01. 2013年6月14日 06:44:48
: e9xeV93vFQ
円安で輸出が増える? それは昔の教科書に書いてあったことです!円安が企業にもたらす真の影響(第3回) 2013年6月14日(金) 岩村 充 企業のビジネスを巡って日々流れるニュースの中には、今後の企業経営を一変させる大きな潮流が潜んでいる。その可能性を秘めた時事的な話題を毎月1つテーマとして取り上げ、国内有数のビジネススクールの看板教授たちが読み解き、新たなビジネス潮流を導き出していく。 今月のテーマは、安倍晋三政権が推進する経済政策「アベノミクス」によって急激に進んだ円安。企業の輸出が回復し、業績の回復や雇用の拡大につながるといった理由から、円安を歓迎する声も多いが、果たして本当にそうなのか。円安が国内企業にもたらす真の影響について、国内ビジネススクールの教壇に立つ4人の論客たちに持論を披露してもらう。 今回は、早稲田大学大学院商学研究科(早稲田大学ビジネススクール)の岩村充教授が登場。円安がもたらす企業の好決算の中身には精査が必要と説く。 (構成は小林 佳代=ライター/エディター) 為替レートには、時系列の中で徐々に変化していく「傾向」としての変動と、水準そのものが不連続にポンと変わる「ジャンプ」とがあります。今回、1ドルが80円を切るかどうかという為替レートの水準が、100円台まで2割以上も下がったのはジャンプに当たります。 為替レートがこれだけ大きく変動すると、当然、企業の経営に影響が生じます。ステレオタイプな見方は、円安になれば輸出産業が復活する。企業の業績が改善して景気が良くなる。日本経済の押し上げにつながるというものですが、私は、現実をよく知っている企業の経営者たちは、それほど将来を甘く見ていないと思います。 円安の影響を受けて、2013年3月期決算で増益を発表する企業が多かったのは確かです。でも、その中身には精査が必要です。 為替レートがもたらす変化の3つのポイント 為替レートの変化が企業収益にもたらす変化には、3つのポイントがあります。第1に「在外資産の評価益」、第2に「海外事業利益」、第3に「輸出利益」です。1つずつ見ていきましょう。 まず在外資産の評価益。日本のグローバル企業は海外に工場やオフィスの土地、建物、設備など、膨大な有形固定資産を持っています。調べてみると、自動車メーカーでは日本円にして2兆円を超える海外資産を、電機メーカーでも数千億円の海外資産を有しているところがあります。こうした海外資産のほとんどは現地法人が所有し、ドル建てになっているはずです。 例えば1兆円分のドル建て資産を持っている場合、為替レートの変動で日本円が20%減価すると、2000億円の評価益が生じます。この評価益は事業活動とは全く無関係に生じる利益です。その全部が直ちに今年度の決算に現れるとは限りませんが、それが現れる時には営業利益の後段階で足される特別利益などとして最終利益に影響することになるでしょう。 為替のジャンプが起きた年には、このような資産の評価差損益が出ます。2012年度に最高益を更新した企業の中には、こういう事情が影響したところもあったのではないでしょうか。ただし、こうした在外資産の評価益が決算に影響するのは1回きりのことです。要するに宝くじに当たったようなもので、次年度以降の利益には影響しません。ですから、その前の年度との比較では今度は減益要因になってしまいます。 営業利益に影響するのは第2の海外事業利益と第3の輸出利益です。 まず、海外事業利益から見ていきましょう。この20年ほど、日本企業は海外生産に軸足を移してきました。その海外で上げた事業利益を日本円で換算した時、円安であれば数字がかさ上げされて増益となります。ただ、実際の事業活動の規模や採算が向上しているわけではありません。また、2013年度以降も円安基調が続けば、数字のかさ上げは続きますが、前期比伸び率は横ばいになります。 もう1つの輸出利益は、日本の工場で生産した製品を海外に輸出し販売した場合に生じる利益です。円安に振れた時に、現地で以前と同じ売価で売れば、利幅が増えます。 例えば、売上高原価率60%で作っている製品を米国で100ドルで売っているとします。これまでの粗利益は「100−60」で40ドルでした。ところが、円が20%安くなると、日本円に換算した売上高も2割かさ上げされますから、「120−60」で粗利益は60ドルになります。5割も増益になるのです。 この輸出利益に関しては、2012年度決算でも多少の影響があったと思いますが、まだ、効果は出きっていません。本格的に効いてくるとしたらこの後です。また、現地価格を据え置くのではなく、円安で採算が良くなった機をとらえて現地での売価を引き下げて販売シェアを増やすことができれば、事業活動の拡大に成功したわけですから、それは喜んでいいと思います。けれど実際には、今の日本企業がそれを実現するのはなかなか難しいでしょう。 日本が輸出しているのは価格弾力性が低いものばかり 例えば、トヨタ自動車は現在、「レクサス」ブランドの車を主に日本で生産し、専用船に載せて輸出しています。円安の機をとらえて、米国で「ドル高還元セール」をやったら、レクサスは一気に販売シェアを伸ばせるでしょうか。ほとんど変わらないと思います。こうした富裕層向けのラグジュアリー車は、円安で価格競争力が高まったからといって、簡単に現地販売台数を増やせるようなものではないはずだからです。 安倍晋三政権は「クールジャパン」とうたって、日本の文化やファッション、アニメなどを海外に発信しようとしていますが、アニメを安く売ったって、視聴率は上がりません。これも国内の雇用改善には結びつないのです。 このように、現在、日本から輸出しているのは価格弾力性が低いものが中心です。円安になって価格競争力が高まることで売れ行きが良くなる商品というのは、そうそうは思いつきません。その手の商品は既に中国や韓国に取られてしまいました。 むしろ、日本企業の経営者が注目しているのは米国内の景気でしょう。米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が量的緩和の「出口戦略」を示唆しただけで米国の株式市場が揺れるのを見て、「困ったな、これで消費者心理に陰りが出たらどうしよう」とは思っているかもしれない。けれど円高か円安かということを、自社製品が海外で売れるか売れないかということに直結して考える経営者は少ないのではないでしょうか。 日本の輸出品が鉄鋼、繊維、化学などの素材系の商品が中心だった時代は、今とは全く様相が異なりました。素材は、価格が安ければ売れるし、高ければ売れません。円安でドル建て価格を下げることができると、輸出が増え、米国でのシェアがぐんぐん上がります。そうすれば輸出品を作っている日本の工場の稼働率も上がって、労働者の賃金が上がり、下請けも儲かる。文字通り、景気に影響します。 ですが先に説明したように、今の日本の輸出入構造はこうではありません。「知識集約産業」の構築に邁進してきた結果、今では、日本の港から輸出される製品の中で、素材系の商品はほとんどありません。逆に素材は中国、韓国、台湾などから輸入しています。こうなると、円安はコスト高要因になってしまいます。 今回、円安に振れる過程で、世界で進む「シェールガス革命」を背景にエネルギー価格が低下していたのは、本当にラッキーだったと思います。もし、低下していなかったら、円安によるコスト高というマイナス面が一気に噴き出していたでしょう。 ボーナスは増やしてもベース賃金は変えない 円安になったから輸出が増えるというのは、昔の教科書に書いてあったことです。ですから、円安だ、増益だ、と言っても、企業経営者は浮かれてはいない。甘い見方はしていないはずなのです。 これまで説明したような文脈で、自らの将来を厳しく見ている経営者は、恐らく夏のボーナスは増やすけれどもベース賃金は変えないという判断をするでしょう。引き続き、日本企業が置かれている厳しい経営環境を労働組合にも理解してもらおうという考えだと思います。 そうなると、サラリーマンもそうそう浮かれてはいられません。「そろそろ車の買い換え時期だけど、今年はちょっと様子を見よう」となるはずです。 メディアでは高級輸入ブランドの人気が復活していると報じています。これは景気回復とはまた別の要因でしょう。そこには「起こるかどうか分からないが本当に大インフレが起こったら大変だ、資産性のある宝飾品やブランド品は今のうちに買っておこう」といった、一部の富裕層独特の心理が働いているだけではないかと思います。株やREITが値を上げるのと同じ構図が働いているだけのことです。 企業の増益決算が続いたといっても、景気が良くなっているわけではありません。財務会計的な意味での企業収益の動向と実体経済の好不調、つまり景気の動向とを区別して見ていくことが必要です。工場の稼働時間は増えているのか、モノは実際に売れているのか、要するに、事業活動が拡大しているのかがポイントです。 円安が進む中で株価も上がりました。ただし東京証券取引所に上場する企業では外国人持ち株比率が30%近くもあります。大企業の場合はもっと高く、50%を超える企業もあります。大きな株価上昇は主に大企業で起こったことを考えると、株価上昇による資産効果の3分の1ほどは外国に流出しているはずなのです。株価が上がった資産効果で消費が活発化して景気が回復に向かうという見立ても、楽観的すぎると思います。 次回は企業経営から離れて、為替レートが大きくジャンプした背景などを解説します。 (次回は6月17日月曜日に岩村教授の論考の後編を掲載します) MBA看板教授が読むビジネス潮流 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130611/249509/?ST=print
円高93円台、企業が不安定な為替に戸惑わないために
副作用伴う「ネガティブな円安」にも注意 2013年6月14日(金) 深谷幸司 円相場の乱高下が止まらない。13日の外国為替市場では、急速な円高が再燃し、一時1ドル=93円後半と、日銀が「量的・質的金融緩和」の導入を決めた4月4日以来、約2カ月半ぶりの円高水準となった。5月下旬には、103円台後半にまで円安が加速していたが、その後は大きな値動きを伴いながら、調整圧力が強まっている。株式市場では、この円高が嫌気され、日経平均株価は前日比の下げ幅が800円を超える大荒れとなった。 円相場は93円台まで急ピッチで調整 円の対ドル相場と日経平均株価の推移 この背景には、米国で量的金融緩和の縮小観測が台頭したことで、株式などリスク資産への投資ポジションを圧縮する動きが活発化したことがある。これが外国人投資家や投機筋による日本株の利食い売りに波及。さらに外国為替市場でも投機的な円売りポジションの手仕舞いや、円の買い戻しにつながった。また、アベノミクスの「3本目の矢」である成長戦略に対する失望や、日銀の金融政策の限界を改めて認識した結果でもあろう。 前回のコラム(今までとは異質な「これからの円安」を考える)で、円の対ドル相場の購買力平価は「95円前後」であり、そこから先の円安・ドル高のペースは緩慢になって然るべきだ、と記した。 乱高下するも円安・ドル高傾向は今後も不変 今回の円高・株安の荒い値動きは、それまでの「行き過ぎた円安の調整」と言える。内外金利差は拡大しておらず、投資資金が海外に流れにくい環境は続いている。単なる円安期待で加速した過剰な投機的円売りに巻き戻しが生じても当然だろう。水準自体も、購買力平価で見た95円前後から大きく円高が進まなければ、過度に不安がることはないと見ている。 しかも、今後想定される内外のファンダメンタルズ面や金融政策面の格差を踏まえれば、大きな流れとしての円安・ドル高トレンドは不変と見られる。足元の円買い材料とされている、米量的緩和の縮小観測は本来、米金利の上昇要因なのだから、長い目で見れば円安・ドル高を促していくことになる。 これまでの「ポジティブな円安」という印象が、「ネガティブな円安」に転換するリスクもある。安倍晋三政権が的確な成長戦略の具体策を打ち出せず、金融緩和の“カンフル注射”的な効果が剥落する中、財政悪化が進んだ場合に「悪い円安」に陥る可能性はあるだろう。 今回は、今後の円安が企業にもたらす影響や意味について考えてみたい。 2004〜07年の円安局面は「ダブルでおいしい」環境 昨秋以降の円安進行はこれまでのところ、輸出企業を中心に好意的に受け止められてきた。しかし、さらに円安が進むとすれば、今度は逆に事業環境の変化が企業経営の足かせになりかねない。 まずは過去を検証するため、2004〜2007年の円安局面の状況を、企業業績への影響や財務管理の視点を踏まえて振り返っておこう。 当時、世界経済の高成長は投資家のリスク選好を促し、株価の上昇とともに信用スプレッドが縮小した。企業財務面では、絶好の資金調達機会が提供されていた格好だ。 特に日本企業にとっては、滅多にない「ダブルでおいしい」環境が整っていた。輸出増加という数量面でのプラス効果と、内外金利差の拡大による円安の進行という収益率の面でのプラスである。 輸出増加により貿易黒字が右肩上がりで増加し、それに伴う円高圧力が増大する中でも、投機的な円売り、いわゆる「円キャリートレード」が活発化した。加えて、海外諸国の相対的な高成長や高金利を背景とした対外証券投資の活発化により、資本収支面での円売り増加でも円安が進んだ。 すなわち、世界経済の異例の高成長、新興国ブーム、クレジットバブル、円キャリートレード、これらすべてが日本企業にプラスに働いていたのが当時だ。空前の好環境、まさにバブルであった。 当時、輸出企業の財務担当者は円高リスクをさほど懸念することはなかった。好調な輸出・売上動向に支えられて体力が高まっていたこともあって、輸出のための為替予約(先物の円買い)を自然体で遅らせる動きが散見された。これらが為替需給面から円安に対する歯止めが掛かりにくい状況をもたらしていた。 唯一、国際商品相場の右肩上がりは、企業にとってコスト面での懸念材料となり、世界経済の恩恵にあずかりにくい内需型の企業にとって頭痛の種だった。 しかし、日本企業全体としては、ほかの好材料に相殺され、企業側からは「円高は確かに問題ではあるが、業績全体でカバーできているので大丈夫」という声がほとんどで、さほど問題とはなっていなかった。 今は世界経済が強くない中での円安 こうした状況を、昨今の円安・株高局面と比較すると、いくつもの違いが見えてくる。 まず、今の世界経済の状況は当時ほど強くない。先進国では成長率が低迷している。米国経済が相対的に強く、第1四半期こそ前期比の年率換算で2.5%成長だったものの、今年の成長率見通しは2%を大きくは超えない見込みだ。 欧州はマイナス成長が続いている。第1四半期もマイナス成長にとどまり、これで6四半期連続だ。 新興国も景気減速からの脱却が明確ではない国が多い。中国はなおも景気の先行きに不透明感が漂っている。1−3月期に続き、4−6月期も成長率は8%を割り込んだ状態が続き、やや鈍化する見込みだ。 足元の株安が始まった5月23日に日経平均が急落した際に、中国の製造業景況感指数の弱さが引き金の1つとなったことは記憶に新しい。新興国ブームという状態ではなく、むしろ「新興国ブームは終わったのか?」が市場のテーマとなっているほどだ。 クレジットバブルも見受けられない。リーマンショックを受けて、金融機関のスタンスは大きく変化した。投資のレバレッジ効果に対する規制意識は強く、特に欧米の金融機関はリスクテイクに慎重な姿勢を崩していない。 もっとも、先進国の中央銀行は金融緩和の継続・強化を続けており、リスク資産には追い風である。レバレッジの結果ではなく、債券市場から投資家が押し出される形で、グローバルにリスク資産に資金が流入しているのが特色だ。 円キャリートレードに関しては、「黒田緩和」によって円が唯一の「ファンディング通貨」、すなわち、ある特定の通貨を投機的に買う際の「売却通貨」、であるとの認識が固定化してきた。この点は前回の円安局面と同様である。 ただし、内外金利差が、特に先進国間でほとんど無い状態であること、そして、新興国や資源国もかつてほどの高金利ではなくなっていること、などが大きな違いだ。今回の円キャリートレードはさほど安定的ではなく、それによる相場の上下変動がかなり大きくなることを念頭に対処する必要があるだろう。 円安の悪影響を気にする必要 世界経済全体の流れは悪くはない。だが、相対的に堅調とは言っても、今のところさほど強いとも言えない米国経済だけが支える形になっている。前回の円安局面は強い実体経済主導のリスク選好が背景にあったが、今回は大きく異なる。輸出数量増や売上数量増は相応に見込まれるものの、これは競合国とのパイの奪い合いという側面が大きく、伸びるにしても緩やかだろう。 むしろ、直接的にも間接的にも、円安の悪影響を気にする必要が生じている。グローバルに見て、実体経済の強さからやや乖離するマネー主導のリスク選好だ。日銀による大胆な金融緩和が主導する円安は、企業にとって、特にコスト面を踏まえれば、手放しで歓迎できることではない。今後はコスト高に陥らないか、より神経を使う必要がありそうだ。 実体経済の弱さ、中でも中国経済の不透明感を背景とすれば、国際商品相場の上昇は限定的と見られ、この点は企業にとって、ある意味で救いではある。逆に言えば、仮に中国景気が今後、盛り返した場合、その恩恵を売り上げの面で受けなければ、企業にとっては結果的にコストプッシュによる収益悪化に苦しむ可能性が生じてくる。 多くの日本企業が、政治的な側面や国民感情の面から、中国ビジネスの拡大と中国国内での売り上げ増に支障を来たしている状況は、こうした観点からも懸念材料だ。 インフレ率の上昇懸念、金融引き締め、人民元高の容認、となると、中国からの輸入品は軒並み円建て価格が上昇する。企業は、中国からの輸入のみならず、全般的な円安による輸入コストの上昇に見舞われ、それを販売価格に転嫁できなければ、次第に収益率が圧迫されることになろう。 マクロで見ても、既に日本の貿易収支が大幅な赤字であることを踏まえれば、円安が好ましいとばかりは言えない。輸出国であれば円安が望ましいが、純輸入国である現在、通貨の購買力は維持されることが好ましい。特に現状では、電力関連のエネルギー輸入が増加しており、電力価格の上昇を通して企業も負担が増してくるだろう。あるいは家計も含めた経済全体のコストアップにつながる。 円安が原油の調達コストを押し上げ 円建てとドル建てで比べたブレント原油価格の推移 債券「バブル」は企業財務にマイナス それでも円安・ドル高がさらに進む可能性がある。米国経済が順調に拡大を続けてドル高の進行が実現する場合だ。米国のファンダメンタルズの回復は量的緩和の縮小につながる。米長期金利の上昇、日米金利差の拡大が円安・ドル高を促すというのがメーンシナリオだ。 一見、これは企業にとって好ましいシナリオかもしれない。しかし、この間の超低金利政策に慣れた世界からの決別は必然的に混乱を招く可能性がある。先進国の長期金利は、各国中央銀行の大胆な金融緩和によって大幅に低下している。その反転は大きなリスクとなり得る。 現在、金融市場を見回した場合、「バブル」の懸念が生じているのが債券市場だ。米国の量的緩和縮小は債券バブルの崩壊、あるいは金融正常化に伴う長期金利の上昇につながる可能性がある。 日本の債券市場は、日銀の“インフレターゲット導入”と国債大量購入の間で混乱している。米長期金利が上昇すれば、日本の長期金利も上昇圧力を受けるだろう。ただでさえ混乱している国内債券市場は、さらに困難に直面する可能性がある。 米国景気の堅調推移や円安・ドル高は、輸出企業にとって収益面でプラスとなろう。しかし、財務面では社債発行コストが上昇するなどマイナスの影響が生じ、原材料の輸入コストにも上昇圧力が掛かる。前回の円安局面と違って、様々な副作用を伴う円安・ドル高局面となりそうだ。 企業の現場からは、「昨年までの長引く円高・ドル安局面で、それに対応すべく、血のにじむような努力や断腸の思いでの決断を余儀なくされてきた」との声を多く耳にする。調達構造を変え、あるいは生産拠点をシフトし、円高・ドル安のリスクを極小化すべく動いてきたわけだ。 特にここ数年の円高局面では、中小・中堅企業の対応が際立っていた。その後だけに、逆に円安・ドル高となった場合のメリットを得られる可能性は小さくなっている。コストプッシュ面で割りを食う可能性もある。 総じて、企業にとっては、前回の円安局面に比べて、今回は目配せをしなければいけない点が多いことだけは確かだ。まずは会社全体の為替感応度が企業努力により良くも悪くも大きく変化している可能性を念頭に置く必要があるだろう。 さらなる円安進行というファンダメンタルズ要因が、金利や為替、商品市況、売上数量、仕入数量などを通じて企業業績に与える影響やリスクを、総合的にとらえておくことが肝要だ。 深谷幸司の為替で斬る! グローバルトレンド http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130613/249614/?ST=print
成長戦略、“失望”に3つの理由 参院選後に試される安倍政権の改革姿勢 2013年6月14日(金) 安藤 毅 安倍晋三内閣が14日に閣議決定する成長戦略の評判がいまひとつだ。アベノミクスの「第3の矢」と期待が膨らんでいたが内容に新味がなく、株式市場は今月5日の安倍首相の成長戦略に関する講演時から売り一色に。慌てた政権側が秋に設備投資減税を柱とする追加策を検討する考えを打ち出すなど、火消しに追われる事態となった。 これが「異次元の戦略」? 成長戦略は(1)「日本産業再興プラン」(2)「戦略市場創造プラン」(3)「国際展開戦略」の3つの柱からなる。(1)は企業再編や設備投資を促す法制度整備や国家戦略特区の推進、子育て支援の拡充などを明記。(2)では医療関連産業の活性化や電力システム改革、農業の競争力強化策などを掲げた。(3)ではTPP(環太平洋経済連携協定)など経済連携交渉の推進、インフラ輸出、クールジャパンの推進などを打ち出した。 内容は多肢にわたるが、ある財務省幹部は「各省が持ち寄った内容をつなぎ合わせるこれまでに世に出た戦略と変わり映えしない印象だ」と漏らす。 「株価はあまり気にしても仕方ないが、ここまで戦略の評価が低いとは想定外だった」。自民党幹部は苦り顔で話す。 安倍首相が異次元の金融緩和に続き、「異次元の成長戦略を示す」との考えを繰り返し表明し、期待をあおり過ぎた面もある。とはいえ、市場関係者や専門家から聞こえるのは「いい意味でのサプライズはない」「日本が直面する構造問題に取り組む姿勢が曖昧」といった厳しい意見だ。 様々な関係者の見方を大別すると、成長戦略が“失望”された背景には3つの理由がある。 まずは、日本株売買の7割を占める外国人投資家が期待する政策があまり盛り込まれなかったことだ。 成長戦略を議論してきた政府の産業競争力会議のある民間議員は今月初め、「海外投資家が期待するのは『課題先進国』の日本が変わりそうという分かりやすいメッセージ。それを事務方が理解しようとしない」と筆者に漏らしていた。 弱い改革メッセージ 具体的には、法人税減税、規制緩和、人口減少に備えた移民政策への取り組み、市場活性化につながる年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用対象の見直しなどが挙げられるという。 結果として、この民間議員の見立ては当たった。 法人減税は財務省が首を縦に振らず、あっさりと見送りに。移民政策を巡っては、政府は高度な技能を持つ外国人に関して永住に必要な期間を現状の5年から3年に短縮する方針だが、クレディ・スイス証券の白川浩道チーフエコノミストは「生産年齢人口の急激な縮小という課題に対する取り組みとしては弱い」と言い切る。 GPIFの本格的な運用改革については有識者会議で検討を進めることが成長戦略に明記されたものの、政府・自民内でもリスク投資拡大に慎重な意見が根強く、先行きは見通せない。 今月7日の大引けにかけ、GPIFが運用計画の変更を公表すると伝わったことが買い材料となり、日経平均株価が急速に下げ渋ったことは、こうした海外投資家の期待の現れ。裏を返せば、政府の慎重姿勢が明確になれば、大きな売り材料に転じる可能性もあるということだ。 2つ目の理由は、相も変らぬ省庁の縦割りの弊害がにじみ出てきた点だ。 その象徴が、規制改革論議の停滞だ。企業活動の自由度を高める規制改革は潜在成長力を高めるカギ。だからこそ安倍首相は「規制改革は成長戦略の一丁目一番地」と位置付けてきたはずだ。 だが、参院選を控え、業界団体や経済界との対立回避を優先した安倍政権は最高裁判決を受けて解禁状態になっている一般用医薬品のネット販売解禁など小幅な緩和にとどめる方針を早々と決定した。 この結果、企業による農地所有の自由化や農業生産法人への出資規制の緩和、保険診療と保険外診療を組み合わせた混合診療の全面解禁などの“大玉”は軒並み見送りになった。 「官僚主導の弊害」の見方も これには、竹中平蔵・慶応義塾大学教授ら産業競争力会議の民間議員の一部から「規制緩和の提案の多くが無視された」と怒りの声が出ている。 議論が盛り上がらない背景には、参院選までにまとめるという時間的制約もあるが、「官僚主導で戦略をまとめることの弊害」と、複数の民間議員は口を揃える。 成長戦略の取りまとめを担う事務局は各省からの混成部隊。当初から「民間議員の提案はあまり重要視していない」と漏らす幹部もいた。 古巣とのやり取りの中で、権益保持を優先しながら落としどころを探る。そんな従来からの霞が関的手法が踏襲された面があるのは間違いない。 民主党政権での「政治主導」の失敗から一転、官僚の存在感が一気に回復した安倍政権。夏以降に農業分野などの規制改革論議を進める構えだが、構造問題に本当に切り込めるのか、市場は懐疑的に見始めているのだ。 この官僚の復権とも絡むのが3つ目の理由、改革の司令塔の不在問題だ。 小泉純一郎内閣時代、小泉首相(当時)は経済財政諮問会議を唯一の改革の司令塔として位置づけ、マクロ政策から焦点となるミクロ政策まで方向性を決定づける舞台とした。 これに対し、現在は諮問会議が主にマクロ政策を担い、競争力会議、規制改革会議などの政府会議と随時連携していく建て前だ。 どうする「改革の司令塔」 かつての諮問会議の効用を知り尽くしている竹中氏はこれらの会議間の連携不足を指摘したうえで、「司令官(安倍首相)はいいが、改革の司令塔がない」と指摘。「だから、官僚とも戦えない。その弊害が成長戦略の内容不足に如実に出ており、市場も見透かしている」と周辺に不満をあらわにしている。 安倍首相や菅義偉・官房長官にはこうした竹中氏らの不満が伝わっている。自民幹部は「安倍首相や菅さんが体制の立て直しを図るはず。突破力と発信力がある竹中さんを要所に使う可能性があるが、竹中さんへのアレルギーが強い我が党には劇薬だ」と漏らす。 安倍内閣の支持率の高さを背景に、内外の投資家の視線は既に参院選での自民勝利後の政権運営に向けられつつある。安倍首相に近いある自民議員は「自民が勝利するということは、改革に後ろ向きな議員も増えるということ。夏以降が政権の正念場だ」と語る。 当面は「経済の安倍」を基軸に据える構えの安倍首相。財政再建などの難題とともに、構造改革に取り組む姿勢を貫くことができるかどうかが、アベノミクスの先行きを占うポイントになりそうだ。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130611/249474/?ST=print
【第15回】 2013年6月14日 佐々木一寿 [グロービス出版局編集委員] じつは、利益を貯めこんでも、経済は大変なことになる? 麹町経済研究所のちょっと気の弱いヒラ研究員「末席(ませき)」が、上司や所長に叱咤激励されながらも、経済の現状や経済学について解き明かしていく連載小説。前回に引き続き今回も、嶋野と末席が自由市場のモデルとその恩寵につきケンジに全力でレクチャーします。(佐々木一寿) 「やっぱり自由に取引できるって、大切なことなんですね」 ケンジは消しゴム付きの鉛筆を見ながら、しみじみと言った。 嶋野は甥の理解度を喜びながら相槌をうつ。 「それぞれが得意なことをやって、それぞれが自由に交換する。そうするとみんなが幸せになる、そういうシステムになっているんだよ」 末席は、なんかのアヤシイ勧誘のような相槌になっているな、と気になりながら先に進める。 「その自由な取引をスムーズに実現するのが、貨幣の役割なんですね。貨幣を介することによって、ほとんどのものと交換できると言っていい」 「ヒトとか南極大陸とか、禁じられてるもの以外は、ということだがね!」 嶋野は末席の発言のフォローをしているつもりのようだが、末席は渋い顔をしている。 俄然、経済学っぽくなってきたな。ケンジは身構えて言った。 「なるほど。でも、かならずそう、みんながハッピーになるんですか」 なかなかするどいじゃないか。末席は感心しながら応答する。 「だいたいそうなる、というのが経済学者のコンセンサスでしょうかね」 嶋野が末席の補足をする。 「逆に、自由に交換できることが前提にあれば、自分が得意なものだけやっていてもいい。むしろそのほうがパフォーマンスが高くなるとも言える。得意なものを多く作ることができれば、それだけたくさんのおカネと交換できる*1」 「なるほど。そうすれば多くの欲しいものが結果的に手に入るのですね」 ケンジは直感的に比較優位論を理解できたようだ、末席は安堵した。 *1 比較優位(comparative advantage)理論とは、分業のメリットを数理的に表現したもので、デビッド・リカード、ジョン・スチュアート・ミルらによって定式化された。数式的に表現すると、X国とY国が生産財aと生産財bを産出するとして、その生産効率をXa、Xb、Ya、Ybと表したとすると、XaとYa、あるいはXbとYbの大きさの比較を絶対優位(劣位)といい、Xa/XbとYa/YbあるいはXb/XaとYb/Yaの比較を比較優位と呼ぶ。口語的に結論を言うならば、他者(他国)に劣ることであっても、自国内で得意なものを生産したほうが、世界のためにも自国のためにもなる、という考え方で、自由貿易のメリットを論理的に肯定する(ミクロ)経済学の根幹をなす理論 比較優位は本当に効果的な分業につながるのか ケンジは続けて疑問を呈した。 「ただ、みんながハッピーになるというのが、まだピンとこないところもあるのですが。その人にとって得意なことをやったとしても、他の人とくらべて上手じゃない可能性もあります。であれば、そのひとの貰いは少なく、あんまり幸せじゃないかもしれないのでは」 おお、鋭いじゃないか! 叔父は嬉しさのあまりにその場で小ジャンプをした。 「そこなんだよ。比較優位論のおもしろいところは。アインシュタインは料理も上手だとして、ではアインシュタインは料理もするべきだろうか」 「好きだったら、すればいいんじゃないですか」 素朴に答えるケンジに、末席は笑いをこらえながら言う。 「じゃあ、アインシュタインが日本で物理学の公演をするとして、そのために賢い彼が日本語を3年間勉強するべきでしょうか」 「うーん。同時通訳でもいいような。それよりは物理学の研究をしたほうがいい気がしますね、日本語を身につけることもいいことだとは思うんですが、なんだかもったいない気がします。でもやりたいなら止められませんが」 ケンジは本人のやる気を重視するタイプだな、末席は好感しながら続ける。 「アインシュタインのアウトプット(論文)が、おそらく人々にとても高く評価されるとすれば、それはきっとみんなの役にたちますね。逆に、日本語通訳の人は、6年間勉強して物理学の論文を書くよりは、通訳で日本の人に物理学の素晴らしさを伝えられるかもしれない」 「なるほど、それは極端な例ですが、説得力ありますね…。ただ、アインシュタインや通訳者のような特別な能力がなければいけないんですよね」 ケンジは、人類の99%を代表するようにガッカリする。 「いやいや、それほど極端でないとしても、みんながそれぞれ得意分野を生かしてがんばっていけばいい結果につながる、ということなんです。たとえば、アインシュタインが助手の誰よりもタイプライターを打つのが早く、犬の散歩も非常に得意だとしても、アインシュタインは思考実験に専念して、比較的タイピングに自信のある助手がタイプライターを打ち、犬を比較的満足させられる自信がある助手が犬の散歩を担当すれば、その研究室のパフォーマンスは上がるわけです*2」 なぜ、アインシュタインの研究室に犬がいる設定なのだろう。ケンジは麹町経済研究所の思考実験ノリに、感覚がだんだん麻痺してきているが、かろうじて正気は保っているようだ。 *2 繰り返しになるが、比較優位における「比較的」とは、他者(比較対象)との関係と、その人のなかでの得意不得意の比較を含む。「周りと比べて比較的よい」ということと同様かそれ以上に、「自身のなかで比較的に得意なもの」という意味合いが重要である 「ケンジくんは、逆に、交換でハッピーにならないってどういうイメージを持ってるんですか」 末席は、ここぞとばかりに、すかさず質問を投げかける。 「えーっと、そうですね。こう、フェアじゃない取引というか」 「…もしかして、マンハッタン島の取引のことか」 嶋野はうつむいてつぶやいた。 「こうね、情報の非対称性を利用しながらね、少量の交易品(60ギルダー≒約24ドル分)と大量の土地(マンハッタン島)を交換…、って、いつの何の話をしてるんですか!情報の非対称性は最新の経済学では確かに重要ですけれども…*3」 末席はノリツッコミをしながらヤレヤレと続ける。 *3 取引者間の情報の非対称性により自由市場が上手くいかなくなるケースがあることを、ジョージ・アカロフなどが中古車市場などを引き合いに出しつつ論理的に示した。その分野への貢献により、ジョゼフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、マイケル・スペンスの3名が2001年にノーベル賞を受賞した 「まあ、現代風にいえばジャイアンとのび太の取引なんでしょうかね」 それは取引なのか? そう心で思いながらもケンジは流れをさえぎらないように小さく頷く。 「じつは、そういう経済モデルもあったんですよ。別名は、『重商主義』といいます」 ドラえもんがポケットからひみつ道具を出すかのように、末席はドヤ顔で言った。そして続ける。 過度の重商主義はグローバル規模での搾取を生じることも 「重商主義は、言ってみれば、商売をして、富を自国にできるだけ貯めこむのがよい、という経済政策です。ここでの『商』というのがまたクセモノでして、当初は金や差額の蓄積でしたが、末期的には、絶対主義王政と植民地政策がセットになって、まあ、簡単に言えば、ジャイアンごっこをしていたんですね*4」 *4 絶対主義王政下の重商主義(merchantilism)に関しては、ルイ14世の財務総監ジャン=バティスト・コルベールによる、フランス東インド会社といった勅許会社の設立、新大陸ケベックへの植民政策、貿易船団保護のための海軍強化のパッケージ、いわゆる「コルベーリズム」が有名 嶋野はフォローを忘れない。 「つまり、グローバルな搾取をしていた」 ケンジはあまりの表現に目を瞬いているが、しかし、それほどイメージ出来ないわけでもないのが自分でも不思議である。 「それって…。でもいまは、ないんですよね…」 末席は難しい表情で説明する。 「グローバル企業の新興国での生産委託などで、それに近いことが行われているのではないか、という疑義は、たびたび報道されてもいます。現代でも取引がフェアであるかないかの判断は、非常に難しいという事実もあります。最終的には、その地域のためになるかどうかで判断されるべきなのかなと思います。話を戻すと、この重商主義って、こすっからいし、クールじゃないよね、ということで、自由貿易主義を標榜する一派が出てきたわけです*5」 *5 フランソワ・ケネーの重農主義(労働と生産と分配の重視)や、アダム・スミスなどの自由貿易主義が登場し、重商主義を批判した 嶋野もフォローする。 「それが、自由主義経済に発展して、取引自体が双方にとってメリットをもたらす可能性がある、という議論が育っていき、リカードとミルによって比較優位論にまで定式化されるわけだね。この比較優位は、経済学のエラい人*6も、経済学上の最大の発見と豪語しているほどの原理なんだ」 *6 ポール・サミュエルソン(1970年ノーベル賞受賞)など 末席も負けずにフォロー返しをする。 「自分が儲かりさえすればそれでよい、ということを部分最適、全体が前よりもよくなる(その結果、自分も良くなる)ということを全体最適と言ったりします。重商主義は前者、自由主義は後者の考えなんですね*7」 *7 部分最適、全体最適に関しては、経済学では「合成の誤謬」という言葉もよく用いられる 自由って、なんとなくそうだといいなと思っていたけど、こんなにも重要なものだとは想像もつかなかった。ケンジは我が身の自由さをあらためて深く感謝した。 (つづく) ■GLOBIS.JPで人気の記事 ◇小泉進次郎氏×岩瀬大輔氏×紫舟氏 G1新世代リーダー・アワード〜G1サミット2013レポート(動画+要約テキスト) ◇すべての仕事は道に通ずる ◇日本企業にイノベーションをもたらすクリエイティビティ http://diamond.jp/articles/print/37403 2013年6月13日
アメリカ社会は人種ではなく“知能”によって 分断されている [橘玲の日々刻々] 1 2 3 すこし前の話だが、ワシントンのダレス国際空港からメキシコのカンクンに向かった。12月の半ばで、機内はすこし早いクリスマス休暇をビーチリゾートで過ごす家族連れで満席だった。 乗客は約8割が白人で残りの2割はアジア(中国)系、あとは実家に帰ると思しきヒスパニックの家族が数組という感じだった。クリスマスまでまだ1週間以上あるから、彼らは長い休暇をとる経済的な余裕のあるワシントン近郊のひとたちだ。 その富裕層の割合は、アメリカの人種構成とは大きく異なっている。国勢調査によれば、全米の人口のおよそ7割は白人(ヨーロッパ系)で、10%超がアフリカ系(黒人)、6%がヒスパニックでアジア系は5%程度だ。しかし私が乗り合わせた乗客のなかに黒人の姿はなく、メキシコに向かう便にもかかわらずヒスパニックの比率もきわめて低かった。 もちろん私は、たったいちどの体験でアメリカについてなにごとかを語ろうとは思わない。このときの違和感を思い出したのは、チャールズ・マレーの『階級「断絶」社会アメリカ』(草思社)を読んだからだ。 アメリカの経済格差は○○の差 著者自らが認めているように本書は、アメリカ社会を分析したいくつかの先行研究を組み合わせたコロンブスのタマゴだ。しかしこのタマゴは、見た目がグロテスクで味はほろ苦く、アメリカの知識層に大きな衝撃をもたらした。 アメリカがごく一部の富裕層と大多数の貧困層に分裂しているという話は、耳にタコができるほど聞かされている。では、この本のどこがショッキングだったのだろうか。 マレーは、アメリカの知識人なら誰もが漠然と思っていて、あえて口にしなかった事実を赤裸々に書いた。彼の主張はきわめて単純で、わずか1行に要約できる。 アメリカの経済格差は知能の格差だ。 マレーはこのスキャンダラスな仮説を実証するために、周到な手続きをとっている。 まず、アメリカにおいてもっともやっかいな人種問題を回避するために、分析の対象を白人に限定した。ヨーロッパ系白人のなかで、大学や大学院を卒業した知識層と、高校を中退した労働者層とで、その後の人生の軌跡がどのように異なるのかを膨大な社会調査のデータから検証した。 そのうえでマレーは、認知能力の優れたひとたち(知識層)とそれ以外のひとたちが別々のコミュニティに暮らしていることを、郵便番号(ZIP)と世帯所得の統計調査から明らかにした。 アメリカ各地に知識層の集まる「スーパーZIP」がある。このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。 ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。 ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。 マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。 新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。 また彼らは、基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。 アメリカでは民主党を支持するリベラル派(青いアメリカ)と、共和党を支持する保守派(赤いアメリカ)の分裂が問題になっている。だが新上流階級は、政治的信条の同じ労働者階級よりも政治的信条の異なる新上流階級と隣同士になることを好む。政治を抜きにするならば、彼らの趣味やライフスタイルはほとんど同じだからだ。 新上流階級の価値観 もちろん、アメリカ社会における新上流階級の登場を指摘したのはマレーが最初ではない。 クリントン政権で労働長官を務めたリベラル派の政治学者ロバート・ライシュは、1991年の『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』(ダイヤモンド社)で、市場のグローバル化によって労働市場は「ルーティン・プロダクション・サービス(工場労働)」「インパースン・サービス(対人サービス業)」「シンボリック・アナリスト(知識産業)」に分かれていくことを指摘した。 だが分裂していくのはワークスタイル(仕事)だけではない。 戦前はもちろん、戦後も1960年代くらいまでは、大富豪も庶民とたいして変わらなかった。金持ちになればハイボールがジムビームではなくジャックダニエルになり、乗っている車がシボレーではなくビュイックやキャデラックに変わったが、日々の生活や余暇の過ごし方は一般のアメリカ人と同じで、ただそれを召使に囲まれて優雅に行なっていただけだった。富裕層は庶民と異なるスタイルを身につけていたが、異なる文化コンテンツを持っていたわけではなかった。 しかし1980年代以降、とりわけ21世紀になって、アメリカ社会に大きな変化が訪れた。 ニューヨークタイムズのコラムニスト、デイビッド・ブルックスは2000年の『アメリカ新上流階級 ボボズ』(光文社)で、高学歴の富裕な社会集団を「ボヘミアン(Bohemian)的なブルジョア(Bourgeois)」と定義し、「BOBO」と命名した(この名称自体は定着しなかった)。ここでいうボヘミアンは、「既存の秩序やルールにとらわれず自由な生き方を求めるひとたち」で、作家やアーティスト、同性愛者などを指す。 次いで2002年、社会学者のリチャード・フロリダが『クリエイティブ資本論』(ダイヤモンド社)などの一連の著作で、知識社会の中心はクリエイティブな仕事をするひとたち(クリエイティブクラス)であるとして、同性愛者が多く暮らす都市はキリスト教原理主義的な南部の都市よりも際立って経済成長率が高いことを示した。知識層(BOBO)は自由闊達なボヘミアン的文化に引き寄せられるため、同性愛者を差別しない寛容な都市にクリエイティブな才能が集まり、それを目当てにクリエイティブな企業が進出してくるのだ(ニューヨークのウォール街やサンフランシスコ郊外のシリコンバレーが典型)。 それと同時に、2000年に政治学者のロバート・パットナムが共同体論の記念碑的作品となる『孤独なボウリング』(柏書房)を刊行し大きな反響を呼んだ。アメリカのボウリング人口は増えているものの、かつて隆盛を誇ったボウリングクラブはほとんど消滅してしまった。パットナムは膨大な統計と社会調査を駆使して、ひとびとがコミュニティに所属するよりも自分ひとりで孤独なボウリングをするようになった現実を示した。 パットナムは、アメリカ社会が全体としてコミュニティ文化を失いつつあると論じた。しかしマレーは『階級「断絶」社会アメリカ』で、アメリカ社会を新上流階級と労働者階級に分けたうえで、労働者階級のあいだではたしかにコミュニティが崩壊しているが、新上流階級のなかでは「古きよきアメリカ」の価値観がまだ健在であることを発見したのだ。 これが本書のもっとも大きな意義で、かつ論争の焦点だろう。 格差社会の「強欲な1%」に美徳がある マレーは、アメリカ社会の建国の美徳として「結婚」「勤勉」「正直」「信仰」の4つを挙げる。これについては異論もあるだろうが、円満な家庭を営み、日々仕事をし、地域のひとたちを信頼し、日曜には教会に通うひとは、孤独な1人暮らしをし、仕事がなく失業中で、犯罪に怯えて誰も信用せず、教会の活動からも足が遠のいているひとよりも幸福である可能性が高いことは間違いないだろう。 そのうえでマレーは、認知能力において上位20%の新上流階級が暮らすベルモントと、下位30%の労働者階級が住むフィッシュタウンという架空の町を設定し、いずれの基準でもベルモントにはフィッシュタウンよりも圧倒的に高い割合で「幸福の条件」が揃っていることを示す。 もちろんマレーは、一人ひとりを取り上げて「知能が低いから幸福になれない」などといっているわけではない。彼が指摘するのは、フィッシュタウンでは働く気がなかったり、薬物やアルコールに溺れたり、赤ん坊を置いて遊びに行くような問題行動をとるひとたちが急速に増えているという事実だ。その割合が限界を超えると地域社会は重荷を背負えなくなり、コミュニティは崩壊して町全体が「新下流階級」へと落ちてしまう。 それに対して新上流階級ではこうした問題行動はごく少ない(あるいは排除されてしまう)ため、アレクス・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で描いたような健全なコミュニティを維持することが可能なのだ。 こうしてマレーは、格差社会における「強欲な1%」と「善良な99%」という構図を完膚なきまでに反転する。アメリカが分断された格差社会になのは事実だが、美徳は“善良”な99%ではなく“強欲”な1%のなかにかろうじて残されているのだ。 このように書いてもイメージできないだろうから、本書に登場する現実のフィッシュタウン(善良な99%)を紹介しよう。ペンシルバニア州フィラデルフィアにある低所得地域で、住民のほとんどは白人だ。 最初は、1980年代半ばに20歳だったジェニーの体験談。ジェニーは7人兄弟の一人で、父親の暴力のため両親は子どもの頃に離婚していた。 「息子を産んだのは20歳のときです。19歳で妊娠して、20歳で生みました。早くに結婚した姉もちょうど妊娠していました。わたしは当時つき合っていた男性と結婚したくて、これで結婚できる、そして姉みたいになれると思ったのですが、うまくいきませんでした。そうしたら妹も妊娠して、姉妹3人がそろって妊婦になってしまって、それ自体は悪いことじゃありませんが、母は驚いてました(後略)」 次は、地元のカトリックの中学校に通う16歳の娘を持つ母親の話。 「この4カ月で娘は6回もベビー・シャワー(妊娠した人のためのパーティー)に招かれました(略)(娘が通っている学校には)52人も妊娠している女子生徒がいるんです。52人ですよ。ひどい話です。しかもそれ以外に、すでに子供を産んだ生徒もいるんですから。(略)誰もがみんなこうだから、もう誰が悪いともいえないし、いったいどうなってしまったんでしょう? なぜこんなにたくさんの子供たちが妊娠するんでしょう? わたしが学校に通っていたころも少しはいましたけど、でも1年にせいぜい4人でした」 マレーはこうした新下流階級の規模を、「生計を立てていない男性」「一人で子供を育てている母親たち」「孤立している人々」という3つの基準から、(控えめに見積もっても)30歳以上50歳未満の全白人の2割に達すると推測している。 マレーは分析の対象を白人に限ることで、アメリカ社会は人種ではなく“知能”によって分断されている事実を示した。 もちろんマレーは本書で、こうした分断社会を無条件に肯定すべきだといっているのではない。ただ、グローバルな知識社会の現実を直視しなければ、いかなるきれいごとの「対策」も無意味だと述べているだけだ。 http://diamond.jp/articles/-/37381?page=3
【第14回】 2013年6月13日 坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員] 意思決定は合理的ではありえない―― ノーベル賞に輝いた「限られた合理性」との対峙 『【新版】経営行動――経営組織における意思決定過程の研究』 安倍政権が打ち出す経済政策への期待感から「すわバブルか」という空気が流れたのも束の間。5月末の株価急落後は一進一退が続く現状です。経済はどう動くのか、売り買いのどちらがトレンドとなるのか。誰しもが合理的に考えて行動しているはずなのに、先行きの予測は困難です。この人間の合理的な意思決定が限定的なものであることを定義し、経営学における組織研究に昇華させたハーバート・A・サイモン。彼はこの研究でノーベル経済学賞を受賞しました。今回紹介する『【新版】経営行動』はそのすべてが詰まった一冊です。
経済学、経営学の進展に影響を及ぼした 「人間の選択する『限られた合理性』」の分析 「需要曲線と供給曲線の交点で価格と生産量が決定される」。この法則は、ミクロ経済学の教科書を読んでいなくても、ほぼだれでも知っている基礎知識です。「需要と供給の一致」、つまり「神の見えざる手」ですね。需給の交点で市場は均衡するわけです。 しかし、この法則の成立には前提があります。市場には供給側も需要側も十分に多数の参加者が存在し、全員が同じ情報を持っていることです。これを「完全競争市場」といいます(正反対の概念は「独占市場」)。 さらに、企業は利潤を最大化し、人々は効用を最大化する行動をとることが前提にあります。効用の最大化とは、予算の制約のなかで欲望を最大化すること、と言い換えてもいいでしょう。人々は同じ財・サービスであれば、必ず価格の一番安いものを買う、といったことです。なぜならば、それが合理的な行動だからです。つまり、人間の合理性が大きな前提条件として組み込まれていることがわかります。 人間の合理性を前提に、経済学は計算可能なサイエンスとして発達したわけですが、現実の社会で完全競争市場はほとんどありえません。実際は完全競争市場と独占市場の間にグラデーションのようなさまざまな市場があり、人間は完全に合理的な行動をとることもありえないのです。 ハーバート・A・サイモン著 二村敏子、桑田耕太郎、高尾義明、西脇暢子、高柳美香訳『【新版】経営行動――経営組織における意思決定過程の研究』 2009年7月刊行。570ページにも及ぶ大作。写真では外していますが、オビのキャッチコピーにある「金字塔」がしっくりきます。 このような人間社会の現実は、じつはだれでも直感的にわかっています。同じ機能、同じ価格の商品であっても、広告のコピー、キャラクターなどのちょっとした差異によって需要側の行動は変わります。
では経済学の均衡理論は絵空事かというと、そうではありません。条件をいろいろ設定したうえで構築されるモデルは、現実を考察する際に重要な指針になります。また、経済学者は完全競争市場やと独占市場の間に存在するさまざまな市場の価格決定メカニズムや、個々の市場参加者(プレイヤー)の行動メカニズムを研究してきました。それが複雑系、ゲーム理論、そして行動経済学といった研究です。 このような潮流の初期に重要な概念を提供したのがハーバート・A・サイモン(1916−2001)でした。サイモンは行動する主体の「限定合理性」(Bounded Rationality)について分析し、限定合理性を克服する組織の意思決定過程を考察したのです。 サイモンの「限定合理性」は、必ず合理的な行動を取るという人間像を前提にしていた経済学に大きな影響を与えました。そして、経営組織の意思決定過程を限定合理的な人間像をもとに描き、経営学にも一石を投じました。 「意思決定にはつじつまの合わない要素が必ず含まれる」 ノーベル経済学賞を受賞した組織研究 サイモンは米国の経済学者で、と紹介したいところですが、哲学、心理学、政治学、経営学、認知科学、情報科学から人工知能まで、じつに幅広い領域を横断しながら学際的な研究を続けた20世紀を代表する知識人でした。 1989年に刊行された第3版の翻訳版。装丁はまったく異なりますが重厚感は変わりません。 本書『【新版】経営行動――経営組織における意思決定過程の研究』は、原書第4版(1997)の全訳で、2009年に出版されています。原書第1版は1947年に出ていますから、第4版は50年後のことです。この間、本書のテーマである「経済組織における意思決定過程の先駆的研究」で1978年にノーベル経済学賞を受賞しました。なお、原書第2版と第3版もダイヤモンド社からそれぞれ1965年と89年に邦訳が出版されています。
原題は“Administrative Behavior: A Study of Decision-Making Processes in Administrative Organizations, Fourth Edition,1997”です。邦訳で五百数十ページを超える浩瀚な書物で、学際的な記述が多く、翻訳は大変な作業であったと思われますが、正確な日本語を当て、やっかいなサイモンの述語が見事に翻訳されています。 読む側ももちろん苦労しますが、1行ずつサイモンの思考プロセスを追うつもりで読むと、意外にわかりやすい文章です。 サイモンは合理的な意思決定者について、次のように定義します。 客観的な合理性とは以下のことを意味している。行動する主体が、(a)決定の前に、行動の代替的選択肢をパノラマのように概観し、(b)個々の選択に続いて起こる諸結果の複合体全体を考慮し、(c)全ての代替的選択肢から一つを選び出す基準としての価値システムを用いる、ことによって、みずからの全ての行動を統合されたパターンへと形づくることである。 (144ページ) そして、「こうした理想的な姿はない、多くのつじつまの合わない要素を含んでいる。もし行動がある期間にわたって観察されるならば、その行動はモザイク状の性格を示す」と続けます。 そして、実際の行動について、限定合理的であることを3点挙げます。 (1) 合理性は、各選択に続いて起こる諸結果についての完全な知識と予測を必要とする。実際には結果の知識はつねに断片的なものである。 (2) これらの諸結果は将来のことであるため、それらの諸結果と価値を結び付ける際に想像によって経験的な感覚の不足を補わなければならない。しかし、価値は不完全にしか予測できない。 (3) 合理性は、起こりうる代替的行動の全てのなかから選択することを要求する。実際の行動では、これらの可能な代替的行動のうちほんの二、三の行動のみしか心に浮かばない。(145ページ) 限定合理性をいかに克服するか? サイモンが示した5つの意思決定過程 日本のバブル経済は1980年代の後半に起きました。バブル崩壊は90年から始まります。世界史的にも大きな経済変動であり、その後の日本人の行動に大きな影響を与えました。リスクというより、損失の予測に対して極端に腰が引けます。 サイモンは「予測の困難性」の項でこう書いています。 リスキーな投機的企てにおいて、損失という結果をより鮮明に心に描けるほど――そうした結果を過去に経験していることやその他の理由で――リスクを引き受けることが望ましくないように思われてくる。損失の経験があると、損失の発生がより高い確率で生ずると予測するよりは、むしろ損失という結果を避けようとする欲求が強化される。(148ページ) 「損失という結果を避けようとする」ため、損失に対して参照点から限界効用逓増になり、利益に対する限界効用逓減のカーブよりも傾きは急峻になります。これは行動経済学の「プロスペクト理論」の一つで、ダニエル・カーネマン(1934−)らが2002年のノーベル経済学賞を受賞しています。詳しくは、真壁昭夫『行動経済学入門』(ダイヤモンド社、2010年)、依田高典『行動経済学』(中公新書、2010)を参照してください。 サイモンは、人間の限定合理性によって予測不可能なめちゃくちゃな経済像、あるいは経営像を描いたわけではありません。限定合理性を克服するための組織の意思決定過程を次のように考察するのです。 (1) 組織は、仕事をそのメンバー間に分割する。各メンバーに達成すべき特定のタスクを与えることによって、組織はメンバーの注意をそのタスクに向けさせ、それのみに限定させる。(後略) (2) 組織は、標準的な手続きを確立する。ある仕事は特定の方法でなされなければならないと、きっぱりと(略)決めることによって、その仕事を実際に遂行する個人が、その仕事をどうやって処理すべきか毎回決める必要がなくなる。 (3) 組織は、権限と影響のシステムを確立することによって、組織の階層を通じて、決定を下に(そして横に、あるいは上にさえも)伝達する。(略)非公式的な影響のシステムの発達も、あらゆる実際の組織において劣らず重要である。(後略) (4) 組織には、全ての方向に向かって流れるコミュニケーション経路がある。この経路に沿って、意思決定のための情報が流れる。(略)公式的なものと非公式的なものの両方がある。(略)非公式的な経路は、非公式的な社会的組織と密接に関係している。 (5) 組織は、そのメンバーを訓練し教化する。これは影響の「内面化」と呼ぶことができるだろう。なぜなら、それは、組織のメンバーの神経系統に、その組織が用いたい決定の基準を注入するものだからである。組織のメンバーは、知識、技能、および一体化あるいは忠誠心を獲得し、それによって、組織が彼に決定してもらいたいと欲しているように彼自身で意思決定することができるようになる。(171−172ページ) とくに(5)は、サイモンならではの科学的な組織論です。サイモンは本書で「意思決定過程の観点から組織が理解できるか」(序文)を考察し、読者のターゲットを「組織の監視者と設計者」(序文)においたのです。 次回は6月20日更新予定です。 ◇今回の書籍 19/100冊目 『【新版】経営行動――経営組織における意思決定過程の研究』 http://diamond.jp/articles/print/37308 |