06. 2013年4月28日 20:51:58
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汐留が元々、何の土地なのか考えれば答えは出ます。国鉄汐留貨物駅です。その前は、明治時代に新橋〜横浜間で開通した新橋駅。で、ここからは目に見えないものを信じない人は読まないように。本来なら、空耳の丘に書くべき内容ですので、書いていいものか悩みましたが、書くことにします。万物には霊魂が備わると考える心霊主義者なら、元々国鉄の土地だったものを分割解体して土地を売り払ったことがいかに危険か、分かると思います。国鉄を語る上で忘れてはならない偉人が、井上勝先生です。「日本の鉄道の父」と呼ばれ、国鉄一家の当方が一番尊敬する人物です。このため先生などと書きますが、暫くお付き合いください。 井上勝先生の解説は、下のリンクをご覧下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%9D 幕末にイギリスに密航した「長州ファイブ」の一人です。彼はイギリスで鉄道を学び、明治維新の時に帰国します。イギリスでは蒸気機関車の火夫までして、鉄道を学んだそうです。新政府で鉄道建設の重要性を説き、東海道線を着工しました。ところが、その時に建設費を工面する金融行政に関わっていたのが大隈重信氏。彼はイギリス人パークスに、建設費がやすいことを理由に「日本の鉄道は1,067mmでいいよ。」と回答。これにより1,067mmで建設されることになったのですが、これを聞いて井上勝先生は激怒しました。「どうして私の話を聞かないのだ。」井上勝先生は、イギリス本国の1,435mmでなくてはならないと自らの経験から知っていました。 それからと言うもの、井上勝先生は怒りの毎日。新政府の中に彼を抑えることの出来る人はいませんでした。とうとう山県有朋氏が説得に乗り出すことになったのですが、全然ダメ。べそをかいて戻ってきた。「もう鉄道作業局長官をやめてもらって長州に帰ってもらうか。」しかし代わりの人材がいない。鉄道の専門家は日本に井上勝先生ただ一人だったのです。 この井上勝先生は「日本の鉄道の父」なのに、知っている人はあまりいません。なぜか。彼は筋金入りの「鉄道国有論者」だったのです。「全国を一元的に国鉄として運営すれば、建設費も運営費も節約できる。」彼の持論でした。彼の存在が有名になると、再び鉄道再国有化論が高まる。これを自民党は恐れているのでしょう。 日清戦争の時に東海道本線と山陽鉄道が繋がっていないことで軍事輸送に支障が出たことなど、陸軍も鉄道国有化の重要性を認識することとなり、ようやく1906年から1907年にかけて全国の主要鉄道は統合されて国鉄が成立しました。 鉄道国有法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E5%9B%BD%E6%9C%89%E5%8C%96 井上勝先生は念願の鉄道国有化が成ったことにより、次の目標として線路幅の1,435mm化を行なうこととしました。このため、1910年に欧州各国を視察したのですが旅の疲れと高齢によりロンドンで客死しました。彼の後継者、原敬氏は、井上勝先生の念願を踏みにじり、鉄道改軌の動きを潰してしまいました。彼はよく「政党政治の創始者」などと褒められていますが、実際には賄賂政治家でした。1921年に暗殺されましたが、彼を殺したのは国鉄職員だった理由が、改軌ぶっ潰しだったからです。改軌論者の島安次郎先生(新幹線生みの親、島秀雄先生の父。)は国鉄を辞めて南満州鉄道に転進しました。 島安次郎先生の解説です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%AE%89%E6%AC%A1%E9%83%8E 井上勝先生が残した遺産として、小岩井農場があります。彼は「わしは鉄道建設のために多くの田畑を潰してきた。」反省として小岩井農場を開設したのです。小岩井は、共同設立者の日本鉄道会社(現在の東北本線)副社長の小野義眞(おのぎしん)、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の頭文字から取りました。 小岩井農場 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B2%A9%E4%BA%95%E8%BE%B2%E5%A0%B4 井上勝先生が残した遺産として、汽車製造株式会社の存在が特筆されます。日本初の鉄道車両メーカーとして大阪、此花区島屋に1986年、創業しました。井上勝先生は、欧米諸国が自分の都合のいいようにレールや機関車を売り込むのに我慢ならなかったといいます。「日本人自らが機関車やレールをつくらなければならない。」彼は優れた技術者をスカウトし、八幡製鉄所の完成を待って国産機関車を1901年につくりあげたのです。日本の近代的モノづくりの嚆矢となりました。日本の鉄道は、第一次世界大戦で欧州からの輸入が途絶した時に車輌の完全自給が可能となりました。汽車製造は1901年〜1951年に2,600輌の蒸気機関車を生産しました。 汽車製造は江戸幕府旗本の子である平岡煕氏の創業した東京の平岡工場と合併して、東京では客車や電気機関車、電車を生産しました。江東区南砂にあった、同社東京製作所についての展覧会のyoutube動画がありますので、ご覧下さい。 http://www.youtube.com/watch?v=GS0skpy2XIo 井上勝先生の創業した汽車製造は「鉄道車両の名門」として業界では別格扱いされていました。日本初の空気ばね台車、ステンレス電車、自動操舵式台車、振り子式電車など、試作に終わったものも含めると、常に先進技術をひた走っていたことになります。1960年にパナマ運河の曳船用機関車の国際入札では、アメリカのGEや西ドイツのAEGを打ち破り、受注に成功したことは今なお語り草になっています。 しかし会社の収益の多くを占めていた蒸気機関車を失ったことで赤字経営となり、橋梁やビル用冷暖房装置(ターボ冷凍機を日本で初めて製作した)など手掛けたものの、技術貧乏で会社は行き詰まり、他社との合併は避けられなくなりました。当初、メインバンクの第一銀行が三菱銀行と合併する話が進んでいて、同じ三菱グループの小岩井農場の例もあることから、三菱重工の傘下に入ることになっていました。 ところが第一銀行が1968年、三菱銀行との合併話を突然拒否しました。理由は、創業者の渋沢栄一氏が岩崎弥太郎氏をひどく嫌っていたから、ご先祖様が嫌がることは出来ないというもの。これで汽車製造のお先は真っ暗になりました。 当方の親戚が大阪の汽車製造に勤めていましたので、「もうあかん、あかんのや」と、おじいさんが涙を流していたことを思い出します。「大丈夫や、国鉄が何とかしてくれはる。」しかし国鉄は膨大な赤字で汽車製造を救えませんでした。「国鉄の親元やのに、助けられへんのか。」今から考えると、汽車製造こそ国鉄一家の中心だったのです。 メインバンクの第一銀行は日本勧業銀行と1971年に合併し、汽車製造は川崎重工に吸収合併されることとなりました。川崎重工は汽車製造の発祥の地であった大阪此花区島屋の大阪製作所を1975年に閉鎖してしまいました。その後、川崎重工が深刻な造船不況に苦しむこととなりましたが。 国鉄の分割解体と土地の売却は、井上勝先生を激怒させています。そのためか、国鉄用地を購入した大規模小売業界が業績不振に陥っています。明治政府で一番怖かった井上勝先生の怨念を受けているのですよ。 井上勝先生は、亡くなってからもあちこちに出没していたらしいです。当方の聞いた話では、滋賀県の米原機関区についての逸話があります。大正時代、東海道本線の重要基地である米原で、よい井戸が見つからず、当時の国鉄が困っていました。 ある夜、国鉄職員の枕元に老人が立ち、井戸を掘る位置を教えてくれたといいます。その通り掘ったら、凄い量の水が出てきた。当方、これは井上勝先生が亡くなってから教えたのだと思っています。その場所は米原駅東口ですが、水が出続けるように鉄道神社が建てられました。ところがJRになってから、鳥居も倒され、鉄道神社は潰されました。これはえらいことになるぞと思っていたら、直後に信楽高原鉄道事故が起こりました。あれは思い出しても怖いです。 大阪の汽車製造跡地は閉鎖されたままでしたが、平成になった頃に郵政省が購入しました。郵便の鉄道輸送がなくなり、トラック輸送に切り替わりましたが、都心から離れたところに輸送拠点が欲しかったようです。それで誕生したのが新大阪郵便局。その後の郵政省の運命はご覧の通り。郵政省は解体され、郵政事業は公社になって民営化され、どんどん衰退しています。井上勝先生の怒りを受けているようです。 国鉄OBも多くが亡くなりましたが、彼らも言っていました。「国鉄の土地を買った会社は、間違いなく落ちぶれるねえ。」絶対、井上勝先生の怨念を受けているに違いありません。 |