http://www.asyura2.com/13/hasan80/msg/238.html
Tweet |
「資本主義の“富の集中と貨幣の回転の阻害”の克服」
「サーカーによれば「資本家(ヴァイシャ)の心理は貨幣の回転から利益をあげることにあり、貨幣の投資が期待するほどの利益をもたらさないと見れば、投資を引き上げ、貨幣の回転をストップし、不活性にする。そこには、投資、生産、収入、購買力がなく、この事態は危険であり、商品の購買力が低下するほど事態は深刻なものとなる。
経済の領域においては二つのことが非常に重要である。第一に、貨幣の循環を維持しなくてはならない事で、貨幣が購買力として活用されないときや滞留したままであるとき、経済はダメージを受ける。第二は、貨幣が経済的な均衡と安定を図る能力を失うと富の不均衡を引き起こすということである。この二つの根本的な要素を少しでも忘れると、世界規模の経済恐慌が起こる。
もし国家資本主義が搾取する事を追求せず、一人ひとりの個人の収入を増加させるならば、私たちは国家資本主義を称賛せざるをえません」。
“現在の資本家”の最たる存在は、国際的な投資家、機関投資家(その実態は“投機”を行っていて、どちらも実際は“投機家”、“機関投機家”)だが、このような投機勢力がヘッジファンドなどで投機を行い、資金が供給され、バブル経済になりながらも東南アジア各国は潤っていたが、投機が儲からないと見るや、一斉に資金を引き上げ、バブルがはじけ、東南アジア各国に深刻な経済的ダメージを与えた。 また、日本も1980年代末の土地投機によるバブル景気の発生とその崩壊によって、失われた10年を経験したことなどもこれが現れた例である。
サーカーは投機の害悪性には触れなかったが、バトラは自身のいくつかの著書の中で投機の害悪性について触れ、投機を排除する政策をプラウトに加えている。
このような“現在の資本家”に富が集中する社会であればあるほど、“貨幣の回転”につながる彼らの投資や購買行為の有無の経済的影響力は大きくなっていき、彼らから投機などによって富が吸い上げられ、常に低い賃金水準に置かれている一般大衆(労働者、シュードラ)の購買の経済的影響力は小さくなっていき、“貨幣の回転”は彼ら次第という側面が大きくなるわけである。 しかも、彼らはその地域が必要だから投資をするのではなく、投機で儲かるから行うだけである。そして儲からないようになれば一斉に投資を引き上げる。それが“貨幣の回転”を不安定にさせ、不確実にする。そして、バブルや不況や恐慌の原因になる。
その解決策として、プラウトは一般大衆(労働者)の購買力の強化のために、最低限の生活必需品と最大限の快適性の保障という政策をネオヒューマニズムの観点からもおこなう。 そして、富の分配方法は必要性や福利にもとづいた合理的分配という方針の下でおこなう(プラウトの基本政策 の項で詳述)。」
「資本主義と共産主義の中央集権経済の問題点」
「サーカーによれば、「世界のほとんどの国は、資本主義国、共産主義国を問わず、経済的な中央集権政策をとってきました。資本主義諸国の経済は少数の資本家や少数の資本化団体に集権化し、共産主義諸国の経済は党に集権化しています。実は、中央集権化した経済においては経済的搾取を根絶することができず、一般の人々の経済問題を永久に解決できません」。
ここでサーカーが中央集権経済であるということの意味は、“地元の人々が経済政策の決定権を持たない”という点であるということ。また、中央集権経済が経済的搾取を根絶する事が出来ないということの意味は、“ある地域の人間が、別の地域の人間を利用し搾取する事”が無くならないからということである。
プラウトは“スピリチュアリティー(霊性的、精神的)で道徳的な哲学”を土台としている。プラウトは、人間には“物理的な側面”と“知的な側面”と“霊的(精神的)な側面”があるとして、有限性(閉鎖系)のある物理的な側面よりも、無限性(開放系)のある知的な側面や霊的な側面を伴うことを考慮した人間社会が、真の人間の幸福(人間解放)や進歩をもたらすという人間観と社会観を持っている。また、分権経済や均衡経済の考え方はその哲学であるプラマーを背景としている。(プラウトのスピリチュアルな哲学 の項で詳述)」
「プラウトの基本政策」
「分権経済」
「分権経済は、プラウト政策全体に通じての考え方である。
中央集権経済の問題点に対して、経済の分権化を目指そうとするもので、サーカーは分権経済に次の5原則を挙げている。「分権経済の原則は、第一に社会経済単位のすべての資産・資源がその地域の人々によって支配されるべきであること。第二に、生産は利益ではなく消費に基づいてなされるべきであること。第三に、生産と分配が協同組合を通じて組織されること。第四に、地域の人々が地域の経済的な経営体で雇用されなければならないこと。第五に、その地域外で生産された商品は地域市場から取り除くべきこと」。
ここでサーカーがいう、“社会経済単位”というのは、単純に一国として括る単位のことではなく、経済的な問題の共通性、地理的な特徴の共通性、民族・言語・慣習・文化などの共通性も考慮に入れた単位であることである。具体的には例えば、日本のようにこのような共通性が大きくまとまっていて、国の面積も小さい地域は一国単位で考え、面積の大きな国、インドなどはこのような共通性を考慮して分けられた国内の各地域(州単位に近い)にそれぞれ社会経済単位を確立するというような方向性である。
そして、サーカーは、この社会経済単位のためのブロックレベルの経済計画が必要であるとも述べている。 これは、“市場経済の良い部分を取り入れた、ボトムアップ(下位上達、水平協働)型の経済計画”と言えるもので、いわゆる旧共産主義国(ソ連)型の市場経済を排除した国家独裁中央集権的計画経済とは違うものである。 それは、商品価格の決定といったミクロ経済の処理はその社会経済単位の市場に委ね、マクロ経済の経済計画を中心に、この社会経済単位に一つかもしくは、社会経済単位の中のさらに下位の狭い地域のブロックを設けて、それを最小ブロックとして経済計画し、この社会経済単位を超えた範囲や観点の経済計画については、上位のブロックの経済計画(国単位や地域諸国連合単位など)で調整し、一番上位では世界(地球)連邦政府単位でも調整するということである。
また、科学的にも、サーカーのプラマー論から発する分権経済で提起される、ボトムアップ(下意上達、水平協働)というシステムは、地球の生態系や生物などの有機的なシステムをモデルとしたもので、それらを研究対象とする新しい複雑系の科学が、従来の機械論哲学から発したトップダウン(上意下達、中央集権)システムよりも、下部の意思の全体への反映や、情報処理の能力向上や、状況に適じて組織自身が柔軟に自己変成できるという意味で、優れているということを明らかにしてきている。 このような新しいボトムアップシステムが社会の組織に応用されると、個人の意思(個性)が反映されることで、個人が組織の「歯車」として抑圧されるということがなくなり、個人の力によって状況に応じて社会組織自体も柔軟に自己変革するという社会にできる可能性・・・
もっと読む: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%AD%A9%E7%9A%84%E6%B4%BB%E7%94%A8%E7%90%86%E8%AB%96
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。