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大反響 第2弾 明るく楽しく頑張る、すると幸せがやってきた サラリーマン、置かれた場所で咲きました
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36215
2013年07月02日(火) 週刊現代
それまで笑顔で挨拶していた同僚はよそよそしくなり、相談に来ていた部下には無視をされる。左遷とは、そういうものだ。しかし、そんな不遇のときこそ、サラリーマンとしての矜持が試されている。
■のぼせ上がった挙げ句
サラリーマンを題材にした多くの著書を持つ、作家の江坂彰氏は言う。
「企業のトップには、一度出世コースを外れた経験のある人が意外なほど多い。たとえば、この6月に社長就任が決まった東芝の田中久雄氏がそうです。田中氏は東芝の出世コースである事業部ではなく、入社以来調達畑を歩んできた。おそらく、不振の続く東芝に新たな風を送りたかったのでしょう。社内外の誰もが驚いた社長抜擢でした。
トヨタ元会長の奥田碩氏も、一度は挫折を経験しています。経理部時代に上司とぶつかり、'72年の秋にマニラへ飛ばされたのです。しかし腐らず、現地に溶け込もうと、英語の勉強を徹底的にやった。学生時代に読まずに放っておいた本を片っ端から読み、知識を蓄えた。事実上の左遷だったにもかかわらず、結果を残し本社に登用された。その後、社長まで上り詰めたのです」
半導体商社・イノテック元役員の西久保靖彦氏(68歳)もまた、左遷を経験しながら見事に返り咲いてみせたサラリーマンの一人だ。
「左遷を経験するまでは、最短記録をつくるくらいの早さでトントン拍子に出世して、49歳で常務になりました。みんなそうかもしれませんが、偉くなると周囲がちやほやしてくれるんですよね。部下もそうだし、総務課の女の子まで『社長になったら秘書にしてください』なんて言って寄ってくる。それでのぼせ上がって、社長以上に偉そうに振る舞ってしまった。
それが、社長の逆鱗に触れてしまったんでしょう。あるとき突然、それまでのPR担当から環境問題の担当役員にさせられた。環境問題とはいっても、実質的な業務は何もありません。要するに窓際部署だったんですよ。56歳での初めての左遷でした。
部下もいなければ、営業する相手もいない。応接間のついた20平米くらいの部屋にひとりきりでした。当然、それまでちやほやしてくれた部下は誰も挨拶に来ないし、女の子も知らんふりです。これ以上、上に行けないと思うと本当に悔しかったですし、ショックも大きかった」
会社にいながら無職状態になった西久保氏は、毎日椅子に座り、一日をただ漫然と過ごしていた。そこで彼が思い出したのは、入社間もない頃の研究職として過ごした日々だった。
「あの頃は、事務仕事をさっさと終わらせて、少しでも自分の研究の時間を作ることに情熱を燃やしていました。その時代を思い出し、ある日『勉強しよう』と思い立ったんです。当時はプラズマ技術の出始めでしたから、その知識を身につけようと考えた。どうせなら、本を出版できるくらい勉強してやろうと思って励みました。目標のない努力では何も咲きませんからね。結果、実際に本を出すほどの知識を身につけ、2年弱で窓際を抜けだして三栄ハイテックスという子会社に出向になった。そこで、勉強したプラズマに関する知識が生きた。新製品の開発に携わり、利益率を大幅に上げ、2年目には社長を務めることになりました」
■赤字の子会社へ出向
カネボウ薬品元会長の三谷康人氏(83歳)は、45年の会社員人生のなかで、左遷を3度経験した。
「最初の左遷は、忘れもしない'61年のことです。社内政争に巻き込まれ、鐘紡本社の管理室から、富山の高岡工場へ左遷されました。課長待遇で行くはずが、平社員に降格されての転勤でした。職場での仕事はなく、愚痴を言える同僚もいなかった。正直、辞めようとすら思いました。
そんなとき私を救ってくれたのが、妻でした。クリスチャンだった妻は、落ち込む私に、『自分のためではなく、会社のため、世の中のために働けばいい』と熱心に言ってくれた。私はこの妻の言葉で立ち直り、立身出世を第一としない人生観もあるのだと思うようになりました」
その後、三谷氏は富山から本社に戻り、企画部長を務めた。経営戦略を担当し、役員に手が届く地位まで駆け上った。
「しかし、2度目の左遷です。上司からの粉飾の恐れのある命令をどうしても受け入れることができず、中滝製薬という赤字の子会社へ出向を命じられた。役職こそ社長室長でしたが、実際は部下が一人だけという完全な左遷でした。鐘紡時代にはできていた銀行からの借り入れが、中滝に移ってできなくなったときは、社会の厳しさを思い知らされましたね」
出向の翌年、中滝製薬は、鐘紡が再建していたヤマシロ製薬と統合し、カネボウ薬品として生まれ変わった。三谷氏は、成長企業の薬品部門の部長として再び返り咲いた。
「ところが、石油ショックが起きてしまった。当初は好調だった薬品部門も、急速に業績が悪化し、大きな赤字を出した。責任を取らされる形で、私は部長から次長に降格させられました。役職が下がっただけでなく、実質的な給与も大幅に減った。これはビジネスマンにとって非常に恥ずかしいこと。しかし、私は自分でも驚くほど平静でいられた。二度の左遷の経験から、自分の出世よりも、部下たちを不幸にしてはいけないという使命感のほうが大きかったんですね。
その後、カネボウ薬品は石油ショックを乗り越えて成長していき、私自身も社長、会長まで務めました。利己の心を捨てて、仕事に取り組んだことで、同僚や部下が評価してくれたのだと思っています」
■関連会社への片道切符
エンジニアならではの苦労もある。医薬品の製造販売を行う協和発酵キリン社長の花井陳雄氏(60歳)は、度重なる実験の失敗にめげず、新薬の開発という花を咲かせた。
「研究所の主任研究員をしていた'96年に、ある新薬の開発を始めました。細胞の機能を失わせる分子の研究に従事しており、開始当初は『アトピーや喘息に効く薬を作れるかもしれない』と考えていました。しかし、いざ実験をしてみると、その分子が思わぬ動きをしてアトピーにも喘息にも全く効果がないことがわかりました。研究の現場で開発が始まるときは、たいてい『これは大変な発見かもしれない』と胸を躍らせる。会社も研究員を信じて期待をし、予算を確保してくれます。しかしその分、実験が上手くいかないと『私の発想は間違いだったのではないか』と自信を失うんです。
ただ、私は結果だけを見て、実験を終わらせることはしなかった。なぜ予想と違う結果になったのかを徹底的に分析し、違う病気の治療薬になる可能性を見出したのです」
花井氏の研究は、日本で大きな問題となっていた難病「成人T細胞白血病リンパ腫」の治療薬の開発に大きな役割を果たした。
「新薬の開発は『偶然』の産物とも言えます。研究を始めると、ほぼ必ず予想とは違うことが起きますからね。その結果を『失敗』と決めつけるのではなく、それが起きた原因を探ることで新たな発見が生まれます。
そして、悪い時には一人で悩まず、仲間を頼るべきです。年長者だけでなく若手の社員とも語り合い、起きた結果の原因を探ることが肝心です」
左遷や降格以上に、サラリーマンを不安にする人事がある。リストラだ。シチズン時計のグループ会社元役員・俣野成敏氏(42歳)は、「リストラ予備軍」のレッテルを貼られながら、本社へと復帰した経験を持つ。
俣野氏が当時を振り返って言う。
「私がシチズン時計に就職したのは、ちょうどバブルが崩壊した'93年。入社した翌年から新卒採用がなくなるなど、社会的に見れば、最終列車に飛び乗ったようなものでした。しかし、会社の歴史が古いということもあり、定年まで勤められるだろうなと高をくくっていました。
転機は会社が50年ぶりに赤字を出したときに訪れた。社長以下、誰も赤字を経験したことがなかったために動揺し、リストラを断行したのです」
1度目は45歳以上が対象、2度目は30歳以上まで引き下げられた。2度目のときに、俣野氏もリストラ候補者のリストに名前が挙げられた。
「私がベンチマークにしていた社員が、人事の圧力に屈して次々に辞めさせられるのを目の当たりにして、恐怖を感じました。このままではまずいと思い、転職や起業も考えました。しかし、それまで各部署を転々としてきた私には専門性と呼べる能力はありませんでした。
転職も起業も難しいとわかり、悶々としていたとき、会社が止血作業の一つとして社内ベンチャー制度を設立したんです。これは社内で有志を募り、新たなビジネスを始めようという制度です。古い会社ですから、そういったものが採用される機会はこれまでなかったのですが、時代の隙間というんですかね。試しにやってみようということになった。僕はそれに手を挙げたんです。
決して希望に満ちていたわけではありません。ベンチャー制度に手を挙げるということは、片道切符で関連会社へ行くということ。2年以内に結果を出せなければクビです。しかし、僕はその制度に頼るしかなかった。失敗する恐怖は当然ありましたが、本社に残っていても先は見えていましたからね。僕にとっては千載一遇のチャンスだった」
俣野氏が手がけたのは、時計のアウトレット流通をつくるというもの。これが大当たりした。それまで在庫処分に苦慮していたシチズン時計を救う新たな事業として成長し、俣野氏は33歳でグループ最年少役員に、40歳でメーカー本体の上級顧問となる。
「いま振り返ると、これはサラリーマンとしてやめずに粘り続けたからだと思います。仮にベンチャー制度を利用せず、無鉄砲に独立して、果たしていまの自分があるか。可能性は低いでしょう。
サラリーマンはある意味会社に守られた存在。組織の力が不得手をカバーしてくれる分、個人の強みも伸びにくい。会社のなかの『置かれた場所』で咲くためには、まずは現状の認識が重要です。置かれた環境でどこまで自分の強みを伸ばし、会社に貢献できるか、それを見極めることです」
■ピンチをチャンスに変えよう
会社内ではないが、下町の小さな町工場という逆境で咲いた例もある。
「痛くない注射針」の製造などで知られる岡野工業社長の岡野雅行氏(80歳)。従業員4人の墨田区の町工場に、今月の8日には安倍首相が、過去には小泉元首相も視察に訪れた。
岡野氏が語る。
「刺しても痛くない注射針のときには、『世界一細い』というのが気に入ったんです。発注元は『100社回ったが、製造を引き受けてくれる工場がない』と言う。しかも、大学の先生が机の上の理論だけで、『そんな注射針などできっこない』と断言した。俺はね、『誰もできない』と言われると、がぜんやる気になってくる。それだけ製造技術に自信がありましたしね。うちはものづくりの駆け込み寺のようなものです。
ただ、実用化までの数年間、発注元からは1円ももらってないんです。リスクをとって死ぬ気でやらなければ、人と違うことなんてできるわけがないですよ」
「世界一」とまで言われる技術力はどのように培われたのか。
「45歳までは失敗の連続だったよ。大企業に騙されっぱなしです。注文を仕上げて持っていけば、ノウハウだけ全部持っていかれて、おカネは1円ももらえなかった。いまでこそ名の通った会社ですけど、ものづくりを始めて30年間は、そんなことの繰り返しでした。でも、騙されるたびに勉強をした。その意味でも、誰もできない技術を可能にしているのは、知識じゃなくて経験だと言えるね。
もう一つ重要なのが、人との対話力、世渡り力と言えばいいかな。俺は子供の頃から、下町というこの土地でそれを鍛えられた。世渡り上手の人には、多くの人が寄ってきて、最新の生きた情報も集まる。実は職人の世界もそうなんだ。職人は腕さえ良ければいいというものではない。技術だけなら俺より腕がいい人はいた。ただ、彼らと俺の違いは人付き合いの良さと情報力だと思う。職人の世界でもビジネスの世界でも、重要なのは義理と人情。自分だけもうければいい、という考え方は良くないし、通用しないよ。
人間は不遇のときにこそ、価値が問われるんだ。失敗を繰り返して多くの人が諦めてしまう地点が、俺にとっての出発点となる。むしろ、そこからが勝負になるんです」
逆境に直面したとき、腐るのか、それともうひと花咲かせるのか。それは、置かれた場所で明るく楽しく頑張れるかどうかにかかっている。
「週刊現代」2013年6月29日号より
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