる。「相沢事件」
2.二・二六事件
(昭和11年 1936年)
昭和11年2月26日、昭和維新を目指して青年将校たちが決起。彼らに率いられた部隊によるクーデターが発生。斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将、彼は真崎の後任だったと言うだけで襲撃対象になった)を殺害。鈴木貫太郎侍従長には重傷を負わせる。岡田啓介首相は襲撃を受けるもからくも脱出。彼らは政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求。世に言う「二・二六事件」。
決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待した。決起当初、軍の上層部はこの反乱に対し、穏便に対処するべきか、軍隊を用いて鎮圧すべきか、判断がぐらつき右往左往するばかりで、説得に駆けつけた真崎大将は、
「お前たちの気持ちは、ようくわかっとる。ようっわかとる。」
と、くりかえすばかりであった。
しかしクーデターの報告を受けるやいな、決起部隊を「反乱軍」として断固制圧を主張した人物が二人。
一人は大元帥である昭和天皇本人。天皇はこの反乱に激怒し、事件直後、
「すみやかに事件を鎮定せよ。」
と、命令。彼らの主張も分かると言った、侍従武官長の本庄繁中将に対しては、
「それは私利私欲のためにやったのでは無いと言うにすぎない。自分が信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことは出来ない。もし陸軍が出来ないと言うのなら、自分がみずから近衛師団を率いて鎮定に当たろう」
と言ったほど。天皇陛下万歳を叫ぶ軍人と、実際の天皇の意識の溝の深さは、まさに天と地ほども有ったわけです。
もう一人は石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上。終始「討伐」の主張を貫く。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。
軍上層部は、事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍賭して認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変。国賊とされ討伐の対象となる。29日(この年は閏年)、鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みられる。ビラとラジオ放送で帰順が呼びかけられ、さらにアドバルーンを空に上げ、
「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」
の文字が掲げられた。これは効果を発揮し、決起隊の兵士たちは次々帰順した。陸軍省に集まってきた、反乱将校たちには自決用のピストルが渡された。が、この時、自決したのは2名のみ、残り23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴える、として軍法会議に掛けられる道を選んだ。
この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。
ここで大日本帝国憲法での内閣制度を説明しておきます。首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる。)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。
ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままに出来る立場になる。
岡田内閣、事件の責任をとり総辞職。次の首相には近衛文麿が推薦されるが彼はこれを辞退、外相だった広田弘毅に組閣の大命が下る。この辺から誰もこの陸軍の暴走やら経済困難を乗り越えられそうに無いため、首相に喜んでなる人物がいなくなる。
内閣組閣で早速軍部の介入が始まる。組閣人事に口を出し要求を飲まなければ陸軍より大臣を出さないと脅し、広田首相これを飲む。以後、政治の主導権は完全に軍部、特に陸軍に握られることになる。
7月5日、陸軍刑務所内の特別法廷で参加将校たちの判決が下される。審議は非公開で進められており、弁護士もなし。裁判で決起の趣意を天下に明らかにしようとした青年将校たちの考えは甘かったのである。
死刑 : 17名
無期 : 5名
禁固10年 : 1名
禁固4年 : 1名
特別軍法会議は一審のみで、上告は認められなかった。銃殺は2名を除いて7月12日朝、行われた。天皇のために生き、天皇のために死ぬことを誇りとしていた彼らは、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んでいった。
13.準戦時経済体制
(昭和11年 1936年)
二・二六事件後成立した広田内閣の馬場蔵相は、公債削減政策の放棄、増税、低金利政策を発表。つづいて日本銀行の公定歩合の引き下げを求めて公債の大量発行の条件を整備する。さらに政府は次官以下の人事を一新して「革新」姿勢を示す。しかし、その実体は軍部主導による政策運営。この時点で内閣としては、暴走する軍部を押さえ込むのに手一杯で、とても軍事費そして公債の増大を押さえるところまで手が回らなくなる。
その陸軍の政治的、経済的構想立案の中心は石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)。石原は昭和10年8月に陸軍中枢のこのポストに就いたが、その時彼は日ソ間の兵力差が年々開いていることに愕然とする。前年の6月時点でのその差3倍以上。特に航空機、戦車などは数でもその技術水準でもかなり劣っていた。これは満州事変での日本軍の動きを見て、脅威を感じたソ連軍が極東地方の軍備を増やしたことによる。このため石原は軍備強化を考えるが、昭和7年頃からようやく重化学工業が立ち上がったばかりの日本では航空機、戦車などの増産にはその産業的基盤が無かった。
そこで石原はソ連に対抗する軍備を持つ為には、昭和16年頃まで一切外国と事を構えることなく、軍備拡充とその為の産業基盤の育成に専念すべきであり、その為には日本の産業構造の改革が必要と考える。この構想の具体的実現のため為に民間人から成る組織「日満財政経済研究会」を設け立案を委託。
同研究会が出した計画書「昭和十二年度以降五年間帝国入歳出計画」の内容は、
・ 財政に限らず、産業発展目標を重化学工業を中心に生産を2〜3倍に引き上げる。
・ これを日本7・満州国3の割合で実現する。
・ 実現のため、日本国内の政治・行政機構を満州国に似た形の、官僚主導の体勢に改革する。
簡単に言えば国家経済を統制し、軍需のための重化学工業化を強引に押し進める計画。
こうして陸軍の一大佐、石原莞爾主導による政策「準戦時体制」が始まる。結局、昭和12年度予算で陸軍、海軍の軍事予算増大。予算も前年度から7億3000万円増えて30億3800万円に増大。その財源は赤字公債10億円弱と、大増税。法人所得税8割、個人所得税3割、相続税10割引き上げられる。これには財界からもう反発を受ける。
また軍備拡張が声明されると、石油・鉄鉱石等の軍需物資の不足と先行きの値上がりを見越して、輸入が殺到する。このため輸入超過により国際収支は急激に悪化。大蔵省は「外国為替管理法」を改正し輸入を大幅に規制しようとする(これがいわゆる「官僚統制」の始まり)。しかし効果はなく、外国為替の支払いが困難になる。これにより馬場財政=広田内閣が行き詰まる。
翌昭和12年1月の議会で浜田国松代議士が軍の批判を行い、寺内陸相との間にいわゆる「腹切り問答」が発生し寺内陸相の辞任により広田内閣総辞職にいたる。これは表向きの事情で、後に巣鴨拘置所で広田が語ったことによると外国為替事情の悪化がその真因であったと言われる。
この後も貿易赤字は続き、昭和12年3月、日本銀行は貿易の支払いのため昭和7年以来一切使わなかった「金」の現送を余儀なくされる。その額は3・4月だけで約1億1000万円。
次に陸軍大将(予備役)宇垣一成に組閣の大命が下るが、陸軍が陸軍大臣を出さずに不成立。代わりに林銑十郎が組閣、首相になる。これは石原ら陸軍中堅幕僚が、政治力のある宇垣では自らのプランが押さえ込まれかねないと考え、御しやすい林を選んだためといわれる。
また、岡田内閣辞職とともに深井英五日銀総裁も退任した。その時、次のような意味の演説を行っている。
「生産力の余剰を利用し、または容易に生産力を増進しうる時期はすでに去りつつある。今後は生産拡充に努めると共に物資の節約に努めなければならない。」
この頃から物価の上昇が現れ始める。東京卸売り物価指数(昭和9〜11年平均=100)で見れば
昭和10年1月 : 99.5%
昭和12年1月 : 123.2%
昭和12年4月 : 131.0%
インフレが始まる。
14.第一次近衛内閣
(昭和12〜13年 1937〜38年)
林内閣は議会運営に失敗し5月に総辞職、短命に終わる。
次に首相になったのは近衛文麿。彼は五摂家筆頭、近衛家の当主で貴族院議長も勤めたこともある人物。天皇家に近く、各方面にも顔が利き、腐敗した既成政党とも一線を画し、さらに革新官僚達ともつき合いがあり、若い頃には特権貴族で有ることに悩み平民に成りたいと漏らしたこともある革新思想の持ち主。これで国民的人気が無ければ嘘のような人物。彼は皇道派の意見にも一理あると認めており、国体改革の必要性も感じていた。彼の首相就任は国民の心を一時的に明るくさせた。
しかし戦前においても大臣経験もなく、いきなりの首相就任はかなり異例の人事。つまり国難打開のため新しい政治が求められており、それに応じてフレッシュなイメージの人気政治家である近衛が実務経験もなく首相として大抜擢を受けたわけです。蔵相には軍備拡張に甘い馬場蔵相留任を望む軍部を何とか押さえて大蔵省次官だった賀屋興宣が就任。
しかし国際収支の一層の赤字拡大により経済実状はますます困難になっている。しかし近衛は石原莞爾の構想に理解を示し「日満財政経済研究会」が昭和12年5月作成した「重要産業5ヶ年計画」の遂行が近衛内閣の至上命題となる。この経済状態では通常では金融引き締めと財政支出引き締めが行われなければ成らないところで、全く逆の経済政策が採られて行く事になる。
賀屋蔵相はこの状況下では思い切った政策なしでは事態の切り抜けは不可能と考え「財政経済三原則」を設定し経済政策の中心に据える。その内容は、
・「生産力の拡充」
・「国際収支の適合」
・「物質需給の調整」
つまり生産力を拡充させるが、国際収支の赤字累積が増えないようにしなくてはならず、その為に必要な物資を調整する必要がある、という考え。更に言い換えると、金も無いのに軍備拡充とその為の重化学産業を育成するという無茶な計画を実現する為には、日本全体の産業を統制し重要産業の優遇、非重要産業の設備縮小または廃止をはかる、そのために政府が国全体モノの流れとカネの動きを直接統制する必要があると言う構想。
7月27日、日銀総裁に結城豊太郎が就任する。彼は就任直後の金融懇談会の挨拶で、
「金融業者は悪戯に採算だけの観点に囚われず、多少手元が無理でも国債の所有を増やしていただきたい。このため生産力拡充資金に不足を来すようでは困るので、日銀は積極的に努力するから遠慮なく申し込んで頂きたい。日銀に貸し出しを仰ぐことを極力回避すると言った伝統はこの際打破すべきである。」
と言う趣旨の話をしている。
はっきり言って、石原莞爾は満州事変を見ても分かる通り軍事テクノクラートとしてはずば抜けて優秀な人物ある。「作戦の神様」とさえ言われていた。しかしこれはあくまでも軍事に関することのみ。近衛文麿にしても見識才能ともに卓越した人物である。しかし何せ実務経験がほとんど無い。従って両人ともに経済問題に対してはド素人に近い。しかもこの時点において、高橋是清を筆頭とする経済問題について見識のある人物達は、死亡・引退で全て第一線から退いている。後に残っているのは改革派の軍人と、国体改革に燃える新官僚達のみ。この経済素人集団のがこの後の日本経済を方向づける事になる。
15.盧溝橋事件
(昭和12年 1937年)
当時、中国・華北地方(北京付近)には「義和団事件」後に結ばれた北清事変議定書により、日本・イギリス・フランス・イタリアの各軍の駐兵が認められており、当時は約4000名の日本軍が駐屯していた。
昭和12年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で日本支那駐屯軍が夜間演習を行っていた。午後10時過ぎ、蘆溝橋北方の中国軍の方角から数発、続いて十数発の実弾が発砲された。さらに日本兵一人が行方不明になる。(後に単なる誤報と判明)これに対して日本軍は現地の牟田口廉也(支那駐屯歩兵連隊長・大佐)が独断専行、中国軍と交戦状態に入る。世に言う「蘆溝橋事件」が発生。最初に発砲した犯人も未だ不明の全くの偶発的事件であった。
この事態に対し、作戦を立てる立場の石原莞爾(参謀本部作戦部長・少将)は「事態不拡大」「紛争の早期解決」を唱えて事態の収拾に奔走する。石原の論理を要約すると、
「もしここで事件の拡大策を取れば全面的な日中戦争、それも終わりの見えない無益な持久戦となり、日本は無用のエネルギーの消耗を余儀なくされる」
石原は事変前にはこうも語っている。
「俺の見るところ早晩ヨーロッパでは大動乱が起きる。これに対し、日本はこの動乱の中に身を投じなければならぬ理由は何一つ無い。あくまでも局外にいるべきだ。そして日本・中国・満州の関係を強化して東洋の平和を維持しながら国防力を高めなければならない。そしてその反省の上に立って、関東軍を含めて在外の日本軍は、国際的な紛争を誘発するような過ぎた行動を犯さないように、自重自制すべきである。そうすれば三国の間に、真の友好と相互尊敬が生まれるはずだ。」
石原の考えでは、ソ連軍の脅威に備えて5カ年計画で軍事力を整備している最中に、中国と事を構えるわけには行かない。さらに中国内部の混乱に乗じて行った満州事変の時と違い、中国は蒋介石率いる国民党の元で統一されており状況が違う。日本軍は広い中国全土に展開できるほど強くなく、中国軍も弱い軍隊ではない。
近衛内閣も9日の臨時閣議では、杉山元陸相の即時3個師団派遣要求はあったが、多数決で不拡大路線を取ることを決議。現地司令部でも「不拡大、現地解決」方針を取り、11日、日中両軍間で停戦協定が調印された。
しかしこれに対して杉山陸相・武藤章(参謀本部作戦課長・大佐)・東条英機(関東軍参謀長・中将)らの陸軍内部の体勢をしめる意見は「戦線拡大路線」。中国軍は一度軍事的打撃を与えればたちまち萎縮して抵抗を放棄するはず。この際、華北を第二の満州としてしまえ。本格的出兵をしても3ヶ月も有れば決着が付く。完全に中国をなめきった考え方。
ここで「国民党の正規軍4個師団が北上中」との誤報が流れる。これを受けて石原、近衛首相も天津地区居留民12000人の安全を守るため派兵を止むなしと判断、3個師団派遣に賛成する。
その派遣軍内の強行派が中国側を挑発。7月29日、通州の在留邦人223人が蜂起した中国軍に殺害される事件が起きる。「通州事件」。これにより日中両軍は本格的戦闘に突入する。最終的にはもう3個師団が派遣される事になった。
その後も軍内強行派の意見により、派遣軍が増やされ、戦線は拡大を続ける。石原は戦線不拡大に全身全霊を傾注して頑張り続けるが、これにより陸軍内部で孤立する事に。強行派の武藤章には、
「あなたの行動(満州事変で上部の指令を受けずに勝手に戦端を開き、成功させたこと。)を見習い、その通り実行しているだけです。」
と言われ石原は言葉を失うことになる。さらに紛争拡大を恐れる余り、戦力の逐次投入という失策を犯し戦局をさらに悪化させる。石原はこの責任を問われ9月には参謀本部を追われ、関東軍参謀副長に転任される。参謀長は石原と犬猿の仲で強行派の東条英機。
この後もこの紛争は、派遣軍内強行派の参謀本部からの命令無視の行動により、正式な宣戦布告も行われ無いまま、戦争目的も曖昧なまま、なし崩し的に拡大を続けた。石原の心配した通り、ゲリラ戦による小規模戦闘が果てしなく繰り返される泥沼の日中戦争に突入する。当時この紛争は、宣戦布告をしていなかったため、戦争では無く「支那事変」と呼ばれていた。しかし戦時にしか設置されない、大本営まで設置され実質的には戦争状態。これは「戦争」とすると、アメリカの中立法により、アメリカからの石油輸入が出来なくなるため。
経済的には、当然、軍事費増大による戦時インフレが進む。8〜11月までの期間に鉛・硝酸・大麦・銅・木炭・アルミなどの価格は20%以上の高騰を見せる。9月には臨時軍事予算20億円が提出され、戦費は通算25億円に昇ることになる。その財源は殆どが戦時公債。この年の公債発行額は15億円に増加。ちなみに昭和12年度一般会計は27億円。一般・臨時両会計を合わせた財政支出は一躍前年の2倍になった。軍需物資の輸入は増え、秋には兵器弾薬も不足して、イタリアから小銃を輸入したほど。
輸入超過による国際収支の赤字は増える一方となり、政府はこの難局を乗り切るため政府による経済直接統制が必至と考え始める。これにより
・「臨時資金調整法」(長期資金の統制)
・「輸出入品等臨時措置法」(物資の統制)
・「軍需工業動員法の適用に関する法律」(軍需工場を軍の管理下におく)
の「統制三法」が成立。
8月、日銀は正貨準備の「金」の評価替えを実施。純金750ミリグラムにつき1円だった評価を290ミリグラムにつき1円に変更。こうして日銀は日銀金準備金を約2.6倍に膨らませる。こうして増えた資金のうちの3割を新設の「金資金特別会計」に移す。以後、貿易決済での金現送はこの会計より秘密りに行われる。つまり、政府・日銀は正貨準備金の額を、制度かえて増やした上に、日本の対外決済状況を秘密化してしまった。
10月、政府は経済統制を円滑に進めるための組織として「企画院」を設置する。ここは国体改革を進める「革新官僚」達の拠点となる。(このころから前の「新官僚」は「革新官僚」と呼ばれるようになっている。)
16.南京事件と日中戦争の展開
(昭和12〜13年 1937〜38年)
その後も中国戦線は拡大の一途をたどる。参謀本部の計算では、全軍の半分の15師団を投入すれば6ヶ月でけりがつくはずだった。しかし中国軍の抵抗は激しく、一撃を加えれば白旗を掲げるどころか激しく反撃した。開戦後4ヶ月間で失った日本軍の兵員は戦死傷合わせて4万人以上。これはほぼ3個師団に相当する数字である。つまり日本軍は開戦4ヶ月でその5分の1を失った事になる。
支那派遣軍は中央も命令を受けずに勝手に行動。上海に派遣された部隊は、勝手に南京攻略を開始する。(南京は当時の国民党政府の首都。)参謀本部では後から南京攻略命令を出す始末。
昭和12年12月には南京を包囲(蒋介石はすでに漢口に脱出)。南京攻略戦が開始される。中国軍の抵抗は激しいものであったが、11日夜、中国軍の司令官が部下を見捨てて脱出。中国軍兵士は戦意を失い退却を始め、日本軍は13日には南京を完全に占領した。
この時、退路を失った10万人と言われた中国兵は軍服を脱ぎ捨て南京市内に乱入、市内は大混乱に。この敗残兵掃討のため、進駐した日本軍の警備司令官は、「疑わしき者は捉えたら全て殺せ」と指令。日本軍による、略奪・放火・暴行・強姦が繰り返される。いわゆる「南京事件」。これは目撃した西欧の新聞記者により報道され、日本は世界中から非難を浴びることになる。
原因は日本軍の軍紀弛緩。当時の日本軍内では明治の後半辺りから軍紀弛緩、つまり軍隊内の規律の乱れが問題になっている。特に「対上官犯」(上官に対しての反抗)で軍法会議に掛けられる者の数はかなり増加している。
しかしこれは当然の話。「張作霖爆殺事件」「満州事変」などの例を見ても解る通り、軍部中堅の佐官クラスが無能な軍上層部の意向に反して勝手に行動している。その軍上層部にしても政府に対して勝手な行動を取っていて、政府はこれを止められない。命令違反を犯しても、上層部の「ことなかれ主義」のお陰で軍法会議にも掛けられない。部下が上司を見習うのは当然であるから、「やった者勝ち」「上官命令軽視」の風潮が軍組織内部に蔓延し、誰もそれを止められない。軍紀が乱れるのも当然である。
これに対して軍は、昭和9年に軍隊内務書を改訂し規律強化をはかる。しかし現場を知らない軍上層部の作成のため、上司への絶対服従・細かい規則の積み重ねを増やしただけの内容。結局、軍隊内務は厳格化・硬直化の方向に進んだ。内務規定があまりにも厳しくなり、現実からの隔たりが大きくなれば、逆に実際には守れない規則を形式上守ったことにするため、外面的辻褄合わせが横行する。内務規定厳格化は全くの逆効果になっていた。
ましてこれは目的もはっきりとしない戦争。平時の国内でも遵守出来ない軍紀が、いつ死ぬかも分からぬ戦時の戦地・占領地で守れないのも当然のこと。さらに上部からくる現場を知らない行き当たりばったりの無茶な命令。南京陥落の時は、司令官が17日に入城式典を行うと言い出し、南京の警備を担当した第16師団ではその時までの5日間に、南京市内に万単位でいる敗残兵を掃討する必要があった。かなり無茶な命令であり、これも事件の原因の一端になった。
当時の日本では中国蔑視の風潮もあり、さらに内務書では軍隊内の規律と戦場での服従・忠節・勇敢を強調していたが、戦地・占領地で住民や俘虜に対してどうするべきかは全く規定していない。しかも南京攻略軍には兵站部隊(食料・弾薬などの補給部隊)がついていなかった。このため食料は現地徴発となっていた。(兵站部隊がいないのは、現地軍が参謀本部の命令なしで勝手に進行したため、当たり前。)
「南京事件」では当時の日本軍が抱えていた、この辺の矛盾が一挙に吹き出す形となった。日本軍は俘虜にしても食わせる食料が無いとして投降兵を殺害。敗残兵掃討を理由に南京市内で略奪・放火・暴行・強姦を行った。
以後、南京攻略作戦の司令官、松井石根大将が東京裁判のおりに語った言葉より。
「南京事件はお恥ずかしい限りです。・・・・私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは支那人に対してはもちろんだがロシア人に対しても俘虜の取扱、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのにあの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。ところが、このあとみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえ言った。」
(自分も軍総司令官として、日露戦争の時とは違っていることをまるで理解していませんね。事態の原因が自分に有ることをまるで理解していない言葉です。)
一方、政府・近衛内閣は事態を収集すべく昭和12年10月よりドイツを仲介役に和平工作を進めている。一時は蒋介石もドイツの調停に応じることを表明したが、そんなときに南京が陥落。軍部の要求で、日本側が強気な要求を出し話は決裂。昭和13年1月16日には調停工作の打ち切りが決定される。
この時に日本軍は北京に中華民国臨時政府なる傀儡政府を作る。さらに近衛首相が、
「国民政府を対手とせず」
との声名をだす。これで蒋介石・国民党政府との和平交渉に入ることすら難しくなる。日本軍は中国の主な都市のほとんどを占領したにも関わらず、中国側の抵抗は止むことはなく、戦線は拡大を続けた。
10月6日、グルー駐日米国大使は日本政府に対して抗議の書簡を送る。日本は門戸解放・機会均等の原則を守らず、中国におけるアメリカの正当な権益を侵していると抗議。これに対して近衛首相は二度の声名を発し、
「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、今次征戦究極の目的亦此に存す」
また国民政府といえども、
「従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるに於いては、敢えて之を拒否するものにあらず」
と述べた。つまり日中戦争の目的とは、アジアから欧米の影響を排して、日本主導による新秩序を作り出すことである、というもの。いわゆる「東亜新秩序」宣言。
17.国家総動員法
(昭和13年 1938年)
前年に成立した「統制三法」のお陰で、必要物資が殆ど軍需品に取られることになり、民需では全国的に物不足が深刻化してインフレが進む。政府は公定価格を設定し沈静化を狙うが闇経済が発達するだけ。そして支那事変の長期化により増大する戦費。昭和12年末の通常国会では、臨時軍事費として48億5000万円が提出される。(同じく提出された一般会計は35億1400万円。)この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった。
さらに日本軍は兵器弾薬不足にも悩まされていた。近代戦においては莫大な数の弾薬を消費する。盧溝橋事件後6ヶ月で弾薬庫はほとんどからに近い状態になっていた。しかも日本にはこの莫大な消費に見合う生産能力がない。
これらの問題を解決するため、昭和13年4月1日、企画院が提出した「国家総動員法」が成立。5月5日に施行される。その詳しい内容は、
・労働、物資、資金、企業、施設の動員統制
・労働争議の禁止
・新聞その他出版物の掲載、配布の統制
・国民の職業能力の申告
・技能者の養成
・国民の物資の保有統制
等々。まさに国民生活全てを統制し戦争に備えようとする法律。「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と、それに接近していた革新官僚達による経済統制が実現段階にはいる。
この法律は、我妻栄氏によると、
「要するに、総力戦の始まったときに、議会の協賛なしに国内の総力を動員できるように、政府に対して広範な権限を与えておこうとする法律」
だそうです。近代国家は司法・行政・立法の三権分立が基本である。それがこの法律では、戦時に限ってではあるが行政、つまり政府に臨時的に統制のための法律制定の権利が移る。これは政府が立法府、つまり国会から白紙委任状を受けたのと同じことである。国会は以後、完全にその機能の停止状態となり、軍部・政府の単なる言いなりになる機関となる。
ちなみに、戦費は臨時軍事費特別会計により、戦争が終了した時点での一会計年度決算だったため、この時点で支那事変の戦費がどの程度掛かっていたのか不明の状態です。外から分からぬ内容のため軍部は好き勝手に予算を使えたようです。
一般・臨軍両会計の歳入構成は、租税と公債の割合が11年度の時点では5対3だったものが、12年度以降は公債の方が多くなり、16年度には3対6にも達している。早い話、戦費の調達はほとんど公債の発行に頼る形になっている。この時点あたり、政府には公債発行を一定限度に押さえ込む考えは、全く無くなっています。
この年8月、関東軍内部で支那事変不拡大を叫んで東条英機と対立していた石原莞爾は、病気療養を理由に勝手に帰国。12月には舞鶴要塞司令官に落ち着いている。
18.短命内閣と経済混乱
(昭和14〜15年 1939〜40年)
経済政策と支那事変処理に行き詰まった近衛文麿は疲れ果てて、ついに昭和14年1月4日内閣総辞職。後任には枢密院議長で国家主義団体国本社(右翼団体)の会長だった平沼騏一郎。近衛内閣から大臣の殆どを引きついて出発した。
この頃、日本軍の日中戦争における行為は、国際的に非難を受けており、イギリス・アメリカ・ソ連は中国側に立ってこの紛争に干渉、中国に積極的に資金援助・武器供与をしている。これに対抗して陸軍はドイツ・イタリアとの軍事同盟を結ぶことを主張。しかし海軍は、この同盟を結べばアメリカと戦争になる可能性があるため反対に回る。
平沼内閣は、同盟早期締結派の陸軍と、慎重派の海軍の対立に悩み、8ヶ月後の8月28日「独ソ不可侵条約調印」に対して「欧州情勢は複雑怪奇なり」の迷言を残して総辞職。
次の首相は陸軍大将(予備役)の阿部伸行。彼は政治的には何のキャリアも無かったが、とにかく陸軍を押さえ込むための起用。結局、阿部内閣は様々な問題に対して無為無策のまま昭和15年1月14日内閣総辞職。
次の首相は現役海軍大将の米内光政。しかし、やはり軍事同盟を巡って陸軍と対立。海軍としては、アメリカと戦争をして勝てる見込みがつかない。当時、海軍の仮想敵国はアメリカであり、その実力を良く認識していた。それに対して陸軍の仮想敵国はソ連、アメリカに対してはなめてかかっていた模様です。結局、7月16日、畑陸相の単独辞職に伴い陸軍では陸相を出さず内閣総辞職。
結局、これらの内閣は陸軍に振り回され放しで終わる。
また米内内閣成立直後の2月2日、議会において、民政党の斉藤隆夫代議士が政府の日中戦争処理方針を巡って2時間の大演説。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。
このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な問題になってくる。
この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの。同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与もストップあるいは統制下に置かれる。はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して国民生活がますます困難になる。
この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。
ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。
この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。昭和15年5月13日第1回報国債券発売。8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。
19.ノモンハン事件とヨーロッパ戦線
(昭和14〜15年 1939〜40年)
昭和14年5月、満州国とモンゴルとの国境線を巡りノモンハンでモンゴル軍と満州軍が衝突。政府と大本営は不拡大方針を示したが、これに対し現地関東軍の辻正信少佐と服部卓史郎中佐が独断専行。彼らはソ連軍の能力を過小評価し、関東軍の実力を思い知らせて国境侵犯再発を防止するとして、この紛争に関東軍を本格投入。ソ連軍と関東軍の大規模な武力衝突となる「ノモンハン事件」に発展した。(当時のモンゴルとソ連との関係は、日本と満州国の関係に似たような関係です。)
石原莞爾の心配が的中し、ソ連軍の圧倒的兵力、強力な火砲と戦車の前に、派遣された関東軍は壊滅的打撃を受ける。戦闘の主力となった第23師団では、人員1万6000名のうち戦死・戦傷・戦病が1万2000を越えた。連隊長クラスでも戦死・戦場での自決が相次いだ。ソ連軍の優秀な戦車に対して日本軍の戦車は全く歯が立たず、対戦車兵器として最も有効な兵器は火炎瓶だったと言うから酷いありさま。
しかし、9月1日に欧州でドイツ軍のポーランド侵攻、第二次世界大戦が勃発、このため、アジア方面にかまってられなくなったソ連との停戦協定が成立する。この事件は日本側の参加兵力約6万、戦死・戦傷・生死不明者約2万の大事件だったにも関わらず、国民にはなにも知らされず闇に葬られる。
この事件は当時の日本軍が、近代的軍隊としてはどの程度の実力か知らしめたものだった。この敗戦の責任をとらされ、関東軍では軍司令官と参謀長、大本営では参謀次長と作戦部長、実戦に参加した部隊でも軍指令官、師団長、連隊長が予備役になっている。しかしその真の敗戦原因の徹底究明は成されず、独断専行した辻・服部らの将校に対しても軍法会議も開かれず左遷のみ。
最前線で戦い壊滅した第23師団の生き残った将校たちは自決を強いられ、またソ連軍に投降し停戦後に送還された将校達にも自決用のピストルを渡された。つまり関東軍参謀たち、及び関東軍上層部は、自らの責任は棚に上げ、日本軍の実力を直視することなく、第一線指揮官達がまともに働かないのが敗因である、と考えていたようです。
この後、ヨーロッパでは世界大戦が本格化。
・ 9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。
・ 9月27日ワルシャワ陥落。
・ 昭和15年4月9日、ドイツ軍、ノルウェー・デンマークに侵攻開始。
・ 5月10日、ドイツ軍、北フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵攻。イギリスではチャーチル内閣成立。
・ 6月10日、イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告。
・ 6月14日、ドイツ軍、パリを陥落。イギリスへの空爆も激しくなる。
20.「新体制」運動と第二次近衛内閣
(昭和15〜16年 1940〜41年)
近衛文麿、この難局を打開するため、右派・左派・軍部までをも含めた「革新」勢力の結集を目指し新党構想を練る。国民組織を基盤とした強力な政権を作り、軍を取り込んで統制し、政治を刷新して政治新体制を建設を目指した。この運動は新官僚たちが中心となり進められていて、やがて「新体制運動」と言われる。
そのスローガンは「下意上達」。つまり腐敗してこの事態に対して無為無策の政界・財界・内務官僚たち保守派の「上」の既成勢力を一掃して、「下」の国民の意見を代表する革新勢力を結集した政治を実現し、この難局から国を救おうと言うもの。
参加した勢力を見ても、麻生久の社会大衆党や赤松克麿の日本革新党(もと社会主義者グループ)・橋本欣五郎の大日本青年党(革新右翼)・民政党と政友会内の一部(保守政党内の改革派)・岸信介などの新官僚・武藤章など革新的軍部、その他色々な勢力。さらに尾崎秀実(国際的共産主義者)までもが推進。まさにごった煮状態。
ちなみにこの頃、右翼は「革新右翼」と「観念右翼」の2派に分かれて対立している。革新右翼は統制派と結びついた親独派でナチス流の一国一党を目指していた。一方、観念右翼の方は、純正日本主義を唱え、国体明徴を重視し、共産主義を最も嫌っており、ナチスやファシズムも国体に相容れないとしていた。
昭和15年7月22日、米内内閣総辞職、次には第二次近衛内閣が組閣。陸相には東条英機が就任。政治の新体制、経済の新体制実施を目標とする。折からの政治の刷新を求める国民の期待を受けて革新官僚の拠点、企画院を中心に官吏制度をはじめとして各界の新体制案を立案し始める。
10月12日、「挙国政治体制の確立」のため、既成政党が自主解党、新党設立の準備組織として「大政翼賛会」が発足(総裁は近衛)。しかし右翼から左翼までを集めた「革新」勢力の集まりのため内部が一本化せず政党系の参加者は相次ぎ離脱。近衛も意欲を失う。最終的には「大政翼賛会」は内務省の補助機関に転落する。
15年11月、企画院より「経済新体制確立要項」が提出される。これはより強力な戦時統制経済の確立を目指した内容。企画院原案では、
・企業の公共化
・「指導者原理」にもとずく統制機構の確立・資本と経営との分離
・利潤の制限
などが盛り込まれていた。これに対し自主統制を主張する財界が猛反発。右翼・内務官僚たちもこれに同調。この案をアカ思想の産物として激しく攻撃。近衛内閣内でも小林商工相の反対もあり、結局、軍部が間に入って資本と経営の分離を削除した上で12月7日に閣議決定される。
このアカ攻撃は、この後内相に就任した平沼騏一郎(観念右翼)によってさらに強まり、翌年4月の「企画院事件」につながる。これは企画院原案に関与した革新官僚を、共産主義者だとねつ造して治安維持法違反容疑で検挙された事件。これにより企画院も力を失い軍部の御用団体と化す。
「下意上達」だったスローガンも国体に背くとして「下情上通」に改められた。結局、新体制運動は目標だった強力な政治体制を作ることに失敗、ましてや軍を統制する力を持つことは出来なかった。しかもこれに対する国民の期待を利用して政党・労働組合などを自主的に解散させ、国民を完全に政治統制下に置く道を開いた形となった。
21.ABCD包囲陣
(昭和15〜16年 1940〜41年)
ノモンハン事件でソ連との交戦(北進論)いを諦めた陸軍内部には、戦略物資確保のため東南アジアに進出するという考え(南進論)が出てくる。すでに長引く中国との戦争で、日本の戦略物資のストックはほとんど底をついている。石油・ゴム・スズ・鉄などの戦略物資は日本ではほとんど産出しない。しかし欧米の植民地である、マレー半島・インドネシアではこれらは豊富に産出する。早い話、南進論とはヨーロッパで戦争をしているうちに、欧米の植民地であった東南アジアの資源地帯を奪ってしまう、という火事場泥棒的考え。これでは植民地宗主国のアメリカ・イギリス・オランダとの衝突は必至。
昭和15年7月26日、アメリカは石油・屑鉄を輸出許可制とする。7月31日には航空機ガソリンの西半球以外への輸出禁止。アメリカの対日経済制裁が始まる。
折しも松岡洋右外相の活躍で9月27日、「日独伊三国同盟」調印。これに先立ち、9月23日、日本軍は北部仏印に進駐。(仏印は今のベトナム。当時ドイツに占領されたフランスの植民地で、フランスのドイツ傀儡政権の許可を受ける形で進駐)。これに対してアメリカは、太平洋の平和を乱すとして激しく日本を非難。
昭和16年4月14日には「日ソ中立条約」締結。しかしこの後、松岡洋右は対米交渉を巡って近衛と対立。7月16日には内閣総辞職。結局、外相・蔵相が交代しただけの第3次近衛内閣成立。
この間、6月22日、ヨーロッパで独ソ戦が始まる。背後に憂いの無くなった日本軍は南部仏印に進駐を計画。この報復措置としてアメリカは7月25日、在米日本資産凍結処置。7月28日、日本軍南部仏印に進駐開始。アメリカはさらに8月1日、対日石油輸出完全停止措置。イギリス・オランダもアメリカの動きに同調。対日資産の凍結を発表。イギリスは日英通商条約の破棄を通告。オランダも日本資産の凍結と石油協定の停止を発表。俗に言う「ABCD包囲陣」(アメリカAmerica ・イギリス Britain・中国 China・オランダ Dutch)による対日経済制裁包囲網が完成する。
当時の日本の貿易は、アメリカに生糸・絹織物、中国とイギリス植民地(マレー半島・インド等のアジア植民地)に繊維製品・雑貨等を輸出し、その外貨をもとに、綿花をアメリカ・中国、石油をアメリカ・蘭印(オランダ植民地のインドネシア)、鉱石類を中国・イギリス植民地、機械・化学工業製品をアメリカ・欧州から輸入していた。昭和14年における対米英圏(イギリス本土をのぞく)貿易は貿易総額の43.9%(輸出34.8%、輸入55.8%)を占めている。
すでにこの時点に至までに、日中戦争による予想外の物資消耗のため、巨額の貿易赤字が発生し、ストックも底をついている。このため対日経済制裁は、日本経済のアキレス腱を切る形になった。これにより日中戦争の継続すら困難になる。すなわち日本経済は歩行すら困難な状態に陥ったのである。
ここにいたり、対英米戦に消極的だった海軍までも主戦論者が主流になる。海軍では、艦船・航空機の運用のため、石油・鉄鋼等の戦略物資の重要度が陸軍よりも遙かに高かった。以降、永野修身海軍軍令部総長の昭和天皇への説明より。
「戦争は出来る限り避けるべきでありますが、三国同盟がある以上は、日本とアメリカの関係を調整することは不可能であると存じます。日本には、今2年分の石油しかありません。戦争になれば、1年半で消費してしまうと思われますので、この際,打って出るしかない、と考えます。」
その他、昭和16年1月8日、東条陸軍大臣名で「戦陣訓」が出る。内容は、本訓その一、皇国・皇軍・軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念。本訓その二、敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率先躬行・責任・生死観・名を惜しむ・質実剛健・清廉潔白。本訓その三、戦陣の戒め・戦陣の嗜み、となっている。特に「名を惜しむ」の中の、
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」
の部分が有名。京都師団の石原莞爾はこれ読んで、「バカバカしい。東条は思い上がっている」と批判。東条は大いに怒り、石原は3月に予備役に編入された。
昭和16年4月、政府は日本銀行法を改定。日銀券の正貨準備発行と保証準備発行の区別を廃止。大蔵大臣の決めた限度額(当時、47億円)まで発券出来ることにした。これで金準備から解放されて、日銀券は完全な管理通貨となり、政府の思うままに発券できることになった。
22.開戦
(昭和16年 1941年)
この頃、中国問題・仏印進駐問題を巡り日米交渉が続けられていた。何とかアメリカとの戦争を避けたい近衛首相、昭和16年8月、ルーズベルト大統領とのホノルルでの日米首脳会談を提案。昭和天皇もこれに賛成し会談の準備が進めれる。
しかしアメリカ側のルーズベルト大統領と交渉担当のハル国務長官は、既に近衛では軍部を押さえられない、戦争は避けられないと判断、すでに腹を決めていた。このため交渉条件には日本軍の中国・仏印からの即時撤兵という、日本政府に対して極めて厳しい要求が出る。
この要求に対して、東条陸相が強行に反対。中国からの撤兵は、戦死した将兵の霊に対して申し訳が立たないというわけ。軍部を押さえきれない近衛首相がこの要求を呑めるはずもなく、ルーズベルトとの会談も流れる。10月16日、近衛はこれに絶望して内閣総辞職。
この時に近衛は鈴木貞一企画院総裁に、「頭を丸めて坊主になりたい心境だ」と言ったほど。天皇に提出した近衛の辞表も、東条陸相があまりに強硬ななため、首相の役を果たすことが出来なくなった、と書いたかなり型破りなもの。(普通は、こういう場合の辞表は、形式的なものが慣例)この辞表は陸軍情報局が圧力を掛け、国民に発表されることは無かった。
次の首相を決める重臣会議が開かれるが、陸軍を押さえきれる人選は難しく、結局、東条英機が現役陸軍中将(首相就任後、大将に昇進)のまま、首相・陸相・内相を兼ねる異例の内閣が誕生。陸軍を押さえきれるのは東条しかいないと判断されたため。アメリカと戦争するか、和平に持って行くかの決断を迫られ、アメリカとの交渉が続けられる。しかしアメリカ側では、強行派の東条が首相になったことで、日本は対英米戦戦争を決断した、と捉えられた。
この頃、各関係組織では対英米戦になった場合の予想が立てられている。
・ 企画院総裁、鈴木貞一(第三次近衛内閣国務大臣兼任・予備役陸軍中将)の御前会議(9月6日)での発言。
英米の経済断行によって、
「帝国の国力は日一日と其の弾撥力を弱化して参ることとなる」
また武力行使をした場合には、
「我が国の生産力は一時総じて現生産力の半ば程度に低下することが予想される。」
・ 企画院事務当局、物動総務班作成、対英米戦時の経済予測(9月作成、17〜18年の物的国力規模の測定)
この戦争を戦うためには、海上輸送力、すなわち船腹問題がカギであると言うことになったが、結局、
「開戦の日から半年くらいまでは国力は低下を見るが、その後は上昇する」
とかなり楽観的結論。これには4月の「企画院事件」の影響大。悲観論では反戦主義者の烙印が押され、逮捕されかねない。
・ 陸軍、佐藤賢了軍務課長のアメリカ研究
アメリカの鉄鋼生産量は日本の10倍強。石油に至っては70倍。人口は2倍。しかしこうした数字を並べた後で、
「数字の比較だけではありません。アメリカは多民族の寄せ集めで、愛国心なんて持っていません。兵隊もダンスはうまいが、鉄砲は下手です。それに皇軍には、比類無き志気がありますから」
・ 海軍作戦部長、福留繁の陸・海両軍局部長合同会議(9月6日)での発言。
「アメリカとの戦争になれば、海軍は南方作戦に自身はない。1年目に船舶は140万トンが撃沈されるだろう。連合艦隊では、図上演習をしてみたが、3年目には、民需用の船は1隻も無くなってしまうという結論が出た」
・ 海軍連合艦隊司令、山本五十六長官の艦隊司令官会合(9月末)での発言。
「日米戦は長期戦にとなることは明らかです。日本が有利に戦いを進めても、アメリカは戦いをやめることはない。そうなれば戦争は数年になり、資材は使い尽くされ、艦隊や兵器は傷つき、補充は大いに困難となり、ついにはアメリカに対抗し得なくなる」
・ 海軍軍令部総長、永野修身の政府と統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の連絡会議(10月24日〜30日)での発言。
「根本問題として言うなら、日本としては、対米戦争をするには、今がその機会である。これを逃したならば、開戦の機は二度と我々のものとはならない、戦って勝てるのは、今しかない。戦機は後には来ない。」(彼は運命論者だったらしい。)
11月5日、「帝国国策遂行要領」が御前会議にて承認される。内容は、
一、 武力発動の時期は12月初頭。
二、 対米交渉は別紙要領により行う。(11月30日を期限に対米交渉は続ける。これが成立すれば武力発動は中止。日本軍は直ちに南部仏印から撤退する)
三、 ドイツ・イタリアとの提携強化。
四、 武力発動の前にタイ国との間に軍事協力関係を作る。
この席で鈴木企画院総裁(東条内閣でも留任)は物的国力について次のような内容の発言をしている。
「対英米戦の場合は、長期戦の性格を有するため、戦争の遂行に必要な国力の維持はなかなか容易なことではない。しかし座して相手の圧迫を待つことに比べれば、国力の保持上有利であると確信する。」
11月26日、アメリカ側より新しい提案が出る。これがいわゆる「ハル・ノート」。この提案でのアメリカ側の、日本側に対する要求は、
一、 日本軍の兵力及び警察力を中国(ただし満州はのぞく)と仏印から撤退すること。
二、 重慶政府(中国国民党政府)以外の支援をやめること。
三、 中国における治外法権を放棄すること。
四、 アメリカ・中国・イギリス・オランダ・タイ・ソ連との間に多角的不可侵条約を結ぶこと。
五、 在日アメリカ資産の凍結を解除すること。
六、 日独伊三国同盟は、太平洋全域については適用されない、と声明すること。
これで日米交渉は完全に決裂。
12月1日、御前会議にて対米英蘭開戦決定の聖断が下る。
12月8日、日本軍、マレー半島に上陸。連合艦隊がハワイ真珠湾を奇襲攻撃。対米英蘭に宣戦布告。
この報を聞いた、石原莞爾はこう語ったという、
「負けますな。だいいち鉄砲玉がありません。」
開戦の年、昭和16年ににおける重要戦略物資の生産力の、アメリカとの差は実に77.9対1である。またこの年の国家財政は、一般会計支出81億円、臨時軍事支出94億円、公債発行額は87億円(そのほとんどが日銀引き受けによる発行)、公債未償還額の累積は373億円に達していた。
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とまあ、以上がわたしがまとめた太平洋戦争肯定論者のいうところの、
「運命に導かれるように日本と米国は開戦に至った。」
て、やつの運命の軌跡であります。
「運命の出会いとは一方的なものである」
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