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海外勢が試す安倍“安定”政権の本気度株価が揺さぶる円相場に透ける投機色 2013年8月6日(火) 深谷 幸司 参議院選挙は与党圧勝に終わった。しかし、株価はそれを好感して上昇するわけでもなく、むしろ調整を続けている。円相場も同様に円安・ドル高傾向に陰りが見え、1ドル=100円の節目を前に底堅い展開。これに対する市場の解釈は様々だ。 第1説は、「選挙前から与党の圧勝は予想されており、選挙結果にサプライズはなく、市場は無反応なのだ」との見方。確かに「アベノミクス」をはやして上昇してきた株価だが、すでにその「神通力」も剥落している。特に選挙前の動向に限れば、与党圧勝を予想し、その期待で株価が持ち直していたわけではないので、選挙後に「材料出尽くし」によって株価が下落・低迷する理由にはならない。 第2説は、「自民党圧勝により安倍晋三首相の関心が経済から憲法改正問題にシフトするのではないか」「経済政策推進の勢いが鈍るのではないか」という見方だ。つまり、「『第3の矢』がうやむやになるのではないか」という懸念だ。あるいは、既に発表された「成長戦略」の柱も、何だかピンとこない細かな戦術的政策にとどまっていることから、「もはや何も出てこないのではないか」との懸念すら高まっている。これは確かに株価の抑制要因かもしれない。 3つ目の説として、消費税増税に対するスタンスを挙げる見方もある。消費税増税については、短期的な視点と長期的な視点で、株価に与える影響が逆になる。短期的な視点とはストレートな見方で、「増税が景気抑制・株価調整要因となる」わけだ。一方、長期的な視点からは、「これだけ自民が圧勝してイニシアチブをとったにもかかわらず、消費増税を今、決断できないのであれば、いつやれるのだ」という財政規律の問題、あるいは政治に対する信認の問題である。確かに「第2の矢」は「柔軟な財政政策」ではあるが、景気も上向き、与党が過半となっても決められないとなると、もはや、問題先送りというしかない。こちらはむしろ不透明感、あるいは政権・政策の迷走リスクということになろうか。 株価に引きずられる円相場 こうした日本株の動向に引きずられているのが円相場だ。本来は企業部門全体の収益、そしてマクロ経済を左右する円相場の動向が株価を左右してしかるべきだ。実際、昨年秋以降は、円安を受けて日経平均株価は上昇し、あるいは円高を受けて下落していた。「円相場から株価へ」というのが通常の値動きの波及経路であり、両者に高い相関をもたらしていた。しかしここにきて、影響を及ぼす方向が逆になってきた感がある。すなわち日経平均の下落を見て円が買い戻され、あるいは上昇により円が売られ円安・ドル高となっている。 図1:日経平均株価と円の対ドル相場との相関 そうした動きを生み出しているのが、国内外の投機筋の動向だ。両者の相関が高い理由は、「卵とニワトリ」のようなものだ。その相関の高さのゆえに、日本株買いと円売りのポジションが「同一方向性リスク」として認識され、ヘッジファンドは収益を極大化するために2種類のポジションを同時に保有し、増減するオペレーションを実施する。その結果、さらに相関が高くなる。 また、日本の個人投資家もそうした相関の形成に一役買っている。海外勢の動きによって生ずる為替動向に影響され、「株安→円高」「株高→円安」との連想の下、為替の売買を実施している。加えて、日本の個人投資家も株式投資を同時に行っているケースが多いため、そのリスクポジションは海外ヘッジファンドと同じ形となっている。そのため、株安となればリスクテイク能力が減少し、円売り・外貨買いのポジションを圧縮するインセンティブが働くことになる。 イベントや不透明要因に敏感な市場参加者 最近の株価や円相場の動向を見ていると、リスクイベントの前には必ずポジション整理に押されるようだ。株価が軟調になると、それまで積みあがっていた投機的な円売りが巻き戻され、円高気味となる。例えば、米国の雇用統計の数字が強いと予想されていても、結果としてそれが明らかになるまで、指標発表前には、むしろ手元のリスクポジションを圧縮する動きとなる。米連邦公開市場委員会(FOMC)に関しても、「現状維持」との見方が大勢であっても無理はしない。 おそらく、こうした傾向が強まったのは5月のバーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長による発言以降だろう。量的緩和の縮小スタンスを打ち出した後、投資家の多くがリスクテイクに慎重になっている面は否めない。経済指標は良好であり、企業業績も悪くないことからすれば、リスクを取れる局面は継続しており、株価は調整する余地が少ないはずだ。実際、米国株は底堅いが、量的緩和縮小により金融面での株価サポート要因が減少することに対する警戒感は残っており、これが上昇力を削いでいる。 FRBによる量的緩和の縮小そのものは米長期金利の上昇要因であり、金利面からはドルを支えてしかるべきだ。しかし、株価が伸び悩み、これが日本株にさらに波及して軟調となれば、円売りポジションの買い戻しにつながり、円高になり得る。 参院選直前の金曜日、日経平均は大きく下落した。冒頭に記したような解釈はあるが、とにかくポジションを落としておく、日本株の保有を減らしておく、という動きが背景にあったのではないだろうか。 アベノミクス再考のタイミング ここにきて海外勢は「アベノミクス」に対して、より客観的に評価を下すようになってきたようだ。当初の「過熱感」「高揚感」はそこにはない。そもそも「アベノミクス」とは何だったのか。「第1の矢・大胆な金融政策」は、安倍政権による「貢献」があったとはいえ、日銀が実施したものだ。政権が主たる責任をもって実施するのは残る2本の矢である。 「第2の矢・柔軟な財政政策」については、消費税増税が最大のポイントになる。繰り返しになるが、様々な議論を経て決めたスケジュールについて、責任をもって実行に移せるのかどうか、海外勢はそこを見ている。ここでさらに変更となれば、市場参加者、あるいは経済主体に対して、いたずらに不透明感をもたらすことになる。まずこの点が市場にとってはマイナスだろう。さらに、この状況で決められなければ、日本の政治に対する不信感が募ることとなろう。これは目先の景気動向を天秤にかけるような話ではない。折しも、欧州各国では厳しい財政緊縮政策の実施によって、政権と国民の間で緊張感が高まっている。米国では政府部門が一部窓口をシャットダウンするほどに、財政均衡に向けて厳しい議論がなされている。海外勢による日本の財政に対する信認はなお崩れていないが、それは消費税の低さから徴税余地が大きいというのが1つの理由だ。 そして「第3の矢・成長戦略」はどうか。すでに打ち出されてはいるが、第1の矢、第2の矢との整合性が取れているのかは疑問だ。毛利元就による「3本の矢」の話は「1本では折れても、3本束ねれば簡単には折れない」というもの。バラバラの3本では「3本の矢」とは言えない。予算をどこまで既得権益から解放し、聖域なく配分是正できるか。財政の健全化以前に効率性をどこまで追求できるのか。これが「2本目」と「3本目」の整合性だろう。そして「1本目」によるリフレ政策は、自動的に「2本目」の財政を税収面から助けるが、民間の得た資金やバランスシートの改善を実体経済にいかに回していくか、「3本目」につながる施策も必要だろう。 問われる「リフレ政策」の実効性 こうしたことは、一見、円相場とは関係ないようにみえる。確かに海外勢が円安シナリオに乗ったのは、もちろん日銀の異次元緩和・量的緩和が主な要因だ。投機的に円を売りやすい心象を与えたのだ。しかし、そればかりではなく、リフレ政策がうまくいくと信じたことも大きい。すなわち、「デフレ=通貨高」であり、「インフレ=通貨安」という購買力平価の考え方も手伝っている。安倍政権が参議院選挙を乗り切った今、海外勢は改めてその「リフレ政策」の実効性を再考しているのではないか。それが円相場の流れが小休止している1つの要因と見られる。 もちろん、円相場は日本の要因(円高や円安)のみならず、米国の要因(ドル高やドル安)でも変動する。米国では、景気が緩やかに拡大するなか、量的緩和の縮小が景気拡大を維持しながら実施されるかどうかがポイントだ。それが実際にうまくいくかどうかは時間を経なければわからない。現状はその見極めに入っているとも言えよう。市場参加者の見方を反映するのが株価と長期金利の動向。先日の雇用統計は市場予想を下回り、なお強気一辺倒というわけにはいかないが、大きな流れとして株高・長期金利上昇が緩やかに進むのなら、米国経済およびドルに対する信認は一段と高まっていると判断できる。 このコラムについて 深谷幸司の為替で斬る! グローバルトレンド 円安進行の加速が目立つ為替相場。1ドル=100円を超え、さらに円安は進むかどうか、市場関係者にとどまらず、企業、そして国民の注目が集まっている。今後の円相場の行方は?また日本、さらには世界の経済はどう動いていくのか?国内外の銀行で為替ストラテジストを長らく務めてきた深谷幸司・FPG証券社長が、各国通貨のパワーバランスに垣間見えるグローバル経済の胎動をとらえたホットな話題を提供する。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130801/251813/?ST=print
日本は「一人当たりストック」では世界一 「包括的富」でみる日本の強みと課題 2013年8月6日(火) 仁林 健 国の豊かさを測る指標の一つにGDP(国内総生産)があるが、よく知られているように日本はGDPランキングで既に中国に抜かれて第3位になっており、一人当たりGDPもトップクラスではなくなってしまっている。 一方、GDPのようなフローの指標に対し、昨年国連が発表した「包括的富」というストックの指標で見ると、日本は総額で米国に次いで2位、一人当たりは世界一となっている。 以下では、GDPの動向を見たうえで「包括的富」の指標を紹介し、日本の強みと課題を考えてみることにする。 GDPの地位は総額でも一人当たりでも低下傾向 まずは、IMF(国際通貨基金)の“World Economic Outlook Database April 2013”(以下“WEO”)を用いてGDPの国際比較データを確認しておく。GDPの国際比較にあたっては、名目為替レートでドル換算する場合と購買力平価(PPP)で換算する場合とがある。購買力平価とは、為替レートが自国通貨と外国通貨の購買力の比率によって決まるという購買力平価説を元に算出されたもので、実質的な所得水準を測定できると言われている。 まず名目為替レートベースのGDPをみると、日本は長年米国に次ぐ2位であったが、1981年時点では15位だった中国が高度成長に伴い、着実に順位を上げ、2008年についに日本は中国に抜かれ3位となった。WEOの予測では、2018年のGDPは中国の14.9兆ドルに対し日本は5.9兆ドルと、3倍近い差がつく見通しとなっている。 次に購買力平価ベースGDPのシェアの推移をグラフで確認してみる。購買力平価ベースの場合、中国は2002年の時点で日本を抜いており、2018年には米国(シェア17.7%)も抜いて第1位の経済大国(19.0%)になるとの予測結果になっている。またインドは2012年に日本を抜いて3位になっており、2018年のシェアは6.5%と日本の4.7%を大きく上回ると予測されている。見方を変えれば、2018年の日本の経済規模は、中国の4分の1程度、インドの7割程度と予測されている。 図1 購買力平価ベースのGDPのシェアの推移 (出典)IMF “World Economic Outlook Database April 2013” ただ、人口が日本の10倍の中国、日本の9倍のインドがGDP総額で日本を上回ること自体はある意味当然なので、人口で割った一人当たりGDPの日本の順位を見てみよう。 まず名目為替レートベースでみると、1980年代半ばから2000年代初めまではトップ5、悪くともトップ10には入っていた日本は、その後順位を下げ、2011年時点で17位となっている。購買力平価ベースでみるとさらに順位は低く、1991年の8位が最高、足元では24位前後で推移している。 なお、6月に閣議決定された「日本再興戦略」では一人当たりGNIが目標として掲げられているが、国連のデータで一人当たりGNIの順位を見ても、GDPとほぼ同様の傾向であり、2011年の日本の順位は22位である。 図2 一人当たりGDPランキングにおける日本の順位の推移 (出典)IMF “World Economic Outlook Database April 2013” アジアが地域別購買力の主役に このように一人当たりGDPの低迷が続いている日本だが、悪い材料ばかりではない。総額で規模が大きい中国はもちろん、一人当たりGDPが伸びている国にはシンガポール、台湾などアジアの国や地域も多く、これらの国の内需を取り込めれば日本の活路になりうるからである。 そこで、WEOのデータを用いて、日本以外の世界のGDP(購買力平価ベース)に占めるアジアの地位を検証してみる。 図3:日本以外の世界のGDP(購買力平価ベース)に占める各地域の割合(注1) 1981 1991 2001 2011 2018(予測) 先進国 64% 62% 56% 44% 39% アジア 13% 19% 23% 33% 40% その他 23% 19% 21% 22% 21% (出典)IMF “World Economic Outlook Database April 2013” (注1)ここで「先進国」はWEOの“Advanced economies”を、「アジア」は“Developing Asia”と“ASEAN-5”をベースとしている。但しWEOで“Advanced economies”に含まれている韓国、シンガポール、台湾は「アジア」に含めている。また“Advanced economies”から日本は除いている。 これで見ると、1981年時点で13%しかなかったアジアのシェアが2011年には33%まで拡大しており、2018年には先進国を上回る見通しであることが分かる。このようなアジアの成長を日本の成長につなげていくことが必要と言える。 「包括的な富」で見る日本経済の強み これまではGDPで見た日本経済の地位が低下していることを確認してきた。一方、英エコノミストで昨年「国連の報告によるストックで判断すると日本は一番豊か」とする記事が掲載され、話題となった。この報告書とは国連大学(UNU)と国連環境計画(UNEP)が昨年合同でまとめた「包括的な富に関する報告書(The Inclusive Wealth Report 2012)」である。この報告書は昨年6月にブラジルで開催された「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」にあわせて初めて発表されたもので、今後2年ごとに更新されることとなっている。 「包括的な富」とは、報告書の副題に“Measuring progress toward sustainability”とあることから分かるように、持続可能性の視点から生産の基礎となる資産(production base)を捉えるものである。具体的には、従来から計測されてきた生産資本(道路、建物、機械など)に加え、人的資本(労働、教育水準など)、自然資本(森林、原油、鉱物資源など)を測定し分析(対象は20カ国)している(注2)。 (注2)報告書では社会資本(ネットワーク、信頼など)の計測も望ましいとされているが、データ制約から対象外であり、2年後の報告書では社会資本に焦点を当てることとされている。 まず包括的な富の総額は以下の表のとおりである。 図4:包括的な富(総額)とその内訳(上位5カ国) (単位:兆ドル) 米国 日本 中国 ドイツ 英国 包括的な富(2008年) 117.8 55.1 20.0 19.5 13.4 伸び率(年率) (1990年-2008年) (0.7%) (0.9%) (2.1%) (1.8%) (0.9%) 生産資本 22.3 15.0 6.2 4.9 1.5 人的資本 88.9 39.5 8.7 13.4 11.8 自然資本 6.6 0.6 5.1 1.2 0.1 次いで一人あたりで見た包括的な富は以下のとおりである。 図5:包括的な富(一人当たり)とその内訳(上位5カ国) (単位:ドル) 日本 米国 カナダ ノルウェー 豪州 (参考) 中国 包括的な富(2008年) 435,466 386,351 331,919 327,621 283,810 15,027 伸び率(年率) (1990年-2008年) (0.8%) (0.7%) (0.4%) (0.6%) (0.1%) (2.1%) 生産資本 118,193 73,243 56,520 90,274 66,970 4,637 人的資本 312,394 291,397 171,960 201,361 132,376 6,571 自然資本 4,879 21,711 103,439 35,986 84,463 3,819 これらの表を見ると明らかなことが2点ある。第1に、GDPでは世界における地位の低下がみられた日本が、ストックで見ると総額では米国に次いで第2位、一人当たりでは第1位であること、第2に、日本は(容易に想像できるように)自然資本は極めて乏しいものの、人的資本や生産資本がどの国よりも豊富であること、である。 日本の人的資本や生産資本がこれほど高いのはなぜだろうか。報告書では原データや詳細な推計過程は必ずしも十分に示されていないが、報告書が引用している参考文献も参照しつつ要因を整理する(注3)。 (注3)報告書で紹介されている推計式を補論で紹介する。 まず人的資本については、以下のプロセスで推計されている。 (a) 教育水準から雇用者単位人的資本を算出。 (b) 人口統計から15歳以上人口を算出。 (c) 雇用者報酬や死亡率、平均余命により人的資本の金額価値を算出。 (d) (a)×(b)×(c)により人的資本を金銭換算。 原データで見ると、まず(a)の教育水準は13位程度(注4)、(b)の15歳以上人口は7位程度である(注5)。ただ前者の上位国は1位の米国を除きノルウェーなどの小国が多い一方、後者の上位国は中国やインドといった途上国であり、両方で上位に入っているのは米国と日本のみである。 また(c)の金額価値は、国連の担当者によれば日本は米国を上回る高い水準で推移している。こうしたことが、米国と日本の人的資本総額が他の国に比べ抜きんでて大きくなった背景にあるものと思われる。 なお、(b)で15歳以上のすべての人口が使われていることには留意が必要である。労働力人口(就業者と完全失業者の計)か非労働力人口(労働力人口以外)かを問わないため、例えば就業していない高齢者もカウントされることとなる。この点では、高齢化が進んでいる日本の人的資本が高めに算出されている可能性がある。 (注4)報告書で使用されているハーバード大学のバロー教授らによるデータによる。 (注5)国連データによる。 他方、一人当たり人的資本は、上記のように15歳以上人口に基づき求められる人的資本総額を(15歳未満人口を含む)総人口で除して求めるため、少子化が進んでいる日本では相対的に分母が小さくなり、米国を上回ったものと考えられる。 次に生産資本については、一定の仮定(補論参照)で初期状態(1970年)のストックを求めたうえで、恒久棚卸法と呼ばれる手法に基づき毎年の投資額(国民経済計算の「総固定資本形成(民間住宅、民間企業設備、公的固定資本形成の計)」)および減耗率からストックを求めている。このような手法で推計を行う場合、投資額が大きければ大きいほどストックが大きくなる。原データを見ると、投資額は足元では米国の半分程度であるものの、1990年代には米国を上回る水準であった。こうしたことが生産資本の大きさにつながったものと考えられる。 このように、「包括的な富」は、「資源の乏しい日本は以前より高い教育水準と労働力、旺盛な設備投資で成長を実現させてきており、世界有数の豊かな国である」という、日本人のイメージする日本の強みを客観的な指標で示したものであり、極めて意義深いものであると言える。 ただし、こうした強みを将来にわたって維持できるかは別問題である。まず人的資本については、今後15歳以上人口の減少が見込まれており、大学進学率の上昇など教育水準のさらなる向上に取り組むとともに、所得水準を押し上げ人的資本の金額価値を高めることが重要となると思われる。 また生産資本については、日本の投資額は直近ではピーク時の65%程度(米国と比較すると半分程度)まで落ち込んでおり、今後日本国内の投資が増えなければ強さが維持できない可能性がある。「日本再興戦略」では人材力の強化や民間投資の活性化を目指すこととされており、具体的な施策の検討が重要である。 まとめと今後の政策的含意 ここまでの議論をまとめると以下の通りである。 ・GDPでみると総額でも一人当たりでも日本の地位は低下傾向。 ・アジア諸国のGDPシェアが上がっており、アジアの成長を取り込むことで日本の成長につなげられる可能性。 ・GDPのフロー指標とは対照的に、ストック指標で見ると日本は総額では第2位、一人当たりでは第1位。特に人的資本、生産資本の豊富さが日本の強み。ただし、強みを維持するためには教育の充実や投資の拡大が必要。 問題は、人的資本、生産資本の豊富さという日本の強みをいかにフローの所得という形でのリターンにつなげるかであるが、私論を述べれば以下の通りである。 第1に生産性の大幅な向上が必要である。日本の生産性は特にGDPの約7割を占めるサービス業で低く、ストックの豊かさが成長につながっていない。「日本再興戦略」の目標である「2%以上の労働生産性の向上を実現する活力ある経済」を目指すべきである。 第2に、女性や高齢者など多様な人材が活躍できる社会を目指すべきである。前述のとおり「包括的な富」における人的資本の推計は人材の量に基づいて行われており、人材が活用されていなければせっかくの資産が成長につながらない。 最後に、成長を国民の所得拡大に結び付けるような施策が重要である。「日本再興戦略」では「成長の果実の国民の暮らしへの反映」が必要とされている。今後はこうした視点での具体的な政策が求められる。 補論 各種資産の推計方法 総括的富は、人的資本、生産資本、自然資本それぞれについて、ストックを推計しシャドープライス(金額価値)で評価したものを合計すること、すなわち、 により求められる。以下では特に人的資本と生産資本の推計方法について述べる。 人的資本 雇用者単位人的資本は、教育投資が利子率相当のリターンを生み出すという仮定のもと、以下のような教育達成度(educational attainment)と利子率の関数として定義される。 h:雇用者単位人的資本、ρ:利子率(8.5%で一定)、A:教育達成度(教育年数) また人的資本の総数は、雇用者単位人的資本に15歳以上人口を乗じることにより求める。 P:15歳以上人口 一方、人的資本のシャドープライスは、雇用者が残りの人生で得られる所得、すなわち以下の式により求められる。 r:雇用者一人当たりの労働報酬、δ:割引率(8.5%で一定)、T:雇用者の生涯労働期間 この労働期間Tは、年齢・性別の人口指標(人口数や死亡率)や労働市場指標(労働参加率等)によって決定される。 生産資本 生産資本の推計には恒久棚卸法が用いられている。初期値(1970年)においては経済が定常状態にあるため資本産出比率が一定であるという仮定のもと、次の式により資本産出比率が求められる。 k:資本産出比率、I:投資、y:GDP、δ:減耗率(7%で一定)、γ:定常状態における対象国と世界の成長率の加重平均、n:人口伸び率 これに対象国のGDPを乗じることによって、生産資本の初期値が求められる。次年度以降の生産資本は以下の式により求められる。 初期値の推計誤差の影響を少なくするため、時間とともに資本が減耗し初期値のストックは1990年時点で22%、2008年時点で5%しか残存しないという仮定を置いている。 (本コラムの内容は筆者個人の見解に基づいており、内閣府の見解を示すものではありません) このコラムについて 若手官庁エコノミストが読む経済指標 内閣府の若手エコノミストがさまざまな経済指標を読み解き、日本経済や日本経済を取り巻く状況について分かりやすく分析する。多くの指標を精緻に読み解くことで、通り一遍の指標やデータだけでは見えてこない、経済の姿が見えてくる。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130730/251727/?ST=print
「どうすれば成功をつかめますか?」という学生たの質問に答えよう ビジネススクールでは教えてくれない成功哲学(7) 2013年8月6日(火) リチャード・ブランソン 成功とは人生全般から感じ取るものだ ヴァージン・グループ総帥リチャード・ブランソンの最新刊『ライク・ア・ヴァージン』のサブタイトルは「ビジネススクールでは教えてくれない成功哲学」だ。私はこの本を読み終えて、そもそも成功とは何なのかをあらためて考えた。 ブランソン氏は、起業家として成功するためには、「他人の評価を仰ぐことはやめて、自分にとって成功とは何かを考えよう。個人的なこと、たとえば家族や私生活に関する望みを考えてみると、ビジョンがはっきりしてくるかもしれない」とアドバイスし、やはりここでも、ビジネスでの成功と人生における幸せに矛盾があってはいけないと語っている。 そのように考えると、本質的に成功とは人生全般から感じ取るものであって、ビジネスのみから、ましてやビジネススクールで教えてもらえるようなものではない。ビジネスの型は教えられるかもしれないが、人生は学校の授業では教えられない。後悔のないように楽しい人生を謳歌するにはどうしたらいいか、その目標のもとでビジネスにどう取り組めばいいか、ブランソンは訴えかけていると感じた。 最新刊『ライク・ア・ヴァージン』でも、ブランソンにとって成功とは何かが語られている。(解説 パーク・コーポレーション代表取締役 井上英明氏) 「どうすれば成功をつかめるのか?」の質問に答えよう (リチャード・ブランソン著『ライク・ア・ヴァージン』より) ぼくのところにはアドバイスを求めるメールが山のようにくるが、特に多いのが大学生からだ。たいていビジネスリーダーや経営者を目指す学生で、「今すぐ旅に出て、世界を見てきたほうがいいですか?」といったものから、一番稼げる方法は何か、実業の道は自分に向いているだろうか、といったことまでさまざまだ。中でも最も多いのは「成功」に関するものだ。どうすれば成功をつかめるのか、選んだ分野で成功を収めるにはどうしたらよいのか、といった具合に。 リチャード・ブランソン氏(写真:©Bloomberg via Getty Images) だれかの具体的な質問に答えるより、ここではその根底にある問題を考えてみたい。そもそも「成功」とは何か、と。
まず、どのような道を選ぼうと、成功はあなた自身がやっていて楽しいこと、そしてあなたの能力や才能を伸ばすことと密接に関わっている。起業家の道を選ぼうとしているなら、一流の起業家の多くは柔軟で、心が広いことを知っておいてほしい。顧客の立場でモノを考えることができる。そして同僚や部下だけでなく、自分の会社の事業によって影響を受けるすべての人に共感することができる。ビジネスの神様は、問題や不公平な状況を目にしたとき、それについて何かしようとする人間に微笑む。これはあなたに当てはまるだろうか? 自分自身の強みや弱みを評価するのは難しい。まだメンターがいないなら、あなたが参入しようとしている業界で経験豊富な人に連絡を取ってみるのがいい。職能団体に相談すると、あなたにとって最良の選択肢を考えるのに手を貸してくれそうな人を紹介してくれるかもしれない。優れたメンターは、必ずしも有名人である必要はない。自分はもちろん、ほかの人々を豊かにするような人生を送っている人ならそれでいい。あなたにとって大切な変化を生み出したビジネスリーダーと連絡を取ってみよう。 大学生の多くは、これまで成功したことも、能力を発揮したこともない分野で、自分を伸ばそうと懸命になっている。最近、ぼくは自分と同じ失読症の人に手紙を書いた。自分が得意なことで秀でようとすることが大切なんだ、と。自分の限界ばかりを見て、自信を失ってはいけない。それは脇に置いておこう。 他人の評価を仰ぐことはやめて、自分にとって成功とは何かを考えよう 学生時代というのは、むしろ自分の強みに集中すべきときだ。なぜなら起業家として成功するのに最も重要なのは、アイデアや傑出した部分だからだ。この場合の「傑出した部分」とは、賞をもらうとか、他人に評価されるといったことで測るものではない。この世界で自分に何ができるか、探求する中で自ら見いだすものだ。だから他人の評価を仰ぐことはやめて、自分にとって成功とは何かを考えよう。個人的なこと、たとえば家族や私生活に関する望みを考えてみると、ビジョンがはっきりしてくるかもしれない。 あなたの夢は、大金持ちになることだろうか? ビジネスの成功は、どれだけ利益をあげるかとは無関係だ。利益は新たなプロジェクトに投資したり、経費を支払ったり、投資家に資金を返したり、一生懸命働いてくれる社員に報いるためには必要なものだが、それ以上ではない。ビジネスにおいておカネは川の流れのようなものだ。川岸からあふれんばかりの奔流かと思えば、事業を継続するために投資が必要になり、あっという間に手元の現金が枯渇してしまったりする。 財産の多寡を語るのはアメリカ的 イギリスでは恥ずかしい 財産の多寡について語るのは、アメリカ的な傾向のような気がする。イギリスでは(カナダでもそうだと気づいた)カネの話をするのは少し恥ずかしい。それは良いことだと思う。パーティーで顔を合わせるのは生身の人間であって、その人の銀行残高がいくらであろうと関係ない。相手にもそう思っていてほしい。おカネに意味があるのは、それが何かをしたり、生み出したりするのに役立つからにほかならない。 おカネは成功の指標としてかなり不適切だが、有名かどうかはそれ以下だ。マスメディアは物事を単純化し、個人の手柄にしがちで、それは仕方がないことでもある。リポーターにとって、ウォーレン・バフェット、マーク・ザッカーバーグ、ビル・ゲイツ、ときにはリチャード・ブランソンのような有名人を主語にすると、話は簡単だ。だが現実には、こうした有名人の会社では、日々大勢の幹部が重要な決断を下している。ただメディアに出てこないだけだ。 おカネも知名度も成功の指標にならないとすれば、影響力はどうだろう? ぼくは「ヴァージン」ブランドの構築に40年以上の歳月を費やしてきたが、たとえ明日突然消えたとしても、経営陣はうまくやっていくだろう。スティーブ・ジョブズがいなくてもアップルは存続し、ビル・ゲイツが2008年にCEOを退任して以降もマイクロソフトが続いているのと同じように。 あなたが一番貢献できる方法は何かを考えよう ビジネスにおける成功の指標に最もふさわしいのは、あなたが心から誇りに思える何かを生み出したか、そして他の人々の人生に本物の変化をもたらしたかだ。ぼくが毎朝ベッドから起き出すのはまさにこのためだ。伝統ある巨大企業の経営者になろうと思ったことがないのも、また小さな企業を生み出し、育てるのに大きな喜びを感じるのも、このためだ。ヴァージンは起業家精神あふれる小さな会社≠ニいう出発点を忘れずにいることで、さまざまな分野で多くの人々のために好ましい変化を生み出してきた。 事業に積極的かつ具体的に関与するほど、成功を実感できるはずだ。ぼくは目下、地球の将来を守るための活動にどんどんのめり込んでいる。それで成功をつかめるかはわからないが、少なくとも幸せになれるのは確かだ。 どのようなキャリアを歩むべきかを選択するとき、またその後の人生でさまざまな選択をするときには、自分自身の目標だけを見つめ、ほかの人々の思惑に影響されないようにしよう。あなたの暮らすコミュニティーのニーズや、そこに自分が一番貢献できる方法は何かを考えよう。あなたはどんな変化を思い描いているだろうか。その実現に向けて動き出そう。ビジネスにおいても人生においても大切なのは、何かポジティブな行動を起こすことだ。(翻訳=土方奈美) 『ライク・ア・ヴァージン ビジネススクールでは教えてくれない成功哲学』(日経BP社)
「給料泥棒は退職しろ?!」 働かない役職定年社員が招く負の連鎖 求められるのは自分の裁量で動く「自立心」 2013年8月6日(火) 河合 薫 頭では分かっていても、心が言うことを聞かないことがある。特に自分の“権威”とか、“立場”とか、自己評価を守りたいがために、「おいおい、それっておかしくないかい?」というような行動を取ってしまう危険性は、よほど心に余裕があるか、心の強い人でない限り、誰にでもあるはずだ。 役職定年という制度は、そんな人間の心に潜む、ブラックな部分を刺激しかねない制度なんじゃないだろうか。 役職定年制は、慣行による運用含め48%の企業が導入している(出所:厚生労働省「「平成21年賃金事情等総合調査(退職金、年金及び定年制事情調査)」)。改めて述べるまでもなく、取り入れている企業の多くは、組織の新陳代謝、人件費の増加の抑制などを目的とする。 また、今年度から改正高年齢者雇用安定法が施行されたこと。さらには、公益財団法人日本生産性本部が2012年11月に行った調査で、「仕事と賃金がミスマッチしている年齢層は、50歳代」と5割超の企業が回答したことなどを考えると、今後さらに制度を取り入れる企業が増えるだろう(出所:「第13回 日本的雇用・人事の変容に関する調査」)。 役職定年の経験者が語った“景色” ある年齢に達した途端、役職が解かれ、ヒラ社員となる。年下が上司になり、決裁権がすべて奪われ、賃金も下がる。 実際、その立場になるまでそこから見える景色は分からない。が、以前、役職定年を迎えた方にインタビューをさせていただいたときに、その“景色”を聞いてやるせない気持ちになった。 肩書がなくなった途端、180度態度を変える人。年下上司の見下す態度。30年以上、会社のために尽くした自分が、ただの“労働力”としか扱われないことに対する不満感。プライドがズタズタになり、周りがみんな敵に見えて、自分の存在意義が見えなくなるのだ、と。 自分ではどうにもコントロールできないほど感情が割れる、と話してくれた。 そこで今回は、「役職定年制と人間の心」について考えてみようと思う。 「私、会社で倒れちゃったんです。完全な過労です。3月末で、うちの部署で3人が役職定年になった。彼らがちっとも働いてくれないんで、その分をカバーしているうちに倒れてしまった。疲れているという自覚はありましたけど、自分でも驚いています」 200人ほどの中小企業に勤めるこの男性は、47歳。彼は3月末に係長から課長に昇進。一方、前任の課長は役職定年になり、部下となった。3月末まで同じ係長で横並びだったベテラン社員2人も役職定年を迎え、同じく彼の部下になったそうだ。 「役職定年になると、うちの会社では3割くらい賃金が下がるんです。だから、会社も彼らに遠慮して、無理な仕事をさせなくなる。でも、頭数は変わらないので、その分の仕事は誰かがやらなければならないわけです」 「しかも、役職定年になった人が、明らかに働かなくなった。完全に“余生状態”。『30年以上会社に尽くしてきたんだから、これからは楽をさせてもらうよ』なんて堂々と言う人もいて。締め切りがある仕事が終わっていなくても、平気で放り出して定時になるとさっさと帰ってしまうんです。毎回、それをやられるとこちらも困るので、『締め切りは守ってください。もし、間に合いそうにない時には、早めにSOSを出してください』とお願いしました」 「すると返事だけはいいんです。『はい、分かりました』って。ところがまた締め切り当日に終わらせないまま帰宅をしたり、中にはそれを派遣さんに、『やっておいて』と頼んで帰ったり。これじゃ、まるで給料泥棒です。しかも、私が過労で倒れたときに、『マネジメント能力を彼につけさせるように、会社は教育した方がいい』と、上層部に言っていたそうです」 「確かに、自分の能力のなさなのかもしれないですけど、人のことをとやかく言う前に、とにかくもう少し働いてくれと言いたい。仕事の締め切りくらい守ってほしい。こんなことを思ってしまうのはイヤだし、年上の方に失礼かもしれませんけど………、さっさと退職してほしいです」 ベテラン社員の処遇は微妙な問題 この男性は、「30年以上会社に尽くしてきたんだから、これからは楽をさせてもらうよ」と堂々と言う人がいると言っていたが、実際、私もこれまで似たような言葉を役職定年になった方たちから聞いたことがあった。 ただ、それは決して「仕事をしない」という意味ではなく、責任を伴う役職を解かれて肩の荷が下りたというニュアンスだったり、出世競争からの解放感だったり。そんな安心感から放たれた言葉だったように思えた。 でも、それが自分の部下の発言だったら……、頭にくるでしょね。言葉の真意が何であれ、ネガティブにしか受け止められない。かくいう私も“上司の立場から見た部下の言葉”として、彼の話を聞いていたので、「年下上司を困らせたくて、わざと仕事をしなかったのかも」などと思ってしまった。 いずれにしても、前述の男性の悲鳴を上げていた身体が、数日間休みで回復したのはホントに良かった。不幸中の幸いだろう。 長年、組織で働いてきたベテランの社員たちに関する問題は、実に微妙である。ちょうど1年ほど前、「ベテラン社員が若手の横で社内清掃」という見出しの記事が報じられ、話題になった。私には、「清掃のお仕事の何が悪いのかわからなかった」し、それは職業に対する偏見だと思ったので、その偏見を問題にしたくて、このコラムで取り上げたことがあった(関連記事:「若手の隣でベテランが掃除?」 人を惑わすプライドの“正体”。 いつも通りというか、突っ込みどころ満載のコラムであるがゆえにこの記事にもたくさんのコメントがついたわけだが、その中に「そうなった人たちの気持ちが分かっていない」「触れてはいけない話題に触れた」という批判が散見された。 それほどまでに微妙な問題なのだと。ベテラン社員たちが、自分のそれまで培ってきた経験を発揮できないことの、悔しさがわかるのか、と。 私が伝えたかった真意はそれではなかったので、少々戸惑いもしたが、確かに、若輩者の私には到底分かり得ない、心の葛藤が存在する、ということだけは理解できた。「そんなモン、お前には分からんよ!」と言われてしまえばそれまでなのだが、少なくとも、ベテラン社員の方たちの処遇は、実に微妙な問題なのだということだけは十分に理解したつもりである。 で、今回は役職定年。再雇用とは違って、同じ仕事、同じ部署にいながら、ある日突然、ヒラになる制度。年齢という一律の線引きで、会社での自分の立場を半ば強制的に変えられてしまう制度だ。 一昔前であれば、関連子会社などにそれなりの立場で出向したり転籍したりできたが、最近はよほどの大企業で恵まれた人しか、出向などあり得ない。 心の中のブラックな部分を目覚めさせる負の連鎖 今までの部下が上司になり、同じ仕事をしているのに給料は減り、それまでは自分で決められていたことが決められなくなる。 たかが役職、されど役職。部長や課長といった社会的地位の高さは、人間の基本的な欲求(承認の欲求)を満たす手段となるため、個人の自尊感情を高める効果を持つ。その社会的地位が失われた時、人はどうにかして自己評価を保とうと心が動く。頭では分かっていても、心が揺れる。「仕方がない」という気持ちと、「今までは何だったんだ?」と相反する思いで感情が割れる。 しかも、人間というのは実におかしな存在で、自分の評価を保ちたいという衝動を隠すことがなかなかできない。その一方で、そんな自分を「恥ずかしい」と思う自分も心のどこかにいるため、どうにか正当化しようとする。 自分の存在を脅かす事態や人にあれやこれやと難癖をつけ、自分の権威と立場を守ろうとしたり。件の、「マネジメント能力を彼につけさせるように、会社は教育した方がいい」なんて意見にも、そんな心の動きが背後にあったのだろう。だって、もしそんなふうに思うのなら、マネジメント職から役職定年になった“アナタ”が、彼にマネジメント教育をこっそりしたっていいはずなのだ。 おまけに人間というものは、自分の行動を正当化すればするほど、心の中の「恥ずかしさ」が失せていく。いったんアウトした感情はドンドンと加速する。しまいには相手を批判することに快感を得るようになってくる。人を蹴落としたところで自己評価が上がるわけでも、何の意味もないにもかかわらず、だ。 人間の心に潜むブラックな部分を、目覚めさせてしまう面も持ち合わせる役職定年という制度の負の連鎖。それが巡り巡って、追い出し部屋とか、退職強要につながってしまうとしたならば、それは実に残念なことだと言うしかない。 だって、確かに役職定年制は、企業がコスト削減を目的とした制度なのかもしれないけれども、いい面も実際にあるわけで。それまでの“成果”や“結果を出す”というプレッシャーから解かれて、後輩の指導に徹したり、若い頃にはできなかったプラスアルファを加えたりして、ヒラの仕事に専念できれば、本人にとっても、企業にとっても、若い世代にとっても決して悪い制度ではないはずだ。 それに、役職定年という制度は、「会社が長年働いてくれた人たちがどうにか会社にいられるようにする手立てはないか?」と気遣い、同時に、やる気ある若い人たちの気持ちを汲み取った、働く人を思いやった制度という側面もあったんだったんじゃないだろうか。 多分、誰も悪者じゃないし、誰も悪いことをしようとしていないし、していなかった。ところが、人間の心の弱さ、悪なる部分が邪魔をしたからなのか? 投げられた“石”が、悪循環という名の坂を転落し始めてしまっているような気がしてならないのである。 モチベーションを再び高めようとする会社もあるが… その負の側面を払拭すべく、何とかして役職定年で失せたモチベーションを高められないかと、試行錯誤で取り組んでいる企業もある。 だが、いかなる取り組みも、当人たちの意識が変わらない限り機能しない。それはすなわち、いかに「自立」するか?ということでもある。 係長として、課長として、部長としての、羅針盤がなくなったときに、求められるのは、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の裁量で動く、自立心だ。 批判覚悟で厳しいことを言わせてもらえば、自立こそが、自分の評価を保つ最大の施策なんじゃないだろうか。 自分の足で立つ努力をしないことには、“自己保身”の病に侵される。「いらない人」リストに入れられるだけでなく、かつての部下や同僚たちからも、軽蔑されたり、煙たがられたりする存在になってしまっては、それこそ30年以上の努力が水の泡。いつの時代も、いくつになっても、キャリアマネジメントは自己責任だ。 先日亡くなった作家で精神科医のなだいなださんは、「現代の不安の多い社会では、一人ひとりが自立し、こころの自己教育をする必要がある」と常々語っていた。そんななだいなださんが、自立の必要性を感じたエピソードが実に面白い。 アルコール依存症の治療に長年関わってきたなださんのもとに、「東京大学の教授に診てもらった」と自慢する患者が来た。その患者に、なださんは、「それで」と促した。するとその患者は、「それでも治らなかった」と答えた。 そこで、「それじゃ、僕にも治せない。日本一の先生が治せなかったのだから、誰も治せない。覚悟を決めなさい。治らなかったら死ぬしかないでしょ。死ぬつもりなら、酒をいくらでも飲もうとあなたの勝手」と言い放った。 ところが、その患者はその日以来、ぴたりとお酒をやめた。 そこで半年たったころに、「日本一の東大教授に止められなかった酒が、なぜ止まった?」と聞いたそうだ。 するとその患者はこう答えた。 「先生のおかげです。この先生に頼っていても仕方がない。自分がしっかりしないとダメだと思ったんです」と。 人間には自分で立ち上がる力が潜んでいる つまり、人間には自分で立ち上がる力が潜んでいるのだと。その力を使って自立することができれば、いくつになっても人は成長し、不安社会を生き抜いていくことができるのだと。 なださんのこの話は、私の研究のベースになっている「首尾一貫感覚(sense of coherence)」に通じるものがあったので、とても腑に落ちるエピソードだった。 だが、人間誰しも強い心を持てるわけではないし、「自立したい」と願っても、それがなかなかできないのが人間でもある。 どんなに「自分がしっかりしないと」と思っても、アルコールを断ち切れた患者さんのようにできるわけではないし、「しっかりしなきゃ」という気持ちになかなかなれない人だっているんじゃないだろうか。 先日、社会人向けの特別講義を行ったのだが、そこに参加した人の中に、役職定年の人たちをたくさん抱える部長さんがいた。 講義が始まる前、その方は、「彼らには何も期待できない。とにかく時間だけ潰して給料もらおうって人だから。でも、会社はどうにかしろと言うから、会社のカネでとりあえずアリバイ作りに来ただけです」と、かなり後ろ向きの受講動機を話してくれた。 まぁ、いつも1人くらいはそういう人も必ずいるので、私的にはそういう人であっても、何かヒントになる話が1つくらいできればいいなぁくらいの気持ちで、いつも通りの講義をした。 ところが講義が終わった後、その方が駆け寄ってきて、私に深々と頭を下げた。 気持ちは分からなくても手助けはできる 「ありがとうございました。ホントにありがとうございました。河合さんの話を聞いて、自分に足りないものが分かりました。彼らが使いモノにならないのは、私にも原因があった。自分には愛が足りなかった。愛をもって、もう一度、彼らと向き合ってみたいと思います」と言ってくれたのだ。 愛……。言葉にすると少しばかり照れくさい言葉。役職定年の方たちに毎日関わっている人だからこそ紡ぐことができた、生きた言葉でもある。多分、他者からの“愛”があって、やっと人間は自立できるんだと思う。 相手の横に立って、険しい山があれば背中を押し、一人では飛び越せない川があれば、対岸から手を引っ張ることは、誰にでもできる。そんな周りの手ほどきが、転げ落ちる石をストップする力になる。 最後に、前回のタイトルは、一部の方たちから見える景色への配慮が欠けるものでした。私の愛が足りなかったことで、不快な思いをさせてしまった事実は大変申し訳なかったと思っています。本当にごめんなさい。 このコラムについて 河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学 |