01. 2013年6月28日 08:44:21
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【第1回】 2013年6月28日 佐和隆光 アベノミクスが目論む国家資本主義の復活【前編】 「失われた20年」を経て、これほどまでアベノミクスが歓迎されたのはなぜか?安倍晋三首相の黒子参謀の作戦もさることながら(後編参照)、リベラル色が色あせ経済無策であった民主党が、有権者の声なき声に鈍感であった影響が色濃いーーと分析するのは、『日本経済の憂鬱 デフレ不況の政治経済学』(6/27刊行)の著者・佐和隆光教授だ。同書におけるアベノミクス分析のエッセンスを、前後編でお届けする。正体不明のアベノミクス 6月27日、私にとっては3年半ぶりの書き下ろし『日本経済の憂鬱〜デフレ不況の政治経済学』を上梓した。執筆が峠を越すかに思えた咋年12月、衆議院議員選挙で自由民主党が圧勝し、3年3ヵ月ぶりに政権が交代した。安倍晋三首相は、脱デフレの経済対策を最優先課題と位置づけ、アベノミクスという用語がマスコミをにぎわした。当初、私にとって正体不明だったアベノミクスの本性を政治経済学的に解き明かすことが、本書の目指したところである。 そのために、保守主義、リベラリズム、リバタリアニズム、社会民主主義、社会主義市場経済など、政治・経済体制を下支えする理念・思想を対比させ整理したうえで、1993年の細川内閣発足による「55年体制」の崩壊から今日に至るまでの、日本政治の20年史を振り返った。次いで、高度成長期、オイルショック克服、バブル経済の宴、それ以降の長期低迷といった日本経済の躍進と挫折の歴史を総括した。 そして、「失われた20年」を経たのちに登場した安倍政権のアベノミクスの正体を私なりに解き明かし、その本性を「国家資本主義」と見定めた。個人主義、自由主義、民主主義という(少なくとも私には)普遍的と思われる価値を脅かす憲法改正への「必要な経過点」として、アベノミクスを位置づけたのである。 繰り返しになるが、事の始まりは、昨年末の衆院選だった。自民党が圧勝、民主党は惨敗を喫した。そして12月26日、安倍内閣が「3本の矢」による脱デフレを金看板にかかげて登壇したのである。 インパクトがもっとも大きかったのは第1の矢「大胆な金融政策」だった。2%のインフレ目標が達成されるまで無制限の量的金融緩和(銀行からの国債買い上げ)、すなわち「異次元」金融緩和を推し進めるとの黒田東彦日銀総裁の声明を、株式・外国為替市場とも好感をもって受け止め、5月22日までは株高と円安が一本調子で進んだ。 続く第2の矢「機動的な財政政策」では、2012年度補正予算と13年度本予算で「国土強靭化」の名のもと公共事業費が大盤振る舞いされた。肝心の第3の矢「民間投資を喚起する成長戦略」は、第1弾、第2弾、第3弾と3段ロケットさながら放たれたのだが、その効果についての評価は割れている。 アベノミクスが歓迎された背景には、無理からぬ日本の事情がある。 1991年3月にバブル崩壊不況に陥って以来、実質経済成長率は平均年率0.9%、名目成長率はマイナス0.2%といった有り様。雇用者に占める非正規雇用者の比率は、1995年に20.8%だったのが、2013年には36.2%にまで膨れ上がった。この間、雇用者数そのものは、ほぼ一定数を保っている(労働力調査)。それも非正規雇用者のうち、5人に1人は正社員の仕事にありつけず仕方なく――好き好んでではなく――非正規の仕事に就いている潜在的失業者とのことだ。1999年度以降、2007年度をのぞき、賃金は下がり続けている。大学生の多くは就職難にあえぎ、低賃金労働に甘んじざるをえない中高年者も多い。 老若を問わず、生活苦、失業、事業不振、就職失敗など「経済・生活問題」に根ざす自殺者数が増加している。ゼロ成長と正規雇用の絞り込みがもたらす、人びとの「苦しみ」と「痛み」は極限にまで達していた。にもかかわらず、日本人はなぜか寡黙だ。逆に、政治家も経済学者も「声なき声」を聴くに足るだけの感性を欠いていた。 経済無策だった民主党政権 民主党が圧勝した2009年衆院選マニフェストはリベラル色が横溢(おういつ)した立派な出来だった。だが、過度に分配面に重きが置かれ、成長と雇用の具体的施策については、ほとんど言及されていなかった。 もともとリベラル派政権は、経済成長と雇用創出にもっとも重きを置き、累進課税などによる所得格差の是正、社会的弱者の救済、地球環境の保全などを政策綱領に掲げるのが尋常である。民主党政権が策定した「日本再生戦略〜フロンティアを拓き、「共創の国」へ〜」(2012年7月31日閣議決定)の成長戦略は、実のところアベノミクスの第3の矢で表明された成長戦略の内容と大差なかったのだが、消費税増税法案の審議の真っ最中、とても戦術を練る暇はなかったのだろう。 緊縮財政は保守派政権の専売特許だ。また歳入増を図るには、消費税増税ではなく富裕層増税を優先するのが、リベラル派政権の定石なのだ。にもかかわらず、自民党の保守派政権ですらためらい続けた消費税増税に、民主党政権の運命を賭して臨んだ野田佳彦首相(当時)は、リベラリズムとは一歩も二歩も距離を置く、保守派政治家以外の何者でもなかった。菅直人元首相もまた、消費税増税を掲げて2010年参院選を戦い、予想どおりの敗北を喫し、その後の民主党政権の足かせとなった痛恨の「衆参ねじれ」の元凶となった。民主党政権を当初率いた鳩山由紀夫は、正真正銘のリベラリストであると同時に理想主義者である。他方、菅と野田は、理念や思想とは無縁な現実主義者にほかならなかった。 2012年衆院選における民主党大敗の原因は2つある。1つは、リベラル派政権としてのアイデンティティを失ったこと。消費税増税はその証左である。もう1つは、成長と雇用への配慮を欠く「経済無策」に終始したこと。物いわぬ有権者の我慢も限界にきていた。 *後編(7/1公開予定)に続く。本記事は『経』7月号にも掲載します。 <新刊書籍のご案内> 日本経済の憂鬱 デフレ不況の政治経済学
【第65回】 2013年6月28日 森 達也 [テレビディレクター、映画監督、作家] 安倍首相、ご厚意ありがとう。 でも歳も近いあなたに指導されたくない 僕もよくブサヨとか書かれるけれど……
今月も締切が近づいた。でもまだ原稿には手がつけられてない。困った。テーマくらいは決めなくては。そう思っていたら、担当の笠井一暁から以下のメールが来た。 5月号のテーマについて、「憲法」はいかがでしょうか。安倍首相は、96条の改正を叫んでいますが、「国民は憲法についての意思表示をする機会を奪われていた」というような彼の主張には、個人的にはまったく納得できるものはなく、ただの詭弁としか思えません。 「改憲を掲げた自民党が圧勝したことが民意の反映」ということなのかもしれませんが、だからといって、憲法改正手続きのハードルを下げることが、国民が意思表示をする機会を担保することになるのかといえば、やはり違和感が拭えません。それに、(国会議員や裁判官その他の公務員たちは憲法を尊重して擁護する義務を負ふと定められた)99条のことを考えれば、総理大臣自らが「憲法を変えやすくしよう」と叫ぶのは、どうしても納得ができないのです。 ご存知と思いますが、安倍首相は講演会で「キラキラネームをつける親を指導しなければいけない時代になった」と発言してしまうような人で、どうしても国家権力と国民の関係を勘違いしているのではないかと考えてしまいます。しかし、そんな安倍首相と自民党が支持されているわけで、その現状を考えると本当に哀しくなります。でも、それでも日本人の復元力を信じたいという気持ちを捨て切れません。 うーむ。相変わらず笠井はラジカルだ。僕もよくネットなどでブサヨとか書かれるけれど、笠井は明らかにそれ以上だ。時おり自分が彼に操られているような気分になる。つまり笠井はプロデューサーだ。僕は水。自由に流れているようだけど、実は(ある程度の)水路がある。その水路を作るのは編集者だ。 これはメディアの本質でもある。事件などがあると新聞やテレビはよく識者の意見としてコメントを紹介するが、まったく無作為に識者を選んでいるわけではもちろんない。この人ならこのようなことを言うだろうと記者やディレクターは予測している。そのうえで連絡して、話の流れを誘導しながら自分が欲しかったコメントだけを採用する。あるいは両論併記として配置する。つまりこの場合の識者は、記者やディレクターの代弁者でもある。ならば自分で言えよと思うけれど、誰かを使うことでメディアの中立公正性が担保されているということらしい。 また揚げ足取りが始まったと感じるだろうが…… 話を戻す。いずれにせよ憲法について考えることは(今だからこそ)重要だ。だから今回も笠井の提案した水路を流れるけれど、その前にキラキラネームについて補足する。昨年11月に東京都内で開かれた講演会で安倍自民党総裁(当時)は、「子どもに「光宙」と書いて「ピカチュウ」と読む名前を付ける親がいる。これ「キラキラネーム」っていうんですよ。つけられた子の多くはいじめられています。「愛猫」と書いて「キティ」、「礼」と書いて「ペコ」と呼んだりする親もいる。ペットじゃないんですから。そういう親も指導しなければいけない時代に、もう来ているのかなと思う」(朝日新聞2012年11月16日)と発言した。 確かにきらきらネームが増えているとの話はよく聞く。でもピカチュウとかキティとか、本当にそんな名前の子どもがいるのだろうか。安倍首相は同じような趣旨をメルマガでも配信している。でもこの情報のソースは示されていない。ネットで調べたら2010年6月21日の産経新聞に掲載されていた文章が見つかった。書いたのは(新しい歴史教科書を作る会の元副会長である)高橋史朗親学推進協会理事長だ。その一部を引用する。 これは、わが国が人間関係の絆が最も希薄化している結果といえます。わが子に輝宙(ぴかちゅう)、愛猫(きてぃ)と名付けた親がいますが、女の子の夢の変遷調査で「いいお母さんになりたい」が消えたのも当然の結果といえるでしょう。 ……「当然の結果」との断定は少し早計すぎやしないかと思うけれど、いずれにせよ(断定はできないけれど)安倍総理のソースはこれじゃないかな。「ピカチュウ」と「キティ」が符合する。でも「ペコ」はない。他にもソースはあるのだろうか。それにこれがソースの一つだとしても、今度は高橋理事長の情報ソースがわからない。まあでもきりがない。何らかのソースがあったのだろう。この名前を付けられた子どもは実在するのだろう。その前提で思うけれど、確かに僕もこれらの名前はどうかと思う。もしも友人から「生まれた子どもにピカチュウという名前を付けることにした」と言われたら、「ちょっと待てよ」とか「先のことを考えたのか」と言いたくなると思う。 もちろんそれは、編集者であると同時に2人の子どもの父親でもある笠井も同様のはずだ。安倍首相の発言で笠井が(そして僕も)気になるのは、「そういう親も指導しなければいけない時代に」とのフレーズだ。子どもをピカチュウと呼ぼうとする友人に「何考えているんだ」とは言うかもしれないけれど、彼を(年少であろうが後輩であろうが)指導しなくていけないとは僕は考えない。そもそもこの場合に友人に対して使う言葉として、「指導」は僕の語彙にはない。もちろん為政者と国民の関係は、友人関係と同じではない。国が誤った方向に進もうとするとき、その方向ではないと声をあげることは、為政者にとっては大事な使命だ。でもそのときに使うべき言葉は、少なくとも「指導」ではない。 ……ここまでを読みながら、森をブサヨとかカスとかゴミなどとネットに書き込む人は、また揚げ足取りが始まったと感じているだろう。認めるよ。確かにその要素はある。でもここで「指導」という言葉を(おそらくは無自覚に)口にしてしまう意識は、本質に繋がっている。これから始まる憲法改正という本質に。 かつては政治家が口にするだけで 問題視される雰囲気が確かにあった 憲法改正は自民党の党是だ。つまり理念。結党の翌年である1956年には、早くも「憲法改正の必要と問題点」という中間報告をあげている。その後も「憲法改正大綱草案(試案)」(1972年)や「日本国憲法総括中間報告」(1982年)と続き、2000年には憲法改正調査会を設置した。 その延長に新憲法草案がある。 長く自民党の党是ではあったけれど、かつて憲法改正は、政治家が口にするだけで問題視されるような雰囲気は確かにあった。つまりタブーに近かった。それはそれで健全な状態とは言えない。もっと自由に議論されるべきだったとは思う。 でもタブーになりかけていた理由はある。改正を口にする自民党政治家の本音は、武装放棄を謳った憲法9条(特に2項)を変える(もしくは削除する)ことに主眼があった。それは見え見え。そしてかつてこの国の多くの人は、(自衛隊は確かに存在しているけれど)9条は現状のままであるべきだとの思いがあった。9条を変えたいとの狙いが見え見えであるからこそ、それは議題にすべきではないとの反射が社会の底流として働いていた。 でもそれも今はもう昔話。特にオウム事件以降、見えない敵の存在に怯えて集団化を進めてきたこの国は、北朝鮮や中国からの軍事的プレッシャーへの反発を燃料にしながら、この国も武力を行使して自分たちを守らねばならないとの意識に急激にスライドした。現状において安倍総理は参院選をにらみながら、まずは憲法改正要件を規定した96条を改正すべきと主張している。憲法を変えるためには、変えるための手続きを簡単にしなければならない。一見は論理的だ。でも本来であれば、憲法のどの部分にどのような不都合があるから変えようとの合意形成がまずあってから、改正のための手続きに不備があるかを考え、もし不備があることが明らかなら、現行憲法の規定に従って変える。この順番であるはずだ。 9条がなければ拉致問題は起こらなかった!? 新聞によれば、2013年1月30日の衆院本会議で、安倍首相は日本維新の会の平沼赳夫国会議員団代表からの(憲法改正の)質問に対して、「党派ごとに異なる意見があるため、まずは多くの党派が主張している96条の改正に取り組む」 と答弁した。つまり9条については党派ごとに足並みが揃わないから、まずは合意形成がしやすい96条改正から着手するとの意味合いだ。答弁というよりも宣言に近い。同じく憲法改正を掲げる日本維新の会ならではの質問だろう。 その日本維新の会の石原慎太郎共同代表は、総選挙の投票日を目前にした2012年12月12日に福岡市内で行われた街頭演説で、「憲法9条があるからこそ、私たちは、多くの同胞がさらわれて殺されても抗議して取り返すことができない」「(憲法9条を)世界に約束しているから、(北朝鮮は)勝手気ままに日本人を連れて行って殺されている」などと発言した。 もしも本気で言っているのなら、暴走以前に思考回路のねじが外れかけているのではないかと思うけれど、やっぱり本気なのだろうな。そしてこれを聞いた多くの人たちが、「そうだそうだ。9条なんかなければ拉致問題は起こらなかったのだ」と思ったことは、その後の選挙の結果として明らかであるということになる。 もう一度書く。彼らの標的は9条だ。でも(石原議員などを例外として)まだ迂闊には口にできない。機は熟していない。だからまずは96条改正に着手して改正要件のハードルを下げる。ハードルは下げながら改正へのステップを上がる。こうして少しずつ反対意見を封じ込める。とても周到だ。いろいろ外堀を埋めようとしている。ウェブに掲載されている自民党の憲法改正草案から引用する。 また、世界の国々は、時代の要請に即した形で憲法を改正しています。主要国を見ても、戦後の改正回数は、アメリカが6回、フランスが27回、イタリアは15回、ドイツに至っては58回も憲法改正を行っています。しかし、日本は戦後一度として改正していません。 (日本国憲法改正草案Q&A) こうした事例を挙げながら自民党は、日本の憲法改正要件は諸外国に比較しても例外的に厳しすぎるとして、(改憲の発議要件を国会議員の)3分の2以上から過半数に緩和すべきであると主張する。 でもここで例として挙げられたアメリカやフランス、イタリアやドイツが、過半数制を採用しているかといえば、それはまったく違う。諸外国の圧倒的多数は日本と同様に、3分の2かそれ以上の発議要件を定めている。つまり硬性憲法だ。 例えばアメリカは上下両院の3分の2以上の賛成で改憲を発議して、さらに全50州のうち4分の3以上の州議会で承認される必要がある。しかも修正された場合にも必ず元の文は条文に残すことが決められている。ドイツでは連邦議会および連邦参議院それぞれ3分の2以上の賛成が必要とされているし、フランスは両院の過半数に加え、両院合同会議の5分の3以上の承認が必要とされている。軟性憲法の代表国はイギリスとよく言われるが、イギリスの憲法は他国のような成文形式ではなく、当時の国王(為政者)の権力を契約や法で縛って制限することを宣言したマグナカルタも含めての多くの条文が、その機能を担っている。 ドイツで頻繁に改憲が行われている理由のひとつは、憲法が通常の法律のように、細かい点まで条文で規定しているからだ(ドイツの憲法は正しくは基本法と呼称されていて、日本の4倍のボリュームがある)。しかもドイツでは東西ドイツの統合があったし、ヨーロッパで全域では欧州連合の統一があった。国のありかたが変わったのだから、憲法改正が行われて当然だ(ただしドイツやフランスでも、国家の基本原理に関する改正は安易に行われないことが条文で決められている)。 ちなみにドイツでは、改憲の際には国民投票が行われない。その根拠と経緯については諸説あるようだけど、かつて世界で最も民主的な憲法と言われたワイマール憲法を掲げながら結局はナチスに熱狂して投票で第一党にしてしまった自分たちへの反省が、その底流に流れているのではないだろうか(知り合いのドイツ人からは、確かにその要素もあるよと同意された)。 つまり集団になったときの自分たちを信用していないのだ。 もしそうだとしたら、彼らの自分たちへの絶望は凄い。そしてリアルすぎるほどに正しい。人は集団となったときに間違える。もちろん個人も間違えるけれど、集団の過ちは取り返しがつかないほどにダメージが大きい。だからこそ1968年に行われた基本法改正でドイツは、独裁制や専制政治的な動きが権力サイドにあると判断されたときは、すべてのドイツ国民にそれに抵抗する権利を保障する「抵抗権」を、第20条に加えている。 自民党が目指す憲法改正で何が変わるのか かつて改憲論者の理論的支柱の一人だった小林節慶応大教授は、改憲をめぐる現状の動きについて、「立憲主義を無視した邪道だ」と断じている。 憲法とは、主権者・国民大衆が権力者を縛る手段だ。だから安易に改正できないようになっている。改憲マニアの政治家たちが憲法から自由になろうとして改正要件を緩くしようとするのは愚かで危険なことだ。 (東京新聞2013年4月13日) 現状において小林教授は決して護憲派ではない。9条は改正されるべきと主張している。でも現状の動きは容認できないとも口にする。 そして僕も、(9条は別として)決して護憲派ではない。戦後70年近くが過ぎるのだ。多少の微調整は当たり前だ。でも自民党が目指す形は微調整(改正)ではない。改正草案の前文の末尾は、「改正する」ではなくて「制定する」で終わっている。これは揚げ足取りではない。新たな憲法を制定しようとする本音が滲んでいる。何かを根本的に変えようとしている。では何が変わるのか。 そのヒントは冒頭にある。現行憲法の前文は「日本国民は」で始まっている。そして草案の始まりは「日本国は」だ。つまり主語が変わっている。国民ではなく国家なのだ。ならばその後に続く物語はまったく変わる。 例えば人権保障の基本原則を定めている現行憲法第12条における「(国民の権利や自由は)公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」を、改正草案は「公益及び公の秩序に反してはならない」へと変えている。 公益および公の秩序。それは誰が決めるのか。あなたやあなたと志を等しくする政治家たちなのか。あなたたちは僕たち国民を「指導しなければいけない時代になった」と考えているのだろうか。そう考えながらあなたたちは、公益や公の秩序という曖昧なラインを設定するのだろうか。他にも改正草案は、第24条「家族、婚姻等に関する基本原則」に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」などの条項を加えている。 家族が助け合う。それは当たり前のこと。憲法で規定されることではない。まさしくこの思想は、キラキラネームを子どもにつけるような親に対しては自分たちが指導しなくてはならないとの意識とリンクしている。 もう一度書く。ニュアンス的に揚げ足取りであることは自覚している。おそらくは安倍首相も、深く考えずに「指導しなくていけない時代に」と口走ったのだろう。でも深く考えなかったからこそ、本音が滲みだしたとの見方ができる。表現の自由を定めた憲法21条には、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との条項が追加された。やっぱり公益及び公の秩序だ。だから僕もやっぱり同じことをもう一度質問する。その基準は誰が決めるのですか?ただしその答えはわかっている。新しい日本国憲法の主人公。つまり国家が決めるのだ。 憲法は政府(権力)を制限し、個人の人権を守るために存在する。つまり立憲主義だ。でも自民党はこの向きを逆転しようとしている。ならば憲法の存在意義が消える。あまりに無知すぎる。ただし悪気はないのだろう。自分たちが指導したほうが国民は幸せになると、彼らは本気で思っている。いわば善意だ。 ご厚意ありがとう。でも僕は指導されたくない。もう50代も半ばを過ぎた。あなたとはほとんど同年だ。今さら中学生のように指導されたくない。「家族は互いに助け合わなければならない」などと言われたくない。自分で考えたい。自分で決めたい。その責任は自分で負う。そんな国のままでいてほしい。 (ダイヤモンド社PR誌『経 Kei』5月号より転載) |