07. 2013年7月16日 19:27:46
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FRBのメッセージは市場にほぼ浸透か 2013年 07月 16日 18:28 7月16日、米FRB当局者は、バーナンキ議長が年内に資産買い入れの縮小に着手するだろうと発言したことがきっかけで世界の金融市場に大量の売りが起きたことに、明らかにうろたえた。ワシントンのFRB本部で昨年4月撮影(2013年 ロイター/Joshua Roberts) [ワシントン 16日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)当局者は、バーナンキ議長が年内に資産買い入れの縮小に着手するだろうと発言したことがきっかけで世界の金融市場に大量の売りが起きたことに、明らかにうろたえた。 しかし当局者はその後、将来の金融政策についての市場の見方を自分たちの認識に近づけるように誘導したことで、安心感を高めていることだろう。それだけでなく、現在の厄介な調整が、もっと後に起きたであろう強烈な調整に比べれば害が少ないということにもほっとしているはずだ。 バーナンキ議長は5月下旬に、資産買い入れの縮小については今後数回の会合で決定することもあり得ると述べ、6月19日にはこのプログラムの年内の縮小およびその後の停止について明言し、FRBの意向を一段とはっきり示した。 この結果、10年米国債利回りは5月初旬に1.62%だったものが、先週の初めには2.75%となり、この10年で最も早い利回りの上昇となった。その後は市場は安定を取り戻し、15日に10年債利回りは2.54%となっている。 米株式市場にも落ち着きが戻り、指数は過去最高水準まで上昇、S&P総合500種.SPXの時価総額にして1兆ドル以上を取り戻した。これは投資家が、FRBの資産買い入れ縮小があっても株式市場が上昇するとみていることを示している。 ノーザン・トラスト(シカゴ)の首席エコノミスト、カール・タネンバウム氏は、「FRBのメンバーは、3週間前に比較して今の市場の水準についてかなり満足していると私は想像する」と述べた。 FRB当局者はバーナンキ議長の発言が引き起こした債券利回りと住宅ローン金利の急上昇を歓迎していなかった。当局者が市場の早期利上げ観測を打ち消そうと発したコメントに、彼らの狼狽(ろうばい)ぶりが表れていた。 当局者の行動で気づかされることは、彼らが本当に懸念していることが債券市場での投資家によるリスクテイクのひそかな蓄積であり、それがバブルの初期の前兆かもしれないということだ。 レイモンド・ジェームズ(フロリダ州)の首席エコノミスト、スコット・ブラウン氏は、「FRBには過度なリスク負担への懸念が多少あったようだ。当局者は間違いなくその事態に対処している」と指摘した。 <悔いはなし> バーナンキ議長は先週自らの発言について異なった方法を取っていた方が良かったと思うかと聞かれた時、市場をかき乱すことは払うべき代価としては相応だったという認識をほのめかした。 議長は10日の経済会議で、「過去6週間でわれわれが経験した不安定さはあるものの、今語り、われわれがしていることを説明することで、違う時点で起こったかもしれないもっと困難な事態を避けられたのかもしれない」と述べた。 議長はさらに、資産買い入れの縮小がフェデラルファンド(FF)金利の利上げという形での引き締めを開始することを意味しないと強調し、連邦公開市場委員会(FOMC)の参加者19人のうち14人が、利上げが2015年より前に行われることはないと想定していると指摘した。 FRB当局者は、今年の初旬ごろにみられた債券市場のボラティリティーの低さについて、投資家が中央銀行による大量買い入れをよりどころとして債券を確実な投資対象と考えているという、潜在的に懸念すべき事態だと感じていた。 5月初旬に10年国債の利回りはおよそ5カ月ぶりの低水準をつけ、3カ月物短期証券の今後10年の利回り予想を下回った。この比較は、FRBが長期間にわたり超低金利を維持するという過剰な期待が利回りに反映されているかアナリストが判断する一つの方法だ。 <2方向のリスク> 6月のFOMC議事録によると、投票権を有するメンバー12人のうち2人が、早期に資産買い入れを縮小させる必要がある理由として、買い入れプログラムに起因するマイナス効果が、想定される恩恵を上回ることを防ぐことを挙げた。 バークレイズ・キャピタル(ニューヨーク)の米国担当主席エコノミスト、ディーン・マキ氏は、「市場は今ならば、FRBによる資産買い入れ縮小を、一段と高い金利を織り込むことなく受け入れることができそうだ」と指摘した。 ただ、今年の初めより債券利回りは大きく上昇しており、エコノミストのなかには、FRBが自分の首を絞めただけでなく、米国経済にも悪い影響を与えてしまったと懸念する声がある。 債券利回りの上昇は住宅ローン金利を押し上げ、住宅需要を阻害する恐れがある。JPモルガン・チェース(JPM)(JPM.N: 株価, 企業情報, レポート)とウェルズ・ファーゴ(Wファーゴ)(WFC.N: 株価, 企業情報, レポート)の幹部は12日、今後数カ月にかけて住宅ローン総額が減少し、同事業での利益が低下するだろうと警告した。 JPモルガンのマリアン・レーク最高財務責任者(CFO)は住宅ローン金利の上昇が貸出額を30─40%減じさせる可能性があると述べた。 専門家の一部は、FRBは自らが避けたい意向を示してきた経済の不透明感を助長しているかもしれないと指摘する。 ピーターソン国際経済研究所(ワシントン)のアダム・ポーセン所長は、「当局者はバブルを撃退していると確信している。これが間違いなく意味することは、FRBの政策について今後さらに多くの不透明感が出てくるということだ」と述べた。 (Reporting by Alister Bull記者; 翻訳 石黒里絵)
お金を寄付するには BY TIM HARFORD 7月12日にFinancial Timesに掲載されたTim HarfordのHow to give money awayの訳。誤訳の指摘お願いします。 世界の何不自由ない人々はどうやって貧しい人を助けるべきだろう? 私たちはダムや鉄道、道路を建設することができる。私たちは教育や公衆衛生に資金を提供することができる。私たちは関税を下げ、彼らが私たちにものを売れるようにすることができる。私たちは彼らに適切な経済政策について助言することができる(そうだそうだ)。もしくは、私たちの助けが益より害になりそうだということで彼らを放置しておくこともできる。 しかしここに代替策がある: 彼らにお金を渡すだけというのはどうだろう? そんな頭にガツンとくるわかりやすい計画であるがゆえに、ここ数年までどちらかというとほとんど注目されてこなかった。最近まで、直接最貧困層に達するのは難しかった。生活保護が全ての本当に必要としている人々にだけ行き渡ることを確かめるのはイギリスでも十分難しい―アフガニスタンではさらに難しいのは道理にかなうことだろう。 これまでのところ、私たちはそのかわりに貧困国の政府に金銭を与えることで手を打ってきた。それはしばしば、よいものにお金が使われるのを確かめることを狙ってひも付きだった。しかしそれらのひもは切られうる。あなたは病院のために支払っていると思っているかもしれないが、保健大臣が単にあなたの援助金を病院を建てるのに使っていてもいい加減に建てただろうし、彼自身の予算から金を盗めば、あなたは実際には彼のモナコの高級マンションに払っているだけなのだ。 しかし今なら、私たちは貧しい人々の仮想ポケットに現金を詰め込むことができる。多くの最貧困層は携帯電話を持っているか電話にアクセスできる。インド政府は全員にID番号を与えるという巨大プロジェクトに乗り出している。GiveDirectlyは、定評のある携帯電話バンキングシステムのM-Pesaを使って、ケニアの貧困家庭に直接寄付を届ける慈善団体だ。 しかし直接現金給付は望ましいのだろうか? 多分そうだろう。まさに直接現金を送付してくれそうな取り組みの欠如は実際に事を簡単にしてくれるかもしれない。例えばマラウイの例を取ると、マラウイの低い生活コストを調整してもなお8割以上の人々は1日に2ドル以下しか稼いでいない。もしその国の全員に50ドル与えたときに少数の豊かな人々も利益を得るとしたら、何を損なうというのだろう? 理性的な人々がなぜブリストルやバーンスレイの貧しい人々は貧しいのかについては議論できるのだとしても、なぜマラウイの貧しい人々は貧しいのかについて疑問の余地はない: 彼らがマラウイに住んでいるからだ。余分のドルを与えられれば、彼らがお金の良い使い途を見つける可能性は高いと思われる。 多くの研究で、貧しい起業家が現金助成を受けたときに彼らはなんとか高利益率―典型的なものは年率40〜80%―を達成することがわかっている。新しい無作為試験が現在ウガンダで行われていて、それを更に推し進めて、特定の職に一切就いていない農村の若者に現金を与えている。 今ではクリス・ブラットマン、ネイサン・フィアラ、セバスチャン・マルティネスによるワーキングペーパーとなっている研究では、ウガンダ政府がランダムに選ばれた若者に1万ドルを渡したとき何が起きるのか調べた。1人あたりこれらの助成金は当事者の若者たちの年収の2倍近くだった。ブラットマンと彼の同僚は次にその後の4年間で対照群と比較して何が起きるのかを見た。彼らは単に現金を使ってしまっただろうか? それともそれを投資する方法を見つけただろうか? 結果は勇気づけられるものだった。これらの若者はしばしば大工や美容師のような新しい技術職に就いたのだ。稼ぎははっきりとよくなった。リターンは現金に制約のあった比較群と比べて特に若い女性で高かった。そしてブラットマンが彼のブログで指摘するように、これは単に少数の貧しい人々を救うことについてだけではない。これは1度に助成金を受け取ることに資金を提供することで農村労働から技術職へ移行する産業転換のプロセスにつながるということなのだ。全ての中でもっともわかりやすい方法で貧しい人々を救うことは魅力的に見え始めている。
経験豊富なルービンシュタインが「迷える」経済学徒に送る十のアドバイス BY ARIEL RUBINSTEIN
以下は、Ariel Rubinstein “10 Q&A: Experienced Advice for “Lost” Graduate Students in Economics“(THE JOURNAL OF ECONOMIC EDUCATION, 44(3), 193–196, 2013)のうち、Q1,3,5,8,10の訳です。himaginaryさんがQ2,4,6,7,9を訳していたものを面白いと思ったので、残りも訳してみました。誤訳等あれば御指摘頂けると幸いです。 Q1.博論のアイデアが全く浮かばず、絶望しています。どうすればよいでしょうか。 まずはするべきでないことから話そう。自分の専門分野のゼミにたくさん出席してはいけない。そうしないと、単に既存の文献にコメントを付け加えることに終始してしまう。そしてそうした文献も大部分は過去のくだらないコメントに対するコメントで出来上がっているのだ。 良いアイデアがほしいのであれば、自分の周りの世界を見回してみたり、異なる分野の授業を取ってみなさい。私の学位論文(モラルハザードと無限期間の場合におけるプランパルエージェント問題に関する私の1979年の論文のように)の幾部分かは法律の授業中に夢うつつに思いついたものだ。 Q3.もう30ページも書きました。何度も繰り返しを使い、証明は必要以上に長いです。可能な限り不確定要素を散りばめ、離散型からバナッハ空間にも手を広げました。指導教官はそれでも評価外だと言っています。論文をどれだけ長くすれば良いのでしょうか。 良いアイデアがないのであれば、そのまま続けなさい。最低でも行間なしで60ページ以上にしなさい。誰もその論文を読まなくなるだろうから、クウォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクスやエコノメトリカに掲載される少なくともチャンスがある。 もし本当に良いアイデアがあるのであれば、行間空けで15ページ以内に収めるほうがいいだろう。それ以上の分量に値するような経済学の論文を私は見たことがないし、それは君の論文も例外ではない。 経済学の論文が長いというのは事実だが、それらのほとんどは死ぬほど退屈なものだ。エコノメトリカの50ページの論文を読み、その上で正気でいられるような人間がいるだろうか。だから短い論文を書くことで世界に貢献しなさい。新しいアイデアに焦点を絞り、証明を最低限に抑え(そう、それは可能なのだ!)、馬鹿馬鹿しい拡張は避けて、そしてエレガントに書こう。 Q5.昨日の午後おかしなことがありました。私は、私の学部を訪れた著名な経済学者と労働市場に関する私の論文について議論をしていたのです。私は緊張していましたが、彼はとても親身で礼儀正しかったです。彼は私のアイデアを褒めてくれましたが、その後に彼自身も同じような考えをずっと昔に思いついていて、アメリカン・エコノミック・レビューに掲載された彼の有名な論文ではそれについて脚注で触れてさえいるというのです。非常に恥じ入る思いでした。私の論文は穴を掘って埋めてしまうべきでしょうか。 ちょっと待ってほしい。私はその著名な経済学者が誰かは知らないが、自分の同業者の間を徘徊するそうした人物を何人か(その中にはそんなに著名じゃないものもいる)知っている。もちろん万が一そいつが本当に正しくて、君のアイデアが彼の論文に何年も前に既に触れられていたかどうかは確かめなければならない。きっと君はあらゆる関連キーワードを使ってGoogle検索をして、何十もの関連文献を読んだことだろうが、もしかしたら君は読むべき文献を本当に見落としていたのかもしれない。 しかしながら、その経済学者はその経歴の中であまりに多くのアイデアを思いついたものだから、今は少しばかり頭がこんがらがっているということが十分にありえる。だから、君のアイデアがあまりにも素晴らしかったので、彼は自分が君よりも前に考え付いていたはずだと思い込んでしまったと光栄に思いなさい。そしてもっと重要なのは、この不愉快な経験から教訓を得ることだ。20年かそこらの後、君が大学院生に教えを請われるほどに有名になった時、君は学生たちが持ってくるアイデアを自分が既に考え付いていたと絶対的な確信が持てることはないはずだ。 Q8.就職面接で大失敗してしまう心配をすべきでしょうか。 そうだね。。。ただちょっと私自身の話をさせてもらいたい。私は従来型の「労働市場」に参入したことはない。しかし1979年に私がエルサレムのヘブライ大学で博論をほぼ書き上げつつあったとき、何人かの教授は折よくイスラエルを訪れたアメリカの教授に私を紹介することで助けてくれようとしていた。そのうちの一人がフランクリン・フィッシャーで、彼はMITのシニア教授で、エコノメトリカの編集者も務めたことがあり、当時の業界内の顔だった。エイタン・シェシンキはハヌカー[1] のキャンドルライトイベントを催した折に私を招き、他の招待客が訪れる1時間前にフィッシャーと会う機会を作ってくれた。私はフィッシャーとリビングの隅のコーヒーテーブルについた。1時間のうちの半分で、私は当時書き上げていた8つの論文の要約を彼に話した。フィッシャーは辛抱強く聞いてくれた。そして彼は私にMITについて聞きたいかと尋ねた。正直なところ私はそんなことよりもこの耐え難い状況から可能な限り早く抜け出したかったのだが、拒むことは出来なかった。だから私は「はい」と言い、フィッシャーは「私たちはMITで教えており、そして私たちは英語で教えている」と言ったのだ。 Q10.結局のところ、まじめに答える気はありますか? もちろん、ここでこれまで述べてきたことは大まじめに言っている。だが最後のコメントを付け加えさせてもらいたい。自分たちが地球上でもっとも優遇された部類に入っていることを忘れないように。社会は君に素晴らしい機会を与えた。何でも好きなことをしてよいし、新しいアイデアを考え、自分の考えを自由に表明し、自分のやりかたで物事を行い、おまけにそうしたことをすることで素晴らしい見返りを得ることもできる。こうした特権を当然のものと思ってはいけない。私たちはとてつもなく幸運なのであり、そのお返しに何らかのことをしなければいけないのだ。 訳注;ユダヤ教の年中行事の一つらしいです。 [↩]
金融引締めの二都物語 以下はBarry Eichengreen “A Tale of Two Tapers“(11 July, 2013)の訳です。誤訳等あれば御指摘頂けると幸いです。 7月15日追記:@keynes_2013の指摘に基づき、第7・第8パラを修正 アメリカの連銀と中国の人民銀行は、一般的には似ていないと思われている。しかし、ここ数週間で両者は同じような出来事を経ており、そしてそれはどちらも好ましくないものだった。 FEDの消化不良の症状はベン・バーナンキ議長による6月19日の記者会見によって始まった。その場において彼は、経済が好調を続ける、とりわけ失業率が7%以下に落ちた場合にはFEDの長期債券購入の削減が始まる可能性があることに注意を促した。株価はそのショックを反映し、アメリカ財務証券の利回りは急騰した。アメリカからの資金の流れが逆転することを恐れ、新興市場の通貨は下落した。 全くもってこうした反応が激しく、また憂慮すべきものであったために、FEDの面々はその意図を明確化する必要性を感じた。彼らの説明によれば、FEDの「量的緩和」政策の削減の可能性ということと、それをやめるということは異なるということだった。いつどのように長期債券購入を削減するかは将来のデータに基づくことであり、特に年末までに失業率が7%まで下がるかどうかについては何ら保証はなかった。 奇遇にも、6月19日という日は中国人民銀行が国内の逼迫化した信用市場に対する、さらなる流動性の供給を行わないということを決めた日でもあった。中規模銀行2行が債務の不履行を行ったという噂が流れ、中国の銀行間短期金利は(訳注;人民銀行の決断の)2週間前から上昇していた。銀行間レートは5%から7%近くまで上昇した。投資家たちは人民銀行がさらなる金利の上昇と経済成長の鈍化を避けるために、常のように介入を行うだろうと考えていた。 ところが、人民銀行は何ら手を打たなかった。政府は銀行が不動産開発業者や国営大企業(両者は大抵同じものだ)に大して余りにも自由に貸し出しを行ってきていることを憂慮しており、銀行がその資産管理部門を通じて、高リスクの投資をファイナンスするためにオーバーナイト市場から過大に借り入れを行っていることを気にかけていたのだ。 中国においても、市場の反応は猛烈なものだった。中国における主要な株価指数である上海総合は大きく下落した。金融システムの安定性に対する深い懸念が高まることで、銀行間金利は25%にまで急上昇した。 これは中国政府が予想していたことではなかった。同業であるFEDと同様に、彼らは意図の明確化と政策の撤回の必要性を感じ、「市場金利を合理的な枠内に誘導する」ことを投資家たちに約束するとともに、信用供給を行うことでそれを裏付けた。 (訳注;アメリカと中国における)2つの出来事のどちらも、件の中央銀行の評判を高めるようなものではなかった。6月19日は「不名誉な日付として残る」ことはないのかもしれないが、これをしっかりと心に刻むセントラルバンカーはほとんどいないはずだ。 しかしセントラルバンカーたちは、その以外である私たちと同様に、自らの失敗から学ぶべきだ。今回の教訓とは何であろうか。 第一に、6月19日の出来事は中央銀行のコミュニケーション戦略が未だ発展途上にあるものであることを私たちに思い起こさせてくれる。FEDは自らの政策をより良く説明するように繰り返し模索してきた。しかし、もし少々の比較的穏やかな言葉がこのような強力な反応を引き起こすのであれば、それはつまり投資家がFEDの意図について、困惑していないとすればだが、当然ながら未だ疑いを抱いているということだ。 人民銀行の行動は、その新たな対投機戦略のために市場になんら準備を施さなかったために、FEDよりも不味いものであった。中国の当局は人民元を第1級の国際通貨に高めようとしている。しかし、6月19日の出来事は、人民銀行を始めとして全般的に中国の政策決定機関が、人民元と彼ら自身の双方に対して必要とされる信頼を浸透させるまでには、道のりが遠いことを示している。 第二の教訓は、中央銀行は直近の少々のニュースに対して過剰反応をすべきでないということだ。量的緩和の終了を示唆するFEDの声明は、経済が上向いているというごく直近の証拠に基づいていたように見える。今、市場が反対方向に反応したことによって、投資家の一部は経済が悪化しつつあると心配し始めている。FEDはその政策や言葉遣いを変更する前に、これから出てくるのデータをもっともっと待つべきだ。 同じように人民銀行も、銀行の信用バブルを示すデータに過剰反応したようだ。実際には、これらの証拠とされたものの一部はミスリーディングなものであった。というのも、規制基準の変更によって隠れていた貸出が表面化したことを反映したに過ぎないものだったからだ。人民銀行は、会計上の問題とトレンドを区別できるように、さらなるデータを待つべきだったのだ。 最後の教訓は、資本市場の問題を解決するには貨幣政策は大雑把すぎる手段であるということだ。インフレ率が安定している中でFEDの長期債券購入の削減を導いたのは、主に新たな資産バブルに対する警戒感であった。同様に、不動産価格に対する心配が人民銀行の突如の方針の変更を招いた。 バブルは警戒しなければならないが、アメリカと中国における6月19日の出来事はバブルへの第一義的かつ主要な担当が規制当局にあるということ思い出させてくれる。セントラルバンカーたちもバブルを無視できる立場にいるわけではないが、過敏過ぎる反応を行わないよう用心すべきだ。それよりもやるべきことがあるのだから。 http://econdays.net/?p=8694 |