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コーヒー一杯が300円。支払いをしようと財布を開くと、あいにく1万円札が一枚入っているだけだった。
少し申し訳ないと思いつつお札を差し出すと、チェーン店の帽子とエプロンに身を包んだ女性が、カウンター越しに満面の笑みを浮かべる。
「はい、1万円お預かりします!」
元気一杯なその声に躊躇する私をよそに、彼女は素早く隣の男性店員の方に向き直る。
「1万円入りました。1万円、確認お願いします!」
「はい。1万円確認しました!」
邪心のかけらもない笑みを絶やさない彼らだが、1万円札で300円の買い物をしたのをこうも念入りにリピートされてしまうと、少々肩身が狭い。
「あ、いや、本当に1万円札しかなくて。その、今銀行でおろしたばかりでして。ははは・・・」
と、不要な嘘の一つもつこうかと考えていると、間もなく店員がコーヒーと釣り銭を持って戻ってくる。
「9,700円のお釣りになります。まずは大きい方から・・・5千、6千、7千、8千、9千円のお返しになります!」
親切心だけではない、もう一つの意図
大学時代をニューヨークで過ごして帰国した頃、釣り銭を大声で数え上げるこの慣習に、すっかり困惑した。9千円もの現金を持ち歩いているのを無闇に周囲に言いふらされると、それは「この人を強盗してください」と言われているように思えてしまい、気が気ではなかったのだ。
世界的にも安全な街と言われる東京だが、例えば街中のATMには、防犯用のバックミラーがしっかりと設置されている。ATMから立ち去る際には細心の注意を促す一方で、現金を持ってカフェを出る時には所持金額が盛大にアナウンスされる社会。そのどこかに、矛盾を感じる。
釣り銭の確認が終わったところでほっとして手を差し出すと、店員は馴れた手つきで札束をひっくり返し、今度は裏側から数え始めた。
「もう一度・・・5千、6千、7千、8千、9千円のお返しです!」
私が9千円の現金を所持している事実を、聞き逃した人が一人でもいては大変と言わんばかりに、張りのある声で最後まで数え上げる店員。その顔に張り付いた笑みが、私には不気味に映った。
支払い金額や釣り銭を声に出して確認するのは、日本が世界に誇るサービスのきめ細かさではあろう。だがそこには、素晴らしいサービスというだけではすまされない、日本社会特有の、どこかジメッとしたものを感じてしまう。つまり執拗なまでに釣り銭の確認を義務づけるマニュアルの裏には、親切心だけではなく、「免責」という、決して親切ではないもう一つの意図がどうしても見え隠れするのだ。
「後になって金額の誤りに気付いても、我々の責任ではないですよ。我々はしっかりと数えましたし、それは皆様にも聞こえていましたよね?」
そんな責任逃れじみた台詞を、問題が起きるはるか前から、一方的に押し付けられる窮屈感がそこにはある。
意見の衝突に対して臆病になっている日本人
こうした意図は、東京の街を覆い尽くす膨大な数の看板にも見られる。
例えば、ある区立図書館の新聞閲覧カウンターに掲げられた看板。
「新聞のページをめくる音は、他のご利用者様に不快な思いを与えることがあります ○○図書館」
一見、利用者間のトラブル防止が主眼であるかのように思える看板だが、利用者はこれを読んだところで、音を立てずに新聞をめくることなどできるはずがない。つまりこの看板は、トラブル防止という本質的な機能を持つ訳ではなく、「図書館としては、一応事前に注意していました」という言い訳を、一方的に形にする役割しか持たない。
あるいは、東京は城南地区のとある高級住宅街。煉瓦造りの駅舎と端正な住宅街を結ぶ桜並木の真ん中に、その可憐な景観を台無しにする大きな立て看板が陣取っている。
「住宅街につき、バスは20キロ走行をお願いします ○○警察署」
徐行を促す看板は交通事故の予防に役立つかもしれないが、その桜並木を走るバス会社は、じつは一社しかない。警察署は事故防止が目的であれば、看板という一方向のコミュニケ―ションに甘んじることなく、そのバス会社と直接対話をするのが効果的であろう。せっかくの景観を台無しにしてまで設置された看板には、運転手に注意を促すだけではなく、「警察署としては、一応事前に注意していました」といった対外的な弁明が見え隠れするのだ。
私は近年香港で仕事をしているが、成長著しいアジアの金融センターにおいて、所狭しと咲き乱れる看板の姿は過度な商業主義の象徴だという批判をよく耳にする。だが東京の看板と比べると、商魂を隠そうともしない香港の看板の、「この商品を買ってください!」というストレートな叫びはずいぶん無邪気に思えてしまう。親切を装いつつも、さりげなく免責の押し売りをしてくる東京の看板が持つ嫌らしさが、そこに感じられないからだ。
カフェにおける執拗な金額確認や街を覆い尽くす看板など、一見親切だが、じつは独りよがりな表現が多用されるのは、日本人が、あらゆる意見の衝突に対して臆病になっているからだと言えないだろうか。釣り銭の数え間違いを話し合ったり、警察署がバス会社に直接注意を促したりと、ごく日常的に行われるはずのあらゆる対話から、日本社会が逃避してしまっているように思えてならない。
対話からの逃避によって維持される「平和」
先日、ロンドンの大手金融機関に勤めるドイツ人投資家と香港で再会した際、こんな質問をされた。
「最近、日本のニュースを読んで不思議に思うのだが、日本の若者は、なぜ暴動を起こさないのか?」
長年に亘って日本市場に投資してきた彼は、真剣な顔で尋ねてくる。
それは丁度、日本政府系ファンドの産業革新機構が、経営難に陥った半導体メーカー、ルネサスエレクトロニクスに対する1,400億円弱の支援を決めた矢先だった。産業革新機構は過去にも、2,000億円を費やして大手電気メーカーが抱える液晶パネル事業を救済したことがあるが、半導体や液晶パネルなど、その将来性が極めて疑わしい事業に巨額の資本が投入される背景には、産業革新ではなく、従業員の雇用保持という意図が見え隠れする。
こうして親世代の雇用を抱える古い産業が保護される一方で、将来的な雇用を創出するはずの新しい産業への投資が長期間ないがしろにされた結果、若者世代が厳しい雇用難に直面しているのは周知の事実である。さらに、産業革新機構などによる救済策は間接的には国債の発行によって賄われており、積み上がる一方の国の借金が、その返済義務を担う我々若者世代にのしかかるのは言うまでもない。
こうした現実が幅広く知られているにも関わらず、なぜ日本社会では、世代間の境界線を挟んで、より激しい議論の衝突が起きないのか。ドイツ人の彼は、ここに疑問を感じているのだ。
数年前に彼と出会った当時、私はロンドンで仕事をしていたが、戦後EUという共同体を築き上げてきたヨーロッパ人が日常的に展開する議論の熱量に、すっかり魅了された。EUは言うまでもなく、人種、宗教、経済力、歴史感といったさまざまな境界線を隔てて対立してきた人々が、各々の意見をしっかりと述べ、激論をぶつけ合い、時に喧嘩をしながらも、粘り強くコンセンサス(社会的合意)を導きだす作業を繰り返してきた賜物である。
私がロンドンで生活していたのは金融危機の最悪期だったが、共同通貨のユーロ、ひいてはEU自体の存続が危ぶまれるなか、各国の議会やメディア、そして日常生活のあらゆる場面で激論が展開され、その結果として共同体が維持されていく様子に脱帽させられたのだ。
日本を見ると、少子高齢化、雇用不足、財政悪化など構造的な課題が深刻化するなか、創成期のEU同様、そこに住む人々の利害関係が一致しにくくなっている。前述の世代間の問題のみならず、男女間、地域間、産業間などに発生した溝は、今後深まるばかりだろう。
にもかかわらず、社会の溝を埋めて共生を探るために欠かせない意見のぶつかり合いが、日本ではなかなか表面化することはない。産業革新機構による巨額の支援策が、将来を担う世代の利を損ねることにならないか、広く議論されないのが実情である。
結果、日本は波立たない「平和」な社会であるが、それは激論が行われた末に、人々の洗練された意見がコンセンサスに反映されて生まれた強靭な「平和」ではない。それはすなわち、摩擦を伴うあらゆる対話から人々が逃避することによって維持されている、ガラス細工のように脆い「平和」なのだ。
相手と会話できる自分自身の言葉を持ちたい
構造問題に関する議論を先送りにしていれば、一見平穏な社会の水面下でマグマのようにうごめく火種は、遠くない将来、それこそ暴動などといった形で爆発してしまう。そうなれば、9千円の現金を持ってカフェから立ち去るのが決して安全ではない日本社会が、現実のものとなりかねないのだ。
日本社会がさまざまな問題を抱えるなか、このように活発な議論が行われないのは、おそらく日常生活の場面において、人々が「免責」に固執するばかりに、互いにしっかりと向き合い、自分の言葉で対話するということをしなくなってしまったからではなかろうか。
カフェで笑顔の仮面を着けたまま「1万円入りました!」と繰り返し、大声で釣り銭を数え上げる店員たち。彼らは間違いなく、丁寧な接客をしているつもりであり、それが彼らに対する一般的な評価でもあろう。
だが彼らは、目の前の客が、1万円を支払ったことや9千円の釣り銭を所持していることを、あまり大声で言われたくないとは夢にも思っていない。決められた台詞を間違えずに言い切ること自体が目的と化すなか、その台詞を受けた相手の違和感を察知する感受性を、彼らはもはや持ち合わせていないのだ。
よくこの種の店で、店員たちが誰に向かってでもなく、だが独り言でもなく、「いらっしゃいませ、こんにちは〜」といった台詞を無心に連呼し、客は客で、それが自分に向けられたものと思うことなく、聞き流している情景を目にする。互いに向き合って会話するという、人と人との出会いの大前提さえもが、見失われてしまっているのだ。
あらゆる構造問題を抱えつつも、これに関するしっかりした議論が行われない日本の将来を悲観すればきりがない。
だがまずは、仮に釣り銭の間違いによる小競り合いが起きても、それに臨機応変に対応し、相手と会話できるだけの、自分自身の言葉を持ちたい。「いらっしゃいませ、こんにちは〜」が空虚にこだまする空間で、人と丁寧に接したつもりにならずに、まずはカウンターの向こうに立つ相手を見つめて、その時々に心に湧きあがる台詞を、投げかけてみてはどうだろうか。
ひょっとしたら「何になさいますか?」の先に、思わぬドラマが待ち受けているかも知れないではないか。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36538
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