07. 2013年7月31日 01:06:03
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>>01 従業員の承認欲求を満たすマインドコントロール・カルト型は生き残るか【第1回】 2013年7月31日 梅田カズヒコ [編集・ライター/プレスラボ代表取締役] なぜ「認められたい」に暴走する若者が増えたのか 「強迫観念にとらわれたかのようにメールの返信を急ぐ人」、「Twitterで他人のツイートをパクる人」、「ランチを一緒に食べる友達がいないと思われるのがイヤで、トイレでご飯を食べる人」、「せっかく一流企業に入ったのに辞めて、所得を減らしてでも自分らしい職場を探す人」……。 オジサンには一見不可解な現代の若者に特徴的なこれらの行動。こうした行動に駆り立てる原因を探っていくと、彼らの「認められたい」という思いに行きつくことが少なくない。現代において若者を悩ませる最大の問題は、経済的不安ではない。「認められない」という不安なのだ。この連載では、「承認」をキーワードに、特に若者の間で広がる現代社会の生きづらさの正体を考える。 オジサンたちの疑問 「なぜ若者はソーシャルゲームに夢中になるのか?」 「なぜ今の若者は有名企業をすぐに辞めるのか?」 「なぜ優秀な若者がNPOで働こうとするのか?」 「なぜ若者は何の報酬ももらえないのにSNSで発信するのか?」 「なぜ若者は友達がいないことを異様に気にするのか?」 「なぜ若者はソーシャルゲームに夢中になるのか?」 「なぜ若者はずーっとスマホをいじっているのか?」 今の若者について、“オジサン”と話をするとこういった話が出てくる。僕は“オジサン”と“若者”の中間地点に属する32歳。若者に対する不満や疑問は古代から脈々と受け継がれているが、僕もダイヤモンド・オンラインの連載「バブルさんとゆとりちゃん」のなかで“ゆとり世代”と呼ばれる若者の新たな価値観を、時に面白おかしく取り扱ってきた。その節は、若者にとって胸くその悪い記事になってしまい申し訳なかったが、よく考えると僕の世代も昔は「キレる17歳」、「自分探しをする前に就職しろよ」などとずいぶん揶揄されたものだ。そして現代の若者も、将来中年になった頃には、必ずその頃の若者の価値観に悩まされる時代がやってくる。 しかし、悩みを抱えるのは“オジサン”ばかりではない。若者の側も疑問や不安を抱えている。それは、「なぜこの社会はこんなにも生きづらいのか?」というものだ。とはいえ、若者が生きづらいのは今に始まったことではない。 僕は小さな会社を経営している。そこで社員募集をして、多くの若者に出会う。その他、さまざまな機会で若者と接する機会があるのだが、彼らと話すなかで、僕は現代の若者、いや若者に限らず現代人の行動原理がある原理に沿って動いているのではないかという仮説にたどり着いた。 若者の行動原理は、「認められたい」に終始するのではないか、という仮説だ。 “手に入れたい”バブル崩壊、価値観の多様化… 「承認不安時代」がはじまったワケ 皆さんは疑問に思うだろう。今に限らず昔から人々は、認められたくて行動しているのではないかと。確かにそうだ。それにもかかわらず、僕が今回あえて「認められたい」に注目するのは新たな価値観が生まれていると感じるからだ。理由は2つある。 1つ目は、現代では「何かを手に入れたい」という欲求が後退し、その矛先が大きく変わったという点だ。戦後、日本人は豊かになるため、欧米並みの文化的な暮らしやモノを手に入れるために頑張った。バブルがはじけてからはモノを所有することに変わって、心の平穏を手に入れるために右往左往した。「どこかにあるかもしれない本当の自分」を手に入れるために「自分探し」が盛んになった。 手にしたいものが、「カラーテレビ」(具体的)なのか「本当の自分」(抽象的)なのかという違いこそあれ、僕たちはずっと足りないものを手に入れようと努力してきた。ただ、僕たちは豊かになり、そのたびに欲求は高度になり、抽象的になった。今にして思うと、「手に入れたい」の最終形態が「本当の自分」だったのではないか。 そしていま、「手に入れたい」バブルははじけた。今、この日本に、本当に欲しいものがいくつあるだろう。努力してまで欲しいものなど本当に僅かしかないのだ。そして、「何かを手に入れたい」が後退し、代わりに「私自身を認めてほしい」という欲求が行動規範の中心になってきているのではないか。 2つ目は、「大きな物語の終焉」だ。要するに「良い学校を出て、良い会社に入り、適齢期に結婚をして、子どもを産み、女性は家庭に入り、男性は職場で働き、定年退職後は幸福な老後を送る」といった、一昔前まで“理想の暮らし”として社会で共有していたライフプランが機能しなくなったという点だ。 「絶対的な価値観」がなくなったことによって何が起こったか。僕らは、ある側面ではより自由になっている。例えば、“一生働いていたい”という意思を持つ女性にとって、1970年代と2010年代の日本はどちらが社会の抑圧を感じるかを比べれば一目瞭然である(もちろん女性の社会進出は2013年現在、本当に達成されているわけではないが、あくまで過去との対比だ)。 その一方、「絶対的な価値観」がないせいで、どのような行動を起こせば社会に認められるのか曖昧になっている。「新卒から定年まで一生同じ会社に勤め上げるのは本当に社会的価値のあることなのか」「愛が冷め切っても子どものために夫婦生活を無理矢理続けることは本当に正義なのか」。社会の共通認識が薄くなってきたことで、その本当の価値を判断できなくなっているのだ。 このような時代において何が行動規範になるか。それは「周囲の承認」である。僕たちは社会という大きな存在に縛られる必要はなくなったが、変わって「仲間」「周囲」「コミュニティ」の承認を得るために、気分を察知し、空気を読むことが必要になった。要するに、現代は、承認してもらえるかどうかを常に気にしながら生きる「承認不安時代」なのだ。いつの時代も、若者はその時代の空気を誰よりも敏感に感じ取る。だから、今の若者は「認められたい」という思いが強いのではないか。 この連載では、若者を中心に、現代社会が「個人がそれぞれ承認欲求を抱えつつ、それが簡単には成就されづらい社会」になっていること、「承認を得られる人とそうでない人に分かれている社会」になっていること、そのことがどのような影響を与えているかを検証しつつ、私たちはどのような心持ちを持って生きるべきかを考えてみようと思う。 まずは、現在の承認不安がどのようなものかを検証しよう。 家族からも、社会からも認められにくい 現代社会の生きづらさ ここで参考書籍の登場だ。批評家、著述家の山竹伸二さんは『「認められたい」の正体』(2011、講談社現代新書)のなかで、承認を、それを与える相手の違いによって3つに分類している。 1つ目は、家族や恋人から得られる「親和的承認」、2つ目は、学校のクラスメイトや会社の同僚といった、共通の目的意識や価値観、ルールによって役割を与えられた集団などから得られる「集団的承認」、3つ目に、社会全般にわたって価値があると見なされる場合に社会全般、世間一般から得られる「一般的承認」だ。もちろんこれらはきれいに分割できるものではないし、それぞれの承認は相互に関係しているのだが、3つの承認のニュアンスがなんとなく理解いただけたであろうか。 ではこの3つの承認のパターンが現状どのようになっているかを検証していこう。 まずは家族や恋人から得られる「親和的承認」である。これは明らかに得にくくなっている。まずは「家族」がかつてほど強固な鎖ではなくなっているという点だ。離婚件数が増え、家族が数十年後も家族であるという保障が得づらくなっている。 また、年々核家族が増加しており、たとえ家族がいても個室のあるケースも多い。さらに、インターネットの普及に伴い家庭に居ながら外の世界とコミュニケーションを取れる時代になり、「家族」が絶対的な存在ではなくなっている。一方、初婚平均年齢が高くなり、未婚率も増加。一生結婚をせずに(あるいはできずに)生涯を終える人が増加する世の中では、「親和的欲求」を必ずしも得られる時代ではなくなった。 次に「集団的承認」を一旦飛ばして、「一般的承認」について考えよう。これはまさに先ほど記述した「大きな物語の終焉」と最も関係する。価値観が多様化している時代に、広く社会一般から認められることが存在しづらくなっているからだ。 例えば、今でも「ミシュランガイド三ツ星レストランのシェフになった」、「私財をなげうって被災地に多額の寄付を行った」といった他人には真似しがたい偉業に対しては、相応の承認が得られるだろう。 ただ、かつて多くの日本人が得ていた「夢のマイホームを手に入れた」「部長に昇格した」といった手に届くレベルの社会的なステイタスに対して、世間はそれを今も手放しで認めてくれるだろうか。持ち家であろうと賃貸であろうとそれは個人の自由。仕事を頑張って出世しようが、仕事はそこそこに趣味に力を入れようが、それは個人の自由。価値観が多様化する現代では、一般的承認を得るハードルが高くなっているのが実情ではないだろうか。 ネットで広がった「仲間からの承認」 一方で“承認の乾き”を覚える人も 最後に、後回しにした「集団的承認」を考えよう。実はこれは他の2つの承認とは少し状況が異なると考える。最もポピュラーな「集団的承認」を得る場所としては、学校や会社、地域社会などがある。かつてはこれぐらいしか「集団的承認」を得られる場所はなかった。しかし、インターネットの発達などによって、例えばある共通の趣味を持った人が集まりやすくなったことで、そうした仲間から承認を得られる機会は増えている。 また、自分の書いているブログが評価されたり、「Twitter」でのつぶやきが多くの賛同を集め、多くのフォロワーを獲得するのも、広義の「集団的承認」と呼べそうだ。このように集団的承認は広がっていると言えそうだ。 しかしこれには留意点がある。「Facebook」の投稿に対し誰かが「いいね!」と言ってくれること、「ソーシャルゲーム」で高得点を出し他のプレーヤーから一目置かれることなども「集団的承認」と言え、そのような機会は増えているが、果たしてそれは本当に「承認」と呼べるのか。ソーシャルメディアで得られる承認は、なかなか空虚なものだとは思わないか。つまり、普遍的な承認を得られる機会というのは、やはりそれほど増えてはいないと見立てるのが妥当なところではないか。 一方、承認とインターネットの関係を考えると別の側面もある。それは、他人の承認が可視化されているという点だ。例えば、充実した休みの日をWeb上で公開する人を指して、しばしば「リア充」(りあじゅう)という言葉が用いられる。リア充とは、リアルが充実している人という意味のインターネットスラングだが、つまり他人が自分以上の承認を得ているということを感じる機会も増えているということだ。この問題が厄介なのは、充実していると思われている人の実感よりも、それを妬む人々の不満の方が大きいという点にある。“承認の乾き”を覚えやすいメカニズムがネットにはあると言えるだろう。 最後に、「集団的承認」の可視化は、インターネット以外の要因もある。例えば、年功序列、年功賃金に変わって、成果主義、成果報酬制度が導入されている会社が増えている。この場合、同じ職場にいても、給料が大きく違うというケースが多く存在することになる。 また、労働形態の多様化によって、正社員とは異なる働き方をする契約社員、非正規雇用者の人たちが増えている。この場合、同じオフィスに働いていてもある人は正社員、ある人は非正規雇用という場合も多い。何か目的や意図があって非正規雇用を選んだ場合ではなく、非正規雇用にならざるを得なかった人というのは、やはり「集団的承認」「一般的承認」が欠如した状態にあると言えないだろうか。また運良く正社員になったとしても、仕事の覚えが悪かったりすると、「アイツは正社員のくせに仕事ができない」と、非正規雇用者からの批判を浴びることになる。 3種類のそれぞれの承認において、現代はどのような時代なのかを検証してきたが、やはりさまざまな場所で承認不安が起きやすい時代になっていると言える。 当連載では、次回以降さまざまな切り口から、認められたいと考えている私たちと、それを認めてくれない社会というものを考えていこうと思う。時には暗い話や、耳が痛い話になるかもしれないが、最終的には救いのある連載にしたい。 新連載「認められたい私、認めてくれない社会」について、ご意見、ご感想がある方は、筆者のTwitter(@umeda_kazuhiko)までお願いいたします。次回以降の執筆の参考にさせていただきます。 |